「田植歌」112年ぶりに復活 天理・大和神社
奈良県天理市の大和(おおやまと)神社で2月10日営まれた「御田植祭」で明治時代に絶えていた「田植歌」が112年ぶりに復活した。
神社総代や雅楽団体「青丹雅楽会」のメンバーらによる歌と竜笛が流れ、厳かな雰囲気に包まれる中、五穀豊穣を願って、昔ながらの鋤き入れから田植えまでを演じた。
氏子らが1年半前から古文書を調べ、懸命に稽古を重ねるなど準備を進めてきたもので、祭典を本来の姿に戻し、後世につないでいきたい-と話していた。
道鏡ゆかりの由義寺の存在裏付ける塔の基壇見つかる
大阪府八尾市文化財調査研究会は2月9日、奈良時代に女帝・称徳天皇(在位764~770年)と、その寵愛を受けて「法王」の座に就いた僧・道鏡(?~772年)が建立した由義(ゆげ)寺があったととみられていた大阪府八尾市の東弓削(ひがしゆげ)遺跡で、巨大な塔と思われる建物の基壇(土台)が見つかったと発表した。
同市教委や調査研究会は、文献でしか確認されてこなかった由義寺の存在を裏付ける貴重な史跡とし、保存も検討するという。
基壇は約20㍍四方で、奈良時代後半の地層から見つかった。一辺20㍍の基壇から類推すると、同寺には高さ60㍍級の七重塔が建っていた可能性があるという。付近からは塔頂部の装飾品「相輪(そうりん)」の破片とみられる銅製品も見つかった。
殉教の高山右近「福者」に 大阪の列福式に参列者1万人
戦国時代の”殉教”のキリシタン大名、高山右近がカトリックの「福者(ふくしゃ)」に認められたことを宣言する列福(れっぷく)式が2月7日、大阪城ホール(大阪市)で開かれた。
バチカン(ローマ法王庁)からローマ法王代理として派遣された枢機卿が進行役の主司式を務め、日本各地から信者ら約1万人が参列した。式では法王代理のアンジェロ・アマート枢機卿が法王の書簡を読み上げ、イタリア語で「福者の列に加えます」と告げた。カトリックは今後、右近が亡くなった2月3日を記念日として毎年祝うという。福者はカトリックで聖人に次ぐ崇敬の対象で、右近は2016年1月、法王から承認された。
右近は戦国時代、今の大阪府豊能町で生まれ、12歳で洗礼を受けた。豊臣秀吉のバテレン追放令で、多くのキリシタン大名らが身分、財産が没収され、罪人とされるのを恐れ、相次いで改宗した中でも信仰を捨てず、1614年、江戸幕府の禁教令で国外追放となり、翌年フィリピン・マニラで亡くなった。
仏教界は「本能寺の変」に喝采 信長を痛烈批判
愛知県豊橋市の金西寺(曹洞宗)に伝わる古文書、寺を開いた月岑牛雪大和尚が江戸時代初期の1619年以降に書いたとされる開山記「当寺御開山御真筆」によると、織田信長を批判的に評した詩文が引用され、当時の仏教界の信長に対する悪感情が読み取れ、信長が明智光秀に討たれた本能寺の変に喝采を送ったことがうかがわれる。これは、豊橋創造大の島田大助教授(日本近世文学)や金西寺の高崎俊幸住職が発表したもの。
本能寺の変の翌月の1582年7月につくられた開山記の詩文には「信長は京を鎮護して二十余国を領したが、公家を蔑(ないがしろ)にして万民を悩まし、苛政や暴虐は数えきれない」「(本能寺の変で)死亡して人々は拍手し、天下が定まった」といった意味の記述があった。
さらに信長について「黒ねずみで平清盛の再来」とする一方、光秀を「勇士」と称え表現した記載も見える。また、仏教界にとって悲惨な事件、信長の暴挙ともいうべき「比叡山の焼き討ち」にも言及していた。
「さっぽろ雪まつり」に興福寺中金堂の大雪像登場
札幌市の大通公園に2月5日、奈良市で300年ぶりに再建される興福寺中金堂の大雪像が完成した。6日から始まる「さっぽろ雪まつり」の目玉の一つとして制作されたもの。天平時代の名刹が本物より一足先に、札幌の地に蘇った。
この大雪像、陸上自衛隊員延べ約3800人が約30日間かけて精巧に再現したという。5日夜にはこの大雪像をバックに、プロジェクションマッピングで興福寺の国宝、阿修羅像が現われ、白銀の世界に幻想的な雰囲気を醸し出していた。
興福寺の中金堂は、元明天皇による平城京への遷都の際、後の藤原氏栄華の礎をつくった藤原不比等によって建てられた。平安時代以降、焼失と再建が繰り返され、江戸時代中期の1717年の7回目の焼失後は再建されていない。今回は2017年の創建1300年を前に再建計画がスタートし、2018年に落慶予定だ。