『英傑・名将の知られざる実像』

吉備真備 いったん失脚の憂き目に遭いながら復活した実力者


 吉備真備は、聖武天皇の御世、橘諸兄政権下で“怪僧”玄●(日ヘンに方、読みはボウ)とともに重用された時期があり、玄_と同じように失脚の憂き目に遭いながら復活。称徳天皇の御世、右大臣に昇進して左大臣の藤原永手とともに政治を執るという、地方豪族出身者としては破格の出世を成し遂げた有為な人物だ。学者から立身して大臣にまでなったのは、近世以前ではこの吉備真備と菅原道真のみだ。吉備真備の生没年は695(持統天皇9)〜775年(宝亀6年)。

 吉備真備は備中国下道郡(後の岡山県吉備郡吉備町、現在の倉敷市真備町)出身で、父は右衛士少尉下道圀勝(しものみちのくにかつ)、母は楊貴(八木)氏(大和国=後の奈良県の豪族)。下道氏は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。

 吉備真備(当時の下道真備=しもつみちのまきび)は716年(霊亀2年)22歳のとき遣唐留学生となり、翌年入唐。以後18年間唐にあって、儒学、天文学、音楽、兵学などを学び、735年(天平7年)、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測量鉄尺)、楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)など多くの典籍を携えて帰国した。

 帰朝後の真備は、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、橘諸兄が政権を握ると同時期に遣唐留学生・留学僧として派遣され、同時期に帰国した僧・玄●(ボウ)とともに重用された。しかし、740年(天平12年)に大宰府で起こった藤原広嗣の反乱が如実に物語っているように、それが度を超えていたため人々の批判を買うことになった。それでも真備は741年に東宮学士として皇太子阿倍内親王(後の孝謙天皇、称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。また、そうした功績から746年(天平18年)には吉備朝臣の姓を賜った。

 ところが、孝謙天皇即位後の750年には同天皇を後ろ楯に、藤原仲麻呂が強大な権力を掌握。仲麻呂により、遂に真備は中央政界では失脚、筑前守、肥前守に左遷されてしまった。だが、決して真備はこれでは終わらなかった。751年に遣唐副使として再び入唐。そして753年には鑑真を伴って無事に帰国したのだ。

 真備は754年(天平勝宝6年)には大宰少弐に昇任、759年(天平宝字3年)に大宰大弐(大宰府の次官)に昇任した。そして764年には(天平宝字8年)には造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。恵美押勝(藤原仲麻呂)が反乱を起こした際には従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して乱鎮圧に功を挙げた。称徳天皇の御世、弓削道鏡の下で中納言、大納言、そして右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手とともに政治を執ったのだ。

 吉備真備は地方豪族出身者としてはまさに破格の出世だった。学者から立身 して大臣にまでなったのも、近世以前ではこの真備と菅原道真のみだ。それも、 一度は中央政界で失脚しながら、遣唐副使として入唐、再出発し、帰国後は大 宰府で実績を積み、70歳で遂に都へ復帰したのだ。学者から身を起こした彼の 忍耐強い性格はもちろんだが、ここまで頑張り抜けたのは、やはり執念としか いいようがない。
 吉備真備には様々な伝承がある。まず彼は唐で「仙術」を学んでいる。また彼は「夢」を買って出世したという(『宇治拾遺物語』)。このほか、梅原猛氏によると、「祭星法」という術を用い、実はこの法により出世したともいう。この秘法を用い出世したもう一人の人物が、藤原鎌足だ(『宿曜占文抄』)。

(参考資料)梅原猛「海人と天皇」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

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