『英傑・名将の知られざる実像』

中岡慎太郎 「薩長連合」の立役者だが、龍馬“暗殺”の巻き添えに


 1867年(慶応3年)、京都見廻組−佐々木唯三郎一派が坂本龍馬と、この中岡慎太郎を暗殺した。これは幕府側としては大きな収穫だった。もっとも狙ったのは龍馬であり、中岡はちょうどその下宿先へ来合わせていたところで、中岡にとっては不幸な“魔”の一日となってしまった。もちろん当時としては中岡も見廻組や新選組のブラックリストに載せられていたのはいうまでもないが、このときは巻き添えであったことは間違いない。中岡慎太郎の生没年は1838(天保9)〜1867年(慶応3年)。

 中岡慎太郎は土佐国安芸郡北川郷の大庄屋、中岡小伝次の長男として生まれた。しかし、父が60歳に近い晩年の子だったので、3人いた姉のうちで次姉に養子が迎えられていたようだ。少年のころは寺の住職や近在の医者に読み書きを学んだが、その上達ぶりは人々の眼を驚かすほどだったという。

 ただ、何といっても中岡の思想的な成長に大きな影響を与えたのは間崎滄浪(まざきそうろう)と武市瑞山(たけちずいざん)だろう。文学の師と剣の師だった。間崎滄浪は、若くして江戸に出て安積艮斎(あさかごんさい)の門に学んで、たちまち塾頭に抜擢されたという俊秀で、山岡鉄太郎や清河八郎などとも交際があった。武市瑞山は通称半平太、幕末の三剣士と呼ばれた江戸の桃井春蔵に剣を学び、そこの師範代となった人物だ。そして、後の土佐勤王党の盟主といった方が分かりやすい。

 中岡は20歳のとき庄屋見習になったが、治績にはなかなかみるべきものがあった。1860年(万延元年)のころ、この地方が深刻な飢饉に見舞われたことがある。このとき彼は、東奔西走して芋を買い入れたり、備貯米の蔵を開いたりして農民たちを助けた。そのころは備貯米の蔵を開くということは、たとえ飢饉でも簡単ではないのだが、それが敢えてやれたというのはかなりの覚悟があってのことだ。

彼には自分が庄屋として預かる農民は、一人も傷つけたり殺したりしてはならないという使命感があった。そしてそれが、間崎や武市の影響で天下・国家に広がっていくのだ。ただ、彼がそのために大きく踏み出すためには、何かの機会が必要だった。

 ところで、土佐にいまを時めく薩摩や長州に肩を並べるほどの発言権を与えたのは何といっても武市瑞山だ。藩主の山内容堂は武市らの考えには反対だったが、適当にあしらって泳がせていた。武市もまた容堂を適当におだてて、諸藩の中に土佐勤王党の実力を認めさせる努力をしていた。土佐勤王党の名が、中岡慎太郎を浮かび上がらせたのだ。中岡の飾らない性格、そして一度正義と決めたら一歩も譲らない剛毅な態度、もちろん学問もある人間性、そうしたものが彼を次第に人々の間に認めさせていった。

 1863年、「八月十八日の政変」以後、遂に中岡は土佐を出て長州、そして京都へも潜入する。「池田屋事件」の際も、中岡はたまたま長州の三田尻に帰っていただけで、同事件で亡くなった人物たちとも交遊があった。彼は1864年に起こった「禁門の変」にも参戦、足に敵弾を受けるが、うまく逃れている。

 中岡の功績として特筆されるのはやはり、坂本龍馬とともに「薩長連合」の立役者となったことだ。犬猿の仲だった薩長を、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎の間を粘り強く説き、手を結ばせ連合を成立させる。これにより、明治維新への動きは加速するのだ。しかし、この後、中岡は坂本とともに歴史的役割は終わったかのように、刺客に襲われその生涯を閉じた。

(参考資料)奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、平尾道雄「陸援隊始末紀」
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