『豪商列伝』

高島屋飯田新七 百貨店・高島屋の始祖、屋号は滋賀県高島郡から

 幼名を鉄次郎といった新七が越前敦賀の生家を出て、京都三条大橋東入ルの角田呉服店に丁稚奉公したのは文化11年(1814)、12歳の時だった。新七は明けても暮れても呉服の荷を背負って大津、膳所、草津と近江の町々を行商に歩いたが、思うように売れなかった。主家も衰運とみえ、新七が奉公して3年足らずで、遂に主家は倒産してしまった。

そこでまた別の呉服屋に再就職して、コマネズミのようによく働いた。すると捨てる神あれば拾う神ありで、烏丸通松原上ルに米屋をしていた飯田儀兵衛が、よく働くというので目をかけてくれた。そして、新七を婿養子に迎えたいと申し込んできた。飯田儀兵衛は、滋賀県高島郡の出身なので屋号を高島屋と称していた。そこで、新七は飯田姓を名乗り、高島屋の後継者となった。
 
 養子になった翌年、隣家に空き家ができたのをきっかけとして、古着屋を開くことにした。このとき、彼はこれまでの奉公で貯めた2貫500匁で店を借りたり補修を済ませたりしたので、仕入れのカネがなかった。やっと店はできたが、並べる品物がないと考え込んでいる夫の前へ、妻・お秀はたんすの引き出しを開いて、嫁入用の着物を差し出した。「これを並べておいてください」と。着物は四季それぞれ一着あれば間に合います。それにまたいつか買って頂けるでしょう。それまでどうかこれをお店に並べて売ってください−という。

お秀は跡取り娘だというのに、よくできた妻だった。それ以来、彼は仕入れてきた古着や綿服を肩にして、また江州通いを始めた。それは昔の姿と変わらなかったが、以前はただの奉公人、いまは小さくても一家の主だった。彼はその頃、四つの戒めを考えて、信条とした。

その一、確実な品を廉価に販売して自他の利益を図るべし。
その二、正札掛値なし。
その三、商品の良否については、明白に顧客に告げ、いささかも虚偽あるべからず。
その四、顧客の待遇はすべて平等にして、いやしくも貧富貴賎によりて差をつけるべからず。

客の選り好みをせず、誠実第一を心がけるべしと、彼は自らに言い聞かせた。
 天保元年(1830)、烏丸通松原上ル西側、北から3軒目の借家を、家賃月1歩 2朱200文で借り受けた新七は、10年目の再出発を図った。この店が、いわば 今日に至る高島屋の出発点となったものだが、この店を彼は3年ほどで買い取 った。時の老中水野忠邦が節約政策を打ち出した頃のことだ。新七は早朝の6 時に大戸を開いて、一家揃って掃除に励んだ。そのため高島屋よく気張るとい って評判を呼んだ。この評判がやがて信用のもととなった。古着を主体とした 商いは1年、1年と信用がつき顧客も増えていって営業規模が大きくなってきた。 嘉永4年(1851)、娘のお歌に婿養子を迎えた。花婿は寺町今出川に住む上田家 の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な26歳の青年だった。 養父となった初代新七はこのとき50歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とと もに家業に精を出した。

 時代は幕末、大きく変わろうとしていたときだった。新七父子は、いろいろ 世間の声を聞いた結果、高島屋は木綿と呉服を扱うことにした。新次郎は仕入 れのため北河内、中河内と歩き回り、現金払いで木綿地を買い求めた。仕入れ 現金払いが新七の方針だったが、現金払いは資金の手当が大変だった。また、 幕府の土台が揺らぎ始めた時期でもあり、なかなかモノが売れない時代に突入 していた。

 文久3年(1863)、薩摩・会津藩と長州藩との間で激しい戦闘となった「蛤御 門の変」のあおりで大火災に遭った飯田新七一家はまず家財道具を本圀寺へ運 んだ。二代目の新次郎は丁稚たちを督促して、土蔵内に全商品を運び込んだ。 一晩中続いた火災の翌日、焼失町は811町に上り、京都の中心部の大部分が焼 け野原と変わっていた。ところが、新七の指示で土蔵の中央に風呂桶を据えて 水を張り、要所要所に水を満たした四斗樽を何本か配しておいたのが奏功、土 蔵も商品も無事だった。

高島屋は土蔵前に急ごしらえの店をつくって、焼け残った衣料品を売り出し
た。すると着の身着のままの人もおおかったから、あっという間に売れ、二代目が大量に買い込んで困っていた木綿地も含め売れに売れた。初代63歳、二代目39歳のことだ。

 二代目は53歳の働き盛りで急逝したが、二代目夫人の男勝りの見識と統率力 によって、高島屋は存亡の危機を切り抜け、この後、明治時代の呉服商として 見事に発展していった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

                   

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