島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商
島井宗室(しまいそうしつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した博多の豪商、茶人で、大友宗麟と結び、金融・貿易で巨富を築き上げた人物だ。島井宗室の生没年は1539(天文8)~1615年(元和元年)。名は茂勝。通称は徳太夫。号は白軒、別号は瑞雲庵、虚白軒。
島井宗室は博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも貿易に乗り出し、日本でも指折りの財を成した。宗室は、さらにその財力を背景に、九州の諸大名とも交渉を持つようになった。1573年(天正元年)、当時の博多の領有者、大友宗麟との取引を開始。同じころ、堺の茶人兼豪商、千宗易(利休)や天王寺屋道叱らと懇意になった。宗室は大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、大友宗麟から様々な特権を得て、豪商としての地位を確立していった。
大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して、堺の千利休ら茶人としての親交ルートから織田信長に接近。その庇護のもとに活動することを企図した。信長には贔屓にされたが、本能寺で明智光秀に討たれ、彼の思惑は頓挫するかにみえた。が、今度は豊臣秀吉の保護を受けて畿内から博多、さらには対馬に至る輸送・交通路を築き上げた。これにより宗室は南蛮・朝鮮などとの貿易で栄華を極めることになった。
宗室は、秀吉の九州征伐にも随分頼りにされ協力した。このとき博多復興に尽力した功績によって、彼は免税の特典を受けている。天下統一後、秀吉が行った朝鮮出兵には彼の合理主義的感覚から「この戦争はそろばんに合わない」と判断。賛成しなかったため、秀吉の怒りを買って、蟄居を命じられた。さすがに宗室もその後は柔軟な対応に転じたのか、後に許されてからは五奉行の一人、石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方、明との和平の裏工作を行っている。 秀吉没後、関ヶ原の合戦後、博多が黒田氏の支配下に入ると、黒田長政の福岡城築城などに協力している。
宗室が養嗣子に残した、遺訓17カ条は町人訓として知られている。
当時の博多では多くの豪商がひしめいていたが、とくに島井宗室は神谷宗湛(かみやそうたん)、大賀宗九とともに「博多の三傑」と称された。ただ、島井宗室と神谷宗湛は秀吉に取り立てられた商人で、大賀宗九は黒田氏に取り立てられた商人であり、少し事情や色合いが違う。島井宗室と神谷宗湛とは親族間にあたる。
(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人」