『英傑・名将の知られざる実像』

 黒岩涙香 スキャンダル記事と翻案小説で『萬朝報』を東京一にした天才


 黒岩涙香は明治時代の作家、ジャーナリストで、彼が1892年(明治25年)に創刊した『萬朝報(よろずちょうほう)』は一時、“社会派”ネタと翻案ものを特徴として、最大発行部数30万部と東京一の発行部数を誇った超人気の新聞だった。

 黒岩涙香は土佐国安芸郡川北村大字前島(現在の高知県安芸市川北)に郷士の次男として生まれた。本名は黒岩周六。「香骨居士」、「涙香小史」などの筆名を用い、翻訳家、作家、記者として活動した。兄は黒岩四方之進。

涙香は、大阪専門学校で1年ほど英語を学び、その後上京して、成立学舎、慶応義塾に入り新聞に投稿することが多かった。そのうちの1本「輿論新誌」に投稿した、北海道官有物払い下げ問題の批判論文が官吏侮辱罪に問われて、16日間の懲役刑を食らった。出所してから『日本たいむす』『絵入自由新聞』の記者を経て、『都新聞』に入社した。そして、記者のかたわら、翻案の探偵小説を書いた。『都新聞』ではのちに主筆を務めた。

 涙香の翻案ものは、読者から非常な好評を博した。彼は、原作を日本人に向くように構成を変え、主人公の名前も日本名を使い、題名なども工夫を凝らした。ちなみに、彼の名を高めた第一作「法廷の美人」の原作名は「暗き日々(ヒュー・コンウェイ)」だ。これでは味も素っ気もない。ところが、「法廷の美人」となると、被告席に立たされる薄幸の悲しい運命が、そこはかとなく連想されるではないか。つまり、彼は見出しの付け方が抜群に上手だったのだ。

 涙香は1892年(明治25年)、『萬朝報』を創刊した。30歳のときのことだ。
題字には「よろず重宝」の意味がかけられていた。後年、力をつける幸徳秋水、内村鑑三、堺利彦らが参画したタブロイド版の日刊新聞だった。萬朝報は簡単・明瞭・痛快をモットーとし、社会悪に対しては徹底的に追及するという態度と、涙香自身の連載翻案探偵小説の人気によって急速に発展、1899年(明治32年)には発行部数が、東京の新聞中1位を達成した。

当時の新聞は、現代と違って見出しは極めて簡略で、ぶっきらぼうなものだった。時代は少し下るが、例えば日露戦争の旅順戦を伝える読売新聞のニュースの見出しをみると、「旅順陥落」「旅順開城の手続」「開城談判の調印」といった具合だ。そんな中で、涙香はとくに、小説の題名については非凡なセンスを発揮した。デュマの『モンテクリフト伯』を『巌窟王』とし、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫(ああ)無情』と改題したのは、よく知られている。

 涙香は、読者に好奇心を起こさせるような題名をつけた『鉄仮面』『白髪鬼』『幽霊塔』『巌窟王』『噫無情』などの代表作を次々に掲載し、評判を取り、萬朝報のウリとなった。また人気を博した企画が、連載「名士蓄妾調べ」だった。これは当時の、いわゆる名士たち四百数十人が囲っていた愛人を徹底的に調べあげたもので、彼女たちの前身から、いつごろそういう関係になったか、どういうきっかけがあったか、どこに住んでいるか、その別宅の購入費や規模までを書いたのだ。徹底的なスキャンダル記事だ。伊藤博文、桂太郎、山県有朋らの政界の大物はむろんのこと、渋沢栄一らの財界人、北里柴三郎、森鴎外、勝海舟らの知名人は、根こそぎ萬朝報の餌食になった。これが「三面記事」の語源ともなった。

 黒岩涙香の萬朝報と当時、発行部数で覇を競ったのが秋山定輔の『二六新報』だ。二六新報は明治33年2月から発行され、翌年に10万部を超え、それまで1位だった萬朝報を2万部もリードした。秋山は涙香より5歳年下だった。だが、三好徹氏は涙香と秋山を「天才的な資質において、同時代の誰よりも抜きん出ていた」としている。涙香にとって秋山は強力なライバルだったわけだ。

 萬朝報が発行部数で東京の新聞中1位を取る前年、明治31年に涙香が打ち出したユニークで、型破りな宣伝コピーがある。彼は萬朝報の永遠無休日を宣言し、「世界は今日より萬朝報なくては夜の明けぬことと為れり」と宣伝。文字通り「永世無休」の看板を掲げたのだ。

(参考資料)三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、小島直記「無冠の男」
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