中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

中井源左衛門 売薬から身を興し成功した近江を代表する名家

 中井源左衛門は、売薬から米商人に転じて成功し、巨富を得た。瀬田の唐橋の改修費に3000両を献金したのをはじめ、神社や公共事業に多額の寄付をした。滋賀県に生まれ、幼名を長一郎、やや長じて源三郎と改め、源左衛門となったのは店を持ってからのことだ。生没年は1716(享保1)~1805(文化2)年。

  中井源左衛門は「金持に成らむと思はば、酒宴遊興奢(おご)りを禁じ、長寿を心掛け、始末第一に商売を励むより外に仔細は候はず」(「金持商人一枚起請文」)と子孫に書き残している。著名な「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)の精神は、他国への行商で財を成した近江商人の知恵だ。行商先や出店を開いた地域に配慮した経営でなければ、外来商人としての存続も、出店の定着もあり得なかったのだ。

 日野特産の日野椀をつくっていた中井家は、もともと佐々木源氏に仕えて船奉行をしていた家柄だったが、織田信長に佐々木の一党が滅ぼされた時、武士をやめて、塗椀業者になった。ところが孫の光武の代になったころ、家運が衰えて取引先が倒産した。そのため家屋敷も人手に渡り、源左衛門光武は日野椀の絵付け仕事に雇われて職人暮らしを続け、ようやく19歳になった。

 何とかして失った家や地所を回復したいと思った彼は相坂半兵衛という日野商人に連れられて、関東へ行商の旅に出た。1734(享保19)年のことだ。母の実家から日野の合薬60貫分(約15両)を借り受け、自己資金2両と、遺産3両を旅費として、創業の野心に燃えた19歳の青年は、東へ向かって旅立っていった。これを持ち下り商内といっている。

 神応丸、奇応丸、帰命丸、六味地黄丸など日野の合薬は各地で評判がよかった。一度目は失敗に終わったが、二回目は何とか損をせずに済んだ。以来一日として休むことなく、雨の日も雪の日も歩き続けて、1745(延享2)年になると、ようやく下野の越堀町に小さな店を持った。同年、郷里に家を建てて妻を迎えた。それが30歳の時で、2年後には775両1分の金を貯め込んでいた。2両の資本から始めて、よくも増やしたものだが、まだ千両には手が届かない。

 奥州街道に沿った大田原藩1万1000石の城下町・大田原に拠点をつくった彼は合薬だけでなく太物(木綿)も扱うようになって、上野の小泉村や結城の白河にも支店を設けた。1769(明和6)年、仙台に出店したころ、貯蓄は7468両2分に膨れ上がっていた。創業以来35年、ようやく長者番付の片隅に名前が載るようになった。

 木綿の採れない奥州に、関西の綿布を届け、さらに好まれる古手(古着)も運んでいった。そして奥州の生糸や紅花を買い付けて関西へ運んできた。これを産物廻しというが、現在の商社活動の原点は、この産物廻しにあった。さらに彼は奥州の生糸を大量に丹後の機業地へ売り捌こうというので”組合商内”を実行した。これは今でいう株式組織で、まず出資者を募った。中井源左衛門 出資 7500両、杉井九右衛門 出金 1000両、寺田善兵衛 出金 1000両、矢田新右衛門 出金 500両 合計1万両、これだけの資金を動かしての商内は滅多にあるものではない。しかし、奥州と丹後では距離が遠すぎるので中継基地をいくつかつくった。

 京都では川港のある伏見に店を置いた。京都市内に出店を置くと、京都の糸問屋仲間の妨害を受けやすいからだ。京・大坂の古着類を伏見に集め、綿、油、菜種などとともにこれを仙台に運んだ。そして仙台を拠点として奥州各地で売り捌いた。さらに豊富な資金を使って、奥州の生糸、青芋(う)、紅花、大豆、小豆、漆類を大量に買い集めて、関西へ荷をを引いてきた。こうして大量の生糸を丹後の機業地へ運び込んだばかりか、大商いをして、さらに商売を拡げていった。

  やがて、丹後店、伏見店を閉鎖して、京都に大型店を開いた。このころになると、金融業も営んで大名貸しにまで手を広げている。仙台に長男の二代目源三郎を派遣して支配人とし、京都店に三男を配し、本店は源左衛門自らが総轄していた江州店(ごうしゅうだな)といって、近江商人は各地の出店に店員を派遣するが、すべて当主の手元で読み書き算盤をみっちり仕込まれた同郷者に限られていた。番頭になると妻帯が許されるが、これもまた同郷人に限られていて、新婚の妻を近江に残して、夫は任地で商いに励むことになる。

 その代わり35歳ぐらいになると、別家して独立することができる。退職金が200両ほどもらえ、そのうえ積立金もあるので資金はたっぷりある。そこで郷里に田畑と家を買って小作人に耕作を任せて、旦那衆の仲間入りもできるとあって、悪事を働くような店員はほとんどいなかった。人一倍几帳面な性格の源左衛門は、各出店から届いた報告に基づいて、”店卸記”と”永代店卸勘定書”をきちんと記録して、一日も休むことなく業務に精励したという。商機とみると機敏に行動したが、決して人を騙したり、あくどい商いをしたことはなく、薄利で”牛の涎(よだれ)”のごとく、細く長く続く商いに徹した。

 その結果、1804(文化元)年、89歳の折、その資産は11万5375両1分になっていた。そして、翌年9月、90歳の天寿を全うした。数多い近江商人の中でも、彼ほど長寿を保ち巨富を積んだ者は他に例をみない。源左衛門の没後、二代目、三代目とよく初代の精神を守って業務に励んだので、中井家は近江商人を代表する名家となった。

 始末、才覚、算用、この三つは江戸期の商人の原理といっていい。才覚は今でいうアイデア、始末は無駄金を使わないこと、算用は経理で、すべて現代にも通用する商法の原理だ。近江商人は、無駄金は使わないが、道路や橋の建設にはよく金を出している。これはそうして交通が便利になれば、いずれ自分たちにも利益となると見越していたからだ。活きた金の出費は惜しまなかった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

本間四郎三郎 江戸中期、巨大な経済力で山形地方に君臨した豪商

 本間四郎三郎は江戸時代、巨大な経済力で山形地方に君臨していた豪商、豪農、本間家の中興の祖といわれる。天下第一の豪農として庄内藩14万石の領内において、藩主をはるかに凌ぐ24万石の大地主だったのだ。本間四郎三郎の生没年は1732(享保17)~1801年(寛政13年)。

 本間家の祖は寛永年間(1624~1644年)すでに商業を営み、酒田36人衆の一人として町政に参与し、元禄年間、海の商人として庄内地方や最上平野に産する米、藍、漆、晒臘(さらしろう)、紅花(べにばな)などを買い占め大坂に回漕し、帰り船に上方の精製品や古着などを積み込み、これを庄内地方で売りさばいたのが当たって巨利を得た。そして、その利益で酒田周辺の土地を買い上げ、「千町歩地主」と呼ばれる大地主にのしあがっていった。

 本間家三代目・四郎三郎が、父・庄五郎光寿の後、本間家を継いだのは1754年(宝暦4年)のことだ。彼は父の遺志を継いで酒田、西浜の防砂林の植林に取り組んだ。が、これは尋常な事業ではなかった。黒松の苗木は植えても植えても、厳しい風害を受け飛来する砂に埋没し、幾年もの間、根付き育つことはなかった。そこで、苗木を保護するための竹矢来を組むなど、吹き付ける砂嵐と、まさに格闘すること12年、ようやく延々30kmにも及ぶ防砂林の完成にこぎつけた。藩主は、それほどの難事業を成し遂げた四郎三郎の功を賞し町年寄を命じ、のち士分に取り立て小姓格となった。

 このほかにも、四郎三郎は庄内藩および山形地方に様々な事業を通じて地域貢献している。1768年(明和5年)、鶴岡、酒田両城の普請を成し遂げ、備荒備蓄米として藩庁に2万4000俵を献上、この米が1783(天明3)~1788年(天明8年)の大飢饉から藩士や領民を救った。また、焼失した庄内藩江戸藩邸の再建をはじめ、庄内藩の窮乏を救うため財政すべてを委ねられることになった。そのうえ、幕府から安倍川、富士川、大井川の改修工事を命ぜられ、その資金借り入れに大坂、兵庫の豪商たちを訪ね、協力を取り付けることに成功するなど、まさに八面六臂の活躍ぶりをみせた。

 こうした四郎三郎の経済手腕の鮮やかさをみて、藩主を通じて財政再建を委嘱する諸藩があとを絶たなかった。窮迫貧困ぶりを天下に知られた米沢藩もその一つで、上杉治憲(のちの鷹山)の要請に応えて、彼は米沢藩のため数回にわたって金穀を献貸している。このほか彼は、酒田港口に私費で灯台を建て、氷結する最上川の氷上に板を敷き、旅人の陥没を防ぐなど、病で職を辞するまで、36年にわたって公共のため激務に従事した。

 それだけに、庄内藩14万石・酒井家の財政は、酒田の大地主として名高い、この本間家を抜きにしては語れない。この時代、本間家は庄内藩の“金倉(かねぐら)”みたいなものだった。当初は新顔の町人だった本間家だが、1710年(宝永7年)、300両を献金し、1737年(元文2年)、領内の豪商のトップとなった。その子、四郎三郎の代には、1800余俵収穫の田地から一挙に規模を広げ、1万3900余俵収穫高の田地を有するようになったのだ。四郎三郎のケタ外れの才覚がうかがわれ、彼が本間家にあっても中興の祖といわれるゆえんだ。

 1990年、この本間家が筆頭株主だった商事会社、本間物産が倒産したと新聞で報じられた。時代の流れとはいえ、事業を担った人の精神は変わってしまったのかどうか分からないが、名門・本間家の表舞台からの退場は惜しまれる。 

(参考資料)神坂次郎「男 この言葉」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

白石正一郎 幕末、尊皇攘夷の志士たちを支援した下関のインテリ豪商

 白石正一郎は幕末、勢威を誇った下関の豪商で、当時のインテリだ。長州藩の志士はもちろんのこと、関門海峡を通過する志士らを分け隔てなく世話した、勤王党の志士らのシンパでもあった。土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。まさに新時代を築き上げる人材を、経済面で支援したスポンサー的存在だった。1863年(文久3年)、高杉晋作が結成した「奇兵隊」にも援助し、自身も次弟の白石廉作とともに入隊。正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられている。

 白石正一郎は長門国赤間関竹崎に回船問屋、小倉屋を営んでいた白石卯兵衛・艶子の長男(八代目)として生まれた。名は資風、通称は駒吉、熊之助。号は橘円。白石正一郎の生没年は1812(文化9)~1880年(明治13年)。小倉屋は米、たばこ、反物、酒、茶、塩、木材などを扱い、ほかに質屋を営み酒もつくった。もともと下関は西国交通の要衝だったため、長州藩など多くの藩から仕事を受けて、資金は豊富だった。

 正一郎は国学に深い関心を持ち、鈴木重胤(すずきしげたね)から国学を学び、尊王攘夷論の熱心な信奉者となった。43歳ころのことだ。そして重胤の門下生を通じ諸藩の志士とも親交が生まれた。薩摩藩の西郷隆盛も正一郎を訪ね親しくなり、小倉屋は1861年(文久元年)には薩摩藩の御用達となった。西郷は正一郎を「温和で清廉実直な人物」と書き記している。

正一郎は月照、平野国臣、真木和泉らとも親しく交流したが、それは尊皇攘夷の志に共感したためだ。長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助したほか、土佐藩を脱藩した坂本龍馬なども一時、白石邸に身を寄せていた。白石邸は、さながら志士たちに開かれた交流、集会の場だった。武士に限らず、公家も同様だった。都を追われた、明治天皇の叔父にあたる中山忠光や三条実美ら六卿もここに滞在した。六卿の一人、錦小路頼徳(にしきのこうじ よりのり)は下関に到着後、病に倒れ、この白石邸で息を引き取っている。

 白石邸は歴史の舞台ともなっている。1863年(文久3年)、藩命により下関を訪れた高杉晋作と白石正一郎の話し合いにより、この白石邸で「奇兵隊」が結成されたのだ。奇兵隊は結成以後、白石邸に寄宿していたが、すぐに隊員が増えて手狭になったため、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)へ屯所を移した。奇兵隊結成と同時に、正一郎自身も弟の廉作とともに入隊した。正一郎は奇兵隊の陰の力となって、惜しげもなく資金面で志士たちを支えた。そのため、晩年には豪商の身代も傾いてしまったほど。白石家は正一郎も、その弟の廉作も、伝七も皆、志ある人だった。日本初期の社会主義者で、革命直後のロシアで踪跡不明になった大庭呵公(かこう、景秋)は弟・伝七の子だ。

 明治維新後は、赤間神宮の二代目となった。赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木和泉の次男・真木菊四郎の墓が並んでいる。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商

 島井宗室(しまいそうしつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した博多の豪商、茶人で、大友宗麟と結び、金融・貿易で巨富を築き上げた人物だ。島井宗室の生没年は1539(天文8)~1615年(元和元年)。名は茂勝。通称は徳太夫。号は白軒、別号は瑞雲庵、虚白軒。

 島井宗室は博多で酒屋や金融業を営むかたわら、明や李氏朝鮮とも貿易に乗り出し、日本でも指折りの財を成した。宗室は、さらにその財力を背景に、九州の諸大名とも交渉を持つようになった。1573年(天正元年)、当時の博多の領有者、大友宗麟との取引を開始。同じころ、堺の茶人兼豪商、千宗易(利休)や天王寺屋道叱らと懇意になった。宗室は大友氏や対馬の宗氏らの軍資金を調達する代わりに、大友宗麟から様々な特権を得て、豪商としての地位を確立していった。

 大友氏が没落し、代わって島津氏が台頭してくると、大友氏寄りの宗室は自身の特権が島津氏に奪われることを危惧して、堺の千利休ら茶人としての親交ルートから織田信長に接近。その庇護のもとに活動することを企図した。信長には贔屓にされたが、本能寺で明智光秀に討たれ、彼の思惑は頓挫するかにみえた。が、今度は豊臣秀吉の保護を受けて畿内から博多、さらには対馬に至る輸送・交通路を築き上げた。これにより宗室は南蛮・朝鮮などとの貿易で栄華を極めることになった。

 宗室は、秀吉の九州征伐にも随分頼りにされ協力した。このとき博多復興に尽力した功績によって、彼は免税の特典を受けている。天下統一後、秀吉が行った朝鮮出兵には彼の合理主義的感覚から「この戦争はそろばんに合わない」と判断。賛成しなかったため、秀吉の怒りを買って、蟄居を命じられた。さすがに宗室もその後は柔軟な対応に転じたのか、後に許されてからは五奉行の一人、石田三成と協力して日本軍の後方兵站役を務める一方、明との和平の裏工作を行っている。 秀吉没後、関ヶ原の合戦後、博多が黒田氏の支配下に入ると、黒田長政の福岡城築城などに協力している。

