『英傑・名将の知られざる実像』

前田綱紀 藩主在位78年間で加賀前田家の家風を確立した名君


 加賀藩第五代目藩主・前田綱紀は加賀前田家の家風を確立した名君で、前田家で最初の教養人でもあった。綱紀が在位した78年間、領国の政治に緩みがなく、新田開発などの経済面だけでなく、一種の社会福祉政策も遂行したことで知られる。江戸城における謁見の席も、1698年(元禄2年)、徳川第五代将軍綱吉から、外様大名ながら御三家に準ずる待遇を与えられた。

 前田綱紀は、加賀藩第四代目藩主・前田光高の長男として生まれた。母は水戸藩・徳川頼房の娘(徳川第三代将軍家光の養女)清泰院。幼名は犬千代丸、元服後の名は綱利。元服して亡き父と同じ官位を授けられ、後年、四代将軍家綱の一字を賜って綱紀を名乗り、加賀守に任ぜられた。藩祖・前田利家の曾孫。綱紀の生没年は1643(寛永20)〜1724年(享保9年)。

綱紀の78年の在位を将軍の代で数えると、三代将軍家光の1645年(正保2年)、3歳で家督を継ぎ、八代将軍吉宗の1723年(享保8年)に隠居した。6代(家光・家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗)の将軍に仕えたことになる。

 1645年(正保2年)、31歳の若さで早世した父・光高の後を受けて綱紀(当時は犬千代丸)は、わずか3歳で五代目藩主の座に就いた。藩政は、小松で隠居していた祖父・利常(三代目藩主)が取り仕切ることになった。1654年(承応3年)、元服して綱利と名乗った。そして、徳川家との絆を維持するため、保科正之の二女摩須子(徳川第二代将軍秀忠の孫)を妻に迎えた。綱紀16歳、迎えた姫はまだ10歳だった。

1658年(万治元年)、利常が脳溢血で亡くなると、岳父・保科正之の後見のもとで、綱紀は藩政改革を行うことになった。新田開発や農政から着手、彼が始めた「荒政の九法」は飢饉や不作などに備えた、いわば郡村の組織化で、長く農政の規範となった。当時、備荒貯蓄米を蓄えるため藩が設けた義倉は、金沢に一カ所、越中に三カ所、能登に二カ所、常時十万石から二十万石に及ぶ米が貯蔵されていた。そのため、江戸時代は全国でしばしば大飢饉に襲われ、悲惨な結果を招く例は少なくなかったが、加賀藩領では飢饉のために領民が困窮したという記録はほとんどない。

 綱紀は稗の種子を朝鮮から輸入したり、農民に副業として養蚕を奨励するなど凶作の対策に心を砕いている。「百姓は生かさぬように、殺さぬように」「百姓と菜種は絞れば絞るほどよし」といった思想が農政の根底にあった時代、利常・光高・綱紀ら三代の指導のもと、加賀藩が取った農政は稀有な例と高く評価されている。

 徳川八代将軍・吉宗のブレーンとして世に知られた荻生徂徠は、その著『政談』で「加賀の国に非人一人もなし、真に仁政なり」と絶賛している。当時の藩主は綱紀だ。祖父や岳父の後見も卒業して、彼が自ら政務を執るようになったのは27歳のときからだった。
ところで、治世上何かミスやトラブルがあれば、それを引き合いに領地没収や改易などを課そうと、幕閣は虎視眈々と狙っていた感のあったこの時代、お家を守ることは大変だった。前田家は並大抵の努力でその大身の家を守ったのではなかった。江戸城の龍の口にあった江戸・前田家の上屋敷は1657年(明暦3年)1月の振袖家事(明暦の大火)という江戸時代最大の火事で焼けた。火元は本郷丸山の本妙寺で、火は乾(北西)の烈風に煽られて江戸市街地ばかりか、江戸城の天守閣をも焼き、内堀の大名・旗本屋敷も焼き尽くし灰になった。

 その後の防火計画では、空地をつくること、道路を広くすること、町家の草葺きを禁じることなどが盛り込まれたが、江戸城の周りについても、大名屋敷をことごとく取り除いて空地とした。このため、加賀前田家は移転せざるを得なくなり、代替地として、本郷に大きな地所をもらった。後の東大構内の主要部で、本郷から不忍池に至る10万3000坪という広大なものだった。

 前田家は財政のいい家だった。だが、倹約して金を貯めたりすると、幕府からどんな疑いを受けるか分からないという理由から、財政能力を上回るほどの豪華さで、新しい本郷上屋敷をつくり上げた。ここで、前田家にとっては不運というか、全くありがた迷惑な事態が起こった。五代将軍綱吉が「加賀殿の屋敷は、庭といい、普請といい、見事というではないか」といったらしいと聞かされ、一大事となった。1702年(元禄15年)のころのことだ。

綱吉は幕閣政治を好まず、権力を一身に集め、苛烈に信賞必罰の政治をやり、このため幕臣の気風が萎縮した。その結果、側用人・柳沢吉保など側近に権勢が集まった。綱吉の言葉を聞き流すわけにはいかない。綱吉に誉められた以上、前田家としては御成りを乞うほかない。前田綱紀にすれば、一代の危機というべきだった。

 何故なら、綱吉がおしのびでやってくるわけではなく、側近から老中、若年寄などもくる。警護の番士もくる。そのうち、「加賀殿の新邸を拝見したい」という者が多くなり、規模が膨れ上がって、遂に5000人の供という前代未聞の招待になったのだ。江戸城の大工の棟梁たちまで加わったという。
 江戸時代は階級社会だ。客を同身分ごとに集めて酒肴を出さねばならない。老中や側用人の権勢の者には、とくに気を使う。大工の端々まで、それ相当の席を設け、酒肴を出すのだ。将軍や大名たちが満足してくれても、それ以外の者に対して粗相があっては、苦心も水の泡になる。

 司馬遼太郎氏の『街道をゆく 本郷界隈』によると、綱紀はこのために未曾有の借金をした。国許や江戸、あるいは上方の商人から莫大な金を借り、その後それを返すのに十数年かかった。将軍綱吉の半日の遊覧のために、迎賓館ともいうべき御成御殿を建てた。敷地8000坪、建坪3000坪、棟の数が45という壮麗なものだった。それに伴って、林泉も整えられた。さらに、もてなすために江戸詰めの家臣だけでは手が足りないので、国許から大勢の人数を呼び寄せた。それらの宿舎を400棟も建てたという。

 当日、将軍綱吉は大いに満足した。他の5000人も喜んだ。わずか一日の歓を得るために、加賀前田家は戦争そこのけの総力を挙げたのだ。だが、この壮麗な御成御殿も翌年の関東・東海大地震でことごとく焼けた。江戸末期の安政地震(1854〜55年)でも加賀藩上屋敷は大きな被害を受けた。その後も地震が頻発し、本郷の加賀藩上屋敷は1855年(安政2年)の直下型の地震で壊滅したらしい。

(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、酒井美意子「加賀百万石物語」
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