(日本史検定 天璋院篤姫の生涯− 江戸無血開城の舞台裏 編)

Q1.
島津藩主・島津斉彬の養女、篤姫と徳川13代将軍家定との縁組は、家定がまだ世子の時代の1850年(嘉永3)に家定の方からの打診で始まった。その際、徳川家からは11代将軍に輿入れし、御台所として長生きした「広大院の血筋」が要望として出された。では広大院は誰の御台所だったか?
イ.徳川家治 ロ.徳川家慶 ハ.徳川家宣 ニ.徳川家斉

Q2.家定側からの意向を受けて複数の候補者の中から広大院の血筋を意識、今和泉島津忠剛(ただたけ)の娘、一(かつ)が選ばれた。では今和泉忠剛は広大院の何にあたるか(続柄)?
イ.叔父  ロ.甥  ハ.従弟  ニ.弟

Q3.1853年8月、篤姫は鹿児島の鶴丸城を旅立った。初めての長旅だった。このとき篤姫は何歳だったか?
イ.15歳  ロ.17歳  ハ.19歳  ニ.21歳

Q4.江戸への途中、京都の公卿の邸に立ち寄り、この名家の養女という体裁も整えているが、この公家は?
イ.近衛家 ロ.鷹司家 ハ.一条家 ニ.二条家  

Q5.Q4の公家の養女として改めた名は何といったか?
イ.煕子(ひろこ)     ロ.和子(まさこ)  
ハ.顕子(あきこ)     ニ.敬子(すみこ)

Q6.篤姫は江戸入りしてから即、将軍家定との婚儀とはならなかった。では篤姫が江戸入りしてから婚儀が執り行われるまで、どれくらいの期間があったか?
イ.2年  ロ.3年  ハ.4年  ニ.5年

Q7.篤姫の江戸入りから輿入れまでの間があいたのは、次の通りの様々な事件や不測の事態が生じたことによるものだ。このうち該当しないものはどれ?
イ.天保の大飢饉 ロ.ペリーの来航 ハ.12代将軍家慶の死去 
ニ.江戸の大地震により藩邸に損壊の被害が出た

Q8.島津斉彬は篤姫のため莫大な費用を使って贅を尽くした、おびただしい婚礼家具を調えた。その際、道具類の吟味に当時、御庭方として斉彬に重用されていたこの人物がその任にあたったが、それは誰?
イ.大久保一蔵 ロ.小松帯刀 ハ.西郷隆盛 ニ.村田新八

Q9.篤姫が御台所として輿入れした際、将軍家定はいくつだったか?
イ.26歳  ロ.29歳  ハ.31歳  ニ.33歳

Q10.この縁談については将軍継嗣問題で、斉彬が篤姫に大奥工作の密命を与えて入輿を図ったとされているが、一橋派・南紀派の対立はこの人物の大老就任で事実上決着。斉彬らが推した一橋慶喜は篤姫の努力も虚しく完敗、慶福(よしとみ)の将軍継嗣が決定。このとき大老に就任した人物は誰?
イ.松平慶永 ロ.井伊直弼 ハ.阿部正弘 ニ.堀田正睦

Q11.将軍家定と篤姫の夫婦仲はなかなか良好だったが、もともと病弱で「癇症公方」といわれた家定は、慶福を継嗣と定めると申し渡してまもなく死去する。伴侶を失った篤姫をさらに悲劇が襲う。それは次のうちどれ?
イ.斉彬の急死     ロ.安政の大獄による薩摩藩主の蟄居 
ハ.実父忠剛の死去   ニ.水戸斉昭の死去

Q12.慶福から家茂と改名し、正式に家定の後を継いだ14代将軍はそのとき何歳だったか?
イ.9歳  ロ.11歳  ハ.13歳  ニ.15歳

Q13.
家定の死後、落飾して「天璋院(てんしょういん)」と号した篤姫は、朝廷からこの位を授けられている。それは次のうちどれ?
イ.正五位 ロ.従四位 ハ.正四位 ニ.従三位

Q14.皇女和宮の降嫁は、幕府と朝廷の最後の妥協策の公武合体論の象徴として、幕府側が強力に推進。1862年、将軍家茂と和宮の若い二人の婚礼が行われた。このとき二人は同い年だったが、何歳だったか?
イ.15歳  ロ.17歳  ハ.19歳  ニ.21歳

Q15.1866年、第2次長州征伐の最中、大坂城に滞陣中の家茂が急逝。これに伴い和宮は落飾、何と称したか?
イ.八十宮 ロ.天英院 ハ.静寛院宮 ニ.月光院

Q16.徳川宗家を継ぎ15代将軍に就いた慶喜は1867年10月、大政奉還を奏上。天皇のもとで徳川を盟主とする列藩会議で体制を立て直すつもりだった。ところが12月に薩摩藩らの討幕派が明治天皇を担いで、王政復古のクーデターを断行、慶喜の思惑を潰した。明けて1868年1月この戦いの敗報に、慶喜は全軍を放置したまま大坂城を抜け出し、海路、江戸城に逃げ帰った。慶喜のその後の運命を変えたこの戦いとは?
イ.鳥羽・伏見の戦い ロ.会津戦争 ハ.奥羽越戦争 ニ.函館五稜郭の戦い

Q17.慶喜が大坂・天保山沖に停泊していたこの艦船で、上陸中の艦長榎本武揚を置き去りにして出帆したほど、いかにあわてふためいての出航だったかが分かる。慶喜が松平容保、定敬兄弟と側近を従えただけで乗船したこの艦名は?
イ.咸臨丸 ロ.富士丸 ハ.朝日丸 ニ.開陽丸

Q18.江戸城に逃げ帰った後の慶喜は、大奥の主たちの協力を得るのに忙しかった。いまはともに夫と最大の庇護者を失い、帰るべき実家をなくし、徳川家の女としての自覚を深め、連帯しあう関係になっていた天璋院と和宮への弁明だ。その一方で2月12日、慶喜は江戸城を出てこの寺への蟄居謹慎によって恭順の意思が明確になった。この寺とは次のうちどれ?
イ.久能山東照宮 ロ.寛永寺 ハ.増上寺 ニ.日光東照宮

Q19.江戸城の無血開城のかげに天璋院が官軍隊長、西郷隆盛に宛てた嘆願書の力が大きかったようだ。また当初は天璋院との不仲が噂された和宮も、幕末徳川家の存続の危機に際しては天璋院と力を合わせ、徳川家を救ったとの評価もある。開城の前日、江戸城を去った天璋院は、徳川宗家16代を継いだこの人を育てることにその後の人生を捧げた。徳川宗家16代は誰?
イ.家達  ロ.宗武  ハ.家綱  ニ.綱豊

Q20.慶喜がQ19の天皇に改めて会ったのは、江戸開城から30年後の1898年のことだった。そのとき慶喜は何歳だったか?
イ.48歳  ロ.54歳  ハ.62歳  ニ.70歳

【その後の天璋院】江戸開城後の天璋院はQ19の設問通り、徳川宗家16代目の養育に力を注いだ。また、それまで江戸城大奥しか知らなかった天璋院の、東京見物を手伝った勝海舟とは、家族ぐるみの付き合いを続け、勝の自邸へも招かれた。裁縫をするなど、新しい生活を楽しみながら、1883年(明治16)逝去。

歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史くらぶ 歴史検定 歴史検定 歴史検定 歴史検定