 宗室が養嗣子に残した、遺訓17カ条は町人訓として知られている。

 当時の博多では多くの豪商がひしめいていたが、とくに島井宗室は神谷宗湛(かみやそうたん)、大賀宗九とともに「博多の三傑」と称された。ただ、島井宗室と神谷宗湛は秀吉に取り立てられた商人で、大賀宗九は黒田氏に取り立てられた商人であり、少し事情や色合いが違う。島井宗室と神谷宗湛とは親族間にあたる。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人」

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

竹川竹斎 勝海舟と小栗忠順の政治顧問を務めた伊勢射和の豪商

 竹川竹斎は、伊勢射和(いせいざわ)に拠点を持っていた由緒ある伊勢の豪商だ。竹斎は相当変わった人物で、国学、測量学、また農事や土木の方法まで学ぶなど、学問に造詣が深かった。しかも、学んだだけでなく竹斎はこれを地域で実行した。そして、何より驚かされるのは、竹斎は商人でありながら、幕末、「海防護国論」と題した意見書を提出。勝海舟と小栗上野介という幕府首脳部にあって、相対立する二人の実力者の政治顧問=黒幕的存在だったことだ。

 竹川竹斎は、伊勢国(現在の三重県)飯野郡射和村で父・竹川政信、母・菅子の長男として生まれた。幼名は馬之助、元服(1823年)して新兵衛政肝と改め、隠居(1854年)して竹斎と号した。父は文化人で、母は山田の国学者、荒木田久老の娘。竹斎の生没年は1809(文化6)~1882年(明治15年)。

 竹川家は幕府御為替御用を務め、当時、三井家と肩を並べるほどの豪商で、本家の竹川と、新宅の竹川と、東の竹川という三つの流れがあった。竹斎は東・竹川家の七代目だ。本拠は伊勢に置いてあったが、江戸で両替商を営む金融業だった。

 竹斎は国学を荒木田久守や竹村良臣(よしおみ)に学び、農事や土木の方法を、この方面の権威だった佐藤信淵(のぶひろ)に、そして天文地理の測量学を奥村喜三郎などに学んだ。また、多くの経世家や文化人と接し、知識を深めた。だが、彼が単に知識欲が旺盛だったわけではない。学んだことを地域で実行した。地域住民の多くを参加させ、近江の水利をはかるための灌漑工事を行った。もちろん、工事の費用は全部自分が出した。それによって、地域住民の意識を高めようとしたのだ。また、彼は当時1万巻といわれた蔵書、自分の持っている本を全部放出し、「射和文庫」をつくった。

 竹斎は「地域が富むためには、産業を興さなければならない。それには地域の特産品をつくって、他国に売り出すことだ」と唱えた。そのため、彼は「万古焼(ばんこやき)」を復活させた。「射和万古」と名付けた陶器を次々と生産させた。こうして、彼は伊勢射和の地域振興に尽くした。

 ただ、竹斎は地域だけではなく、幕末の日本全体を見ていた。ペリー来航後、当時の老中首座・阿部正弘は開明的な政治家で、情報公開と身分を問わず、様々な意見を求めるとの方針を打ち出し、国政参加への回路を開いた。これに応じて竹斎が提出した意見書が「海防護国論」だった。この意見書は、題名からくる印象とは違って、積極的な開国策だった。彼は後に、誰よりも先駆けて、日本に鉄道を敷設すべきだとか、北海道の開拓が急務だなどと唱えるが、学問の蓄積が彼の目を研ぎ澄まさせたのだ。

 竹斎の海防護国論にひどく感動したのが、勝海舟と大久保忠寛(一翁)だった。勝はとくに竹斎に惚れ込んでしまった。以後、勝は折に触れて様々な問題について、竹斎に相談し、アドバイスを受けたという。勝自身、明治になってから何でも自分ひとりで考え出したようなことを言っているため、一般的に、勝は相当な自信家のイメージが強いが、必ずしもそうではない。彼には、この竹川竹斎という政治顧問=黒幕がいたのだ。

 竹川竹斎は実は、海舟の青年時代からの支援者だった北海道の商人、渋田利右衛門が自分に万一のことがあったらといって、海舟に浜口梧陵、嘉納治右衛門(柔道・講道館の開祖、治五郎の親)らとともに紹介した人物の一人だ。このことは、海舟自身が『氷川清話』に書いていることだ。

 そして、驚くことに竹斎が黒幕的な役割を務めたのは、勝海舟に留まらなかった。竹斎は明治維新前後、勝と鋭く対立した勘定奉行・小栗上野介忠順の黒幕でもあったという。小栗は開明的な能吏だが、徳川幕府を立て直し、戦艦、武器・弾薬など軍備のうえからは、新政府軍とはまだ十分勝負になると判断。最後まで徹底抗戦を唱えていた。そのため小栗は、最終的に朝敵になることを怖れ、不戦=恭順派に傾いていた最後の将軍、徳川慶喜に嫌われて、江戸城内で職を罷免されてしまった人物だ。小栗上野介とは、新政府軍にとって、それほどに要注意人物だったのだ。竹斎は、そんな人物の政治顧問でもあった。

 竹斎が亡くなったとき、勝は墓前に「世のことを 望みなき身の心しりて友のすくなく成るぞわびしき」の句を捧げている。

(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、勝海舟 勝部真長編「氷川清話付 勝海舟伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

灰屋紹益 島原の名妓・吉野太夫を妻に娶った京都の知識人・豪商

 灰屋紹益(はいやじょうえき)は江戸時代前期の京都の豪商だが、和歌・俳諧・蹴鞠・茶の湯・書などを当時の一流の人物から学んだ知識人でもあった。遊里・島原の名妓、吉野太夫を、関白・近衛信尋(のぶひろ)と争って身請けし、妻とした話はあまりにも有名だ。灰屋紹益の生没年は1610(慶長15)~1691年(元禄4年)。

 灰屋紹益は本名・佐野重孝、別名は承益、又三郎、通称は三郎左衛門。佐野家は本阿弥光悦の縁故の生まれだ。灰屋は屋号。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子となった。薬品のない時代、染めには灰が用いられた。紺染めに用いる灰を扱うため“灰屋”と号したというわけだ。この紺灰業を営み、灰屋紹益は巨万の富を築き、京の上層町衆を代表する豪商だった。

 当主・灰屋紹由の跡継ぎに見込まれて養子となったはずの紹益だったが、彼は商売よりも風雅を愛し、商売そっちのけで和歌、茶道、書道などに凝った。それも単なる遊びで楽しんだわけではなかった。和歌を烏丸光広、俳諧を松永貞徳、蹴鞠を飛鳥井雅章、茶の湯を千道安、書を本阿弥光悦、という具合に当時一流の人物から本格的に学ぶという徹底ぶりで、商人ながら、名の知られた知識人でもあった。

このため、交流のあった人物も幅広い。風雅・文化人はもとより、後水尾天皇、八条宮智忠親王らとも交わったという。そのため、一般庶民の間でも知られていた、井原西鶴の『好色一代男』の主人公、世之介のモデルともいわれているほどだ。

 中でも文筆に優れ、随筆『にぎはひ草』は風流人としての紹益の思想をよく表しており、近世初期の随筆文学の名著との指摘もある。また、紹益がこよなく愛したのが女性だ。彼は最初の妻と死別後、遊里・島原の名妓、吉野太夫を関白・近衛信尋(後水尾天皇の実弟)と争って身請けし、妻としたのだ。1631年(寛永8年)、紹益22歳、吉野太夫26歳のときのことで、4歳年上の女房だった。当初、父・紹由は、遊里の女を身請けするに及んで、紹益に愛想をつかして一時は勘当したほどだ。その後、吉野太夫の人となりを知って紹益の勘当を許した。

 人気の吉野大夫を妻に娶った嬉しさを詠んだ紹益の句がある。

 「ここでさへ さぞな吉野の 花ざかり」

 恋い焦がれて妻に迎えた吉野太夫だったが、美人薄命。吉野大夫は36~38歳ごろ病死してしまう。紹益にとっては身を裂かれるほどの悲しみだったろう。

 「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」

と詠んで、吉野太夫を偲んでいる。

 それだけではない。実は凄まじい話が残されている。紹益は吉野を荼毘に付した後、その遺灰を壺の中に残らず納めた。そして、その遺灰を毎日少しずつ酒盃の中に入れて、吉野を偲びながら全部飲んでしまったというのだ。

 現在、京都市北区鷹ヶ峰の常照寺には紹益、吉野(大夫)二人の墓がある。

 

(参考資料)松崎哲久「名歌で読む日本の歴史」、「朝日日本歴史人物事典」

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

加島屋 幕末まで「大名貸し」で、維新後は大同生命再建に心血注ぐ

 江戸時代、加島屋は鴻池と肩を並べる大阪の豪商だった。初代・広岡久右衛門正教が大阪で精米業を始めたのが1625年。徳川三代将軍家光がその職に就いて間もないころのことだ。後に両替商を営むと屋号に「加島屋」を掲げた。四代当主・正喜は1730年に発足した世界初の先物取引所「堂島米会所」で要職を務め、業容を拡大した。八代将軍吉宗、九代将軍家重のころの時代だ。 

 1829年(文政12年)の「浪花持丸長者鑑」をみると、東の大関に鴻池善右衛門、西の大関は加島屋久右衛門とある。そして1848年(弘化5年)の「日本持丸長者集」によると、東の大関は鴻池善右衛門、西の大関はやはり加島屋久右衛門となっている。加島屋は鴻池と同様、引き続き隆盛を誇っていたのだ。徳川十一代家斉のころ、さらには十二代家慶、そして十三代家定のころもまさに指折りの大阪の豪商だった。

 時代は一気に下るが、その系譜を受け継ぐのが大同生命保険だ。九代当主・正秋は生保3社の合併を主導し、1902年に大同生命を発足させ初代社長に就いた。加島屋と大同生命は常に時代の最先端を歩んできた。

 豪商「淀屋」の例をみるまでもなく、商人の世界は、とりわけ浮き沈みが激しい。中でもこの加島屋の場合「七転び八起き」をはるかに上回る、さながら”九転び十起き”ともいえる激しさだったろう。こんな中、一貫して同家を率いた当主には、不撓(ふとう)不屈の精神と、挑戦のDNAが脈々と流れていた。

 幕末の1865年時点で全国に266の藩が存在していた。加島屋はそのうち、実に約100藩と取引があり、年貢米や特産品を担保にした融資「大名貸し」は総額900万両(現在の4500億円相当)に及んだ。幕末ならではの逸話として、1867年には新選組にも400両を貸し付け、借金の証文には近藤勇と土方歳三が署名していたという。

 だが、明治維新で不幸にもこれらの大名貸しの大半が回収不能となった。そこへ救世主ともいうべき人が現れる。三井一族から加島屋の分家に嫁いだ広岡浅子という女性だ。夫の広岡信五郎は正秋の実兄で、分家の養子に出されていた。まだ若かった本家の正秋に代わり、浅子が陣頭指揮に立った。

 男顔負けの太っ腹で、持参金をはたき、米蔵を売却、焦げ付いた大名貸しに対する明治政府の補償も注ぎ込んで、福岡県の潤野炭鉱を買収した。荒くれ者が多かったであろう炭鉱労働者が働かない時は、拳銃持参で鉱山に乗り込み、直談判で血路を開いたという。

 やがて、勢いを取り戻した加島屋は銀行業や紡績業に進出する。信五郎は1889年発足の尼崎紡績(現ユニチカ)で初代社長を務めた。

 正秋は1899年、真宗生命の経営を引き受ける。浄土真宗の門徒を対象にした生保だったが、経営に失敗し、門徒総代格だった広岡家が再建を託されたのだ。正秋は朝日生命保険(現在の朝日生命保険とは別)と改称し、本社を名古屋から京都に移したが、契約獲得競争は激烈で、経営はいぜんとして厳しかった。

 そこで、また登場するのが浅子だ。彼女は同業の北海生命保険、護国生命保険と合併するシナリオを描き、1902年7月に大同生命が誕生する。同年3月15日付の合併契約書では「東洋生命」だったのを改め、「小異を捨てて大同につく」姿勢を合併新会社の社名に込めたのだ。

 大事を成し遂げたからといっても、その功績にあぐらをかいて居座るような考えは、浅子には微塵もなかった。その後、娘婿の広岡恵三に後事を託すと浅子は実業界から身を引き、日本女子大学の設立に情熱を傾けた。

 1909年に大同生命の二代目社長となった恵三は、33年間にわたって会社を率いた。この間、堅実経営を貫き、外務員の教育に務めた。

 正秋の女婿で十代当主を継いだ正直が1942年に大同生命三代目社長に就任すると、装いを新たにする。正直は米国で金融の実務を経験した国際派だった。1947年、大同生命は相互会社に転じた。これまでの加島屋が営む会社から、保険契約者がオーナーの会社に移行したのだ。

 1971年には「第2の創業」を果たす。貯蓄性のある養老保険・終身保険主体から、安い保険料で中小企業経営者に高額の保障を提供する定期保険主体へと舵を切った。保障が最高1億円の「経営者大型総合保障制度」は発売から2年足らずで契約4万7841件、保険金額5102億8700万円に達した。そして2002年には他社に先駆けて株式会社に転換した。

 明治以降の、かつての豪商の系譜を継ぐ加島屋の歴史は、大同生命の再建・再生の歴史だった。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」、日本経済新聞・「200年企業-成長と持続の条件」

