後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

後桜町天皇 近世2代にわたる幼帝の御世、王権を支えた最後の女帝

 日本では、古代には6人8代(推古、皇極・斉明、持統、元明、元正、孝謙・称徳)の女帝が在位したが、江戸時代に入っても2人の女帝が誕生した。一人は徳川将軍家を外戚に持った第百九代・明正天皇であり、もう一人がここに取り上げた第百十七代・後桜町(ごさくらまち)天皇だ。この後桜町女帝は当初、中継ぎとして即位した。だが、後事を託した天皇が若くして崩じたため、結局2代にわたる幼帝の即位を受けて、上皇となっていたこの女帝が、院にあって表舞台に立って王権を支えた。後桜町天皇の生没年は1740(天文5)~1813年(文化10年)。在位は1762(宝暦12)~1771年(明和7年)。

    後桜町天皇は百十五代・桜町天皇の第二皇女。幼名は以茶宮(いさのみや)、緋宮(あけのみや)、諱(いみな)は智子(としこ)。母は関白左大臣・二条吉忠の娘で、桜町女御天皇女御の藤原舎子(青綺門院)。姉に早世した盛子内親王、異母弟に第百十六代・桃園天皇がいる。1762年、後桜町天皇は異母弟の桃園天皇が22歳の若さで崩じ、残された皇子たちも5歳と3歳と幼すぎるため、中継ぎとして即位した。女帝23歳のときのことだ。女帝と第百十六代・桃園天皇の父、第百十五代・桜町天皇がすでに崩御していたため、即位と同時に、幕府の存在により限られた王権ではあるものの、奈良時代の称徳天皇以来の朝廷の主である女帝が誕生することになった。

    ちなみに、徳川三代将軍家光の時代に、家光の妹・東福門院和子の娘、明正天皇が即位している。ただ、この女帝は朝廷と幕府の関係を改善させるという重要な狙いがあったものの、父帝の後水尾(ごみずのを)天皇が上皇として院政を執っていたため、明正天皇自身が朝廷の主となることはなかった。

    こうして即位した後桜町天皇は、中継ぎの女帝として皇嗣の甥の英仁親王の教育に大変熱心で、政務においても大事に際しては摂政に自らの意見を示して、再考を求めることもあったといわれる。1770年、すでに2年前に立太子していた英仁親王(13歳)に譲位して上皇となり、女帝の中継ぎとしての役割は無事終えるはずだった。

    ところが、甥の後桃園天皇が1779年、不幸にも父帝と同じ22歳の若さで崩じてしまった。しかも、後桃園天皇の遺児が1歳にもならない欣子内親王のみで、後桃園天皇の弟皇子は7年前に早世していることから、当時の正統とされた皇統、第百十四代・中御門天皇の血統の男子は途絶える事態となってしまったのだ。そのため、上皇となっていたこの女帝が再び表舞台に立たなければならなくなった。

   後桜町上皇は、桃園天皇の女御で後桃園天皇の皇太后の一条富子と協議し、上皇の従弟の閑院宮家の祐宮を選び、この傍系からの継承という弱い立場にある天皇の基盤を強めるため、祐宮を後桃園天皇の女御の近衛維子の養子とし、後には後桃園天皇の遺児で皇統の継承者の欣子内親王を立后させ中宮とした。このとき即位させた祐宮が現在の皇統の祖となる光格天皇だ。光格天皇は朝権再興の中核となる英明な君主といわれているが、その天皇を即位させ、育て上げた人こそ後桜町上皇だった。

    女帝の誕生は多くの場合、皇位継承予定者が幼年のため、直ちに即位できないといった事情が存在し、いわば“中継ぎ”的な意味で女帝(中天皇=なかつすめらみこと)が即位して皇位継承予定者の成長を待つケースが多い。明治以降は戦前の旧皇室典範と戦後の現皇室典範において、皇位継承資格者は男系の男子に限定されたことから、女帝が即位する可能性は失われており、この後桜町天皇がいまのところ最後の女帝ということになっている。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」

『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」

『I f 』27「老中・阿部正弘が健在なら幕末の様相は変わっていた」
 幕末、1840年代から1850年代、幕閣にあって幕府の民主的改革と開国政策
を推し進めようとした老中・阿部正弘が、急逝することなく健在なら、幕末
の様相はかなり変わったものになっていたでしょう。

老中・阿部正弘が健在なら条約調印、安政の大獄はなかった?
安政の大獄が起きる前、阿部伊勢守政権時代、大久保一翁ら幕府の一部の
官僚の中で、実は近代政治への芽が生まれていました。もし、老中阿部が
急逝していなかったら、恐らく井伊直弼が幕閣に名を連ねることはなく、
したがって大老・井伊直弼よる独断での日米修好通商条約の調印、そして
これに反対した武士、公家に対する大規模な弾圧、安政の大獄もなかった
のです。

開明派の阿部は当時の薩長より進歩的で欧州の近代政治に理解
阿部は備後福山藩主として男女共学などいろいろと新しい試みを手掛けた
人で、構想では日本を全国統一の郡県制度にして、国軍を設置し、開国政
策を進めようとしていました。大久保一翁もこのころ、議会民主制国家に
しようといったことを上申しています。
 つまり、この時期は薩摩や長州などの在野の人よりも、阿部をはじめとす
る幕府の官僚たちの方がヨーロッパの近代政治に理解があったということで
す。そのため、薩長側が安政年間あたりは、ペリー来航以来の外圧に対応で
きるような新しい政治体制はどうあるべきか、アイデアを持っていなかった
のに対し、大久保一翁や勝海舟といった人たちはいろいろな知恵を持ち出し
ていました。それも、幕府中心の社会ではなく、もっと大きな日本国という
観点に立った国づくりをしなければダメだと最初に言い出したのは、むしろ
幕府側の人たちでした。

当時は西南雄藩より幕府に人材が豊富だった
私たちが今日、正史として学んだ日本史を、明治維新からさかのぼって考
えると、実に意外なことなのですが…。今日では西南雄藩、とりわけ薩・
長・土・肥の諸藩では優れた人材を数多く輩出し、幕府には人材がいなか
ったかのように表現されることが多いだけに、このあたり実態を正確に把
握しておきたいも。のです。“勤続疲労”や“マンネリ”で酷評されるこ
とが多かった幕府も、案外捨てたものではなかったということでしょう。
 明治維新後、ジャーナリストになって「幕府衰亡論」を書いた福地源一郎
が、もし阿部伊勢守があと何年か生きていれば、ああいうことにはならなか
っただろうといっています。老中・阿部正弘が亡くなった後、日本という国
の、きちんとした責任と展望をもって決断できるリーダーが幕府にいなくな
ったのです。

安政の大獄が開明派に幕府重臣を失脚させたことが幕府崩壊に
 徳川幕府の存続をのみ願う井伊直弼が、安政の大獄で橋本左内、吉田松陰、
さらには薩長をはじめとする西南雄藩の開国・勤皇派の志士たちを粛清。ま
た、大老・直弼が指揮した幕政に批判的だった多くの開国・開明派の幕府の
重臣たちを失脚させたことが、やがて幕府を崩壊に導いた一因といえるでし
ょう。

 

 

 

 

 

 

