菅 家
※菅原道真
このたびは幣もとりあへず手向山
もみぢのにしき神のまにまに
【歌の背景】宇多天皇が退位後、昌泰元年(898)10月ちょうどもみぢの美しい季節、奈良の山荘へ行かれた。そこで、幣を奉るよりはと、もみぢの美しさを讃えて詠んだもの。
このたびは「この度」と「この旅」の掛詞。「手向」は「たむける」と「手向山」の山との掛詞。大和国から山城国へ越す奈良山の峠をいう。
【歌意】手向山の神よ、今度の旅ではたむける幣も取る暇もなくここへやってきました。でも、この手向山は色とりどりの、一面の美しいもみぢです。とりあえずこのもみぢの錦を手向け致します。どうか御意のままにお納めください。
【作者のプロフィル】菅原道真。参議是善の第三子。幼少から文才を知られた。遣唐使の廃止を奏した。これに伴い250年にわたって続いてきた日本と唐との国交は途絶えることになる。
昌泰2年(899)左大臣藤原時平(29歳)、右大臣道真(55歳)となったころが、宮廷における彼の人生のピークで、これ以後は藤原氏との覇権競争に敗れ、転落の一途。延喜元年(901)時平一派は道真が醍醐天皇を廃し、斉世親王を皇位に立てようとする陰謀を企てていると奏上。17歳の少年、醍醐天皇はそれを信じて道真の大宰府・権帥への左遷を勅裁してしまう。そこで道真は厚い信頼を受けていた宇多天皇に「ながれゆく 我はみくずとなりはてぬ 君しがらみと なりてとどめよ」の歌を届け哀訴したが、法皇にもなす術はなく、道真の配流を止めることはできなかった。延喜3年(903)大宰府で悲嘆のうちに59歳でなくなった。
時平一派の讒言によって左遷された、その無念の思いは怨霊となって都の貴顕を襲ったといわれる。そこで、鎮魂の意を込めて天暦元年(947)京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られる。そして、それから1000年以上の時の中を生き続け、現在でも学問の神様として親しまれ、全国各地に天神様を祀る社は1万2000もあるという。また天暦4年本官を復され、太政大臣を追贈された。