『英傑・名将の知られざる実像』

島津久光 斉彬の遺志継ぎ藩の存在感を誇示するが、保守派のため限界


 島津久光は、薩摩藩・島津家の“お由羅騒動”の要因ともなった、斉彬の異母弟だ。斉彬の急逝の後、薩摩藩主(島津忠義)の後見役として、「国父」の尊称を受け藩政の実権を握り、幕末〜明治維新の藩運営を実質的に担った人物だ。

島津久光の生没年は1817(文化14)〜1887年(明治20年)。
 島津久光は第十代薩摩藩主・島津斉興の五番目の子として鹿児島城本丸で生まれた。母は側室、江戸三田の四国町に住む大工の娘、お由良(お遊羅とも)。8歳上の嫡兄が斉彬だ。

 1851年(嘉永4年)、第十一代薩摩藩主となった島津斉彬は、積極的に藩政改革と軍備の近代化を断行。しかし、志半ばで急に病に伏し1858年(安政5年)、死を悟った斉彬は久光を枕頭に招き、久光の長子、茂久(のち忠義に改名)を後嗣とし、久光を後見とする旨、遺言し、亡くなった。西南雄藩の中でもとりわけ開明派の名君と評された人物だけに、藩内には若き日の西郷隆盛、大久保利通ら、その死を惜しむ声が多かった。

 それだけに、薩摩藩内の若手家臣たちには失望感が強く、それほどの期待感はなかったが、島津久光は異母兄、斉彬の遺志を継いで、この後、公武合体のために努力奔走する。ただ、もう一つの遺志、薩摩の近代化という藩の内政面では至極、冷淡だった。そのため、斉彬が今後の時代を見据え、薩摩藩を“産業国家”に改造することを目指し、西洋技術習得のために設けた諸施設は無残に解体・縮小されていた。

 斉彬が推し進めていた西洋技術習得の意味を、久光は全く理解できず、ただ傍観しているほかなかったのだ。しかも、兄の斉彬が亡くなったからといっても、父、斉興が自分の出番とばかりに藩運営に出しゃばってきたからだ。久光はまた、この事態を静観しているほかなかった。斉彬の死後、一年で老公の斉興も亡くなって、ようやく実権は久光に移った。

 斉彬の死で沈滞したかに見えた薩摩藩内の動きも、徐々に活気を取り戻す。京を中心に倒幕・尊皇攘夷運動が吹き荒れていたからだ。現実派の大久保利通らは、要所で久光を担ぎ出し、この後、西南雄藩の中でも主導的な立場で様々な手を打ち薩摩藩の声望を高めていくことになるのだが、先君・斉彬に心酔していた西郷隆盛は結局、最後までこの久光の行動や事績を認めることはなかったようだ。そのため、西郷はこの久光に徳之島、喜界ヶ島などへの流罪処分を受けている。

 話を戻すと、やがて「国父」の尊称を受け、藩政の実権を握った久光は、大久保利通ら藩内有志の脱藩事件を契機として彼らを「誠忠士」と称し、挙藩一致し国難にあたらせることに成功した。1862年(文久2年)、久光は1000余の藩兵を率いて上京、国事周旋にあたり、攘夷激派の有馬新七らの伏見・寺田屋事変を抑え、挙藩一致の方向を堅持した。公武一和のためとはいえ、薩摩藩士が薩摩藩士を斬り殺すという惨劇は、藩内に傷を残した。

 次いで、久光は勅使、大原重徳を擁して東下し、幕政改革を命じて公武合体運動の中心人物となった。江戸からの帰途、生麦村で行列を横断したイギリス人を殺傷した「生麦事件」を起こし、その結果、1863年(文久3年)、「薩英戦争」となった。

 王制復古後は、久光は政府の開明政策に不満で藩地にとどまることが多かったが、征韓論の分裂による明治政府の弱体化に備え、明治6年、勅使派遣により上京し、内閣顧問から同7年、左大臣に任ぜられた。

 ただ、保守派の久光は政府の欧化政策には反対で、その旨たびたび建言した。しかし、それはことごとく退けられ、受け容れられることはなかった。そのため、明治8年、遂に久光は官を辞し帰国。以後、政治の舞台からは遠ざかり、修史の業に従い、『通俗国史』(86冊)などを編纂させた。薩摩国内が最後の舞台となった「西南戦争」には中立を守り、休戦を建議したが、明治維新政府には容れられなかった。

 島津久光は、その死因が不可解で毒殺との説もある、急死した異母兄、斉彬が健在なら表舞台に登場することはなかった。それだけに、久光が行った藩運営や雄藩諸侯の中で果たした役割も、決して十分ではなかったかも知れない。しかし、それでも薩摩は、明治維新政府で長州とともに主導的役割を果たし、存在感を示したのだから、良しとしなければなるまい。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、松永義弘「大久保利通」、司馬遼太郎「きつね馬」、加藤_「島津斉彬」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」
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