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」

『I f 』26「後水尾天皇の幕府に無断での譲位、女帝誕生は後水尾の反撃」
 徳川幕府の三代将軍家光の時代、後水尾天皇が幕府に無断で退位し、女性
の明正に皇位を譲りました。一般には徳川幕府の基盤が磐石なものとなった
のが家光の時代といわれます。武家諸法度に続いて、禁中並びに公家諸法度、
天皇の叙任権、そして紫衣(しえ)事件などで公家や天皇・朝廷にも干渉。
そのため精神的に屈辱を味あわされた天皇が追い詰められて退位、二代将軍
徳川秀忠の娘、中宮・和子(まさこ)が後水尾との間でもうけた明正(めいし
ょう)天皇に譲位させられたと考えがちです。

後水尾天皇の退位・譲位は幕府の専横に対する反撃・嫌がらせ
 しかし、これは実は後水尾天皇が退位も譲位も、本来、幕府に事前に相談
し、形としては幕府の了承を得たうえで実行するはずのところを、いきなり
幕府には無断で推し進めたことでした。後水尾天皇の幕府に対する反撃とい
うか、強烈な嫌がらせだったのです。
 改めてこの「にわかの譲位」事件を記すと、1629年(寛永6年)11月8日早
朝、異例の参内命令が出され、困惑する公卿たちを尻目に、皇位継承という
重大事が、前関白・近衛信尋すら知らされないまま、ごく一部を除いて秘密
裡に運ばれたのです。このとき退位したのは後水尾天皇ですが、新たに践祚
(せんそ)したのは年齢わずかに7歳という少女、興子(おきこ)内親王(=明正
天皇)でした。異例中の異例な天皇交替劇だったのです。

武家政権の下での初の女帝は驚天動地の事態
 「承久の乱」(1221年)に武家が天皇廃立を行ったのを最初に、幕府に無
断で行った皇位継承は事実上無効、との慣例が定着していました。それを無
視した退位強行でした。また、武家の世になって以来、例をみない女性の天
皇の出現は、男性原理・家父長制の権化というべき徳川幕府にとって、驚天
動地の事態でした。
 興子内親王は大御所・秀忠の孫にあたり、この践祚によって徳川将軍家は
外戚となるわけですが、和子の入内は決して女帝の登場を期待して行われた
わけではありませんでした。“首謀者”後水尾天皇はまんまと幕府を出し抜
いて譲位を敢行したのでした。
 江戸時代の天皇は、非常に気の毒な存在でした。石高はわずか4万石です。
「士農工商」の農民に対する年貢ではないですが、“生かさぬように、殺さ
ぬように”という、家康以来の精神が、天皇・朝廷に対しても及んでいまし
た。

 

『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」

『I f 』25「旧体制を覆す『大化の改新』は本当にあったのか?」
 「大化の改新」(645年)は果たして本当にあったのか?日本史学者、考古
学者が著した文献によると、大化の改新以後の政策は蘇我氏によって準備さ
れていたもののようです。天皇家の外戚となり、権勢を飛躍的に強化した蘇
我氏独裁のなかで、その大臣・蘇我馬子が構想していた政治路線を入鹿が断
行していくのです。

大化の改新以後の政策は蘇我氏が立案したもの
が、その専横ぶりに嫌気した中大兄皇子、中臣鎌足、軽皇子らが、軍事ク
ーデターを起こして入鹿を殺害し、その政策を横取りしたのです。正確に
いえば、蘇我氏の本家が滅んだ後、皇極朝を継いだ孝徳天皇(軽皇子)が実
権を握って蘇我氏の政治路線を実行していったのです。これが実態なら、
真に政治改革「大化の改新」と呼べるものは存在したのかどうか、いささ
か怪しくなってきます。

中大兄皇子、皇極・斉明天皇は保守派、だから孝徳天皇と対立した
 従来は、実際の推進者は中大兄皇子(後の天智天皇)というのが通説のよ
うです。ただ、中大兄皇子も母親の皇極・斉明天皇も保守的な、反動的な人
物だったと思われます。その点、孝徳天皇は新しい官僚制をつくるなど、蘇
我氏の路線に乗って非常に進歩的です。皇極・斉明天皇とは同母姉弟関係、
中大兄皇子とは甥・叔父関係にありながら、こうした対立があったからこそ
孝徳は、中大兄と斉明の一種のクーデターに遭い、難波宮にひとり残されて
失意のうちに亡くなったのです。

大化の改新で政治方針の変更はなかった
だから、今日「大化の改新」と呼称していますが、正確には政治方針の変
更はなかったようなのです。となると、「大化の改新」の実態は、軍事ク
ーデター「乙巳(いっし)の変」で、為政者が蘇我蝦夷・入鹿から中大兄
皇子一派に代わっただけで、外交を含め政治方針は継続されたままだった
ということです。

 

『I f 』24「天武天皇が天智天皇の同母弟なら『壬申の乱』はなかった」

『I f 』24「天武天皇が天智天皇の同母弟なら『壬申の乱』はなかった」
 いささか唐突に受け止められるかも知れませんが、天武天皇(当時は大海人
皇子)が天智天皇の同母弟なら、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)は
起こらなかったでしょう。

天武天皇は天智天皇の同母弟ではなかったから「壬申の乱」が起こった
 読者の方には、「何を言っているんだ。現実に天武天皇は天智天皇の同母
弟ではないか」といわれそうですが、私たちが教科書で学んだ、いわゆる
“正史”ではその通りですが、真実は恐らく違うと思います。違うから、同
母弟ではなかったから「壬申の乱」という戦乱が起こったのだと思います。
作家の井沢元彦氏ら何人かの人が指摘していることですが、天武天皇と天
智天皇は同母兄弟ではなく、天武の方が天智より年上だったのでしょう。
しかも、天武は大和朝廷の実力者だったが、天智の正統な後継者ではなか
ったということです。

天武は正当な後継者でも「年下」でもなかったから戦乱になった
 天武が正統な後継者で「年下」なら、「年上」の天智が自然死するのを待
って、それから皇位奪取にかかればいいわけです。さらには『日本書紀』が
伝えるような、天武(当時は大海人皇子)が急ぎ出家し間一髪、吉野に逃れ
るという切迫した場面に遭遇することはなかったはずです。だが、天武が年
上で、正統な後継者でもないとしたらどうでしょう。悠長に構えてはいられ
ません。

天武は天智が4人の娘を嫁がせても味方につけておきたい実力者
 また、天武は天智がぜひとも味方につけておきたい実力者でした。だから
こそ、天智は自分の娘を4人も次々と天武(当時は大海人皇子)に嫁がせて
いるのです。この中で最も有名なのが鸕野讃良(うののさらら)皇女(後の持
統天皇)です。この時代、近親結婚は珍しくなく、叔父と姪の結婚も決して
タブーではありません。しかし、どう考えても4人も「兄」の娘をもらうと
いうのは尋常ではありません。極めて異例です。むしろ、これは天武と天智
の二人が兄弟ではなかったことの有力な傍証といえるでしょう。

『日本書紀』が天武の年齢を明記していないのは年上を隠すため
 ご存知の方は多いと思いますが、実は歴代天皇の中で天武天皇だけが『日
本書紀』に年齢が明記されていません。これは、天智と天武が本当の兄弟で
はないことを隠すためと、天武のほうが年上だということを隠さなければな
らなかったからなのです。
 後に整理し再構築されたものとは明らかに異なる、このような様々な裏事
情があったからこそ、天智の子、大友皇子と大海人皇子との間で平和的な協
議で決着をつけることはできず、皇位継承をめぐる戦乱「壬申の乱」が必要
だったということです。

『I f 』23「ハリスに帯同してきた通訳がもう少し善人だったら」

『I f 』23「ハリスに帯同してきた通訳がもう少し善人だったら」
 幕末、日本に開国を迫り、アメリカの総領事ハリスが連れてきた通訳ヒュ
ースケンが、特別な野心も持たない、普通の通訳官だったら、“唐人お吉”
の悲劇は起こらなかったでしょう。

