はためく恭仁宮 新年儀式 旗竿穴を確認 史書裏付ける
京都府教育委員会は10月8日、聖武天皇が奈良時代の一時期、都を置いた恭仁宮(くにきゅう、京都府木津川市)の朝堂院跡で、天皇や宮人らが新年を祝う朝賀の際に旗竿を立てた跡とみられる穴3個が見つかったと発表した。
平安初期の史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、大極殿完成前の741年と742年の元日に朝賀が行われたとの記述があり、穴には装飾を施した宝幢(ほうどう、旗竿)7本を立てた際に掘られたらしい。同種の穴跡が確認された平城宮跡(奈良市)より古い。
穴跡は役人らが執務した朝堂院の敷地内で確認された。穴跡は約5.4㍍間隔で東西に並び、それぞれ横3㍍、縦1.1~1.2㍍、深さ50~90㌢。高さ約9㍍の旗竿の中央柱と脇柱を立てた穴の跡とみられる。その東側にも等間隔で4個の穴を掘り、西から順に玄武、白虎、月像、銅烏(カラス)像、日像、青龍、朱雀の各旗竿を立てたとみられる。
続日本紀には741(天平13)年正月「宮垣未就」(宮を囲う塀が未完成)、742年「為大極殿未成(中略)造四阿殿於此受朝」(大極殿は未完成だが、仮施設で朝賀を行う)と記されている。743年には大極殿で元日を祝う儀礼をしており、確認された穴跡は741年と742年の記述を裏付けるものとみられる。