『英傑・名将の知られざる実像』

海保青陵 近代日本の先駆的経済学者で藩・経営コンサルタント


 海保青陵は江戸時代後期の経世家、あるいは今日風に表現すれば、さしずめ藩・経営コンサルタントだ。武士、それも藩家老の長子として生まれながら、家督を弟に譲り、生涯の大部分を諸国を遊歴、見聞を広めながら、絶えず自己を自由な境涯に置いて独自の思想を展開し、近代日本の先駆的思想家・経済学者として注目される人物だ。海保青陵の生没年は1755(宝暦5)〜1817年(文化14年)。

 海保青陵は丹後宮津藩・青山家の家老、角田市左衛門(青渓、家禄500石)の長子として江戸で生まれた。名は皐鶴(こうかく)、字は萬和(まんわ)、通称儀平、青陵は号。青陵の父と当時の藩主・青山幸道は従兄弟にあたっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き、藩財政の立て直しに努力したが、藩に内紛が起こったことで、隠居せざるを得なくなり、1756年(宝暦6年)数え年2歳の身で、青陵が家督を相続した。

 2年後、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し、浪人の身となった。但し、青陵の父は彼が生きている限り青山家から20人扶持に金100両ずつ毎年送られてくることになっていたので、一家が困窮することはなかった。

 青陵は荻生徂徠の弟子、宇佐美潜水に学んだ。その後、家督を弟に譲り、曽祖父の姓である「海保」の姓を名乗った。蘭学者、桂川甫周とも交流を持ち、30〜52歳の間、江戸、京都を中心に諸国を遊歴し見聞を広めた。彼はとくに経済に関心があった。彼は、商人が社会の最劣位に置かれていることに、不合理なものを感じていた。

彼に言わせれば、天皇と公卿や藩主と家臣の関係もすべて市道ではないか−ということになる。市道とは売りと買い、すなわち商行為のことだ。つまり、君臣の関係を例にみれば、家臣は忠誠心を切り売りして、君主から俸禄をもらうのだから、その間には一種の契約関係があるという見方だ。こういう観点に立てば、商人の行っている商行為も、それほど悪しざまにいわれることはない。品物を通して、売りと買いが成立しているのだから、卑しめられることは全くない−というのが彼の考え方だった。

したがって、そうした商行為を行う商人を蔑むというのは筋が通らない、道理に合わない、ということになる。青陵の出身は宮津藩の家老の家だ。それだけに、自らの立場を擁護することなく、分け隔てのない、こうした考え方は当時としては随分先に進んだものといわざるを得ない。

そして、青陵は現実を直視した貨幣経済による産業政策振興を唱え、各地で諸侯・豪農層に自らの富藩論を啓蒙し、経営コンサルタント的なことを行った。藩営商業論を積極的に説き、具体例として江戸時代文化期に加賀藩などで藩交易を主とした富藩政策を展開し、積極的な領外への産物輸出によって富藩を実現しようと試みている。また、天保期には長州藩の村田清風の産業政策にも青陵の影響がうかがわれる。海保青陵の説は「経済」を、「士農工商」の儒教世界から解放したという意味で、心ある商人たちを大いに励ました。

 青陵は、晩年は京都に腰を落ち着け、著述業に専念した。著書に『稽古談(けいこだん)』『前識談』『洪範談』『老子国字解』『文法披雲』など20数作品がある。

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、童門冬二「江戸のビジネス感覚」
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