野心家の通訳ヒュースケンが起こした”唐人お吉”の悲劇
 お吉は、伊豆下田の船大工・市兵衛とおきわの二女として1841年(天保12
年)に生まれました。お吉のもとに下田奉行所の役人から「アメリカの総領
事として下田に赴任しているハリスの看病をしてほしい」という話が持ち込
まれたのはお吉が17歳のときのことです。ハリスは病気がちなので、看護婦
を提供してほしいというのが、その依頼の主旨だったようです。
 ただ、ここで言葉の壁が立ち塞がりました。ハリスは日本語がしゃべれま
せん。そのため、通訳としてヒュースケンという当時25歳の青年を連れてき
ていました。実はこのヒュースケンが曲者(くせもの)でした。このとき
ハリスの要求を通訳した言葉に大きな問題があったのです。当時、日本には
看護婦という言葉もないし、もちろんそういった職業の女性もいません。
 ヒュースケンはある意図を持って「看病」ではなく、「身の回りの世話を
する女性」を提供してほしいと下田奉行所の役人に伝えたようです。その結
果、ハリスにお吉、そしてヒュースケンにもお福という15歳の娘がつけられ
たのです。若いヒュースケンは、自分が夜の相手に日本女性を欲しいものだ
から、わざと「身の回りの世話をする女性」と通訳したのでしょう。

通訳の要求どおり慰安婦として送り込まれた二人の女性
 とはいえ、日本側も簡単に了承したわけではありません。当時、下田奉行
所は「そのような先例がない」と断っています。ところが、ハリスは持病の
胃病が悪化し、吐血するまでになり、「この要求が受け容れられないならば、
これまでの条約交渉は破談にする」と厳しい対応で迫ってきたのです。結局、
この強硬なハリスの要求に負けてハリスとヒュースケンに、それぞれ若い女
性を差し出すことになったというわけです。

お吉に与えられた給金は破格の月10両、支度金25両
 お吉とお福、この二人の女性に与えられた給金と支度金をみると、その大
金に驚かされます。お吉の手当ては、何と月10両です。支度金も25両与えら
れています。仮に1両をいまの金額にして8万円と換算しても月給が80万円と
いうわけです。いかに外国人相手の看護婦といっても、月給80万円は破格の
待遇といわざるを得ません。

下田市役所所蔵の史料に残る役人たちの苦慮のあと
 しかも、下田市役所所蔵の関係史料の中に、「もし彼女たちの生理がとま
ったらどうするか」といった内容の文書もあったといいます。つまり、奉行
所の役人たちは、彼女たちが妊娠したときのことを心配していたのです。
こうしてみると、本人たちに細かい説明があったかどうかは別にして、お吉
とお福はそれぞれ、ハリスとヒュースケンの侍妾として送り込まれたことは
確実です。

浜辺に残る石塚が、生まれた混血児を闇に葬った墓-の記録も
こうして、“唐人お吉”の悲劇が現実のものとなったのです。お吉の菩提
寺の下田の宝福寺住職・竹岡範男氏が著した『唐人お吉物語』には、米国
総領事館が置かれていた玉泉寺の近くの柿崎の浜辺には小さな石塚がいく
つもあり、それが外国人と下田の女性との間に生まれた混血児を闇から闇
に葬った墓だという古老の話が掲載されています。
記録によると、ハリスおよびヒュースケンの相手をした女性として、お吉
・お福・おさよ・おつる・お松らの名前が挙がっています。では、なぜ
お吉だけが「唐人お吉」などと蔑視され続けたのでしょうか。それは、お
吉が別格の米国総領事ハリスに提供された女性だったことや、その後の
生き方の違いにあったのでしょう。

”総領事ハリスの女”のレッテルがついてまわったお吉は投身自殺
お吉に与えられた給金は圧倒的に多かったようです。また、お福は、ヒュ
ースケンに抱かれたことなどきれいに忘れて普通の結婚をしています。こ
れに対し、お吉は“総領事ハリスの女”というレッテルがずっとついてま
わり、明治になって女髪結いや小料理屋を営み、男と同棲したこともあり
ましたが、1890年(明治23年)稲生沢川に身を投げ亡くなりました。日本
の開国の裏にこうした女性の悲劇があったのです。

『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」

『I f 』22「仕官の途を譲り運が拓け、将軍家政治相談役に昇った新井白石」
 新井白石は江戸中期、第六代将軍家宣(いえのぶ)、七代将軍家継(いえつ
ぐ)に仕えた学者政治家ですが、この出世の経緯をみると、実は初めに師の
木下順庵が推薦してくれた加賀藩への仕官の途を、同門の加賀出身の岡島
仲道に懇願されて譲ったことによって、彼の道が開けたのでした。

出世のきっかけは甲府藩主・徳川綱豊に仕えた37歳のとき
 白石の出世のきっかけは、彼が37歳になったときのことです。師の木下
順庵の推挙で、甲府藩主・徳川綱豊に仕えるようになりました。ところが、
この綱豊が子供のなかった五代将軍綱吉の養子になり、家宣と名を改めて
六代将軍に納まったので、自然と彼も横滑りして幕臣に昇格、1000石取り
にのしあがったのです。全く人間の運は分からないものです。

初めに師に推挙され譲った仕官の口は加賀100万石の大藩
白石が、師の順庵に初めに推挙された加賀藩(100万石超)に仕えていれば、
一生、地方の藩儒で終わっていたでしょう。加賀藩前田家の城下では知ら
れる存在になっていたとしても、幕府政治に影響を及ぼす器量の人物にま
でなることは絶対になかったはずです。それが、たまたま同門で加賀出身
の人物に懇願されて、最初、師に推挙された仕官の途を譲った結果、後に
めぐり巡って天下の将軍家の政治相談役にまでなってしまったのですから
…。
 ところで、白石が断った最初の仕官の途、加賀藩といえば地方とはいえ、
学者として身を立てるには、大藩だけに好待遇が期待できる、いわば一流会
社のポストです。これを他人に譲ろうというのですから、自分本位の現代人
にはちょっとマネのできないことだったといえるでしょう。

同門の人物に懇願されて譲った白石を師・順庵は賞賛
当時としても、これは珍しいことだったようで、師の順庵も、白石のこの
所業に涙を流して感心したといわれています。事実、当時も学者としての
就職は、喉から手の出るほど魅力のあることだったはずです。そこを、じ
っと我慢したのは見事です。その代償として、後の甲府藩主への仕官につ
ながったとすれば、利己心を抑えた初めの白石の判断は十分報われたとい
えるでしょう。

 

『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」

『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」
 徳川十一代将軍家斉といえば、在位50年間に1妻40妾を抱え50数人の子供
をつくりました。だが、将軍として求められる治世能力はほとんどなかった
といわれます。世継ぎを設けることは将軍の重要な役割の一つでしょうが、
本来彼は、将軍位に就ける立場ではなかったのです。

十代家治の世継・家基急死で転がり込んだ将軍の座
 それは、彼にとっては思わぬ幸運に恵まれた故のものでした。十代将軍・
家治の世嗣・家基が急死したため、八代将軍吉宗の孫で一橋徳川家二代当主
の父・一橋治済(はるさだ/はるなり)と老中・田沼意次(おきつぐ)の画策で
将軍の座が転がり込んだというわけです。
 世嗣・家基は、幼年期より聡明で文武両道に才能を見せ、成長するにつれ
政治にも関心を深めていました。それだけに父・家治の期待も大きかったの
です。そんな家基が1779年、鷹狩りの帰り、立ち寄った品川の東海寺で突然
体の不調を訴え、そのわずか3日後に急死してしまったのです。享年18(満
16歳没)。それまで元気に鷹狩りしていたわけですから、いかにもその死は
不自然で、不可解です。

