(偉人・賢人検定 伝統文化の先達編2)

Q1.仏像彫刻の最高峰、運慶の生涯は謎に包まれている。父・康慶(こうけい)の名だけは伝えられているが、生年も正確には分からず母の名も不明だ。六波羅蜜寺に現存する「運慶の像」から、後年、意外にも彼はこの位を許された人物だったと思われる。では彼はどのような職業の人だったか?
イ.下級武士 ロ.「法眼」の位の僧侶 ハ.中級の公家 ニ.豪農

Q2.当時の仏師は例外なく、寺院に付属する職人集団で、今日的な意味での芸術家ではなかった。1140年代から1150年代の初めにかけて運慶が生まれた頃、京都仏師の頂点にあったと思われる人は誰?
イ.院尊(いんそん)      ロ.明円(みょうえん)  
ハ.鞍作止利(くらつくりのとり)ニ.定朝(じょうちょう)

Q3.父・康慶は奈良仏師も傍流の出で、運慶には仏像の修理の一部しか回ってこなかったとみられる。そんな不遇の時代から一変、運慶が歴史の舞台に再び現れたのは1195年(建久6年)、再興された東大寺の大仏開眼供養だ。時代が大きく変わっていた。それは次のうちどの時期だったか?
イ.鎌倉初期 ロ.平安末期 ハ.鎌倉中期 ニ.平安中期

Q4.
1203年(建仁3年)、運慶の代表作といわれる作品を彫り上げる。東大寺再建事業の最後を飾って、東大寺南大門に安置する二体の金剛力士像がそれだ。10数人の弟子が作業分担し、巨大な二つの像を2カ月余で仕上げたが、その大きさ(高さ)はどれくらいだったか?
イ.4m超  ロ.6m超  ハ.8m超  ニ.10m超  

Q5.運慶作と伝えられる仏像は150体を下らない。しかし、専門家の鑑定で「間違いない」と断定された作品は非常に少ない。それはどれくらいといわれているか?
イ.16体  ロ.20体弱  ハ.28体  ニ.30体弱

Q6.1420年(応永27年)、備中国窪屋郡三須村字赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた雪舟は、伝承によると幼少の頃、生誕地から3里ほど離れた宝福寺に預けられた。その寺で彼が没頭したことがあったといわれる。それは次のうちどれ?
イ.朝から晩まで絵ばかり描いていた   ロ.熱心に写経した 
ハ.寺を抜け出し山奥を探検した     ニ.釣りばかりしていた

Q7.雪舟はその後、寺内の記録によると、京都五山の一つに姿を現している。当時の京都五山は“五山文学”とも呼ばれるように儒学、漢籍詩文、さらには禅画としてスタートした日本水墨画なども活発化した時代だったからだ。では雪舟が姿を現した寺とはつぎのうちどこ?
イ.天竜寺  ロ.大覚寺  ハ.南禅寺  ニ.相国寺

Q8.1465年頃、雪舟は唐突にQ7の寺から姿を消し、1467年明国を目指す、現在の山口に本拠を構える有力守護大名の船に乗り込んでいた。水墨画の源流をたどるためだった。ではその有力守護大名とは誰?
イ.陶氏  ロ.尼子氏  ハ.大内氏  ニ.毛利氏

Q9.雪舟は天童山景徳寺に上り3年ほど滞在、水墨画の技法を学び続けた。その結果、天童山第一座の位をもらい、「首座」(禅僧の最高位)の称号を得、首都北京の礼部院の壁画を描く名誉まで手に入れている。皇帝はじめ多くの高官にも賞賛された。ではそのときの皇帝は誰?
イ.玄宗  ロ.憲宗  ハ.徳宗  ニ.文宗

Q10.1487年、中国で学んだ強靭な線と正確な構図法に加え日本の大和絵の手法が大胆に取り入れられた、延々16mにわたって描かれた雪舟の終生の代表作が完成した。それは次のうちどれ?
イ.山水長巻 ロ.秋冬山水 ハ.花鳥屏風 ニ.天橋立図

Q11
.1118年、佐藤義清(のりきよ、後の西行法師)は平将門の乱を平定した“俵藤太”の流れをくむ、武門の伝統を誇る検非違使・佐藤康清の嫡男として生を受けた。では俵藤太とは誰のことか?
イ.藤原純友 ロ.藤原緒嗣 ハ.藤原貞嗣 ニ.藤原秀郷

Q12.義清が生まれた年、後に武士では初めて太政大臣に任じられ、一時代を築き上げる人物が生まれている。白河法皇の“ご落胤”との噂もあったその武将とは誰?
イ.平宗盛 ロ.平清盛 ハ.平時忠 ニ.平重盛

Q13.父が若くして急逝したため朝廷に任官されるまでに苦労はしたが、任官後、前途は明るいはずだった。ところが突然出家の道を選ぶ。西行となった義清はまず洛外の嵯峨に草庵を結び、次いで同族である奥州藤原氏を訪ねる陸奥・出羽への旅に出た。このとき奥州藤原氏はどの時代だったか?
イ.藤原清衡 ロ.藤原基衡 ハ.藤原秀衡 ニ.藤原泰衡

Q14.
出家の原因は謎だが、西行は奥州平泉に2年滞在。旅から戻ると真言宗の聖地、高野山に庵を結び、吉野へもしばしば足を運んでいる。こうして彼は高野山を漂泊の旅の起点として自由きままな行脚僧の旅を続け、歌を詠み続けた。ではそんな生活は何年に及んだか?
イ.約30年 ロ.約25年 ハ.約20年 ニ.約15年

Q15.「願わくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」−この歌は西行の辞世の歌と喧伝されるようになったが、実は死ぬはるか前に詠んだものだ。では実際には死を迎える何年ぐらい前の歌か?
イ.2年前 ロ.4年前 ハ.6年前 ニ.10年前

Q16.鴨長明は京都・下鴨神社、河合社(ただすのやしろ)社家の出で1155年、禰宜(ねぎ)・鴨長継の次男として出生。1161年(応保元年)従五位下となったが、そのとき彼は何歳だったか?
イ.5歳  ロ.7歳  ハ.12歳  ニ.15歳

Q17.長明は和歌に優れ、ときの「治天の君」の和歌所寄人(よりうど)も務めている。その治天の君とは誰?
イ.土御門天皇 ロ.六条天皇 ハ.後鳥羽上皇 ニ.二条天皇

Q18.長明が愛読したと伝えられる、「厭離穢土(おんりえど)」と「欣求浄土(ごんぐじょうど)」について書かれた源信の作品は?
イ.愚管抄 ロ.選択本願念仏集 ハ.歎異抄 ニ.往生要集

Q19.「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず…」の書き出しで始まる長明の代表的著作はどれ?
イ.方丈記 ロ.徒然草 ハ.堤中納言物語 ニ.宇治拾遺物語

Q20.Q19の作品を発表したとき、長明はすでに洛外・日野に方丈を営んでいたが、出家・遁世したのは何歳のとき?
イ.42歳  ロ.50歳  ハ.54歳  ニ.58歳

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