『歴史に刻まれた男の言葉』

松尾芭蕉 「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」


 これは周知の通り、松尾芭蕉の紀行文「奥の細道」の冒頭の言葉だ。単純に考えると、「月日」も「年」も旅人だというのは、冒頭の言葉に続く、次の「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」遂に奥の細道の旅に出た、という言葉を導くための前口上のようなものと思われる。しかし、俳諧の天才、芭蕉はこの言葉をもっと奥深い言葉として表現しているのではないか?

梅原猛氏によると、月日は目に見えるが、年は決して目に見えるものではない。ところが、それは厳然として存在する。「年」にもまた「春夏秋冬」すなわち生死があるという。つまりこの芭蕉の言葉は、目に見える天体「月日」も永遠に生死を繰り返す旅人で、目に見えぬ「年」という宇宙の運行そのものもまた、永遠に生死を繰り返す旅人という意味なのだ−と分析する。

このように考えると、芭蕉の宇宙論は地球を固定して考える天動説でもなく、太陽を固定して考える地動説でもなく、すべての天体を含む宇宙そのものを永久の流転と考える宇宙論なのだ。そして、この宇宙論は最近、現代科学が展開した宇宙論に似ており、芭蕉はまさに時空を超えた宇宙論を持っていたとも考えられる。

また、この「奥の細道」には多くの謎が隠されている。詳細にこの旅行記を分析した歴史家たちの間では、実は芭蕉は諜報員だったのではないかという説がささやかれている。この説には3つの根拠がある。1.「奥の細道」で訪ね歩いた場所が、ほとんど外様大名がいる藩2.芭蕉の生まれ育ちが伊賀3.同行した弟子の河合曾良が毎日几帳面につけていた日記から浮かび上がる芭蕉の不可解な行動−だ。「奥の細道」は芭蕉が45歳のとき、奥州地方と北陸地方を150日間かけ2400km近くを歩いて回った経験をもとに、3年後の元禄5年に書かれたものだ。

全国統治のため、徳川幕府が各藩の大名の行動や考え方を知るには、幕府お抱えの諜報員たちに実際に調べてもらうしかない。幕府の諜報員たちは薬売りなど商人に姿を変えたりして、全国各地を飛び回った。だが、地方分権に近い当時は治安維持のために藩内のどこにでも誰もが近づけるわけでもなく、ましてよそ者が好き勝手に行動することなどできなかった。

諜報員としての理想の条件は、どこにでも行ける旅の目的があり、藩内を自由に動ける権限を与えてくれる高官や、地元に詳しい人物とのコネを持つ人間だった。著名な俳人である芭蕉は、その条件にピッタリなのだ。

「奥の細道」と曾良の日記とは実に80カ所も日時と場所が異なっている。それは2日に1度の割合で違いをみせており、どちらが本当の行動なのか多くの歴史家が首をひねっている。互いに別々の宿に泊まっていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に2人が一緒ではなかったことが明らかだ。芭蕉は何か別行動を取る必要があったのか?

旅のペースも不思議だ。何かを追いかけるように急いだり、あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留している。「奥の細道」の記述をもとに類推すると、芭蕉はまるで忍者のように頑健な体力の持ち主なのだ。こうしてみると、芭蕉への謎は深まるばかりだ。

松尾芭蕉は伊賀国(現在の三重県伊賀市)で松尾与左衛門と妻・梅の次男として生まれた。松尾家は農業を生業としていたが、松尾の苗字を持つ家柄だった。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。生没年は1644年(寛永21年)〜1694年(元禄7年)の江戸時代前期の俳諧師。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、“俳聖”と呼ばれた。

 弟子に蕉門十哲と呼ばれる宝井其角、服部嵐雪、森川許六、向井去来、各務支考、内藤丈草、杉山杉風、立花北枝、志太野坡、越智越人や野沢凡兆などがいる。
 芭蕉の“俳聖”の顔と、裏の諜報員の顔、十分両立する気もするが、果たして現実はどうだったのか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」

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