家基の不可解な死に流れた毒殺説
そのため当時、毒殺説が囁かれました。首謀者として、家斉の父・一橋治
済や、家基が老中・田沼意次の幕政に批判的だったことから、田沼意次一
派の名も挙げられました。しかし、家治にほかに男子の子がいなかったた
め、父と田沼の裏工作通り家斉の世継ぎが決定。1781年、家斉は家治の養
子になって江戸城西の丸に入り、1786年の家治の急死を受け、1787年、15
歳で十一代将軍に就任したのです。徳川歴代将軍の中でも傑出した絶倫、
記録男・将軍家斉の誕生でした。

 

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」

『I f 』⑳「徳川宗春がもう少し器量の大きい人物だったら」
 尾張藩第七代藩主・徳川宗春は、八代将軍徳川吉宗の政治を批判、反逆し
た人物というのが定説となっています。

吉宗を上回る部分も少なくなかった宗春の目指した政治理念
 確かにそういう側面はありましたが、宗春の目指した政治理念は、吉宗の
それを上回る部分も少なくなかったのです。それだけに、宗春がもう少しう
まくPRし、周囲を十分納得させたうえで、理想を具体化していくという手
順を踏んでいたら、あれほど完全に浮き上がった存在になってしまうことは
なかったと思います。また、あれほど吉宗側の思い通りの“反逆児”に仕立
て上げられていくことはなかったのではないか-と惜しまれます。
 宗春が吉宗に対して抵抗し続けた理由は、尾張徳川家という家格に対する
誇りです。いわゆる御三家は、徳川家康が自分の九男・義直、十男・頼宣、
十一男・頼房にそれぞれ分家を起こさせたことに端を発しています。尾張徳
川家、紀州徳川家、水戸徳川家がそれです。しかし、水戸徳川家は、三代将
軍家光のころから「副将軍」という非公式な職名が与えられ、同時に江戸定
府を命ぜられました。参勤交代を免ぜられたのです。

尾張徳川家口伝の御三家は本家・尾張徳川家・紀州徳川家を指した
そんなこともあって、尾張初代の藩主義直は自分の子や家臣団に、「御三
家は徳川本家と尾張徳川家並びに紀州徳川家をいい、水戸は入らない。父
の家康公が、徳川家に何かあった時は御三家でよく相談するようにといわ
れたのは、徳川本家と尾張徳川家と紀州徳川家の三家で相談しろというこ
とだ。その意味では、尾張徳川家と紀州徳川家は徳川本家と同格である」
と告げていたのです。

宗春は政治の根源に「慈」「忍」に二文字を掲げた
 宗春は藩祖・義直の精神に則(のっと)って、藩政を執り行おうと考えて
いました。彼は政治の根源に「慈」と「忍」の二文字を掲げ、領民の立場で
政治を考える、いわば「安民」の思想で尾張藩を治めようとしたのです。彼の
政治理念を書いた『温知政要』によると、「治める側の立場に立つのではな
く、治められる民の立場に立ってものを考えよう」という精神が一貫して流
れているのです。そのため、役人のあり方としては、「民の身になって政治
を考える」ことを求めました。そして、『温知政要』の内容をみると、明ら
かに「吉宗政治批判」あるいは「反吉宗」の項目が随所にみられます。

「倹約」と「法律」偏重の吉宗政治を批判
 吉宗の政治の根本は、「倹約」と「法律」に集約されます。これに対し、
宗春は①倹約一辺倒では人間の心が狭く小さくなってしまう。確かに倹約は
大切だが、度が過ぎると世の中が暗くなる。人間も生きがいを失う②法律は
少ないほど、よく守られる。やたらにこれをしてはいけない、あれもしては
いけないなどと法律を多くすれば、窮屈で民は守らなくなる③治者は下情に
通じていなければいけないことはいうまでもないが、下情に通じ過ぎて細か
い物の値段まであれこれ口を出すようになるのは、かえって民が迷惑する-
といった具合に、吉宗政治を批判しているのです。倹約一辺倒の吉宗、ある
いは法律を次から次と新しく出す吉宗に対し、真っ向から「あなたの政治は
間違っている」と宣言したのです。
 さらに、宗春は「質素・倹約」の吉宗を挑発するように、町に賑わいを取
り戻すべく、芝居見物の禁令を解いたり、触れ(法律)の壁書きを撤去、質
素に行うことされていた祭礼を元に戻すなど、服装、髪の結い方まで含め細
かな禁令をすべて解いてしまいました。これでは、吉宗側も黙って見過ごし
てはいられません。こうして、究極的には吉宗側に「尾張宗春には謀反心あ
り」のレッテルを貼らせてしまったのです。

賢君・吉宗には正論は通らず、「謀反心」ありのレッテル
 客観的に判断すれば、為政者としてみれば宗春に理があるのは明らかで
す。しかし、相手によってその判断基準は大きく異なってきます。宗春にと
ってはターゲットとした相手が悪かったということです。徳川十五代将軍の
中でも吉宗は賢君で、「享保の改革」など善政を行った人物として記されて
います。それだけに、彼が意図した当時のそうした社会規範の下では、必ず
しも正論は正論として通りません。

人間的器量で吉宗に劣った宗春
 また、宗春の人間的“器”も吉宗と比較すると、小さかったようです。吉
宗は、どんな時にも絶対に顔色を変えて部下を叱りつけるようなことはしな
かったといいます。その点、宗春は自分の意を迎えて協力するものはどんど
ん登用しましたが、そうでないものは排除してしまいました。これが名古屋
城内に混乱をもたらしたようです。家臣団に十分説明し、理解、納得させる
努力を怠ったというわけです。
その結果、「お家大事」の家臣団の中で、将軍吉宗に“喧嘩”を売るよう
な言動を続ける藩主に不信感を招き、尾張藩内においても宗春は浮き上が
り、孤立化していったのです。不器用な生き方が惜しまれます。

 

 

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」

『I f 』⑲「岩倉具視らの奇策がなければ、征韓論争の逆転勝利はなかった」
 1873年(明治6年)、8月17日の正院で、参議・西郷隆盛を隣国朝鮮へ使節
として派遣することが決定しました。岩倉具視ら政府首脳が欧米視察に出か
けている留守の間の「留守政府」で決められたことでしたが、ここから征韓
論争が始まったのです。

朝鮮への使節派遣決定を”ウルトラC”の奇策で覆した岩倉
 明治新政府の首脳には、薩摩藩・長州藩の出身者が主要ポストに就いてい
ましたが、公家出身者では三条実美(さねとみ)の太政大臣、岩倉具視の右
大臣の二人が双璧でした。そして、この三条実美太政大臣、岩倉具視右大臣
のとき、「明治6年政変」が起きているのです。
岩倉らの帰国後、改めて開かれた10月14~15日の正院でも西郷らを派遣す
ることが決められました。このとき、西郷らの派遣論に反対したのが岩倉
と大久保利通らでした。とくに大久保は「時期尚早」として反対論を唱え
ましたが、結果的には敗れました。
 ところが、ここから岩倉の巻き返しの“ウルトラC”が始まるのです。岩
倉と大久保は太政大臣の三条実美に辞表をたたきつけたのです。公家には似
つかわしくないほどの策士といわれた岩倉とは全く違い、三条実美は本質的
にはできる限り対立を避け、混乱を回避したい、実直な公家です。岩倉、大
久保の辞表提出という“奇策”のショックで、精神錯乱に陥った三条は卒倒
してしまったのです。

