数多い剣豪の中でも、二刀流の使い手といえば宮本武蔵をおいてほかにない。二刀流の祖といわれるのも十分うなずける。生涯で60数回の決闘はすべて勝った。佐々木小次郎との巌流島での対決は伝説化された武芸伝としても有名だ。ただ、本人の伝記には不明な点が多い。文武両道で天才肌といわれる武蔵の行動には常に謎がつきまとっている。果たして武蔵は本当に二刀流で戦ったのだろうか。そして、彼は伝えられるような剣豪だったのだろうか。
そもそも宮本武蔵という人物が、我々の脳裏に強く印象づけられているのは、作家の吉川英治氏が書いた不朽の名作「宮本武蔵」の影響が大きい。小説は関ケ原の合戦後から始まり、巌流島の決闘をクライマックスとして終わっている。だが、吉川氏本人が語っているように、これは史実を明らかにするのが目的ではなく、剣の道に己を求めていく一人の男をテーマにした歴史小説であって、明らかにフィクションだった。
では、本当の武蔵はどのような人物だったのか。これまで多くの歴史家が重視してきたのは武蔵自身が著した兵法書「五輪書」だ。しかし実は、現存するものは武蔵が晩年を頼った細川家の家臣が書いた写しで、直筆のものは存在しないのだ。さらに、「五輪書」の書き出し部分に、本当に武蔵自身が書いたのか信じ難い部分がある。「自分は13歳の時から29歳までの間に60数回の決闘をしたが、一度も負けたことがない。これは自分が兵法を究めたのではなく、天才だったからだ」とあるのだ。剣術指南として大名に仕官するチャンスを意識して、自分の腕を誇張してこのように表現したと取れなくもない。だが、果たして自分で自分のことを天才と表現するだろうか。まずここに疑問を投げかけざるを得ない。
さらに古文書をもとに武蔵の人物像に迫ろうとすると、いくつも違う名前の武蔵が出てくるのだ。「新免武蔵(しんめんたけぞう)」というのが本名だが、彼をよく知る旗本の渡辺幸庵は、彼のことを「竹村武蔵」と書き残しているのが代表的な例だ。
疑問はまだある。武蔵の墓が熊本に5つもあるのだ。熊本は彼が最後の人生を過ごした細川家のあるところで、現存している「五輪書」もここで書き写されていることを考えれば、武蔵が相当手厚いもてなしを受けていた場所と見て間違いはないはずだ、だから、死後に供養される墓もきちんと作られているに違いない、と見ていい。しかし滝田町弓削には「新免武蔵居士」の名前が刻まれた石塔があり、島崎町には武蔵のことを指す「貞岳玄信居士」の名前の入った墓が、また細川家歴代の墓のある場所にも「武蔵の供養塔」が建っているのだ。このほか、小倉手向山、宮本村の平田家の墓地にも武蔵が眠っているといわれているのだ。こうなると、複数の武蔵がいたのではないかと考えざるを得ない。
武蔵複数説はまだある。彼が自らの刀さばきを二天一流(にてんいちりゅう)と呼び、二刀流という言葉も含めて自らが考案したものとしているが、歴史家によると、この二天一流の呼び方は晩年になってからで、それ以前に二刀流で円明流という技があったのだ。それなら円明流のルーツをたどれば武蔵に行き着くはずだ。ところが、この流派の創始者をたどってみると2人の武蔵が登場する。1人は宮本武蔵守吉元で、もう1人は宮本武蔵守義貞だ。どちらも実在の人物なら、武蔵という名の2人の二刀流の達人がいたことになる。
謎の列挙はこのくらいにして、限られた史料に基づいて終盤の武蔵の人生をたどってみよう。彼が藩主・細川忠利の客分として熊本にきたのは1640年(寛永17年)、57歳のとき。剣を通して人生を探求し続けた武蔵は、晩年までの5年を熊本で過ごしている。
「五輪書」は1643年(寛永20年)、武蔵60歳のとき熊本市西方の金峰山麓「霊巖洞」に籠って、書き綴ったもので、完成は1645年(正保2年)春。武蔵の死は同年5月。「五輪書」は死の間際まで筆を執り続けた武蔵執念の書だ。地・水・火・風・空の5巻から成り、「地之巻」は兵法の全体像を、「水之巻」は剣法の技術を、「火之巻」は駆け引きや戦局の読み方を、「風之巻」では他流派の兵法を評論、「空之巻」では武蔵の考える兵法の意義・哲学を書いている。「空」は武蔵晩年の心境を書いたもので、「兵法を究めることが善の道」と説いている。
武蔵は「兵法の道」の極意を究めたほか、「詩歌」「茶道」「彫刻」「文章」「碁」「将棋」などにも秀でた才能を発揮している。
(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」
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