中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者となっていたことで知られ、「東洋のルソー」と評される。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人。1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学ぶが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。
兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」の意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。
1866年(慶応2年)江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた兆民は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。
1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書「民約論」や「エミール」などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。「英国財産相続法」などの翻訳書を出版する。
1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)「東洋自由新聞」を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。
1882年(明治15年)仏学塾を再開し、「政理叢書」という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著「民約論」の抄訳「民約訳解」をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年「三酔人経綸問答」を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の「東雲(しののめ)新聞」主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。
漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は世人から奇行とみられた。
主な著書に随想集「一年有半」、兆民哲学を述べた書「続一年有半」などがある。
(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」