濃姫御殿か 岐阜城の織田信長居館跡で金箔瓦の破片発見

濃姫御殿か 岐阜城の織田信長居館跡で金箔瓦の破片発見

岐阜市教育委員会は2月19日、織田信長が一時拠点とした岐阜城(岐阜市)の居館跡で、多数の金箔瓦の破片が見つかったと発表した。今回見つかったのは庭園遺構や金箔瓦片約30点。
1567年に美濃(岐阜)を攻略した信長が入場直後に工事を始め、途中で設計を変更し、庭園に隣接するよう御殿の敷地を拡張したとみられる。
文献などを参考に調べた結果、屋根を金箔瓦でふいた信長の正室・濃姫の御殿の可能性があるという。

シーボルトのオランダ語直筆書簡見つかる 植物研究で

シーボルトのオランダ語直筆書簡見つかる 植物研究で

博物学者で江戸時代日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師シーボルトが、医療の傍ら、日本の植物研究にも取り組んでいた。その研究のさなかに交わされた直筆のオランダ語の書簡が見つかり、研究者らは日本の植物学の原点を記した貴重な資料だとしている。
今回見つかった書簡は、シーボルトが1828年11月に遭遇した「シーボルト事件」で国外追放になる直前、当時50人以上いた弟子の一人、賀来佐一郎(かく・さいちろう)、佐之(すけゆき)宛てに「日本植物目録」の推敲を依頼する旨、したためられたもの。神田外国語大学の「洋学文庫」の中から見つかった。
長崎・鳴滝塾の門下生だった賀来に関しては歴史上謎が多く、今回の発見で植物学におけるシーボルトの一番弟子とされている伊藤圭介(いとう・けいすけ)と並ぶ重要人物であることが判明した。シーボルトは約1600種の植物標本に学名と和名を付けて分類し、目録を作成する作業を、既述の2人の協力を得て、1827年10月末から長崎県の出島で精力的に行い、半年後「日本植物目録」の草稿を完成させている。
シーボルトの書簡は日本に6本現存しているが、国外追放前に日本植物研究について書かれたものとしては、日本で初めて発見されたものとなる。なお、今年はシーボルト没後150年の節目の年で、2016年2月17日は生誕220年。

飛鳥寺西方遺跡で遷都後の平安時代の皿出土

飛鳥寺西方遺跡で遷都後の平安時代の皿出土

奈良県明日香村教育委員会は2月9日、中大兄皇子、中臣鎌足らによる大化改新をはじめ飛鳥時代の需要なできごとに関する舞台となった「槻(つき)の木の広場」とされる飛鳥寺西方遺跡で、10世紀の土器の皿が数枚重ねられた状態で、複数箇所で見つかったと発表した。平安時代の祭祀(さいし)跡とみられ、平安京への遷都後も広場が特別な空間だったとみられるという。
飛鳥寺西門跡の南西約60㍍で土師器(はじき)の皿(直径10㌢)を5~8枚重ねたものが、110㌢間隔で計3カ所から出土。2㍍北側で皿(直径14㌢)が重なっていた。近くでは炭や焼けた土が交じった長方形の穴も確認された。

「大坂夏の陣」の焼け跡出土 発掘調査現場を公開

「大坂夏の陣」の焼け跡出土 発掘調査現場を公開

大阪市教育委員会などは2月6~7日、大阪城天守閣に隣接した特別史跡大坂城跡の発掘現場で出土した、大坂夏の陣(1615年)で焼け落ちた豊臣期大坂城の焼け跡を整地した整地層を一般公開した。整地層には屋根瓦の破片や黒く炭化した木材片などのがれきが混在し、真田幸村(信繁)らの勇将ぶりに象徴される、大坂夏の陣の戦いの激しさを物語っていた。
発掘調査現場は天守閣の東南にある金蔵の東側エリア。豊臣期大坂城の石垣を再発掘して公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」に先立ち、周辺に残る遺構の状況を把握するため、大阪市教育委員会などが継続的に調査を実施しているもの。

由利公正考案の省エネかまど「三岡へっつい」再現 福井

由利公正考案の省エネかまど「三岡へっつい」再現 福井

幕末の越前福井藩士、三岡八郎(後の由利公正)が考案したとされる幻のかまど「三岡へっつい」の再現作業か完了し2月7日、福井県生活学習館(福井市)前で披露された。県と県左官工業組合が文献の少ない、歴史小説などに残るわずかな情報を頼りに、想像して製作した。
三岡へっついは、反射熱を生かすために鉄釜が釣り鐘を逆さにしたような形をしている。かまどは粘り気が強く、耐火性に優れた同県越前町織田の土や石灰などでつくり、たき口、通気孔など計4カ所の横穴が施された。通常の半分のまきの量でご飯が炊ける省エネが売りという。鉄釜とその中に入れる3升5合炊きの羽釜2つは広島県の鋳物メーカーに依頼してつくった。
県は由利公正を主人公にした大河ドラマの誘致に取り組んでおり、今回製作した三岡へっついが、ドラマの誘致につながればと期待を寄せる。県は展示のほか、イベント会場で炊飯を実演して由利公正のPRに活用する予定。この日は、三岡へっついで炊かれたご飯が来館者に振る舞われた。

宮城・多賀城跡で鎮守府示す奈良時代後半の木簡出土

宮城・多賀城跡で鎮守府示す奈良時代後半の木簡出土

宮城県多賀城市の国特別史跡・多賀城跡の発掘調査をしている宮城県多賀城跡調査研究所は2月4日、政庁南の城前地区で鎮守府を示す「府」と書かれた奈良時代後半の文書箱(もんじょばこ)のふたなどの木簡が出土したと発表した。
中央政府が奈良時代に国府とともに東北以北の蝦夷(えみし)を統治するために置いた鎮守府の存在が、同時代の史料で裏付けられた。書箱が見つかった場所は、政庁から約120㍍南、当時の正門「南門」に通じる南大路の東側にある城前地区の実務官衙(かんが=役所)のごみ捨て場跡から出土した。
文字が書かれたふたは長さ32.1㌢、幅5.7㌢、厚さ1.7㌢。「府符口(諸?)郡司口」と書かれ、「府、諸郡司に符す」と読めるという。「符」は上から下へ指令を伝える文書で使われる語句であることから、鎮守府が各地の郡の役人(郡司)に命令を出した文書を収めた箱とみられる。
奈良時代の多賀城に鎮守府が置かれたことは「続日本紀」などの記録にあるが、同時代の史料で存在が確認されたのは初めて。