大久保と組み、太政大臣・三条実美の性格を読んだ計算ずくの勝利
三条が卒倒するところまで計算していたかどうか分かりませんが、岩倉は
「自分らが身を引くといえば、動揺した三条がショックで政務を投げ出す
のではないか」と読んでいたのではないでしょうか。ともかく、三条が倒
れた以上、明治天皇は三条に代わる誰かを太政大臣にしなければなりませ
ん。そうしなければ政界の混乱は収まらないと考えました。そのとき、裏
から大久保が手を回していたといわれています。その結果、天皇から太政
大臣代理の指名を受けたのが岩倉だったのです。
 太政大臣代理となった岩倉は、正院の決定を天皇に奏上しました。そのと
き、「派遣に決定しましたが、私は反対です」と自分の考えを述べているの
です。そこで、“飾りもの”でしかない天皇は、本来尊重すべき正院の決定
を無視し、「すべて岩倉の意見通りにせよ」という勅書を出してしまったと
いうわけです。
 すべて、太政大臣・三条実美の性格を読み切ったうえでの、岩倉の計算ず
くの作戦勝ちでした。本当なら、もはや打つ手なしの状態からの“起死回生
の”逆転勝ちでした。

『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」

『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」
 柳生新陰流は徳川将軍家の御家流として繁栄しました。将軍家指南役とし
て柳生宗矩(むねのり)は大名にまでなりました。だが、これは柳生家にと
ってはこれ以上望めない幸運に恵まれた結果だったのです。
 柳生三代といわれる宗厳(むねよし)・宗矩・三厳(みつよし)と徳川家
との関わりは、初代・石舟斎(せきしゅうさい)宗厳と家康との関係がそも
そもの始まりです。1594年(文禄3年)5月、家康は柳生の評判を聞き、一度
実際に自分の目で柳生の剣の使い方をみてみたいと考え、宗厳を招いたので
す。このとき宗厳は子の宗矩を連れていき、求められるまま、家康の面前で
柳生新陰流の妙技“無刀取り”を披露しました。
 家康は一目見ただけで気に入ってしまい、即座に「入門したい」といい、
宗厳・宗矩父子を召し抱えたいと考えたのです。ところが、あいにくその時
点では、宗厳は関白・豊臣秀次に仕える身で、結局まだ仕官していなかった
子の宗矩が家康に召し抱えられることになりました。後に但馬守の受領名を
与えられ、柳生但馬守として知られています。宗矩はこのとき24歳、1000石
からのスタートでした。

関白秀次が健在なら柳生家親子は戦場で対立する可能性があった
 柳生家がこれだけ繁栄、徳川の剣、「天下の剣」になるには、宗矩だけの
才覚、努力では恐らく無理だったでしょう。なぜなら、既述の通り、父・宗
厳は関白秀次に仕えていたのですから、秀次が健在なら早晩、父子が双方の
指南役の一人として対立する、あるいは戦場で激突する可能性があったので
す。
 また、そうした状況になれば、徳川家も柳生家を信頼して重く用いること
はできなかったはずです。とくに戦になりそうな情勢になれば、疑心暗鬼で
宗矩は出世どころか、徳川家の中枢からかえって遠ざけられたのではないで
しょうか。

秀頼誕生による関白秀次の挫折に救われた柳生親子
 ところが、ここで歴史の流れは柳生家に味方しました。そうした事態をつ
くってくれたのは天下人・豊臣秀吉でした。秀吉は側室・淀君が産んだ秀頼
を跡継ぎにするため、秀次排除に動いたのです。宗矩が徳川家に召し抱えら
れた翌年、宗厳が仕えていた秀次は高野山で切腹させられたのです。こうし
て柳生家はちょうど、うまいタイミングで豊臣家から徳川家に乗り換えられ
たわけです。
 三代将軍家光のとき、宗矩は「惣目付」の一人に任命され、これが後に、
諸大名・旗本の監察役、「大目付」と改称されるのです。大目付の中で、
柳生家は別格でした。これと連動して出てくるのが「十兵衛隠密説」です。
柳生十兵衛は、宗矩の長男で、名乗りを三厳といいますが、一般的には十兵
衛の名でよく知られています。山岡荘八の『柳生十兵衛』、五味康祐の『柳
生武芸帳』などに登場するヒーローです。

『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」

『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」
 「本能寺の変」(1582年)で明智光秀に討たれた織田信長の出自が平氏で
なく、源氏だったら、信長はいま少し生き延び、名実ともに征夷大将軍か関
白、あるいは太政大臣となって信長治世の時代が続いていたのではないとの
見方があります。

本能寺の変の前、朝廷は信長を征夷大将軍にする腹を固めていた
 本能寺の変が起きる3カ月ほど前、信長は甲斐の武田勝頼を討ち、武田氏
を滅亡させています。その結果、朝廷ではこれで東国が治まったと判断して、
信長を征夷大将軍にする腹を固めていたようです。確実な史料がないので、
断定はできないのですが。
 ただ、そのことをうかがわせる公家の日記はあります。勧修寺晴豊
(かじゅうじはれとよ)の日記『日々記(にちにちき)』によって、このと
き朝廷では、信長に「征夷大将軍でも、関白でも、太政大臣でも、お好きな
官に任命しましょう」といって、信長側の反応を打診していたのです。そし
て、信長は征夷大将軍になりたいとの希望を持っていたようです。

光秀は平姓・信長の将軍出現を許せなかった?
 この朝廷とのやり取りを知り得る立場にいた織田家の家臣は、森蘭丸など
の小姓たちを別にすると、重臣クラスでは明智光秀だけでした。光秀は信長
の将軍任官を黙って見過ごすことができなかったのです。それはなぜか。
信長が平氏の人間だったからです。征夷大将軍には、古代の坂上田村麻呂
や、後醍醐天皇の皇子たちを別にすれば、武士では源氏の人間しか任命され
てこなかったのです。出自が美濃源氏の光秀にとって、そうした先例を破る
平姓将軍の出現を許すことができなかったのではないでしょうか。
 光秀謀反の真因については、怨恨説をはじめ諸説あり、いまだに謎です。
ライバル豊臣秀吉に追い越される不安、いつ織田家におけるその立場を追わ
れるかも知れないという不安が要因としてあったことは間違いないでしょ
う。が、一番の原因はこれまであまり指摘されていないことですが、信長に
よる「平姓将軍の出現阻止」だったのではないでしょうか。

家康は天下取りの展望が開けた時点で出自を平氏→源氏に
 そんなことが謀反を起こす大きな原因になるのか?と思われる読者の方も
おられるかと思いますが、実は武家社会においてこの出自は、非常に大事
な、ある場合には歴史を動かすモチベーションにもなるのです。当時、それ
まで流人の身だった源頼朝が、東国武士に担ぎ上げられて征夷大将軍とな
り、遂に鎌倉幕府を開くのも彼が源氏の嫡流だったからです。室町幕府の
足利家も、出自は清和源氏の流れです。また、徳川家康が系図上、一時は
そのルーツを平氏としていたにもかかわらず、天下取りの展望が開けてきた
時点で書き換え、出自を源氏としたのも、何よりも武家として征夷大将軍に
任じられるには、資格上、源氏の流れでなければならない、あるいは平氏の
ままでは難しいと認識していたからにほかなりません。
 いずれにしても、信長が本能寺で討たれていなければ、朝廷から信長が
征夷大将軍に任じられ、安土に幕府が開かれ織田政権が誕生。そうなると、
後継の豊臣政権への移行過程が変わり、恐らくその「安土・桃山時代=織豊
政権」の性格も実際の歴史とは異なったものになっていたことでしょう。

