『奇人・怪人伝』
役小角 修験道の開祖で、神秘的な逸話に彩られ、人物像は伝説化
仏教の諸宗諸派がその開祖などの遺徳を偲び、50年あるいは100年といった区切りで大規模な法要を行うことを御遠忌(ごおんき)という。2000年、修験道の世界でこの御遠忌が大々的に繰り広げられた。聖護院を本山とする本山修験宗、醍醐三宝院を本山とする真言宗醍醐派、金峯山寺を本山とする金峯山修験本宗の三派が行った大規模な法要がそれだ。この御遠忌の主が役小角(えんのおづぬ、えんのおづの)、あるいは役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれる人物だ。
役小角は7世紀に実在したとされ、修験道の開祖と崇められ、修験道を実践する修験者=山伏の間では「神変(じんぺん)大菩薩」の尊称で篤く信仰されている。だが、神秘的な逸話に彩られ、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。
役小角に関する記録の中で、正史と呼べるものは平安時代初期の史書「続日本紀」の一つだけだ。役小角は鬼神を使って水を汲ませたり、薪を採りに行かせたりした。そして、もし言うことを聞かないようなことがあれば呪縛した−と書かれている。このほか、役小角は、初め葛城山に住んでいて、呪術で広く知られた存在だったが、自分の弟子の韓国連広足にその能力を妬まれて、人を怪しい言葉で惑わせるという讒言に遭い、伊豆に流された−とある。正史としてはこれだけなのだ。
伝説は9世紀の「日本霊異記」、12世紀の「今昔物語」などに登場する。役小角は賀茂役公(えのきみ)、後の高賀茂朝臣の出で、大和国損木上郡茅原村の人という。生没年は不詳で、一説に643年頃〜706年頃。役小角の母は天から降ってきた独鈷(とっこ)という仏具が体内に入り、小角を処女懐胎した。そして胎内にいるときから「異光」や「神光」を放ったという。
生まれたとき、頭に1本の角があったという伝承もあり、これが「小角」の名の由来ともいわれる。
やがて小角は成長、岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得し、呪文を唱えては奇跡を起こした。孔雀明王とは孔雀を神格化した仏のこと。さらに小角は五色の雲に乗り、自由に空まで飛んだという。こうした小角の能力に、神々さえも恐れをなした。人間でありながら、神々が恐れた男、彼が生涯を通じてなしたとされる奇跡は、釈迦やキリストにも劣らない。まさに日本史上、最も奇妙で神秘的な人物の一人といっていいだろう。
小角は神々に命じて、吉野の金峯山寺と葛城山との間に岩の橋を架けさせようとした。この難事業に神々は困惑し、一言主(ひとことぬし)神が人間に乗り移って、小角に反逆の意があると朝廷に訴えた。朝廷は小角を捕えようとしたが、容易に捕えられない。そこで、小角の母を縛った。母の苦痛を思った小角は自ら縛につき、伊豆に流された。しかし、流されたといっても、昼は伊豆にあったが、夜は駿河国の富士山に登って修行を重ねた。一方の一言主は、配流だけでは飽き足らず、小角を処刑するように託宣した。そこで朝廷は伊豆へ挙兵し、処刑を執行しようとした。ところが、そのとき刀の刃に「小角を赦免して崇めよ」という富士明神の言葉が現われたため、これに驚き、言葉通りに赦免した。自由の身になった小角は一言主明神を呪縛。そして日本を見限り、老母を伴い、唐へと飛び去って行った…。
ほとんどのことが伝説、伝承の中にある役小角だが、確かなことは小角が朝廷にとって見過ごせない力を持った人物だったということだ。朝廷が呪術や山林修行を規制する中にありながら、彼はそれらを通じて名を馳せた。同時に小角は、人々にとって忘れ難い人物でもあった。後に小角をめぐる数々の伝承が作られ続けたことがその証拠だ。恐らく彼は呪術者、あるいは山林修行者として、相当な人望を集めていたのではないか。また、怨霊を恐れる日本独自の審理が働き、小角の神格化が始まったと推察される。
(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」