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅

淀屋常安 全国一の豪商も子孫の驕りが招いた“闕所”で消滅
 武家社会、商人にとって何よりも恐ろしいのは“闕所(けっしょ)”だった。商人が闕所になると、資財はすべて没収され、家屋敷も召し上げられて、それこそ裸になって住居を追われなくてはならない。江戸時代前期の浪花商人の代表が淀屋であり、その闕所になった豪商の筆頭が淀屋だ。淀屋といえば世に名高いのが淀屋辰五郎だが、正確にいえば淀屋の家系図に辰五郎という人物はない。したがって、一般的に通り名となっている辰五郎は俗称ということになる。
 現在、大阪市役所のある御堂筋の少し南に淀屋橋が架かっているが、これこそ淀屋を記念したもので、常安町の地名もまた淀屋常安からきている。このように町名や橋の名になって淀屋の名が残っているのは、現在の中之島をつくり、大阪の中心部を砂州から陸地として開墾したのがこの淀屋だからだ。
淀屋の屋敷は表は北浜に、裏は梶木町(現在の北浜四丁目)に及び、東は心斎橋、西は御堂筋に至るという広大な地域を占めていて、敷地にしておよそ2万坪を所有していたという。そこに百間四方の店を構えていたというから、すごいスケールだ。 
 淀屋のルーツは山城国で岡本姓を名乗る武士の出身だった。豊臣秀吉の世になって大坂に移り住んだ。十三人町(大川町)に居を定めた常安は、淀屋と称して材木を商っていた。大坂冬の陣に際して、時代の趨勢を読む先見の明があったからだろうか、常安は関東方に味方、積極的に協力した。その褒美として徳川家康は、常安に八幡の山林地三百石と朱印を与えた。そのうえ帯刀を許され、干鰯(ほしか)の運上銀をもらえることになった。
また彼は大坂冬夏の陣で、各所に散乱している死体を片付けて鎧、兜、刀剣、馬具などの処分を任せてもらった。この戦場整理で、彼は巨富をつかんだ。徳川方に賭けた彼の狙いは見事に的中して、多くの権益と利益を得たばかりか、戦後の大坂で大きな発言権を持った。彼は全国の標準になるような米相場を建てたいと願い出て許された。功労者淀屋常安の願い出でなかったら、あるいは許されなかったかもしれない。こうして諸国から集まってくる米は、常安の邸で品質、数量に従って相場を建てられることになった。それはいわば全国の米を一手に握ったようなもので、彼は莫大な利益を得た。
彼には三男二女があった。淀屋の系図でみると、長女が婿養子をもらっている。この養子を長男としていたので、実子の三郎右衛門が次男ということになっている。この言堂三郎右衛門が古庵と号し、淀屋橋屋の祖となった。ただ代々、三郎右衛門と称し、古庵と号したといわれ、まぎらわしい。二代目は父が築いた財産と稼業を基礎として、さらに富を増やしていった。元和8年に魚市場、慶安4年に青物市場をそれぞれ支配下に治め、三大市場を一手に握った。こうして二代目は日本一の富商となった。
二代目には実子がなく、そこで弟五郎右衛門の長男、箇斎を養嗣子として迎え、三代目三郎右衛門を名乗り、淀屋の身代と事業を継いだ。ただ、この三代目にはさしたる業績は伝わっていない。箇斎の子、重当が四代目だ。ここまでは父祖の業務と身代を何とか無事に守ってきたが、重当の子の五代目三郎右衛門の時に、あまりに驕奢(きょうしゃ)が過ぎるというので、お上のお咎めを受けて遂に闕所になってしまった。
それは宝永元年(1704)2月、財政に行き詰まった幕府が発した質素倹約令に反するというものだった。初代常安の時代は、徳川将軍とあんなに親密だったのに、五代目ともなると全く疎遠になっていた。と同時に淀屋が大坂商人本来の律義さと節約の精神を忘れ、あたかも大名にでもなったかのように驕り高ぶっていたことに天罰が下されたともいえよう。
初代なら集めた富の魅力を、一人でこっそり楽しんだだけで、世間に見せびらかすようなバカな真似はしなかっただろう。淀屋の闕所によって淀屋からカネを借りていた諸大名は借金棒引きとなり、助かったことはいうまでもない。また、この結果、淀屋の莫大な財産はこれを没収した幕府の所有物となった。だから、淀屋の闕所はそれが狙いだったともいえる。

(参考資料)邦光史郎「日本の三大商人」

 

 

 

 

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」

銭屋五兵衛「『海に国境はない』を実践、海の百万石を実現した海商」
 文化6年(1809)6月、加賀藩主前田斉広が招いた学者、本多利明は「経世済民」論を説く中で「海に国境はない」と明言した。この言葉は、39歳から廻船業に乗り出した銭屋五兵衛が持ち前の決断力と実行力で、次第に海運界で頭角を現し、その全盛期には藩の枠を越え、国を越えた貿易に乗り出す際、常に意識していたことだった。
 本多の論旨はこうだ。経済という言葉は元々「経世済民」の四文字から取られたもの。経世済民というのは、世を整え民を救うという意味だ。換言すれば仁政を施し、困窮農民を救うということだ。そのためには日本の各地域でできる産物を、地域同士で交換する必要がある。それには陸、海を含め交通が滑らかでなければならない。
ところが、現実は二百数十の国々(藩)があり、境を設けている。海はさらにひどい。国を閉じている(鎖国)ため港に外国の船が入ることができないし、日本の船が外国に行くこともできない。しかし本来、海に国境はない。日本の土地には限りがある。日本に住む万民の需要を日本の産物だけで満たそうとしても無理だ。やはり外国から産物を輸入しなければならない。日本もこの際、思い切って大船をつくり外国と交易を始めるべきだ。
 本多の「経世済民」論に深い感銘を受けた五兵衛は、加賀藩執政奥村栄実と交流を重ねて得た前田家御手船鑑札を武器に、業容を飛躍的に拡大。前田家から年々強いられる金銀調達(=損失)をはるかに上回る利益を得た。江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前、松前、箱館などに大規模な支店を置き、津軽の鯵ヶ沢、田名部、伊豆の下田、戸田、越後柏崎、越前三国の要地に出張所、代理店を設け、その数34カ所に上った。嘉永4年(1851)ごろ、五兵衛の持ち船は千石船クラスの船が10艘、五百石以上が11艘など大小合わせて200艘を超えたという。
 全国の取引先は当時の豪商を網羅していた。江戸の松屋伝四郎、京都の太物問屋近江屋仁兵衛、万屋林兵衛、大坂北堀江の加賀屋林兵衛、安達町の炭屋安兵衛、兵庫の北風荘右衛門、青森の山本理右衛門、越前武生の金剛屋次郎兵衛、越中伏木の堀田善右衛門、越後柏崎の牧口家、酒田の本間家などだ。
彼は西廻り航路、東廻り航路のいずれも利用し、藩際貿易により巨利を得た。蝦夷地の海産物を江戸、大坂へ運送。幕末には江差3000軒といわれる商家のうち、1500軒は加賀衆だった。蝦夷随一の豪商村山伝兵衛も能登出身だ。彼の蝦夷地における商品仕入れが順調に行われたのは、現地加賀衆の協力が得られたためだった。全国諸藩の商人たちは、加賀百万石の前田家御手船鑑札を見ると五兵衛を信用し、どのような信用貸しにも応じるというわけだ。
加賀百万石の藩船を駆使しての信用力を背景に、幅広く海外と密貿易していたとの例証がある。オランダ語などを話せ、絵画、彫刻、算数、暦学、砲術、馬術、柔術なども究めたという通称大野弁吉とめぐり合い、伝承を含めて記すと、五兵衛は朝鮮東方近海の竹島(鬱陵島)でアメリカ捕鯨船と交易。樺太へも進出し、山丹人を相手に家具類を売り、現地の産物を仕入れ、大坂で売却していたという。
またロシア沿海州の港へ米を運送し、毎年2万石を売却していた。この事実は五兵衛の死後、嘉永6年(1853)に長崎へ入港したロシア使節プチャーチンにより日本側にもたらされた。勝海舟も「銭五(銭屋五兵衛)の密貿易なんていうことは、徳川幕府ではとっくに分かっていたけれども、見逃していたのだ」と言っている。
このほか、五兵衛は豪州南部のタスマニア島に足跡を印していたという話もある。海外に限らず、藩を越えての交易としては薩摩藩領近海での例がある。五兵衛の持ち船が、薩摩南西端の坊津湊へ風待ちのためしばしば入津したことは、現地でもよく知られていることだという。坊津は薩摩藩島津家が密貿易に利用した湊だ。
巨万の富を得た銭屋も奈落に落とされる時がくる。79歳の五兵衛が晩年、子孫の繁栄を願って試みる最後の大事業、河北潟干拓工事で投毒容疑をかけられ、逮捕されてしまう。そして藩の手で、巨大な財産は全部没収された。そのうえ五兵衛は執拗な拷問の果てに、嘉永5年(1852)80歳で牢死し、息子の要蔵は磔になる。銭屋は徹底的な弾圧を受けたわけだ。
 銭屋の先祖は武士だった。小岩を姓とし、前田利家の家来で舟岡山城主高畠石見守定吉に仕えていたが、善兵衛の代に関ケ原の合戦後、帰農して能美郡山上郷清水村に住んだ。善兵衛の子吉右衛門のときに金沢に移住し、さらに寛文年間に宮腰に引っ越して質屋と両替商を始め、それまでの清水姓を捨て、銭屋を称するようになった。それから徳兵衛、市兵衛、三右衛門、五兵衛…と続く。この五兵衛は、ここで取り上げた五兵衛の祖父である。

(参考資料)南原幹雄「銭五の海」、津本陽「波上の館 加賀の豪商・銭屋五兵衛の生涯」、童門冬二「海の街道」、同「江戸の賄賂」、日本史探訪/「銭屋五兵衛 獄死した豪商の雄大な夢」、安部龍太郎「血の日本史 銭屋丸難破」、邦光史郎「物語 海の日本史」

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 

三野村利左衛門 明治動乱期、三井財閥草創期の舵取りを担った大番頭 
 三野村利左衛門は幕末から明治の初期の激動期、天下の富豪が相次いで倒れていく中、三井家を襲った幾多の窮地を救った大番頭で、影の功労者だ。
 利八と名乗った彼の前半生は霧に包まれている。生地は信濃(長野県)または出羽(山形県)ともいう。いやそうではなく、出羽の浪人を父に、江戸で生まれたとの説もある。だが、いずれも確証はない。両親とも死別し、天涯孤独となった利八が、放浪無頼の生活を続けた後、江戸へやってきたのが天保10年(1839)、19歳の時のことだ。深川の干鰯問屋、丸屋に住み込み奉公。後にその才覚を認められ旗本、小栗家の雇い中間に召し抱えられた。小栗家は先祖が徳川家の縁筋に当たる名家で、禄高は2500石、利八が奉公した頃の当主は小栗忠高だった。この跡を継いだのが、その子・小栗上野介忠順で、後に勘定奉行として名を馳せた人物だ。
 神田三河町の油、砂糖問屋、紀ノ国屋の入婿となり、娘なかと結婚した。利八25歳、なか19歳だった。義父の死に伴い彼は美野川利八を襲名し、紀ノ国屋の財を足がかりに、小銭両替商を開業。これが江戸における筆頭両替商、三井両替店に出入りするきっかけとなる
 当時、ペリーの黒船来航で日本は大きく揺れ動き、豪商三井家も再三にわたり幕府から巨額の御用金を申し付けられ、破産の危機に直面していた。これを拒否すれば、そのしっぺ返しに幕府は三井家に「闕所」(けっしょ=財産没収)を言い渡すことは間違いない。頭を抱えた三井家では減額を嘆願することにした。このとき浮かび上がったのが、出入りの脇両替屋の利八だった。小栗家で信頼をうけている彼なら…と望みを託したのだ。こうして勘定奉行、小栗説得を任された大役だったが、結果は大成功。利八は三井家への御用金は免除、そのうえ幕府が江戸市中への金融緩和政策として行っている、貸付金の取り扱い業務「江戸勘定所貸付金御用」まで貰ってきたのだ。
 こうして三井家重役の絶大な信頼を得た利八は三井家当主、三井八郎右衛門高福に対面を許され、三井家の「三」、紀ノ国屋美野川利八の美野川の「野」、亡き父の養子先の木村の「村」を取り、」「三野村」を名乗り、破格の待遇で三井入りする。利八46歳のことだ。以来、利八は三井両替店の番頭(通勤支配格)として幕末維新の金融争乱の真っ只中を奔走する。
 三野村は、明治新政府の中心は薩長にあるとにらんで、長州の要人に接近、井上馨と組んで新政府の税収や公金の取り扱いの代行を引き受けた。江戸改め東京に日本初の洋風建築を試みて、5階建ての三井組バンクをつくったのも彼の才覚だった。三井越後屋の分離(三越の創立)と、銀行業への進出が実行された。この頃になると、三井の総指揮は三井家当主を頭に戴いた三野村利左衛門に任され、彼は大番頭となった。彼は明治の動乱期の大波に揺れる三井丸のパイロット役を果たしたばかりか、資本主義経済の世の中へ向かって、三井家の針路を決める大事な役目を果たし、三井銀行、三井物産の創設に関わった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、三好徹「政商伝」、大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、小島直記「福沢山脈」

 

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商

角倉了以 高瀬川など日本の水運に力を尽くした京の豪商
 京都市を北から南へ流れる鴨川。これと平行に、その少し西を走る細い1本の運河がある。森鷗外の「高瀬舟」で知られる高瀬川だ。今は高瀬舟の影もないが、鷗外が記したこの高瀬川は370年の昔、河川開鑿に賭けた一人の京都の大商人によって造られた。角倉了以だ。彼は戦国末期から江戸初期に生きた大事業家だが、大堰川(桂川)、富士川、天竜川など、とくに日本の水運に力を尽くした人だ。
 角倉家はもともと吉田姓をとなえ、室町幕府に医師として仕えていた。この一族が発展する貨幣経済の先端、土倉(一種の金融業)として巨大になるのは、了以の祖父、宗忠の代である。角倉家には二つのはっきりした異質の血が流れている。一つは医者としての、もう一つは代々、土倉業を行ってきた商人としての血だ。医師としての家系は、了以の弟、宗恂に伝えられ、彼は医術をもって徳川家康から禄を受けている。了以は実業家、企業家としての血が、非常に色濃く流れていた
 了以が京都の高瀬川を開き「高瀬舟」を走らせるのには、実は他で見た情景がヒントになっており、彼のオリジナルではない。彼が交易品の調達のため倉敷を訪れその際、親戚を伴って岡山に遊びに行った。陽気のいい時期だったので、親戚は彼を近くの高梁川の水遊びに誘った。そこで彼は乗った船の脇を底の浅い船がしきりに行き交いするのを見た。それが、海や平野部の品物を山に運び、山から山の産品を積み下ろしてくる「高瀬舟」だと知る。これが彼に転機を与えた。
 二条で樋口を設け鴨川の水を取り、九条で鴨川を横切り、伏見で淀川に接するという大工事を数期に分けて、“高瀬川開鑿プロジェクト”を計画した。全長10㌔、川幅8㍍、舟入れ9カ所、舟回敷2カ所、工費7万5000両という大工事が完成したのは、慶長19年秋である。この完成によって、大坂から伏見まで三十石船で運ばれた物資は、伏見で高瀬舟に積み替えられ、京の市中に運ばれた。この運河ができたことにより、京都の経済はこれまで以上に潤うことになった。
 上りの高瀬舟を引く綱引きのホイホイという掛け声が、明治の頃まで両岸数㌔にわたり聞こえた。その高瀬舟159艘。運賃は1回2貫500文。うち1貫文は幕府に、250文は船加工代に、残り1貫250文が角倉家に入った。この開通により京の物価が下がったという。
 角倉了以の仕事の特色は公共性の強い土木や海運、異国交易、河川の開鑿だ。そのうえ了以の性格もあって、自ら陣頭に立って仕事の指揮をした。ただ、ここで忘れてはならないのが、息子の角倉与一(素庵と号す)の存在だ。了以と素庵との仲は、年が17歳しか離れていないこともあって、半ば兄弟のような関係だった。家業の中での役割分担で一番重要なことは、幕府との折衝だった。朱印状や河川開鑿許可など外交的な折衝はすべて素庵の仕事だった。だから了以がやった偉大な事業のほとんどが、この親子の共同事業といっていい。
 了以は宇治・琵琶湖間の疎水計画を幕府に願い出た。これは琵琶湖・宇治川間に運河を引くだけでなく、これにより琵琶湖の水位を下げ、6万石ないし20万石の上田を作るという雄大な計画だった。家康も承諾したが、彼はそれを知ることなく、慶長19年(1614)7月12日、世を去った。

