『奇人・怪人伝』
平賀源内 エレキテルなどの発明家・科学者で、多芸多才な天才
平賀源内は発明家であり科学者で、非常に多芸多才な天才であり、時代の先駆者だった。例えば宝暦年間、江戸に日本諸州から様々な珍しい品々を集め、公開した物産会が開催された。いわば博覧会の草分けともいえるこの物産会を、今から200年以上も昔に演出した人物、それが平賀源内だ。エレキテルの発明は機械学・電気学の萌芽だった。また、彼は杉田玄白や中川淳庵などにも影響を与え、「蘭学事始」の精神的原動力となった。
そして源内はまた、「根南志具佐(ねなしぐさ)」や「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの講談本ばかりか「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」のような浄瑠璃にまで手を染めた。また、鈴木春信は源内が江戸錦絵の誕生にも貢献したと語っている。
「硝子を以って天火を呼び病を治し候器物」といわれる摩訶不思議な品が天下の評判を呼んだ。これが平賀源内製作のエレキテル=摩擦起電機だった。電気について、とくに系統的な知識がない源内が、エレキテルの復元に成功したのは1776年(安永5年)、壊れたエレキテルを長崎で手に入れてから、足掛け7年の歳月が経っていた。
この起電機が日本に入ってきたのは、西欧で発明されてからまだわずかの時で、西欧でもエレキテルは科学というより、新しい魔術の箱と考えられていた。江戸でもたちまちこの機械は高級見せ物になった。そのため源内の家は身分高き人、富裕なる人で賑わった。また時には源内自らエレキテル持参で、大名屋敷に伺うこともあった。
源内が江戸っ子をあっといわせたのは発明ばかりではない。それまで上方言葉で語られていた浄瑠璃の世界でも、彼は「神霊矢口渡」では題材を関東に取り、江戸言葉ないしは吉原の廓言葉を堂々と舞台で使った。浄瑠璃は福内鬼外の名で書いたが、戯作者としては風礼山人、天竺浪人、紙鳶堂風来、悟道軒、桑津貧樂などと称した。
源内は四国高松藩志度浦で生まれた。生没年は1728(享保13年)〜1780(安永8年)。父は白石茂左衛門、御蔵番(二人扶持)の軽輩だった。源内の幼名は四方吉(よもきち)。少年の頃からからくりを作り、俳諧を詠み、軍記物を読みふけり、志度の神童、天狗小僧といわれていた。その才能を見込まれてか、13歳から藩医のもとで本草学を学び、儒学を学んだ。高松藩の当時の藩主、松平頼恭(よりたか)が無類の本草学好きだったことも、源内がこの道に進むような環境を育てていたのだろう。
源内は25歳の時、1年間医学修行のため、藩から長崎へ遊学する。本草学、オランダ語、そして油絵なども学んだ。あり余る才能を持つ男の興味が次に、江戸へ向かうのは必然だった。27歳になると、源内は病身を理由に妹の婿養子に従弟を迎え、家督を譲り江戸へ出た。まもなく田沼時代が幕を明けようとしていたときだった。
本草学者、田村元雄(藍水)の門に入った源内は、物産会に取り組んだ。1757年(宝暦7年)から1762年(宝暦12年)まで、わずか6年の間に5回も物産会は開かれた。物産会は博覧会といっても飲食物は出さず、また入場者も制限していたので、真面目な学問的な催しだったが、1762年(宝暦12年)、源内主催の物産会に集まった薬種・物産は1300種を超えたと記録されている。
源内の鋭い思考力と才能は尽きることがない。欧州から入ってきた油絵を見れば、すぐに自分で油絵具から画布まですべて考案し、西洋風絵画を仕上げてみせる。また、輸入された西洋陶器に対して作った源内焼と称される陶器もある。普通、緑色の釉薬(うわぐすり)がかかった焼き物で、その図案には万国地図をよく使っているのも源内らしい。発明・工夫は寒熱昇降器・磁針器など数知れなかった。
源内は些細なことから殺人を犯して波乱に満ちた52年の生涯の幕を閉じた。その死の5年前、彼は「放屁論」を、2年前に「放屁論後編」を書いた。当時、江戸に「放屁男(へっぴりおとこ)」なるものがおり、見事に屁をひり、「三番叟(さんばそう)」や「鶏東天紅(にわとりとうてんこう)」を奏でて人気を博した。「放屁論」で源内はこの放屁男を古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人はいないと褒め称えた。そして「後編」では貧家銭内(ひんかぜにない)という、自分自身の生い立ちに近い男を登場させる。これらは「憤激と自棄のないまぜ」の書であり、ここに表現されているのは、彼自身の自画像とみられる。
(参考資料)梅原猛「百人一語」、吉田光邦・樋口清之「日本史探訪/国学と洋学」
平野威馬雄「平賀源内の生涯」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」