『中高年に人気の歴史群像』

良寛 「遊」の世界で世間と闘い、簡単な言葉で仏法を説く

 「大愚(たいぐ)」−良寛は自らをこのように号して憚らなかった。自分は大いなる愚者だ、と。無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず庶民に信頼され、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢が様々な人々の共感を得た。良寛の生没年は1758(宝暦8)〜1831年(天保2年)。

 良寛は越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)に四男三女の長子として生まれた。俗名は山本栄蔵、または文孝。号は大愚。父、山本左門泰雄はこの地の名主(橘屋)であり、石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった。当時は江戸時代後期、田沼意次の「賄賂政治」が繰り広げられようとしていた時期だった。佐渡で採掘される金の陸揚げ港だった出雲崎にも、そのような時代の波は押し寄せてきていた。生家は、幕府役人と結託した新興勢力に、その地位を脅かされつつあった。庶民は虐げられ、労役は厳しかった。

18歳で名主見習いとなった良寛は、その圧政に耐えられなかったのだろう。圧政の片棒を担ぐことができなかったのだろう。妻を離縁し、まもなく故郷の曹洞宗の光照寺で出家・剃髪。4年後に師・大忍国仙和尚に従って逃げるように出雲崎を出て、備中玉島(現在の岡山県倉敷市)の円通寺に向かった。22歳のときのことだ。円通寺で良寛は国仙に可愛がられたが、34歳のとき、師の国仙がこの世を去ると、他の僧侶たちとの折り合いが悪くなり、円通寺を去った。 
  
恐らくまだ円通寺にいたときと思われるが、良寛は国仙和尚の末弟子、義提尼より和歌の影響を受けたといわれる。実は良寛は西行法師に憧れており、その足跡が伝えられる地を巡りながら、歌僧を目指していたと思われる。
円通寺を去った後の良寛の消息は分からない。そして、恐らく諸国を放浪した後、40歳ごろ帰郷。越後国蒲原郡国上村(現在の燕市)国上山(くにかみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、乙子神社境内の草庵、島崎村(現在の長岡市)にそれぞれ住んだ。

良寛は無欲恬淡な性格で、生涯、寺を持たず、時には手毬をついて子供たちと戯れ、時には托鉢に出かけ、時には詩歌を書いて、後半生を送った。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示すことや、簡単な言葉(格言)で一般庶民に分かりやすく仏法を説いた。その姿勢は様々な人々の共感を得た。

良寛が生きた時代は激動の時代だった。彼が諸国を放浪していたときも、恐らくそのような緊迫した情勢が聞こえてきたかも知れない。また、身をもって国内の混乱状態を体験していたのかも知れない。しかし、史料として伝えられる良寛の人生からは、なぜかその激動は見えてこない。あくまでも静かな人生だった。それが、時代の波に振り回されることのない、名主の座と引き替えに良寛自身が選んだ、権力機構からドロップ・アウトした人間の人生だったのだ。

良寛は和歌のほか、狂歌、俳句、俗謡、漢詩などに巧みだった。そして、書の達人でもあった。良寛が創造した世界は、「遊」の世界だった。
子どもらと手まりつきつつこの里に 遊ぶ春日は暮れずともよし
良寛の歌だ。「遊」は良寛において世間と闘う武器だった。良寛の道号は既述した通り「大愚」。愚かというのは、世間の常識がないという意味。世間の物差しを忘れてしまっているのだ。良寛は世間の歪んだ物差しに対して、忘れることで対抗した。世間の歪んだ物差しを忘れて、良寛は子供たちと遊んでいたのだ。月と遊び、花と遊び、風と遊んで暮らした。それが良寛の禅だった。

良寛と遊んでいた子供たちは、やがて口減らしのために、商家や女郎屋に売られ、村から消えていく。いつの時代であっても、それが貧しい庶民の現実だ。それを宗教者・良寛はどうすることもできない。良寛にできることは、やがて売られていく子供たちと一緒に遊ぶことだけだった。
散る桜 残る桜も 散る桜
良寛の辞世の句だと伝えられている。良寛は新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠っている。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」
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