(参考資料)日本史探訪/江戸期の豪商「角倉了以 高瀬川を開いた京の豪商」(辻邦生・原田伴彦)、童門冬二「江戸のビジネス感覚」、童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」、邦光史郎「物語 海の日本史 角倉了以・素庵父子」

浅野総一郎・・・並外れた体力で、廃物利用に目をつけたセメント王

 浅野総一郎は、自ら創設した株式会社の数は浅野セメント(後の日本セメント)はじめ30数社に上り、いまなお設立した会社の数において、わが国最多記録保持者の地位を維持している。
 総一郎は1848年(嘉永元年)、富山県氷見郡(現在の氷見市)で町医者の長男として生まれた。成人して後、事業に手を出し、失敗して養子先を離縁され、明治4年、24歳で借金取りに追われるように京都、次いで東京に出奔した。以後、大熊良三の偽名を使い債鬼の眼を逃れつつ、廃物利用産業に狙いを定め、遂にセメント王と称されるようになった。巨財を掌中にしてから畢生の大モニュメント「紫雲閣」を東京・港区の田町に築いた。巨富を手にしてからも質素、倹約の生活に徹し、好物は汁粉とうどんだけ。晩年も夫婦揃ってセメント工場内に職工たちが履き捨てた下駄を拾い集め、再生利用したといわれる。

 総一郎が手掛けた数多い事業の主柱は、何といってもセメントだ。その頃、セメントは煉瓦と煉瓦をくっつける接着剤程度にしか使われていなかったが、彼はセメントそのものが建築材料として大量に使われる日がくるし、そうあらねばならぬと主張。国の財産を保護するためにも、セメント製造を見限ってはならぬと説いた。

彼が渋沢栄一の引き立てをバックにして、官営セメント工場の払い下げを受け、後年の「セメント王」への端緒をつかんだのは、明治16年、36歳の時だった。この頃の総一郎は、朝は5時からセメント工場に入り、夜は12時過ぎまで。製造も販売もやった。一日、職工たちと一緒にセメントの粉にまみれて働いてから、夜は王子製紙の支配人について簿記を習い、夜更けまでかかって一切の記帳を自分でやった。さらに午前2時にまた起き、カンテラを提げて工場内を見回った。

従業員の気持ちをも引き締めた。出勤時間に背いた者は、懲罰の意味で黒板に名を書き出した。事務員には会計も購買も製品の受け渡しもやらせる。製造係に販売もやらせるといったふうに、一人二役にも三役にも働かせたが、その半面、従業員優遇法として社内預金による積立金制度を設けたりした。

 一日4時間以上寝ると、人間バカになる。20時間は労働すべきだと総一郎は考えていた。そんな彼がとうとう血を吐いた。そこで医師はかれに「あなたは命と金とどちらが欲しいのですか?」と詰め寄った。彼は平然と「命も金も両方とも欲しい」と答えた。医者は苦笑してサジを投げた。
 妻のサクも総一郎に負けず頑張った。彼女は総一郎が竹皮屋を始めた頃、布団を借りていた貸し布団屋の女中だった。総一郎は早朝から夜更けまでのなりふり構わぬ彼女の働き振りに惚れて結婚した。彼女は4人の子持ちになっても、なお工場に出て総一郎を助けた。当時のセメント工場は床土が焼けてくるため、職工たちは下駄を履いて仕事していたが、鼻緒でも切れると、すぐセメントの山の中に捨ててしまう。彼女はそのセメントの中から下駄を拾い、きれいに洗って鼻緒をすげ直し、また職工たちに履かせたという。

 総一郎が「セメント王」になった秘密は、廃物に目をつけた商才にあるが、いまひとつ忘れてはならないのが、並外れた体力だ。60歳を超えても体力はいささかの衰えもみせず、若い頃からの習慣である早朝4時起床、入浴、訪問客との商談、そしてオートミールと味噌汁の朝食を済ませると、6時には飛び出していくという日課を変えなかった。しかも60、70歳になっても性力が旺盛だった。好みの女を見つけると、即座に手を握って離さない。顔の方はどうでもよく、ただ太った女でさえあれば、目の色が変わってしまうくらいだった-との旧側近の懐古談があるほど。まさに絶倫男だったのだ。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

伊藤忠兵衛・・・現在の伊藤忠商事・丸紅の前身をつくった近江商人

“足で稼ぐ”をモットーとする近江商人の家に生まれた伊藤忠兵衛(当時栄吉)は、11歳から行商に出され、麻絹布の「出張卸販売」で成功。明治5年、29歳で大阪に呉服反物店・紅忠(現在の「伊藤忠商事」・「丸紅」の前身)を開店。晩年は海外進出にも力を注いだ。生没年は1842(天保13年)~1903年(明治36年)。

 近江国犬上郡豊郷村の呉服太物を商う紅長こと五代目伊藤長兵衛家に1842年(天保13年)、二人目の男児が出生。後の忠兵衛、当時の栄吉だ。紅長は店売りもしたが、近隣各地へ盛んに行商に出かけていった。栄吉も11歳になったとき、兄・万治郎のお供をして商いに行かされた。父は、次男の栄吉はいずれ家を出て独立するのだから、早くから商いに慣れた方がいいと判断したのだ。

兄の万治郎は持っていった荷を楽々と売りさばいたので、栄吉はこれくらい自分ひとりでもできると軽く考え、次は一人で行商に行ったが、ほとんど売れなかった。商売は難しいことを痛感する。難しさが分かってこそ本物の修業が始まる。

 1858年(安政5年)、15歳になった栄吉は名を忠兵衛と改め、いよいよ持ち下り商いに乗り出した。彼は麻布50両分を伯父の成宮武兵衛から出してもらい、最初なので伯父に連れられて豊郷村を後にした。荷持ち2人を連れ船で大津へ、そして京都伏見から大阪へ。八軒屋に着いて、常宿にしている問屋で荷を開いて客を待ったが、折からの激しい雨で買い手が一向に姿を見せなかったので、やむなく和泉から和歌山へと足を延ばして、ようやく57両の売り上げを得た。純益は7両だったが、初商売としてはまずまずだった。

 これに気を良くした忠兵衛は、伯父に頼んで次は山陽山陰と西国の旅に出かけた。そして、下関で紅毛人との交易で賑わう長崎の噂を耳にした忠兵衛は、伯父の制止を振り切って長崎へ向かった。物情騒然たる幕末の長崎に近づく商人はほとんどいなかったため、現地では品薄で、忠兵衛は大いに歓迎されて思わぬ利を拾った。

 ところで、忠兵衛の九州での麻布の持ち下り商いに立ちはだかったのが「栄九講」という一種の同業者組合だ。同じ近江商人でも神崎郡や愛知郡の持ち下り商人たちがお互い結束して、他地域の商人を締め出そうと組織したものだ。そこで、忠兵衛は真正面から「仲間に加えてもらえませんか」と乗り込んでいった。栄九講の仲間たちは当然の如く拒否した。

それでも忠兵衛はめげず、栄九講の宴会に飛び込み、反感と敵意に満ちた視線を一身に浴びつつ、「同じ近江の新参者です。皆様の後について商いの道を学ばせていただきたいと存じます。どうかよろしくお願いします」と臆せず、堂々と熱弁を振るった。その姿に栄九講の幹部たちは遂に新規参入を認めることに決めた。そして、忠兵衛は1年後には栄九講の代表に選ばれたという。彼の優れた資質が発揮されたのだろう。

 その後、持ち下り商いの商圏を長兄の万治郎改め長兵衛に譲って、1872年(明治5年)、忠兵衛は大阪・本町二丁目に呉服、太物店を開いた。それは大きな岐路であり選択だった。その頃、明治新政府が誕生して中央集権が実現。近江商人の持ち下り商いもその存在価値を失い、行商をやめ、定着化が始まった。忠兵衛は仲間より一歩先に動いたのだ。忠兵衛30歳のことだ。

 忠兵衛は近江から招いた羽田治平を支配人として、合理的な経営法を志した。画期的な褒賞制度をつくって、販売成績のよい者に歩合を出すことにした。店員は近江の出身者が多く、採用すると豊郷村にある自邸に住み込ませて、掃除や使い走りをさせつつ、読み書き算盤を習わせて、十分仕込んでから大阪の店へ送り出した。忠兵衛はいち早く丁髷を切って、店員とともにザンギリ頭とした。

 その後も・月に6回夕食会を開き、支配人・番頭・丁稚といった身分の垣根を取り払って自由に意見をたたかわせた・従来の習慣を改め、明治20年代から商業学校出身者を採用した・大阪ではこれまであまり扱わなかった関東織物を大量に仕入れて京物とともに売りさばいた・明治17年頃から現金取引を主義とした・英国、ドイツとの外国貿易に取り組んだ-など数々の斬新な経営手法を打ち出し成功させた。

 伊藤忠財閥の二代目当主、二代目伊藤忠兵衛(1886、明治19~1973年、昭和48年)は16歳で事業を継承。父である初代伊藤忠兵衛が呉服店として創業した「伊藤忠兵衛本店」を発展させ、「伊藤忠商事」と「丸紅」という2つの総合商社の基礎を築いた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

岩崎弥太郎・・・地下浪人から身を起こした三菱財閥創設者

 三井、住友は江戸時代からの富商だったが、三菱は明治になってから台頭した新興勢力だ。この三菱の創業者が地下(じげ)浪人から身を起こした岩崎弥太郎だ。彼は明治の動乱期、藩吏時代の人脈をフルに活用。経済に明るかったことと、持ち前の度胸のよさで政府高官を強引に説き伏せ、海運業の雄となり、政商として巨利を得た最も有名な人物だ。生没年は1834(天保5)~1885年(明治18年)。

 岩崎弥太郎は、土佐国安芸郡井ノ口村一の宮に住む地下浪人、岩崎弥次郎と妻美輪との間に生まれている。つまり、土佐藩で幕末まで動かし難い階級・身分格差が厳然と存在した被差別階級の生まれなのだ。地下浪人とは郷士の株を売った者のうち、40年以上郷士だった人に与えられる称号で、実際は名ばかりで、禄高もゼロ。何らかの職に就ける望みもほとんどなかった。

そのため、岩崎家も極貧を絵に描いたような生活ぶりで、わずかな農地を耕して飢えをしのいでいた。7人家族に手拭いが2本、傘などなくて、冬になると、破れ布団一組を弟弥之助と引っ張り合って眠るという貧乏暮らしだった。

 普通ならこの時点で、生涯の出世の幅は限られ、ほぼ決まったも同然のはずだった。ところが、岩崎弥太郎は身分にふさわしくないほどの上方志向を持ち続けていた。それに加え、あるときは粘り強く、あるときは強引に、後藤象二郎をはじめとする藩の主流派上層部の人脈に取り付き、現代ではあり得ないほどの“運”をわがものとしたのだ。そして、驚くことに彼は一代で後の三菱財閥の基礎をつくった。

 弥太郎が21歳のとき、こんな悲惨な生活から脱出するチャンスが訪れた。藩士奥宮慥斎(ぞうさい)の従者となって江戸へ行く機会を得た。1855年(安政2年)のことだ。江戸では高名な安積艮斎(あさかごんさい)の門に入った。

 ところが、入門間もなく郷里から急報が届いた。父が入獄したという。驚いた弥太郎は師に別れを告げて土佐へ戻ることになった。もう二度と江戸へ出てくるチャンスはないだろう。だから、これで出世の道は閉ざされてしまった。そんな悔しさ、情けなさを振り払うかのように彼は、不眠不休で東海道五十三次を踏破。そして土佐の井ノ口村まで三百余里を17日間で歩いて実家へ戻った。しかし、庄屋に憎まれていた父弥次郎の救出も覚束ない状況で、郡役所に抗議に出かけていった弥太郎まで役人を誹謗したかどで、父の代わりに今度は彼が入牢させられてしまった。

 出牢後、弥太郎は高知城の郊外で寺子屋を開いた。その頃、土佐藩の執政だった吉田東洋が一時、役を退き開いていたのが少林塾。その塾に学んでいたのが後藤象二郎で、弥太郎は後藤の論文の代筆をして東洋に近づいた。後日、藩政府に東洋が返り咲いて、弥太郎は西洋事情を調べよと長崎出張を命じられる。ここで彼は、これまでの貧乏暮らしの中で抑圧されていた欲望が頭をもたげ、藩金百両余りを使い込むという大失態をしてしまう。ようやく藩の役人になれるかという好機に、自ら招いた過失で見事に失敗したわけだ。

 その後、一時、藩政を握ったかにみえた、武市半平太を盟主とする土佐勤王党が弾圧され、旧吉田東洋派が浮上。弥太郎は藩庁から召し出され、長崎にある「土佐商会」の主任を命じられた。同商会は土佐藩の物産を外国へ売って、必要な汽船や武器を購入するためのいわば交易窓口だった。藩の執政となった後藤象二郎が長崎へやってきて、汽船や大砲を手当たり次第に買っていったため、弥太郎はその尻拭いに走り回って外国商会から多額の借り入れを行っていた。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、「海援隊」が土佐藩の外郭機関となると、弥太郎は藩命により隊の経理を担当した。

 この頃、歴史の舞台は大きく変わった。徳川幕府が倒れて、明治新政府が誕生した。長崎で知り合った薩摩の五代才助(後の友厚)、肥前の大隈重信、長州の井上馨、伊藤博文、それに土佐の後藤や板垣退助などは江戸改め「東京」に移った新政府の要人となって大活躍していた。ところが、弥太郎はすっかり取り残されて、土佐藩の藩吏となって財政の一翼を担っているに過ぎなかった。

ただ、幸運の女神は弥太郎を見捨ててはいなかった。明治2年、少参事に任じられ、土佐藩の大阪藩邸を取り仕切るまでに出世。すると、大阪にありながら、弥太郎は藩の財政に関わって、物産の販売と金融といった経済面を担当することになったわけで、外国商会からの大金借り入れなどは一手に引き受けていた。その結果、彼は思わぬ昇進を勝ち取ったのだった。

 弥太郎は廃藩置県後の1873年(明治6年)、後藤象二郎の肝いりで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となった。

 最初に弥太郎が巨利を得るのは維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出したときのことだ。各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを、事前に新政府の高官となっていた後藤象二郎からの情報で知っていた弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得た。今でいうインサイダー取引だ。

 後藤象二郎が様々な面で、岩崎弥太郎に肩入れし利益供与に近い、土佐藩の資財・資金、そして情報を与えた点について、司馬遼太郎氏は「その理由は維新史の謎に近い」と記している。弥太郎が藩政を預かる後藤に、相当額の裏リベートを支払ったうえでのことだったのか、なぜ、後藤が弥太郎にほとんど誰にでも分かる利益供与をしたのか。それほど不可解なのだ。

こうして彼は持ち前の度胸のよさと、藩吏時代の人脈をフルに活用。多くの政府御用を引き受け、武士上がりで経済に弱い新政府の高官たちを強引に説き伏せ業容を急拡大、現在の三菱グループの礎を築いた。彼の死後、彼の事業と部下たちは、弟弥之助の手によって新三菱社に引き継がれた。

