千々石ミゲルの木棺?の一部見つかる 天正遣欧使節
天正遣欧使節(1582~1590年)のメンバーの一人、千々石(ちぢわ)ミゲルの墓とされる、長崎県諫早市の石碑周辺の発掘調査現場で9月1日、木棺の一部とみられる木片と金具が見つかった。別府大の田中裕介教授は、石碑は墓石でミゲルの墓であることはほぼ間違いない-としている。天正遣欧使節メンバーの墓が確認されれば初めて。
8月20日に始まった調査では、石碑の地下1.5㍍から平らな自然石を並べた3枚の「蓋(ふた)石」が出土。蓋石を外すと内部は縦約1㍍、横約0.7㍍、深さ約0.5㍍の空洞で、土の壁に埋まった状態で、取ってや留め具のような金具3点と木片が確認された。碑文などから石碑はミゲル夫妻の墓とされてきたが、これまで埋葬施設との確認はなかった。発掘調査作業は9月中旬まで行われる。
天正遣欧使節は1582年、九州の大友宗麟、有馬晴信、大村純忠らのキリシタン大名が欧州に派遣した少年4人。伊東マンショ、中浦ジュリアン、原マルチノ、千々石ミゲルで、彼らは8年後に帰国したが、待っていたのは豊臣秀吉による伴天連追放令(1587年)だった。このキリシタン弾圧の嵐の中で殉教など過酷な運命をたどった。ただ唯一、ミゲルはキリシタン弾圧に遭い信仰を捨て、大村藩士を務めたとされる。しかし、その生涯の多くの部分は謎に包まれている。