 

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」

『I f 』⑯「大久保利通が内務省を新設していなかったら」
 一般にはあまり広くは知られていないことで、少し専門的になりますが、
後に政官界のナンバーワンに躍り出た大久保利通の大出世のきっかけになっ
たのが、内務省の新設と、彼自らがそのトップの内務卿に就任したことなの
です。

内務省の新設と内務卿就任が大久保の大出世のきっかけ
  誰の目にも分かるきっかけは、1873年(明治6年)の征韓論争で西郷隆
盛、板垣退助ら征韓派5人の参議が“下野”したことでしたが、後の「大
久保独裁」は、実は冒頭に述べた内務省の新設および、自身の内務卿就任
が実態としては大きかったといえるでしょう。
 もし、征韓派参議の下野後、大久保が政権中枢に座を占めていたとして
も、効果的な権力掌握や政権運営の実を示せていなければ、あるいはこの
内務省の新設、内務卿就任がなければ、後の歴史ほど大久保による明治維
新政府の運営が円滑に進んだかどうか?殖産興業、さらには近代天皇制の
絶対的権力樹立に果たした役割からみると、それほどに重要なステップだ
ったということです。

内務省新設が「大久保独裁」体制への伏線に
 内務省は、それまであった大蔵省・工部省・司法省の三つの省から、殖産
興業関係と民政関係の部局を移管して新設されたもので、一等寮として勧業
寮と警保寮の二つが置かれました。これは、内務省の主な仕事が殖産興業と
警察の二つにあったことを如実に物語っています。とくに注目されるのは警
保寮で、これは司法省では二等寮だったものが、内務省新設とともに格上げ
されているため、内務省新設の狙いがそこにあったといっても言い過ぎでは
ありません。ちなみに、内務省の二等寮には戸籍寮・駅逓寮・土木寮・地理
寮が置かれていました。
 内務省の新設後、政府は内務省・大蔵省・工部省の三つの省庁が中心とな
り、しかも内務卿・大久保利通は地方官を指揮する広範な権限を持つことに
なり、「大久保独裁」と呼ばれる大久保政権が樹立されることになったので
す。

天皇の補佐役という形で中央集権化と天皇神格化をセットで推進
 近代天皇制の絶対的権力樹立に際し、この内務省、とりわけ警保寮の果た
した役割は極めて大きなものがあったと思います。というのは、警察権力が
それまでの犯罪人の捜査・逮捕といったレベルから、一挙に思想統制なども
含めた“公安”警察のレベルに引き上げられたと考えられるからです。
 大久保が征韓論争で手を組んだ岩倉具視も含め、彼らには西郷隆盛のよう
なカリスマ性はありません。むしろ明治天皇を頂点にいただくことによっ
て、自分たちはあくまでもその補佐役-という形を取りながら、実際には実
権を握る方法を取りました。その場合、「万世一系」という皇統を強調し、
それを神格化させることによって、天皇の権威を持ち出す道を考え出したと
いうわけです。つまり、明治維新政府の中央集権化の動きと、天皇神格化の
動きがセットになって推進されていったのです。

天皇の地方”巡幸”で民衆に「現人神」を印象付ける
 とはいえ、民衆にとって天皇は遠い存在でしかありませんでした。そこ
で、大久保らが考え出したのが天皇の地方“巡幸”でした。明治天皇の地方
“巡幸”をみると、1872年(明治5年)の近畿・中国・四国・九州方面への
“巡幸”を手始めに、ほぼ毎年この“巡幸”が行われ、天皇の「現人神
(あらひとがみ)」を民衆の中に強く印象付ける旅が繰り返されたのです。
 こうして明治維新政府で強固な基盤を築いた大久保は、幼友達で無二の親
友、西郷隆盛と最も激しく対立することになり、西郷が起こした「西南戦争」
(1877年)では、大久保自らが大阪に出向き、西郷討伐の最高指揮を執って
います。

 

『I f 』⑮「平将門が源頼朝並みの武家政権づくりの野望を持っていたら」

『I f 』⑮「平将門が源頼朝並みの武家政権づくりの野望を持っていたら」
 平将門は桓武天皇の曾孫で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)
の孫で鎮守府将軍・平良将(よしまさ)の三男です。将門は平安京に出仕し
て藤原北家の氏の長者、藤原忠平と主従関係を結びますが、935年に父・良将
が急死したため領国に戻ります。しかし、相続をめぐって争いが起こり、一
族の抗争へと発展します。

将門は939年「新皇」を宣言 国家への反逆者に
 抗争を続ける中で、将門は行き掛かり上、国司と対立。さらには常陸、下
野、上野など関東諸国の国衙を襲い印鑑を没収、各地の戦いで勝利を収め、
やがて、関東一円、いわゆる関八州(常陸・下野・上野・武蔵・相模・上総
・下総・安房)を支配下に治めました。しかし、当然、朝廷からは一連の行
動が敵対行為と見なされてしまいます。そこで939年、将門は不本意ながら
朝廷に反旗を翻し、京都の朝廷に対抗し、独自に天皇に即位して「新皇」を
名乗りました。これがいわゆる「平将門の乱」(935~940年)です。つまり、
将門は国家に対する反逆者となってしまったのです。

将門の本意は、あくまでも”義”の精神から出た行動
 しかし、将門は庇護を求めてきた、あるいは頼ってきた者に救いの手を差
し伸べたにすぎません。あくまでも“義”の精神から出た行動でした。まし
て、最初から関東独立国構想を描いていたわけではありません。ですから、
「新皇」宣言も彼自身の意識としては、国家反逆などという、そんな大それ
たことを仕出かした、あるいは決して野心から、あの行動に出たわけではな
いのです。

将門に武家政権構想があれば、歴史は違っていた
 鎌倉に幕府を開き、日本で初めて武家政権をつくった源頼朝が、歴史の表
舞台に登場する250年前のことです。もし、この時点で将門が頼朝のような
武家政権づくりの野望をもっていたとしたら、もしくは頼朝に近い緻密な武
家政権構想があれば、将門を頼りとした、あるいは彼に親近感を抱いていた
周辺武士団の動きも出てくることが予想され、もう少し効果的な連携が生ま
れたのではないでしょうか。
そうした状況が生まれれば、征東大将軍の関東到着前に、下野の押領使だ
った藤原秀郷および平貞盛らの兵によって、940年(天慶3年)、あれほど
簡単に敗れることもなかったはずです。平安京の天皇に対抗して、関東独
立国樹立の宣言をした将門の乱は、わずか2カ月で鎮圧されてしまったの
です。
 将門に本格的な武家政権づくりの思いがなかったのは、端的にいえば彼の
出自および育った境涯から、思い詰めるほどのハングリー精神がなかったか
らでしょう。頼朝は源氏の嫡流として育てられましたが、14歳から34歳まで
の20年間もの長い間の流人生活を経験しています。これにひきかえ、将門は
桓武天皇五代の孫で、このことを将門自身強く意識し、行動していました。

 

 

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」

『I f 』⑭「菅原道真が学者の分を守っていたら」
 どんな人間にも出世欲・名誉欲はあるものです。それが後世、神として祀
られるような人物であっても変わらないようです。菅原道真は周知の通り、
学問の神様の天神様として祀られ有名です。京都の北野天満宮は、受験シー
ズンともなると、道真のご利益に与ろうと毎日、参拝客が後を絶たないとい
われ、今もって篤い信仰に支えら、民衆に親しまれている神様です。

