『奇人・怪人伝』

金地院崇伝 豊臣氏を追い詰めた方広寺鐘銘事件に深く関与した怪僧


金地院崇伝は臨済宗の僧でありながら、江戸幕府を開いた徳川家康に招かれ、やがて幕政に参加。寺院諸法度、武家諸法度、禁中並公家諸法度の制定などに関係した。また、豊臣氏を滅亡に追い込むきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」にも深く関与。時にはかなり強引とも思える手法で、政務を断行し、徳川政権を支え、安定に寄与したといわれている。同じように家康に招かれ、権勢を誇った南光坊天海とともに「黒衣の宰相」と呼ばれた“怪僧”だ。金地院崇伝の生没年は1569(永禄12)〜1633年(寛永10年)。

金地院崇伝は武家の名門、足利将軍家の家臣一色氏の一門、一色秀勝の第二子として京都で生まれた。1573年に室町幕府が滅亡し、父秀勝も没落。父の没後、南禅寺で玄圃霊三に師事し、南禅寺塔頭の金地院の靖叔徳林に嗣法、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。1594年に住職の資格を得て、福厳寺、禅興寺に住持している。この頃から彼は「以心崇伝」を名乗るようになった。

以心崇伝は1605年(慶長10年)、鎌倉五山の一つ、建長寺の住職となった。そして同年、彼は古巣で臨済宗大覚寺派の本山、南禅寺の270世住職となった。臨済宗の最高位に就いたのだ。このあたりの経緯については定かではない。

1608年(慶長13年)以心崇伝は、豊臣政権に代わり江戸幕府を開いた徳川家康に招かれて駿府へ赴き、没した西笑承兌に代わり、外交関係の事務を担当。やがて幕政にも参加するようになった。1612年から閑室元佶や京都所司代・板倉勝重とともに寺社行政に携わり、キリスト教の禁止や寺院諸法度、幕府の基本方針を示した武家諸法度、朝廷権威に制限を加える禁中並公家諸法度の制定などに関係した。

以心崇伝はかなり強引な手法も交え、政治では辣腕を振るった。例えば「方広寺鐘銘事件」がそれだ。1614年、崇伝は家康から豊臣家を追い落とす方法はないか−と相談を受けた。そこで彼が持ち出したのが方広寺の鐘銘だった。その鐘銘に『国家安康』『君臣豊楽』という文があった。これを彼は『国家安康』は家康公の名を引き裂いており、『君臣豊楽』は豊臣家を主君として楽しむ−と取れると言い、これで言いがかりをつけては、と提案したのだ。強引で勝手な解釈による、あきれるほどの言いがかりもいいところだが、これを大問題にしてしまったのだ。これにより、「方広寺鐘銘事件」が起こり、豊臣家を開戦に走らせたわけで、家康の思いを叶えた良策となった。崇伝の“怪僧”の面目躍如?といったところだ。

こうした強引で卑劣な策略をも用いたため、崇伝は庶民には全く人気がなかった。庶民は彼を「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名し、大徳寺の沢庵宗彭(たくわん そうほう)は「天魔外道」と評している。こんな世評にも崇伝は全くめげない。

1616年(元和2年)、家康が亡くなると、神号をめぐり崇伝は、南光坊天海と争った。天海は神号を権現として神仏習合神道で祀りたいとし、崇伝は神道で祀り大明神の神号を奉りたいと、意見は真っ向から対立、二人の間で激しい論争が繰り広げられた。だが、明神は豊臣氏の豊国大明神とつながって不吉−と主張する天海側に大勢が流れ、結局は天海の主張する権現に決まり、崇伝は敗れた。
1616年(元和4年)、崇伝は江戸・芝に金地院を開き、翌年僧録司となって五山十刹以下の寺院の出世に関する権力を握り、名実ともに禅宗五山派の実権を掌握した。1626年(寛永3年)、後水尾天皇より円照本光国師の諡号を賜った。

(参考資料)司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「城塞」

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