(参考資料)三好徹「政商伝」、津本陽「海商 岩橋万造の生涯」、邦光史郎「剛腕の経営学」、城山三郎「野生のひとびと」、司馬遼太郎「街道をゆく37」

大倉喜八郎・・・鉄砲屋から一大財閥を築いた御用商人

 大倉喜八郎は幕末、鉄砲屋から身を起こし、明治維新後は軍の御用商人、日清・日露戦争では軍需産業…と、巧みに、そしてしたたかに時の権力に密着しつつ事業を拡大し、遂にその数20数社に及ぶ企業集団・大倉財閥を築き上げた。大倉の事業の隆盛を妬んだ世間から“奸商(かんしょう)”とか“死の商人”と蔑称を浴びせられたが、一向にひるむことなく、ひたすら蓄財に励んだ。

こうしたあくどい商法の反面、費用を惜しまず帝国ホテルを建設。また、私財を投じて創立した商業学校をはじめ各種教育機関や美術館を造って社会に供するなど、文化事業にも貢献した。
 大倉喜八郎の金銭哲学について、内橋克人氏はユダヤ人の商法に一脈通じるものがあるという。1868年(慶応4年)の鳥羽・伏見の戦いで、鉄砲店「大倉屋」を開業していた喜八郎は、官軍、幕府軍の双方に鉄砲を売りまくったという伝説がある。

商売は商売という彼の徹底した商法は、第二次世界大戦中、敵国ドイツに火薬を売ったアメリカのユダヤ系財閥を連想させる。商売のコツもユダヤ商人との共通点が多い。喜八郎が重視したのは「現金主義」で、鉄砲売買はむろんのこと、あらゆる取引にキャッシュの原則を押し通した。ユダヤ人も2000年の迫害の歴史から、現金以外の何者も信じない。

 しかし、商売にはあくどいが、儲けたカネはスパッと使う。ユダヤ人は慈善事業などに思い切ったカネのつぎ込み方をするが、喜八郎も明治の初めからしばしば社会事業団体「済生会」などに、寄付献金を重ねている。
 大倉喜八郎は1837年(天保8年)、新潟県北蒲原郡新発田(現在の新発田市)の名主の家に三男として生まれ、18歳で江戸に出た。鰹節店の住み込み店員をしながら、乏しい俸給を貯え、21歳のとき独立、乾物店を開業。さらに鉄砲店を開店し、それが文字通り出世に火をつけた。

 ところで、「子孫に美田を残さず」という“金言”があるが、喜八郎は逆に子孫に事業を残そうと努力した数少ない成金事業家の一人だ。事業を継がせるべき長男の側に当時の帝大出の俊才を配し、巧みな人材活用法で、大倉財閥百年の体制を固めた。第二次世界大戦後、財閥解体の痛手を受けたものの、現在も大倉商事、大成建設、ホテルオークラなど20数社が大倉グループを形成している。一代限りで事業も巨財も雲散霧消させるタイプの多かった明治・大正時代の一群の成金たちとは、かなり趣を異にしている。

 喜八郎のタフネスぶりは超人的というべきで、84歳で妾に子供を産ませている。どんな多忙なときでも、ゆっくり時間をかけて食事を楽しむという主義で、昼食はいつもウナギの蒲焼きと刺し身、それにビールがついていたという。働くために食うのではなく、食うために働く。そして長生きが義務という、そのあたりの生活感覚も日本人離れしている。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、内橋克人「破天荒企業人列伝」
      三好徹「政商伝」、小島直記「人材水脈」

紀伊國屋文左衛門・・・材木問屋を営み巨富を築いた?江戸前期の豪商

 江戸時代の成功者、成金の代表者の一人として挙げられるのが、この紀文こと紀伊國屋文左衛門だ。しかし、紀文の実像、いやもっといえばその実在性を示す文献資料さえ見つかっておらず、謎に包まれている。

講談や浪花節によると、暴風雨で荒天続きの熊野灘を乗り切って、紀州みかんを江戸へ運んで巨富を築いたということになっているが、この話も実は実証できていない。ただ太平洋戦争前に、紀州有田出身のある実業家が伊勢のある神社に奉納されていた、文左衛門のものと推定できるみかん船のひな型を発見した。有田みかんの歴史は古く室町時代に、みかんを九州から導入し栽培増殖したのが始まりという。江戸時代に入り、紀州徳川家がみかん産業を保護奨励した。1634年(寛永11年)からみかんの江戸出荷が始まり、まもなくわが国の出荷組合第一号ともいうべき蜜柑方(みかんがた)が作られた。文左衛門のみかん船の話が事実だとすると、貞享年間、彼が20歳前後で、この冒険物語は実現可能だ。

また、文左衛門は振袖火事の時、木曾の木材をわずかな手付け金で買い占めてボロ儲けしたとも伝えられる。ところが、明暦の振袖火事の際、木曾の木材を買い占めて巨利を博したのは河村瑞賢だ。紀文ではない。こうなると、果たして紀文は実在したのか、疑わしくなる。

ただ、周辺にはモデルになったのではないかと思われる人物はいる。一般に流布されている紀文物語によると、紀文は幼名を文平といい、有田郡湯浅で生まれたという。その湯浅町栖原(すはら)の出身で、栖原角兵衛(かくべい)、略して“栖角”という大成功者がいるのだ。栖角は房総から奥州へ手を伸ばして漁場を開き、後に江戸へ進出して鉄砲洲に薪炭問屋の店を持った。さらに深川で材木問屋を始めるなど多角経営で事業を広げている。

紀文が活躍した貞享から元禄期は、生活ばかり派手になって手元に金のない、いわば欲望過多の時代だった。そんな時代背景が、「いてもおかしくない」という思いも加わって、講談や浪花節の世界にしろ、瑞賢と栖角を足した架空の人物を生み出したのではないだろうか。

紀文のモデルに加えられた人物がまだいる。奈良屋茂左衛門だ。紀文とともに遊郭、吉原で贅を尽くしたという挿話を記した「吉原雑記」に名を残している豪商だ。江戸の当時の家屋は、竹と土と紙とでできているので燃えやすく、ちょっと風が強いとすぐ火事が起こった。大火事があると当然材木屋が儲かる。だから、江戸初期の富商は木材問屋が大部分を占めていた。ただ、木材は投機性の強い商品で、いったん的中すると儲けは莫大なものになったが、狙いが外れると厖大なストックを抱えて四苦八苦しなくてはならない。そんな浮き沈みの多い木材問屋の中でも、儲け頭は奈良茂こと奈良屋茂左衛門だった。

奈良茂は日光修復の工事入札で、普通の業者の半分にも満たない安値を入れて落札した。しかし、本来そんな値で木材を揃えることなどできるはずがない。ところが、ここに奈良茂のしたたかな計略があったのだ。まず奈良茂は江戸一の木曽ヒノキの問屋柏木屋へ行き、木材を売ってくれといった。だが、むろん柏木屋は頭から断った。すると、奈良茂は恐れながらと訴え出て、柏木屋に木材を売るように命じてほしいと願った。そこで、役人が柏木屋へ行き、木材はないのかと問うと、船が入らないのでと、通り一遍の口実を使った。ところが、それこそが奈良茂の思う壺だった。同業の事情に明るい奈良茂は、いえそんなはずはありません、柏木屋の木材の隠し場所へご案内しましょう-といって、貯木場へ案内した。最初、体よくあしらわれた役人はカンカンに怒って、柏木屋の隠し場所にあった木曽ヒノキを片っ端から焼印を捺して奈良茂に下げ渡した。そして柏木屋の当主と番頭は、三宅島へ送られてしまった。奈良茂はライバルを没落させたばかりか、日光修復の工事用木材をタダ同然で手に入れ、しかもなお2万両分の余剰木材が残ったという。半ば伝説の主人公、紀文にふさわしい逸話だ。

実際は、紀文はもっと地味な商売人で、こうしたモデルになったともみられる豪商ほど詳細は分からない。だが、材木商としての地歩を固めた紀文が、当時の幕府の“大物”、勘定奉行の荻原重秀を抱き込み、幕府の土木事業の指名を受けたことは確かなようだ。中でも幕府が行った上野寛永寺の中堂建設の材木を一手に引き受けて、50万両の儲けをはじき出したという。彼が紀文大尽として、吉原の大門を締め切って、傾城(けいせい)を買い切りにしたなど、“勇名”を馳せるのはこれからのことだ。

(参考資料)津本陽「黄金の海へ」、邦光史郎「豪商物語」、南原幹雄「吉原大尽舞」、中田易直・南條範夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

鴻池新六・・・十人両替商の筆頭で大名並みの権威持った江戸の大富豪

 江戸時代を通して、豪商と呼ばれたのが鴻池家だ。全国一の富豪で、諸大名に何千万石もの大金を貸し付け、その各大名から扶持をもらって、合わせると一万石を超え、大名並みの権威を持っていたといわれる。現在の銀行業務を行っていた十人両替商の筆頭として知られた鴻池家の始祖が新六幸元だ。生没年は1570年(元亀元年)~1650年(慶安3年)。

 鴻池の姓は、摂津国伊丹在鴻池村に住んだことに由来する。元は山中姓だったという。それも、尼子十勇士を率いた尼子の家老、山中鹿之介幸盛の子が新六だと伝えられている。新六は幼時、大叔父にあたる山中信直に養われたが、この大叔父が没して後は大叔母に育てられた。15歳で元服して幸元と名乗ったが、武士の身分を隠すため、名前も新右衛門と変え、両刀を捨てた。豊臣秀吉の天下となって、彼の身の上はかえって処世の妨げとなったのだ。

 摂津国鴻池は古来、酒造の地で、やがて新六もその仲間の一人になることができた。当時の酒は今でいう濁り酒だ。ある時、新六に叱責されて、それを恨んだ使用人が仕返しのため、酒桶の中に、灰汁を投げ込み、そ知らぬ顔をして主家を出て行った。翌朝、いつものように新六が酒造場の見回りにいくと、大桶の酒が、どうしたことか、濁り酒から清酒に変わっていたので驚いた。調べてみると灰汁桶が空になっていて、清酒に変わった酒桶の底に、灰汁が残っていた。そこで、あの男のしわざと気付いた。ところが、この美しく澄んだ酒をすくってみると、香気があって、味がいい。不思議なことだ。使用人にも試飲させると、皆に評判がいい。

そこで実験を重ねて、清酒づくりに励み新製品を売り出すことになった。これが鴻池の「諸白(もろはく)」と称された清酒だ。この清酒は評判を呼んだので、新六は江戸ヘ出すことを決めた。当時、江戸は人口100万人に達し、ロンドン、パリを抜いていた。この100万人の人口の半数は旗本や諸大名の家臣とその家族、つまり消費するだけの武士階級だ。しかも江戸近辺は当時、米さえ作れない乾いた土地が多く、酒はすべて伊丹や伏見から送っていた。

新六はこの「諸白」を、初めは馬で、次には船でどんどん江戸へ大量輸送し、売れに売れたのだ。そこで、鴻池は自ら廻船問屋を開業するに至った。こうして新六は酒造家として成功した。
新六は妻・花との間に10人(8男2女)の子に恵まれた。次男と三男は分家して、別の酒造家となり、1619年(元和5年)、新六も鴻池村を出て、大坂城下の内久宝寺町に店を開いた。鴻池村の本宅は七男が継ぎ、大坂の店舗は後に、八男正成が相続するようになった。その頃の鴻池家は約240坪の敷地に、酒造蔵と米蔵それぞれ2棟を持ち、年間1万7000石の清酒を醸造していた。

新六は64歳のとき海運業を始めた。天下の台所と称された大坂は、様々な物産の出船入船千艘という一大商都となって、物流手段として船への需要が大きくなるとの判断だった。初め、自家製の酒を江戸へ運んでいるだけだった鴻池の船も、江戸の帰りに大名から頼まれた参勤交代用の荷物を運ぶようになり、やがて大名家出入り商となって、米を扱うようになった。やがて、大名の蔵元となり、大名貸しする両替商となっていくのだ。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

五代友厚・・・関西財界の基礎確立に貢献 大阪財界の父

 五代友厚は大阪株式取引所、大阪商法会議所などを設立した、大阪財界の父といってよい働きをした。渋沢栄一が関東で商工会議所や株式取引所を設立して、多くの事業を生み育てていったのと並び称された。

 五代は天保6年(1835)12月26日、薩摩国鹿児島の城下町で生まれた。幼名は才助。五代家の先祖は島津18騎の一人で“銀獅子”と称していた。その五代家の五代目、秀堯と妻やす子との間に生まれた次男が、後の友厚だった。兄徳夫、姉広子、妹信子といった兄弟とともに生まれ育った家は松林の中という静かな環境で、父は儒学者として知られ、藩内にあっては町奉行を務めていた。ただでさえ質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。

 14歳になった時、琉球公益の係を兼ねていた父親が、帰宅すると奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。それは、藩主がポルトガル人から入手した輿地図だった。父が兄の徳夫に声をかけなかったのは、兄がコチコチの保守主義者で、外国の話をすると真剣に怒り出すからだった。その点、友厚は早くから異国の文物に興味を持って、これが世界地図だと知ると、食い入るように眺めていた。 

そして、その地図には薩摩はおろか日本も載っていないことを教えられる。それなのに、国内ではやれ薩摩だ、やれ長州だといって互いに相争っている。どうして力を一つにして外国に負けないような国力と技術力をつくろうとしないのだろうか-と疑問を持つ。

 藩主が父に申し付けたこの地図の模写を、友厚は一人で引き受け二枚分を一気に筆写した。そして一通を藩主に献上して、残る一枚を自室の壁に掲げた。地球は丸いというので、直径2尺(60・)ばかりに球体を作って、そこに世界地図を貼り付けた。そしてそれに彩色をした。球体にしてみると、さらに世界の様子がよく分かった。

 16歳になった友厚は藩候に建白書を出して、海運の隆盛を図って、学生を遊学させるべしと主張した。その願いが聞き届けられ、友厚は長崎出張を命じられた。当時幕府は長崎に海軍伝習所をつくって、オランダ人教官を雇って若い武士たちに航海術を学ばせようとした。そこには幕臣勝海舟、榎本武揚、佐賀の大隈重信、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、長州の高杉晋作、井上馨、紀州の陸奥宗光、福井の由利公正など各藩の英才が集まっていた。これらは後に明治を背負って立つ傑物となった人たちで、彼らは藩の枠を越えて交友を持った。友厚の青春の舞台はこの長崎だった。

 慶応2年(1866)2月、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダを歴訪して、各種の工場や病院などの施設を視察し帰国した五代は、産業振興と富国強兵のニューリーダーとなった。そして御納戸奉行格に任じられて、藩の産業経済の中枢に位置する身となった。まだ32歳の時のことだ。明治維新が成立すると、彼は西郷隆盛や大久保利通とともに新政府の参与に任じられた。薩摩が実行してきた産業立国と富国強兵策を、今度は中央政府にあって断行することとなり、大いに意欲を燃やした。

 明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進むことを伝え大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。

