『中高年に人気の歴史群像』

由利公正 横井小楠の「王道政治」を徹底して実践した男


 越前藩士で当時、三岡八郎といっていた由利公正は、「藩富」のための殖産興 業を奨励した横井小楠の経営哲学を徹底して実践した。横井小楠は「地球上に も、有動の国と無道の国がある。有動の国というのは、王道政治を行っている 国のことだ。無道の国というのは覇道政治を行っている国のことだ。王道政治 というのは民に対して仁と徳を持ってのぞむことだ。覇道政治というのは、民 に対して力と権謀術数を持ってのぞむことである」と定義した。
由利公正は幕末から明治にかけて活躍した英傑だ。彼が仕えたのは名君とい われた松平慶永(春岳)である。慶永は他家から入った養子なので、有能なブレーンを次々と登用した。その一人が藩の医者だった橋本左内であり、また九州熊本から招いた既述の横井小楠だ。小楠は家老よりも上席のポストも貰って、藩士たちに学問を教えた。三岡八郎はこの小楠の考えに共感した。そして尊敬し、教えを受けるために小楠の家を訪ね、小楠も八郎の家にやってきた。二人でよく酒も飲み交わした。

 越前藩は32万石の大藩だが、藩の財政は貧乏のどん底にあった。そのため、寛永年間、幕府から正貨2万両を借り入れ、これを基礎として4万両の藩札を発行し、必要ある場合いつでも正貨と交換するという兌換制度をつくった。これがわが国における藩札発行のはじめだ。同藩の窮乏は脱出できず、藩札は増発され、結局は不換紙幣となってしまうのだが、明治政府の財政担当者第一号が越前藩士から出るそもそもの機縁はここにあった。

 横井小楠の教えに従って、越前藩でも産業奨励を行うことになった。その責 任者に選ばれたのが三岡八郎だ。八郎は「藩が富むためには、民がまず富まな ければならない」ということを実行しようと企てた。その方法として@藩内で 生産される製品に、付加価値をつけて高く輸出できるようにするA藩に物産総 会所を設けるB藩内の生産品は物産総会所が買い上げる。この時は、藩札をも って支払いに充てる。そして、これを売り払った時の収入は正貨とする−とし た。藩札の使用などは他の藩とそれほど変わらない。しかし、藩が設けた物産 総会所の運営を商人に任せたことは、他藩より一歩進んでいた。
 藩が物産総会所を持つということは、藩が商社をつくったということだ。藩 が藩内物産の専売を行うということは「武士が商人になること」であり、同時 に「藩(大名家)が商会化した」ということだ。つまり商人のお株を奪って、 武士と武士によって組織されている大名家が前垂れ精神を持って商売を始めた ということだ。だから、三岡八郎は「あいつは銭勘定ばかり堪能で、武士にあ るまじき振る舞いをしている」とバカにされてきた。ところが、横井小楠の出 現により、これまでの八郎に対する批判が間違いだと指摘されたのだ。
 横井小楠は英国を例に「自国の産業革命以来生産過剰になった物品を売りつ けるために、アジアをマーケットにしようとした。しかし、いうことを聞かな い中国にはアヘン戦争を起こして、無理矢理自国の製品を買わせている。あん なやり方は王道ではない。覇道だ。いまの世界で王道を貫けるのは日本以外な い。そうすれば、日本の国際的信用が高まり、多くの国々が日本のマネをする ようになるだろう。日本は世界の模範にならなければならない」と唱え続けた。 その国内における実験を越前藩で実行する三岡八郎も「越前藩の藩内生産品に 付加価値をつけて高く売るといっても、おれは覇道を行うわけではない。商業 を通じて、王道を実践するのだ」という自信を持っていた。
 三岡八郎は明治維新になってから、由利公正と名を変える。彼の新政府にお ける最初のポストは財政担当だった。新政府の参与に推薦されたが、カネの全 くない財政運営がその任務だ。普通なら冗談じゃないと抗議するところだが、 彼には越前藩での財政改革の経験がある。彼以外に財政問題には体験も見識も なかった。そのため、そのリーダーシップはおのずと由利公正が握るところと なった。彼は慶応年間から明治にかけて、寝る間も惜しんでこの仕事に専念し た。素人ばかりの明治新政府にあって、由利公正の財政的手腕、経歴は断然傑 出していた。

 由利公正はその後、東京府知事や元老院議官にもなった。明治維新直後に「議 事之体大意」という国事五箇条を提出した。これが、後の「五箇条のご誓文」 の原案になる。

(参考資料)尾崎護「経綸のとき 近代日本の財政を築いた逸材」、童門冬二「江戸商人の経済学」、小島直記「無冠の男」

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