大宰府への左遷には藤原氏の思惑に加え、道真にも非が
 菅原道真といえば、異例の出世で藤原氏の妬みを買い、事実無根の罪を着
せられ九州・大宰府に左遷・幽閉された悲劇の主人公です。ただ、道真だけ
が是で、藤原氏だけに非があってこの悲劇が生まれたのではないのです。実
は多くの場合見落とされがちですが、道真にも非を攻められても仕方がない
部分があったようです。
 基経の嫡子・時平が899年(昌泰2年)、左大臣兼左大将に任じられたと
き、道真が右大臣兼右大将に任じられ、ライバルとして拮抗する形になりま
した。しかも、道真は長女の衍子(えんし)を宇多天皇の女御に入れ、名前
の伝わらないもう一人の女を斎世(ときよ)親王の妃に入れています。まさ
に、このころが道真の絶頂期でした。

藤原氏と同様、天皇との姻戚関係づくりに走った道真
 しかし、冷静になって考えてみれば道真は、藤原氏がやることと同じよう
に閨閥、天皇との姻戚関係づくりに走りすぎました。右大臣に昇り詰めたの
は良しとしても、道真は学者です。父・是善(これよし)も、祖父・清公
(きよきみ)も、学者として最高位であり、誇りでもある文章博士(もんじ
ょうはかせ)となっています。あくまでもトップクラスの学者として、ポス
トに固執する姿勢などは持たず、まして娘を宇多天皇の女御に入れるなど
は、藤原氏の神経を逆撫でするに等しいことで、決してやるべきではありま
せんでした。

文章博士として異例の速さでの昇進に学者仲間から妬み
 道真自身、23歳で文章特業生となり、877年(元慶元年)33歳で式部少
輔・文章博士に任ぜられ、その異例の速さでの昇進に学者仲間から白い眼で
みられ、妬みの対象になっているのです。そんな学者仲間の妬みに拍車をか
ける事態が進行していきます。880年(元慶4年)、父の是善が亡くなったの
です。父の跡を継いで、彼は菅原氏の私塾「菅家廊下(かんけろうか)」、
現代風に表現すれば、超一流私立大学の理事長兼総長に就任しています。36
歳のときのことです。
 学者たちは、羨望の眼差しといった生易しいものではなく、道真に嫉妬し
始め、彼を引きずりおろそうとし出したのです。その結果、886年には式部
少輔・文章博士を解任され、讃岐守に任ぜられているのです。つまり、讃岐
国の国司へ左遷されたのです。

阿衡事件の収拾、橘広相弁護の論陣張り、都に復帰
 したがって、道真はそのまま一生を讃岐国の国司として送らざるを得なか
ったかも知れません。ところが、讃岐国の国司在任中の887年、一つの事件
が起こったのです。阿衡(あこう)事件です。阿衡の紛議(ふんぎ)ともい
います。このとき、天皇は宇多天皇で、藤原基経を関白にしようとして、橘
広相に基経を関白に任ずるための詔を起草させました。問題はその詔に、
「阿衡に任ず」と書かれていたことでした。基経は、「阿衡は位のみで、職
掌を伴わないから、政治をやる必要はない」といって、完全なサボタージュ
を決め込んでしまったのです。政治が混乱したことはいうまでもありませ
ん。
 このとき、基経に対し意見書を提出し、橘広相弁護の論陣を張ったのが道
真でした。基経のやった無理が通れば、今後、学者の書く文章は萎縮してし
まう-という、学者の使命感のようなものが恐らくあったのでしょう。基経
をはじめとする藤原一族は、田舎国司の意見など無視していたようですが、
宇多天皇は道真の行為を重く受け止めていたのです。そこで、道真は幸運に
も国司の任期切れを待って、都に呼び戻されることになったのです。

学者が政治家に 若年の”蹉跌”の教訓は全く生かされず
 以後、道真は再びトントン拍子の出世をすることになります。しかし、
今度は学者としてではなく、宇多天皇は藤原氏の対抗勢力となることを期待
して、政治家として道真を遇しだしたのです。すると、学者仲間が「学者が
政治家になるとは何事か」と今度も攻撃し出したのです。
 ここで、道真は36歳のとき讃岐国の国司に左遷されたときの経緯を思い起
こすべきでした。自分だけが飛びぬけて昇進すれば、周囲の妬みが生まれ、
やがて自分に跳ね返ってくることを肝に銘じておくべきでした。
 若い時代の“蹉跌”の教訓は全く生かされませんでした。出世しても、政
治家・藤原一族とは一線を画し、道真自身が皇位をめぐる争いなどには一切
口をはさむような言動を慎み、学者の“分”を意識し守っていたら、最後の
大宰府への左遷は回避できたのではないでしょうか。

 

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」

『I f 』⑬「藤原不比等の出自が天智帝と無関係だったら」
 藤原不比等は持統女帝の信任のもとで①「養老律令」の制定②平城京遷都
③『日本書紀』の編纂など様々な優れた功績を残した人物です。そして、前
記の3つの事業に先立つ「大宝律令」の制定、藤原京遷都、『古事記』の編纂
にも最重要人物として関わっています。それは、不比等が父・藤原鎌足が信
頼の証として天智天皇からもらった二人の妻のどちらかに産ませた子か、も
しくは天智天皇の子ではないか-との謎の部分があるため、持統女帝は自分
の異母弟かも知れない不比等を自分の側近にし、重用した結果だとみられる
のです。

藤原不比等は本来出世しにくいはずの近江朝に縁の深い人物
 不比等は天智天皇をバックアップした藤原鎌足の遺児ですから、近江朝に
縁の深い人物です。また、不比等が育てられた山科の田辺史大隅(たなべの
ふひとおおすみ)と関係ある田辺史小隅(おすみ)は、「壬申の乱」のとき
の近江朝の将軍で、天武天皇が最も憎んだ中臣連金(なかとみのむらじかね)
の直系の配下の人物なのです。ですから天武天皇はもちろん、持統天皇の御
世も普通なら、不比等はなかなか出世できないはずです。

目を見張るスピード出世は、謎に包まれた彼の出自に起因
 ところが、689年(持統3年)、『日本書紀』に初めて現れるのです。不
比等31歳のときのことです。竹田王(たけだのきみ)ら8人とともに判事に
任じられ、直広肆(じきこうし)となったと記されています。判事というの
は刑部省の所属で、律を解釈する実務家です。突然変異のように実務官僚の
列に加えられ、以後、目を見張るスピードでのし上がっていくのです。
 不比等の、この異例の出世ぶりの背景にあるのが、謎に包まれた彼の出自
です。父・鎌足は654年(白雉5年)、天智天皇から紫冠を授けられていま
す。と同時にこのとき、天智天皇の二人の妻をもらって、自分の妻にしてい
ます。一人は采女(うねめ)の安見児(やすみこ)で、もう一人は鏡女王
(かがみのおおきみ)です。鏡女王は額田王の姉という説と、舒明天皇の皇
女という説がある女性です。

不比等は天智天皇の子の可能性 持統天皇には異母弟?
 今日的にみれば、少し異様なことといえるのでしょうが、当時、非常に親
しい王と臣下との間で、王が妊娠させた女性を臣下に渡すといったことが行
われていました。不比等は鎌足が紫冠を授けられた後に生まれた子ですから、
安見児か鏡女王の子供、つまり天智天皇の子でもある可能性があるわけです。
 天武天皇は天智天皇を憎んでいましたが、持統天皇は天智天皇が実の父で
すから、ひょっとしたら不比等は自分の異母弟かも知れないと考え、彼を自
分の側近にしたとも考えられるのです。