 五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。

 明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

小林一三・・・鉄道事業経営とエンタテインメントをコラボ

 小林一三は阪急電鉄・阪急百貨店・阪急東宝グループの創業者で、阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても知られる。鉄道沿線の住宅地開発、百貨店経営など幅広く関連事業を経営し、沿線地域を発展させながら、鉄道事業のとの相乗効果を上げた。今日の私鉄経営のビジネスモデルの原型をつくった人物の一人だ。また東京電燈会社の経営改革にも携わった。第二次近衛内閣で商工大臣、終戦後は幣原内閣で国務大臣をそれぞれ務めた。生没年は1873(明治6)~1957年(昭和32年)。

 1月3日に生まれたので、一三と名付けられたが、母きくのが同年8月22日に急死してしまったため、養子だった父は離縁。一三と姉の竹代は、両親を失って孤児となってしまった。とはいえ、祖父母や一族に育てられ、何不自由なく成長していった。彼の生家は山梨県巨摩郡韮崎町(現在の韮崎市)で、韮崎は甲州街道の宿駅で、甲州と信州のコメが集まり、豪商が軒を並べる土地柄だった。小林家は屋号を布屋といって、酒造と絹問屋を兼ね、豪商中の豪商として知られた家柄だった。
 祖父小平治は一三が2歳のとき、彼のために別家をつくって家督を継がせた。その翌年7月に三井銀行が開業し、2年後に西南戦争が起こっている。

 一三は15歳で慶応義塾を受験して、即日入学を決めた。彼が最も打ち込んだのが芝居見物で、麻布十番にあった3軒の芝居小屋で連日のように入り浸っていた。明治25年、慶応義塾を卒業し三井銀行に入った。本店秘書課勤務だったが、仕事の中身が不満で少しも気が乗らない。そこで、大阪支店行きを志願。明治26年、大阪に赴任。ただ高麗橋の大阪支店に勤務してからも、道頓堀の芝居小屋に通って、もっぱら上方情緒に浸っていた。

月給は13円だが、韮崎の小林家から毎月100円くらい送金があるので、生活はゆったりしたものだった。文人とつきあって小説を書いたり、芝居通いしているうちに、一三はすっかり大阪に根を下ろしてしまった。ただ、勤務の方は大阪支店から名古屋支店、大阪支店、東京支店と変わったが、希望に反することが多く不遇だった。また結婚したが、早々に離婚、再婚した。

そして、明治39年、33歳のとき一三は三井銀行を退職。箕面有馬電気軌道株式会社設立に参画、様々な、紆余曲折はあったが、一三が専務、北浜銀行の頭取・岩下清周が社長で箕面電車が誕生。一三は電鉄経営者への道を選んだ。彼は“もっとも有望な電車”というパンフレットを出して、当時としては珍しいPRに乗り出し、今ではどの電鉄会社もやっている住宅街の造成を行って、沿線の繁栄を図った。いずれも当時としては、先駆的な手法であり、事業戦略だった。池田に分譲住宅を造ったり、箕面に客寄せの動物園を開設するなど、一三の奮闘は続いた。

大阪から宝塚まで線路を延ばすには何か客寄せが必要というので、宝塚に新温泉をつくって、そこに温水プールを開設した。しかし当時の規則では、男女別々に分けるべしというので、想定したほど客が集まらず、そこで考えついたのが少女歌劇だった。当時、三越で少年音楽隊が出演して人気を得ていたことから、一三が思いついたもので、素人の少女を集めて、今でいうオペレッタを演じさせようというものだった。大正2年に始めたときは、女子唱歌隊と称していた。大正3年4月1日、500人収容の劇場ができ上がって、いよいよ処女公演を行った。この公演は2カ月間大入りを続けた。この成功で年4回の公演に踏み切った。

一三は北銀事件を機に、借金し自社株を買い取りオーナー経営者となった。大正7年、社名を阪神急行電鉄と変更、同9年に神戸線30.3・が開通した。47歳となった一三は、経営者としてようやく独創的な手腕を発揮するようになった。彼は5階建ての阪急ビルを建設。その2階に食堂を開設、これまで一流レストランでしか食べられなかった洋食を、30銭均一で食べさせた。とくにコーヒー付き30銭のライスカレーは大好評だった。また、1階を白木屋に貸して、日用雑貨の販売をさせた。この後、一三は阪急電車梅田駅に乗降客を吸引する新しいターミナル百貨店を誕生させた。

一三は既成概念に捉われず、従来の高料金興行とは違ったやり方による演劇や映画の経営を始めて、東宝王国をつくり上げた。その経営手腕を買われて、彼は東京電燈会社の経営改革にも起用された。

(参考資料)邦光史郎「剛腕の経営学」、小島直記「福沢山脈」

下村彦右衛門・・・「現金正札販売」をモットーに成功した大丸の始祖 

 大丸百貨店の始祖、下村彦右衛門は、京都伏見で生まれた。下村家はもともと摂津の国、山田村の郷士の出身だと伝えられているが、祖父の代には伏見の町で古着問屋を営んでいた。当初、曽祖父の住んでいた河内を記念して、“河内屋”を屋号としたが、祖父が京の五山の送り火、大文字に魅せられ“大文字屋”と改称した。祖父・久左衛門の三男・三郎兵衛が二代目を継いだが、これが彦右衛門の父だ。三郎兵衛の子供たちのうち、長男が早死にしてしまったので、次男の長右衛門が跡を継いだが、彼は優柔不断で怠け者だった。そのため家運は次第に傾いていった。元禄12年(1699)頃のことだ。

大文字屋は京都の色街の一つ、宮川町に質屋と貸衣装の店を出した。三男彦右衛門は父の言いつけで、この店を手伝った。彼は人並み外れて背が低かった。そのうえ頭ばかり大きくて、福助人形そっくりだと、人にからかわれたが、じっと我慢して、いつもニコニコと人に接した。19歳になった頃、彦右衛門は祖父の跡を継いで古着屋を引き受けた。毎日、大風呂敷に古着を包んで背に負うと、とことこと京都の市中まで運んで行って売るのだ。それは実入りが少ない割に、辛くて果てしのない労働だった。休みなく働き続けて23歳のとき、勧める人があって村上光と結婚して、一男をもうけたが、5年後に離婚している。

享保2年(1717)、苦労の末、伏見の一隅に小さな店を開いた。これがいわば大丸の誕生だった。そのとき、壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに、○の中に大と書き、これを商標とすることに決めた。○は宇宙を表し、大は一と人とを組み合わせたもので、それなら天下一の商人を意味することになると彦右衛門は解釈した。

彼は店の者を集めてよく教え諭した。“商人は諸国に交易して、西の産物を東に流通させ、北の商品を南に送って、生活の資を商い、それによって自分も応分の利を得て、その身を養うものである。だから決して自分の都合中心に考えてはいけない。必ず世間のためになり、人様の生活に役立つ品を商わなくてはならん。世のため人のためになってこそ、はじめて商いが発展するのである”

「現銀正札販売」、それが彦右衛門の商法の中心だった。享保11年(1726)、彼は大坂の心斎橋に共同出資の店を出し、2年後には名古屋店、続いてその翌年には京都柳馬場姉小路に仕入店を開設した。当時の商人は、「江戸店持京商人」といって、江戸に販売店を開いて、京都に本店あるいは仕入店を置くことを理想としていたからだ。これは人口100万人と世界一、二の人口を擁しながら、江戸はその半数が武士階級で、その他にも職人や商人が多く非生産者がほとんどを占めていた。そこで一大消費地江戸に販売店を開いて、当時最大の呉服の生産地京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていたのだ。

 現金掛け値なしという正札販売は先輩の三井越後屋が最初に行ったものだが、
大丸屋の彦右衛門はいいことを見習うのに遠慮は要らないとばかり、大いにアイデアを模倣した。三井越後屋の貸し傘宣伝法もちゃっかり取り込んで“大丸マーク”入りの傘を雨の日に貸し出して、江戸の街々に大丸印の傘を氾濫させた。神社や寺院に手拭いを寄進して、手洗い場に吊るしてもらった。

店員には賭け事を一切禁じていたが、お客には福袋を売り出して、一等賞に振袖を賞品として進呈した。こうした才智と才覚による新商法は大いに当たって、大丸はやがて江戸でも評判の呉服商店の一つに加えられた。

 大丸は繁栄に繁栄を重ねたが、創業者の下村彦右衛門はまだ56歳だというのに、早くも隠居を宣言した。50代から先は大丸屋の運営を支配人に託して、彦右衛門は半ば隠居の心境だった。茶の湯や謡曲を楽しみつつ、もっぱら家訓をつくって子孫への戒めとしようとした。
彼はたとえその人が目の前にいなくても、得意先を呼び捨てにするようなことを許さなかった。客に上下をつけるな、たとえ子供が買いにこようとも、大名がこようとも同じく客として扱うべし、目先だけの商いを決してするなと戒めた彦右衛門は、商いに誇りを持っていた。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」

                   

高島屋飯田新七・・・百貨店・高島屋の始祖、屋号は滋賀県高島郡から

 幼名を鉄次郎といった新七が越前敦賀の生家を出て、京都三条大橋東入ルの角田呉服店に丁稚奉公したのは文化11年(1814)、12歳の時だった。新七は明けても暮れても呉服の荷を背負って大津、膳所、草津と近江の町々を行商に歩いたが、思うように売れなかった。主家も衰運とみえ、新七が奉公して3年足らずで、遂に主家は倒産してしまった。

そこでまた別の呉服屋に再就職して、コマネズミのようによく働いた。すると捨てる神あれば拾う神ありで、烏丸通松原上ルに米屋をしていた飯田儀兵衛が、よく働くというので目をかけてくれた。そして、新七を婿養子に迎えたいと申し込んできた。飯田儀兵衛は、滋賀県高島郡の出身なので屋号を高島屋と称していた。そこで、新七は飯田姓を名乗り、高島屋の後継者となった。
 
 養子になった翌年、隣家に空き家ができたのをきっかけとして、古着屋を開くことにした。このとき、彼はこれまでの奉公で貯めた2貫500匁で店を借りたり補修を済ませたりしたので、仕入れのカネがなかった。やっと店はできたが、並べる品物がないと考え込んでいる夫の前へ、妻・お秀はたんすの引き出しを開いて、嫁入用の着物を差し出した。「これを並べておいてください」と。着物は四季それぞれ一着あれば間に合います。それにまたいつか買って頂けるでしょう。それまでどうかこれをお店に並べて売ってください-という。

お秀は跡取り娘だというのに、よくできた妻だった。それ以来、彼は仕入れてきた古着や綿服を肩にして、また江州通いを始めた。それは昔の姿と変わらなかったが、以前はただの奉公人、いまは小さくても一家の主だった。彼はその頃、四つの戒めを考えて、信条とした。

その一、確実な品を廉価に販売して自他の利益を図るべし。
その二、正札掛値なし。
その三、商品の良否については、明白に顧客に告げ、いささかも虚偽あるべからず。
その四、顧客の待遇はすべて平等にして、いやしくも貧富貴賎によりて差をつけるべからず。

客の選り好みをせず、誠実第一を心がけるべしと、彼は自らに言い聞かせた。
 天保元年(1830)、烏丸通松原上ル西側、北から3軒目の借家を、家賃月1歩 2朱200文で借り受けた新七は、10年目の再出発を図った。この店が、いわば 今日に至る高島屋の出発点となったものだが、この店を彼は3年ほどで買い取 った。時の老中水野忠邦が節約政策を打ち出した頃のことだ。新七は早朝の6 時に大戸を開いて、一家揃って掃除に励んだ。そのため高島屋よく気張るとい って評判を呼んだ。この評判がやがて信用のもととなった。古着を主体とした 商いは1年、1年と信用がつき顧客も増えていって営業規模が大きくなってきた。 嘉永4年(1851)、娘のお歌に婿養子を迎えた。花婿は寺町今出川に住む上田家 の次男直次郎で、少年期から呉服商に奉公していた実直な26歳の青年だった。 養父となった初代新七はこのとき50歳、直次郎は新次郎と改名して、新七とと もに家業に精を出した。

 時代は幕末、大きく変わろうとしていたときだった。新七父子は、いろいろ 世間の声を聞いた結果、高島屋は木綿と呉服を扱うことにした。新次郎は仕入 れのため北河内、中河内と歩き回り、現金払いで木綿地を買い求めた。仕入れ 現金払いが新七の方針だったが、現金払いは資金の手当が大変だった。また、 幕府の土台が揺らぎ始めた時期でもあり、なかなかモノが売れない時代に突入 していた。

 文久3年(1863)、薩摩・会津藩と長州藩との間で激しい戦闘となった「蛤御 門の変」のあおりで大火災に遭った飯田新七一家はまず家財道具を本圀寺へ運 んだ。二代目の新次郎は丁稚たちを督促して、土蔵内に全商品を運び込んだ。 一晩中続いた火災の翌日、焼失町は811町に上り、京都の中心部の大部分が焼 け野原と変わっていた。ところが、新七の指示で土蔵の中央に風呂桶を据えて 水を張り、要所要所に水を満たした四斗樽を何本か配しておいたのが奏功、土 蔵も商品も無事だった。

高島屋は土蔵前に急ごしらえの店をつくって、焼け残った衣料品を売り出し
た。すると着の身着のままの人もおおかったから、あっという間に売れ、二代目が大量に買い込んで困っていた木綿地も含め売れに売れた。初代63歳、二代目39歳のことだ。

 二代目は53歳の働き盛りで急逝したが、二代目夫人の男勝りの見識と統率力 によって、高島屋は存亡の危機を切り抜け、この後、明治時代の呉服商として 見事に発展していった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」
                   

高田屋嘉兵衛・・・蝦夷地開拓のため幕府御用を勤め、漁場開く

 高田屋嘉兵衛(幼名は菊弥)は明和6年(1769)、わずかな田畑を耕す貧農の家に生まれた。彼が生まれる200年以上も前のことだが永禄年間、先祖は武士だった。昔は武家のなれの果てというわけだ。父の弥吉は病弱で、その割には子だくさんだった。嘉兵衛を頭にして嘉蔵、善兵衛、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎と男子だけ数えても6人いた。

 嘉兵衛は村医について文字を学び、12歳の頃、家を出て都志浦の和田喜十郎に奉公した。遠縁にあたる和田屋はいわば万屋で日用雑貨から魚に至るまで、売ったり買ったりと商売を実地に学ぶことになった。そのうえ、漁業も教えられた。後に彼が示した商才や漁師としての腕前はこの時代に培ったもので、何事もおろそかにしないで、よく学びよく働いた彼の努力が、後に大きな果実を結んだ。
嘉兵衛は10年後の22歳になった時、摂津兵庫の湊へ転職することになった。そこに母方の親類で樽廻船の船頭堺屋喜兵衛が住んでいた。喜兵衛は喜十郎の弟で、妻は嘉兵衛の母方の伯母にあたっていた。そこで、嘉兵衛は海で働くことを決意、義理の伯母に頼んで樽廻船の船子(水夫)となった。頭がよくて機転の利く嘉兵衛のこと、たちまち認められて、寛政7年(1795)、27歳にして和泉屋伊兵衛の船を預かる沖船頭となっている。

