『豪商列伝』

益田 孝 三井物産の創始者で、三井財閥の発展に尽力

 益田孝は、戊辰戦争を徳川の直属軍の士官として官軍と戦った経歴を持ちながら、明治に入って大蔵省に勤務し後、日本型商社、三井物産を誕生させ、三井合名会社理事長に就任するなど三井財閥の発展に尽くした。生没年は1848〜1938年。

 益田の生家は佐渡金山の地元役人で、父親の鷹之助は計数に強かった。佐渡奉行所で勘定方を務め有能だった。そのため箱館奉行所にスカウトされ支配調役の下役として転任した。1858年(安政5年)、この父とともに箱館へ移住した11歳の益田孝は奉行所内の学塾へ通って剣道槍術、馬術、漢学などの教育を受けた。また箱館ではこれから必要になるというので、英語も学んだ。まもなく父が外国奉行の下役として江戸詰めになり、一家は下家に住んだ。

孝も外国語修得見習生となり、試験に合格し正式に任官、幕府の役人の末席に連なることになった。彼は14歳で元服し、通弁御用の下役として出仕した最初の日に福沢諭吉、寺島宗則に茶を汲んだという。

1863年(文久3年)、益田はフランスへ派遣された幕府の池田使節団の一員として、父親とともに渡欧した。8カ月ほどの洋行だったが、実際にヨーロッパ文明に触れたことは、16歳の孝にとってすべてが驚きであり勉強だった。ナポレオン三世の招待で大演習を見学したり、製鉄所を視察した。
帰国後、孝は横浜税関勤務となり、まもなく新設された騎兵隊に入って少尉に任官した。わずか21歳で騎兵隊の隊長になったが、肝心の幕府の屋台骨が揺らいで、遂に瓦解してしまった。明治新政府の誕生だ。

いち早く両刀を捨て、丁髷(ちょんまげ)を切った孝は横浜に移住して、これからは商業の時代だと考えた。彼は紹介されて高島嘉右衛門という商人と知り合った。後に易断で有名になった高島も当時は貿易商だった。孝にとってラッキーだったのは、その頃の横浜にはまともな英語を話せる日本人がほとんどいなかったことだ。外国商館は中国人を雇い、中国人は日本人の引き取り屋(今の輸入商)と筆談で取引していたのだ。孝はアルバイトで通訳の仕事を引き受けた。こうした中で彼は、アメリカ人のウォールシ・ホールと親しくなった。この人物はアメリカ一番館という商館を経営していた。生糸を扱っているウォールシ・ホールのクラーク(番頭)となった孝は、得意の英語を操って、貿易実務のABCを学び、騎兵隊の隊長から貿易商の番頭に変身した。

明治5年、共同で事業をする約束になっていた岡田平蔵と所用で東京へ出かけた際、大森で当時の政府高官で長州閥有力者、井上馨と知り合う。この井上の勧めで孝は官界に入り、大蔵省四等出仕の辞令をもらって、いきなり造幣権頭(長官代理)に任じられた。ところが明治6年、台湾遠征問題をめぐって薩長間に対立が起こり、さらに井上馨と佐賀閥の江藤新平の間に予算をめぐる争いが生じて、遂に井上は大蔵大輔を辞めることになった。親分が辞めてしまったのでは孝だけとどまってはいられない。幕臣の出身だけに官僚の世界は住みづらかった。

ただ、井上との関係はまだまだ続く。浪人中の孝に井上から先収会社をつくって貿易をやりたい。ついては3万円の資本金を出すから、後は運営をやってくれと一任される。孝は社長として腕を振るうが、最大の資本家で大阪支店の責任者でもあった岡田平蔵の急死で頓挫。同社は井上や伊藤博文らと、とくに関係の深かった三井に引き継がれることになった。井上がいち早く三井の大番頭、三野村利左衛門と話をつけたのだ。とはいえ、井上は社主こそ三井武之助だが、これはお飾りで、全権は社長と決まった。そのうえで、孝に社長を任せる−という。その一言で孝の腹は決まった。この会社は三井の物産方という意味で「三井物産」と名付けられた。

この後、事業家益田孝は三野村利左衛門の商法を模範として、政府がらみのビッグビジネスをものにし飛躍。三井合名の理事長となり、団琢磨、藤原銀次郎、武藤山治など優れた後継者を育てた。

(参考資料)三好徹「明治に名参謀ありて」、邦光史郎「豪商物語」、小島直記「三井物産社長」
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