 しかし、彼の望みは高い。北前船を持つような船持ち船頭になりたいものだと。そのためには金が要る。彼は沖船頭の職をやめると、熊野灘へ出かけていって鰹を獲った。これを消費地、大坂へ持っていって売った。商才のある彼は3年ほどの間に500両の金を貯めた。さらに、北前船の船頭になった彼は酒田港で六代目栖原角兵衛と知り合い夢を語るうち、新造船を担保として1500両もの大金を借り受けられることになる。早速、酒田港の造船業者に発注して、1500石積みの大船、辰悦丸をつくりあげる。

 栖原角兵衛の勧めもあって嘉兵衛は新興の箱館へ進出、同地の廻船業者、白鳥屋と組んで兵庫から運んで行く物産の売りさばきを任せる。その後箱館に支店を開いて、弟の金兵衛を支配人として派遣、わずか2年のうちに持ち船も5隻に増え、いよいよ高田屋の看板を掲げて海運業者の仲間入りを果たした。

 この頃、ロシアの南下に対応して、幕府が蝦夷地の地理や現地の事情調査のために、まずエトロフ島への案内役として高田屋嘉兵衛を起用することを決める。このとき、幕府の蝦夷地勘定役、近藤重蔵と知り合った。重蔵30歳、嘉兵衛32歳のことだ。享和元年(1801)、幕府は嘉兵衛に微禄だが3人扶持を与え、蝦夷地御用船の船頭(船長)とした。これは公儀(幕府)御用という金看板を与えたことを意味する。こうなると一商人として交易のために蝦夷地を航海するというだけでなく、常に幕府の威光を背負っていることになって、その威力は絶大だった。建造を願い出て許された2隻を含め、辰悦丸をはじめとする8隻の大船は、大砲こそ備えていないが艦隊のような威圧感を与えた。各船、日の丸と吹抜きとを帆柱に翻し、辰悦丸には嘉兵衛が、続いて弟の嘉蔵、金兵衛、嘉四郎、嘉十郎がそれぞれ大船の船頭となって、高田屋船団を組んでの北海遠征だった。こうしてエトロフに米、塩、木綿、漁具などの官物を運び込んだばかりか、十カ所の漁場を開いた。この年の夏、弟の嘉蔵は高田屋の持ち舟貞宝丸に、幕府の天文地理を担当している間宮林蔵を乗せてカラフトヘ赴いた。

 当時、幕府はロシア軍艦の南下に伴って、しばしば砲撃や襲撃を受けたので、カラフトに600名、千島のエトロフに1400名の仙台藩兵を送り込み、宗谷には会津藩兵900名が配備につくという物々しさだった。その翌年、間宮林蔵はカラフトから黒竜江下流へと調査旅行を試みて、カラフトが半島ではなく島であることを突き止めた。そのため「間宮海峡」と世界の地図にその名前と功績の跡を残すことになった。

 文化9年(1812)8月、ロシアの軍艦ディアナ号のリコールド副長はエトロフのシベフ漁場付近で、日本船を見つけて拿捕した。この650石積みの観世丸は高田屋の手船で、嘉兵衛が乗っていてエトロフで獲れた魚類を、箱館へ運ぶ途中だった。船員4人とともに嘉兵衛はカムチャッカへ護送された。彼らは極寒のシベリアでの越冬を余儀なくされ2人の船員を死なせたが、翌文化10年9月、2年余り前の文化8年(1811)6月千島沿岸で捕えたディアナ号艦長ゴローニン少佐との人質交換でようやく解決した。翌年幕府は再び蝦夷地定御雇船頭に命じた。

 しかし、カムチャッカの囚人生活ですっかり体調を崩していた嘉兵衛は、久方ぶりに兵庫の邸へ帰った。ここで療養し、50歳になったのを機に隠居を宣言して、故郷の淡路島に引き籠もった。幕府は彼の功績を賞して、年間70俵の知行を贈っている。これまで無理を続けてきた体にガタがきて病床に臥すことが多くなり、家業全盛がせめてもの慰めだったが、文政10年(1827)4月5日、都志本村の自邸で永眠した。59歳だった。そして、全盛を誇った高田屋も嘉兵衛の没後4年にして、ロシア船と密貿易をしたという疑いをかけられ没落。持ち船のすべてを没収されたうえ、金兵衛は箱館から追放された。

(参考資料)司馬遼太郎「菜の花の沖」、邦光史郎「豪商物語」、邦光史郎「物語 海の日本史」 
                    

茶屋四郎次郎・・・徳川家康と親しかった、京都三大富豪の一人

 茶屋家の当主は代々四郎次郎を称している。ここに取り上げるのは三代目清次だ。彼はとりわけ徳川家康と親しく、そんな間柄を示す様々なエピソードが伝えられている。1616年(元和2年)、大坂夏の陣で豊臣家を壊滅させ、ようやくほっとした徳川家康(75歳)。そんな家康が隠居する駿府(静岡)へ茶屋四郎次郎がやってきて、「近頃、都では何が人気じゃ」と問われた彼は、「天麩羅(てんぷら)」を紹介する。食通だった家康は、早速賄い方に申し付けて茶屋四郎次郎がいう、魚に衣をつけて油で揚げる、その鯛の天麩羅を食べる。そして、あまりの美味に思わず二枚も平らげてしまった。高齢の身でもあり、これが原因で胃腸を悪くし、この年、家康は他界したという。

 この頃の京都の三長者は角倉了以、後藤庄三郎、そして茶屋四郎次郎こと中島四郎左衛門明延(あきのぶ)の3人だった。明延の父、宗延(むねのぶ)は武士だったが、討死したため子の明延は大和へ引き籠って、商人を志した。大和の奈良芝という商人と親しくなって、その庇護のもとに商いの道に入ったといわれる。やがて四条新町のあたりに店を営み、そこへ足利将軍義輝が立ち寄って、茶を所望したので、茶屋の屋号が生まれたという。

明延の子清延の頃、徳川家に近づいて、その御用達となった。清延は家康に付き従って三方が原の戦い(1572年)、長篠の戦い(1575年)など53回も戦陣に参加、軍功もあったというから、商人というよりもう立派な武人だ。茶屋家は橘の家紋を用いているが、これは三方が原の戦いの後で、家康から褒美としてもらったものだ。清延は江戸へ入府した家康が目指した城下町建設に協力し、本町二丁目に屋敷を賜った。

 清延は天下の覇権取りを目指す家康の意を受けて、宮廷工作を行っている。長年にわたって勧修寺晴豊を窓口として宮廷にアプローチ、天皇の母に当たる新上東門院に取り入っていた。また、彼は豊臣秀吉に取り入って、朱印状を手に入れ、安南(ベトナム)国・南部の交趾(こうち)地方との海外貿易にも取り組んだ。普通、オーナー自ら船に乗り込むようなことはないが、武人であり商人という彼は自ら指揮して朱印船に乗り込んだ。

 1582年(天正10年)、織田信長が明智光秀に弑逆された、本能寺の変をいち早く家康に告げたのも清延だった。そして家康を、冷静に危機を間一髪で脱出させたのも、彼の武略と機転に富んだ的確な指示だったという。そんな茶屋四郎次郎の名声は高いが、その活躍期は意外に短かった。1596年(慶長元年)清延は享年52歳をもって世を去っている。病によるものか、何の記録も残っていない。死後、その子清忠が後を継いで二代目と称したが、まだ結婚もしないうちに病死して、その跡は弟の又四郎清次が継ぐことになった。それが三代目茶屋四郎次郎だ。

 茶屋四郎次郎は四代、五代と、代々四郎次郎を名乗っていた。ただ、その中でも家康の信任を得て、海外に出かけるほどの大きな商いをしたのは三代目清延と五代目清次だった。通称を又四郎といった清次は、1585年(天正13年)、清延の次男として生まれ、兄清忠が二代目を継いだが、病弱のため1603年(慶長8年)に死亡したので、清次が三代目を襲名することになった。彼は当初長崎奉行だった長谷川左兵衛藤広の養子となって、長崎へ行っていた。そこで彼もまた純粋な商人というより、武人にして商業に従事した者といってよく、武士として交易や長崎の監察業務に携わっていた。商人としては茶屋四郎次郎を、武人としては中島四郎二郎を名乗って、茶屋家の当主たちは巧みに武人の顔と政商の顔を使い分けている。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では家康の陣営に侍して御用を務め、和平工作のため大坂城へ入ったという。この年、家康の命で長谷川の養子という身分を離れた清次は、茶屋家三代目の当主となって、三代目茶屋四郎次郎を襲名した。

 清次は生糸の輸入と販売をする糸割符仲間の代表となった。彼は家康の側近に仕えて立場を固めて得た、この特権によって財を成した。彼は一般商人と違って、武士として生活しながら特権商人として稼いでいたのだ。さらに、生糸や呉服だけでなく、軍需品や武器も扱っていたともいわれる。しかし、1622年(元和8年)、彼は37歳という若さで世を去ってしまった。そこで長男の道澄が後を継いだが、その日から茶屋の凋落と縮小が始まった。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

奈良屋茂左衛門・・・一代で三井高利の2倍の資産を築いた元禄期の豪商

 奈良屋茂左衛門というと、彼がまだ商人としては駆け出しの頃、日光東照宮の修復工事にからんで、町奉行の権力をバックに利用し、大店の木曽檜問屋を巧妙な策略にかけ、ひとかどの材木商に伸し上がったという逸話がある。この話の真偽は定かではないが、商人にとって度胸や度量の大きさが必要だということが痛感させられる。

 奈良屋茂左衛門の生涯は、同時代の豪商、紀伊國屋文左衛門と同様、ほとんど定かではない。だが、『江戸真砂』はじめ各種の史料を総合すると、およそ次のようなことが分かる。茂左衛門は江戸霊岸島の裏長屋に住む車力の子供だといわれ、また材木の小揚げ人足の子供という説もあるが、はっきりしない。

生来の利発者で、そのうえ字も上手だったので、宇野という材木屋に雇われ勤めていたが、28歳のとき独立してわずかばかりの丸太・竹などを置く小さな店を開いた。ちょうどそんなとき、1683年(天和3年)、日光大地震があり、東照宮修復工事と関連して御用檜の入札があった。

 この入札で茂左衛門は見事に一大出世のきっかけを掴む。当時、江戸茅場町に柏木という木曽檜問屋があって、御用木の規格に合うような檜の良材をほとんど独占していたので、応札者はみな柏木家を頼って相場の倍ほどの値段を入れたが、茂左衛門一人は大胆にもその半値で入札した。当然、札は茂左衛門に落ちる。彼は翌日、できる限り立派に衣服を整えて柏木家に行き、事情を話して檜材を分けてくれるように頼むが、柏木家の方は、材木の手持ちがないと、彼の頼みを断る。

 ここからが度胸と知恵のみせどころだ。柏木家の出方を予期していた茂左衛門はさっそく町奉行所に出頭。柏木家が檜材を買い占めていて、日光修復の御用木にとワケを話して頼んでも、品物がないといって分けてくれないので、何とかしてほしい-と訴え出たのだ。奉行所の召し出しにはゼロ回答というわけにいかず、柏木家はようやく20~30本の檜材を渡した。

しかし、それくらいではどうにもならないことから、茂左衛門は再び奉行所に行き、町役人を案内して、かねがね調べておいた柏木家の貯木場に行き、そこにあるだけの檜材に全部刻印を打ってしまった。その数が御用材入用分よりはるかに多かったので、不届き千万というので柏木家は闕所(家財没収)のうえ、主人・太左衛門は伊豆の新島へ、手代は三宅島・神津島へそれぞれ流罪になった。
こうして、まんまと茂左衛門の思惑通りの流れになって、彼は出世の糸口を掴んだのだ。彼はその檜材で無事、日光御用を務め、それでもなお残木が金高にして2万両ほどあったという。まさに、度胸と知恵あるいは、人間的な器量の大きさがこうした幸運を呼び込んだといえよう。

 柏木太左衛門は7年後に許されて島から帰るが、自分を陥れた茂左衛門が盛大にやっているのを見て、よほど悔しい思いをしたのか、恨みに思ってのことか、食を断って死んでしまった。そのため日光御用材の代金も受取人がなく、自然に茂左衛門のものとなり、ますます奈良屋は盛んになったという。
 この話の真偽のほどは定かではない。ただ、元禄期に奈良屋茂左衛門が、名前の知られた大材木商になっていたことは、史実にある。徳川林政史研究所には、茂左衛門が津田平吉を願い人に立てて、尾張藩に木曽檜材都合3100本を金2万3146両2分余で払い下げてくれるよう願い出た史料が残っている。

 茂左衛門は1714年(正徳4年)に死ぬが、一代で築いた資産は総額13万2530両と、9000両ほどの道具類だ。これは銀に換算すると約9100貫目となり、単純比較すると、三井高利の遺産の2倍を上回る巨大な金額となる。ただ、この間に通貨改鋳があるので、正確な比較は難しい。
 茂左衛門はこれを妻・総領・二男・親類・家来出入りの者の五者に配分している。そして遺言状の中で、たとえ手代がどんなに勧めても、商売事や公儀事には一切手を出さぬよう、また店賃や金利がかなりあるはずだから、その半分は火事などの非常に備え、残る半分で無駄を省いて質素に生活するように-と指示している。

しかし、『奈良茂旧記』によると、この指示にもかかわらず、この巨額の遺産はその子供と孫との二代でほぼ使い果たし、父から譲られた1万5000両もする屋敷も手放している。あの世の茂左衛門にとっては、不肖の子供たちよ-と、歯ぎしりする思いだったに違いない。皮肉にも、この屋敷を買い取ったのは三井八郎右衛門だった。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

広瀬宰平・・・住友財閥の基礎固めをした実業家で関西財界に貢献

 広瀬宰平は住友400年余の歴史の中で、中興の元勲と称えられている人物で、明治の住友の初代理事となった。また、安治川下流の改修に尽力、関西財界の基礎確立に貢献した五大友厚らと大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪商船会社を創設した。

 宰平は1828年(文政11年)、近江国(現在の滋賀県)野洲郡八夫(やぶ)村(現在の中主町八夫)に住む北脇理三郎の次男として生まれた。幼名は駒之助。北脇家は元武士の出身で土地の名家だった。宰平の姉の田鶴子は、武佐村の代官伊庭正人に嫁いで伊庭貞剛を産んでいる。この貞剛が後に叔父宰平に勧められて当時泉屋と称していた住友へ入って二代目総理事となった。宰平自身、父の弟、叔父治右衛門が住友にいたため、住友家に勤めることになったのだった。

 宰平は1836年(天保7年)、9歳のとき、叔父に伴われて伊予国(愛媛県)に赴き、11歳のとき別子銅山の勘場(事務所)に奉公することになった。そのときの泉屋の家長(当主)は九代友聞(ともひろ)だった。以来、彼は友視、友訓、友親、友忠、登久、友純と、57年間に七代の家長に仕えることになる。

 当時の住友の家業は、別子銅山の経営と製銅業、現代風に表現すれば精錬製銅業を営んでいた。別子銅山は1690年(元禄3年)に発見され、初めは4000尺の山頂に、純銅の塊がゴロゴロしているのを拾ってくるだけでよかったが、以来150年ほどの間に出銅率がすっかり落ち、どんどん坑道が深くなって、坑内に水がたまり、この水抜きに苦しんで、さらに別の坑道を掘るというように、経営が苦しくなってきた。

そして別子銅山は、第十代友視の頃は毎年1万両という巨額の赤字を生み出す厄介ものになっていた。そのうえ飢饉が続き世の中が不景気で、鉱夫の給金も払えなくなってきた。そんな頃、宰平がこの別子銅山へ奉公したのだ。

 別子銅山の勘場には4000人の男女が暮らしている。支配人以下住友系から派遣されてきた店員が詰め、給料の計算や出銅量の記録や食料の配給、資材の手当てその他の事務一切を処理している。11歳の駒之助は支配人の甥なので、古株社員や悪童たちも表面は遠慮しているが、裏ではさんざんしごきや意地悪をされた。その厳しさに耐えて、彼はよく働いた。

26歳になったとき、当主友視のお声がかりで、大坂から嫁をもらうことになった。さらに結婚後は、家長の意向で江戸店の支配人、広瀬義右衛門の養子となって広瀬家を継ぐことになっていた。最初の妻とは死別。1860年(万延元年)、義右衛門は町子と再婚した。

 米騒動が起こるなど幕末の動乱期、別子銅山の舵取りを任されたのが広瀬宰平だ。38歳と若い総支配人だった。折から二度目の妻とも死別するという家庭的な不幸を忘れるためにも広瀬は献身的な働きで別子銅山の危機に立ち向かった。1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに勝った薩長軍が大坂・住友本店の吹所(精錬所)に封印、銅蔵の製品を没収してしまった。また、別子銅山も川田小一郎(後の日銀総裁)を隊長とする一隊が接収にきた。

こうした窮状に住友本店の番頭たちが会議し、別子銅山の売却を当主に進言。当主もやむなくこれを受け入れようとしたとき、広瀬が熱弁を振るう。そして「住友が今日あるのは別子銅山のお陰、別子は当家の大黒柱です…」などと説き、当主を翻意させたのだ。
 その後、広瀬はフランスから技師を招くなど改善と近代化を進めて別子銅山を蘇らせ、五代友厚とともに大阪財界の発展に貢献した。

(参考資料)佐藤雅美「幕末『住友』参謀 広瀬宰平の経営戦略」、邦光史郎「豪商物語」

藤田伝三郎・・・維新後に藤田組を設立、大阪財界の指導者として活躍

 明治新政府は、一口にいって藩閥政治といわれている。この時代、政府高官となった同藩出身者の実業家とが互いに協力し合って、様々な事業を興していったケースが少なくない。いわゆる「政商」だ。土佐藩の岩崎弥太郎(三菱の創始者)がそうだ。そして、長州藩を代表する政商が藤田伝三郎だ。

藤田伝三郎は天保12年(1841)、長州藩で酒造業を営む藤田半右衛門の四男に生まれた。16歳になると父の方針で、長兄が投げ出した醤油醸造業を引き受けて独立することになった。3年間で赤字の店を立派に建て直した。そして、国事に身を捧げる決心をした。

元治元年(1864)、京都に上った伝三郎は志士たちに混じってよく働いた。高杉晋作が組織した、身分制度の枠を取り払った奇兵隊に参加した伝三郎は、そこで山県有朋や井上馨といった、後に大物となった人たちと知り合った。明治新政府が生まれると、山県や井上は政府に入って高官に出世した。ところが、伝三郎は奇兵隊でよく働いたのに、少しもその功績が認められないので、不満の余り勝手に隊を離れて大阪へ向かった。

大阪で一頓挫あった後、伝三郎は大賀幾助を頼って、その店員となって製靴業を始めた。当時陸軍は輸入した靴を兵隊に支給していたが、あまり高くつきすぎるので、何とかして国産に切り替えたいと望んでいた。兵部大丞の山田顕義はかつての先輩だった。そうした伝手をたどって軍用品の製造を始める手がかりを得た伝三郎は、身を寄せていた大賀幾助の業務を継承して製靴業に乗り出した。

そこへ、かつての幕府の上級武士で、明治維新となって斎藤辰吉から中野梧一に名を改めて、新政府に登用されていた中野が、官を辞して大阪に来て、再びめぐりあう。中野は米相場で巨万の富をつかんだところだった。ともに西南の役の軍需品を調達して大いに儲けることになったが、明治初年はまだ政情不安で、佐賀の乱や神風連の乱などが相次いだから、軍靴などは製造が追いつかないくらいだった。伝三郎は中野と組んで征討軍の物品調達を引き受け、軍靴はむろんのこと軍服や糧食や革鞋まで納めて、藤田組という企業体をつくり上げるまでに成長していった。軍需品よりまだ儲かったのは軍夫の斡旋だった。

西南戦争の儲け頭は岩崎弥太郎で、政府から新式の汽船を10隻も買ってもらったばかりか、多額の輸送費を支払われて“戦争成金”となった。東の岩崎と並ぶ西の戦争成金は藤田伝三郎で、軍靴、軍服、紺足袋といった衣類のほか、人夫、軍夫の請負、周旋で大いに儲けた。月収5円か6円で暮らせた時代に約300万円の巨富を得たから、世間の羨望の的となった。

明治14年、初代会頭五代友厚の後を受けて、伝三郎は大阪商法会議所の会頭に就任、関西財界のリーダーの一人となった。彼は関西において大阪硫酸会社、太湖汽船、大阪紡績会社、南海鉄道会社(現在の南海電鉄)などの運営や設立・参画、さらに欧米式の大阪商品取引所の設立、初代理事長なども務めた。明治45年、彼の死後、彼の事業は甥の久原房之助が継承した。

(参考資料)邦光史郎「豪商物語」              

益田 孝・・・三井物産の創始者で、三井財閥の発展に尽力

 益田孝は、戊辰戦争を徳川の直属軍の士官として官軍と戦った経歴を持ちながら、明治に入って大蔵省に勤務し後、日本型商社、三井物産を誕生させ、三井合名会社理事長に就任するなど三井財閥の発展に尽くした。生没年は1848~1938年。

 益田の生家は佐渡金山の地元役人で、父親の鷹之助は計数に強かった。佐渡奉行所で勘定方を務め有能だった。そのため箱館奉行所にスカウトされ支配調役の下役として転任した。1858年(安政5年)、この父とともに箱館へ移住した11歳の益田孝は奉行所内の学塾へ通って剣道槍術、馬術、漢学などの教育を受けた。また箱館ではこれから必要になるというので、英語も学んだ。まもなく父が外国奉行の下役として江戸詰めになり、一家は下家に住んだ。

孝も外国語修得見習生となり、試験に合格し正式に任官、幕府の役人の末席に連なることになった。彼は14歳で元服し、通弁御用の下役として出仕した最初の日に福沢諭吉、寺島宗則に茶を汲んだという。

1863年(文久3年)、益田はフランスへ派遣された幕府の池田使節団の一員として、父親とともに渡欧した。8カ月ほどの洋行だったが、実際にヨーロッパ文明に触れたことは、16歳の孝にとってすべてが驚きであり勉強だった。ナポレオン三世の招待で大演習を見学したり、製鉄所を視察した。
帰国後、孝は横浜税関勤務となり、まもなく新設された騎兵隊に入って少尉に任官した。わずか21歳で騎兵隊の隊長になったが、肝心の幕府の屋台骨が揺らいで、遂に瓦解してしまった。明治新政府の誕生だ。

いち早く両刀を捨て、丁髷(ちょんまげ)を切った孝は横浜に移住して、これからは商業の時代だと考えた。彼は紹介されて高島嘉右衛門という商人と知り合った。後に易断で有名になった高島も当時は貿易商だった。孝にとってラッキーだったのは、その頃の横浜にはまともな英語を話せる日本人がほとんどいなかったことだ。外国商館は中国人を雇い、中国人は日本人の引き取り屋(今の輸入商)と筆談で取引していたのだ。孝はアルバイトで通訳の仕事を引き受けた。こうした中で彼は、アメリカ人のウォールシ・ホールと親しくなった。この人物はアメリカ一番館という商館を経営していた。生糸を扱っているウォールシ・ホールのクラーク(番頭)となった孝は、得意の英語を操って、貿易実務のABCを学び、騎兵隊の隊長から貿易商の番頭に変身した。

明治5年、共同で事業をする約束になっていた岡田平蔵と所用で東京へ出かけた際、大森で当時の政府高官で長州閥有力者、井上馨と知り合う。この井上の勧めで孝は官界に入り、大蔵省四等出仕の辞令をもらって、いきなり造幣権頭(長官代理)に任じられた。ところが明治6年、台湾遠征問題をめぐって薩長間に対立が起こり、さらに井上馨と佐賀閥の江藤新平の間に予算をめぐる争いが生じて、遂に井上は大蔵大輔を辞めることになった。親分が辞めてしまったのでは孝だけとどまってはいられない。幕臣の出身だけに官僚の世界は住みづらかった。

ただ、井上との関係はまだまだ続く。浪人中の孝に井上から先収会社をつくって貿易をやりたい。ついては3万円の資本金を出すから、後は運営をやってくれと一任される。孝は社長として腕を振るうが、最大の資本家で大阪支店の責任者でもあった岡田平蔵の急死で頓挫。同社は井上や伊藤博文らと、とくに関係の深かった三井に引き継がれることになった。井上がいち早く三井の大番頭、三野村利左衛門と話をつけたのだ。とはいえ、井上は社主こそ三井武之助だが、これはお飾りで、全権は社長と決まった。そのうえで、孝に社長を任せる-という。その一言で孝の腹は決まった。この会社は三井の物産方という意味で「三井物産」と名付けられた。

この後、事業家益田孝は三野村利左衛門の商法を模範として、政府がらみのビッグビジネスをものにし飛躍。三井合名の理事長となり、団琢磨、藤原銀次郎、武藤山治など優れた後継者を育てた。

(参考資料)三好徹「明治に名参謀ありて」、邦光史郎「豪商物語」、小島直記「三井物産社長」

安田善次郎・・・日本最初の民間銀行の発足など安田財閥の創始者

 天保9年(1838)10月、富山藩の下級武士、安田善悦の家に、長男岩次郎が誕生した。後の安田財閥の創始者、安田善次郎である。父は武士とはいえ、先祖伝来の武家ではなく、士分の株を金で買ったもので、それも御長柄と呼ぶ最下位の身分だった。 安田岩次郎は、上級武士と出くわして雪の中に土下座する父の姿と、上級武士を駕籠脇に従えた、大名貸ししている大阪の両替商の店員の姿をみて、金を儲けて何が何でも千両分限(資産家)になるぞと決意。そして、商人として成功するにはやはり江戸へ出る必要がある-と密かに決心した。

 彼は跡取り息子なので、とても親の許しが得られまいと考え、こっそり家を抜け出した。しかし一度目は失敗してすごすごと帰ってきた。だが2年間、岩のように黙って働いたが、やはり江戸へ出たいという思いは募る一方だった。しかしいくら頼んでも許されないので、二度目の家出を敢行した。安政3年(1856)、江戸市中に入った岩次郎は、その巨大さに目をみはった。想像を絶する家数の多さと人口の巨大さと驚くほどの繁盛ぶりに圧倒された。しかし、それだけにここなら稼げるという思いも深まった。彼はかねてから目をつけていた富山出身の銭湯主を訪ねて、手伝いをさせてほしいと頼み込んだ。銭湯を手伝っているうちに、日本橋の乾物屋の小僧に就職した。ところが、富山出身者を頼ったため、郷里の父にたちまち居所が知れてまたもや連れ戻されてしまった。

しかし三度目の正直で、安政5年(1858)、今度は父を説き伏せて、ようやく晴れて江戸へ旅立った。今度は玩具問屋に奉公した。毎日、岩次郎は天秤棒を担いで得意先へ玩具を卸して回った。足掛け3年勤めてやっと慣れたところで、主人夫婦に娘婿に望まれ、自分が跡取り息子なのでこれを断り、日本橋小舟町の広田屋に再就職した。広田屋は両替と海産物の販売を兼ねていた。両替といっても金銀貨を銅貨や鉄銭と引き替えて手数料をもらうという、いわゆる銭両替商で細かい商売だった。ここでもよく働いたが、3年経つと彼は考えた。このまま奉公していたのでは千両分限はおろか、十両の金も貯まらない。といって、手元にある3両の金では資本金になりそうになかった。

そこで彼は煙草をやめ、これまで趣味で集めていた煙草入れを売り払った。広田屋の退職金と持ち金合わせた25両で、横浜の町で見かけたスルメの山に賭けた。博打のようなものだったが、これを江戸へ運び売り、17両儲けた。その結果、42両の資本金となった。ここで彼は三つの誓いを立てた。
その一、他人を頼らず、一日も早く独立して商人として身を立てること。

その二、虚言を排し、正直に世渡りすること。
その三、生活費は収入の八割をもって充て、残金は貯蓄すること。

彼は日本橋の表通りに露店を出すと、戸板の上に小銭を並べて、道行く人の両替を引き受けた。元治元年(1864)3月、ようやく乗物町に間口三間半、奥行き五間半の小店をみつけて一カ月二分一朱の家賃で借り受けた。いよいよ一軒の店を持つ身になったので、父の名を一字もらって善次郎と改名した。安田善次郎の誕生だ。

慶応2年(1866)、彼は年間4000両の利益を上げ、その2年後には番頭と手代7人、下女3人を雇う江戸有数の両替商にのしあがって、2000両の資産家となっていた。当時、多くの富商・名家が明治維新の“大波”に足許をすくわれ、回収不能のため業績を落とし、どんどん脱落していった。これに対し、善次郎は巧みに変動期を利用し、財を成した。

明治12年(1879)3月、大蔵省出納局収税預り人となり、明治13年1月には安田商店を改組、国立銀行条例によらぬ日本最初の民間銀行、安田銀行を発足させた。先にスタートさせた第三銀行とは組織が違うが、その違いを巧みに使い分けて伸びていく。

安田はまた、朝野新聞主筆の成島柳北らとともに共済五百名社をつくった。日本での生命保険会社だ。銀行と保険会社を揃え、いよいよ金融資本としての体制を固めた。そして、これを機に東京商法会議所(いまの商工会議所)議員と府会議員をやめた。このとき安田は43歳。普通ならそろそろ名誉職や公的なポストがほしくなる頃だが、安田は仕事師として徹するために社外の役職から降りたのだった。明治12年11月、日本最初の貿易金融機関である横浜正金銀行(後の東京銀行、いまの三菱東京UFJ銀行)を発足させた。

 こうして一流実業家の仲間入りをすると、築き上げた財産をいかに子孫に遺すべきか考え、明治45年、資本金1000万円の合名会社“安田保善社”を設立して、全関係事業の統括機関とした。

(参考資料)城山三郎「野生のひとびと」、邦光史郎「剛腕の経営学」