不比等と草壁皇子に連なる血脈とのつながりが権力の源泉
 不比等はまず、持統女帝の最愛の息子、草壁皇子(くさかべのみこ)に接
近していきます。彼は20代後半から30代にかけて、まだ無位だったにもかか
わらず、草壁皇子と非常に深い関係を持つようになります。草壁は死ぬとき、
有名な黒作懸佩刀(くろつくりかきはきのたち)を不比等に渡しています。
これはいま正倉院にあります。
不比等はそれを、持統女帝の孫、文武天皇に渡しています。そして若くし
て文武天皇が亡くなるとき、また不比等に返しており、不比等はそれを今
度は聖武天皇に渡しているのです。これは有名な説話で、史実です。それ
ぐらいに不比等と草壁および草壁に連なる血脈はつながっていたわけです。
無位だった不比等が、どうして草壁皇子に近づけたのか。その仲介者は明
らかに持統女帝でした。
 こうして律令国家の影の制定者、藤原不比等は後の藤原“摂関”政治体制
の礎をつくっていったのです。

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」

『I f 』⑫「島津斉彬が急死していなかったら」
 幕末の薩摩藩主・島津斉彬は開明派の名君の一人で、西郷隆盛、大久保利
通ら幕末から明治維新にかけて活躍する人材を育てました。

薩摩藩を産業国家に改造すべくいち早く着手した島津斉彬
 ペリーが浦賀に来航したとき、彼は欧州の近代文明の根源が、この半世紀
前から起こった産業革命にあると見抜き、薩摩藩を産業国家に改造すべく手
をつけ始めたのです。
まず幕府に工作して巨船建造の禁制を解かせ、国許の桜島の有村と瀬戸村
に造船所をつくり、大型砲艦十二隻、蒸気船三隻の建造に取り掛かり、そ
のうちの一隻、昇平丸を幕府に献上しています。また、彼は藩政を刷新し
殖産興業を推進。城内に精錬所、磯御殿に反射炉、溶鉱炉などを持った
近代的工場「集成館」を設置しました。この集成館では大小砲銃、弾丸、
火薬、農具、刀剣、陶磁器、各種ガラスなどを製造していました。

最新鋭の軍事力を装備、将軍後継問題で一橋派を推した斉彬
斉彬は当時、薩摩藩に富国強兵策を導入、軍事力を整備。同藩は西南雄藩
の中でも最新鋭の軍事力を備えていました。海外列強が日本に開国を迫る
中、幕府内は病弱の第十三代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題で紀州藩の
徳川慶福(よしとみ)を推す紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派とが朝廷を
も巻き込み対立していました。幕府の老中首座・阿部正弘と合議のうえ
斉彬は、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊
信、慶喜の実父・徳川斉昭らと強力に一橋派を推していました。斉彬は、
公家を通じて慶喜を擁立せよとの内勅降下を請願していたともいわれます。

大老井伊直弼の裁断で紀州派が勝利し開明派が敗北
ところが、1857年(安政4年)老中・阿部が急死すると事態が大きく変わっ
ていきました。急遽、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼の裁断で紀州派
が勝利。大老・井伊はその地位を利用して強権を発動し、反対派(=一橋
派)の大弾圧を開始します。「安政の大獄」(1858年)です。
敗れた斉彬は、抗議のため藩兵5000人を率いて上洛することを計画してい
ました。海外列強が日本への攻勢を強めている状況下、もはや旧来の幕府
の御法優先の対応では早晩、日本が侵略されてしまいかねないという危機
意識の下に、斉彬は朝廷を動かし、幕府に揺さぶりをかける腹づもりだっ
たのです。そんな斉彬の計画に期待する諸大名も少なくなかったのです。
しかし、そんな期待はその直後、見事に裏切られてしまうことになりまし
た。悲劇的な結末が待っていました。

反転攻勢へ軍事行動の直前、変死した斉彬
斉彬は上洛を前に7月8日、炎天下、鹿児島城下で大軍事訓練を敢行。陣頭
指揮した場面もあったといわれています。いずれにしても、斉彬はその閲
兵中、にわかに体調を崩し発病。高熱や下痢が続き、重篤な状態が続いた
後、7月16日、あっけなく亡くなったのです。まさに不可解な死でした。
西郷や大久保ら、さらに側近、開明派の幕府方官僚たちをも含め、周囲を
悲嘆にくれさせる死でした。享年50(満49歳)。死因は、薩摩藩医の診断
ではコレラと記録されているようですが、毒殺説も囁かれました。
 とにかく、斉彬にこのまま軍事行動されては困る幕府側の“闇”の力が働
いたのではないか。あるいは幕府の強い意思・意向を受けた勢力が、密かに
斉彬の抹殺に動いたとも考えられるのです。それほど、幕府側にとって斉彬
は、影響力の大きい怖い存在だったのです。また、斉彬にこのまま藩を委ね
たら、薩摩藩の行く末が危ういと考えた藩内部の保守勢力が、斉彬の上洛を
阻止するために毒殺したとの見方もあります。

斉彬健在なら、その後の幕末史はかなり変わっていた
 もし、この危機を乗り越えて斉彬が健在なら、その後の幕末史はかなり変
わったものになっていたのではないでしょうか。斉彬が藩兵5000人を率いて
上洛、大デモンストレーションを敢行していたら、合流する藩や脱藩志士た
ちが加わり、反幕勢力となっていた可能性があります。これに朝廷の意向が
乗ってしまうと、幕府にとっては大きなプレッシャーとなって、早晩、幕府
が瓦解に向かっていたかも知れません。一気にそこまでいかなくても、幕閣
が弱腰の対応に変わっていたことは十分考えられます。

 

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」
 平清盛は平安時代、日本で初めて武家政権を開いた人物で、武士では初め
て太政大臣となりました。しかし、清盛の大出世、運にも恵まれた側面はあ
るものの、実はその出自と決して無関係ではないようです。諸説あります
が、清盛の生母は祇園女御の妹という説が有力です。母の死後、この祇園女
御の猶子になったといわれます。そして清盛はこの祇園女御の庇護の下に育
てられたのです。祇園女御は白河法皇の晩年の寵妃です。また、『平家物
語』では懐妊した女御が清盛の父、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとあり
ます。詳細は定かではありませんが、つまり清盛は白河法皇のご落胤という
わけなのです。
清盛は保元・平治の乱(1156年・1159年)を経て、源氏との戦いに勝利。破
竹の勢いで実力者に昇り詰めていきます。清盛だけではありません。一門
挙げて目を見張る勢いで、急速に権勢拡大していきます。普通ならここで
牽制する勢力との対決があっても決して不思議ではありません。

わずか8年で武家では初の太政大臣に、平家一門の栄達を実現
ところが、そうした勢力が現れないまま、清盛はわずか8年間に正四位か
ら従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣に就くのです。これ
は決してただごとではありません。それは、やはり公然の秘密として、清
盛が白河法皇のご落胤、あるいは縁者だと認知されていたからではないで
しょうか。だからこそ、有力貴族、高級官僚も一目置かざるを得なかった
のでしょう。
その結果、清盛の強烈な統率力のもとに「平氏に非ずんば人に非ず」と豪
語するほどの平家の時代を築き上げられたのです。『源平盛衰記』による
と、平家一門の栄達は重盛の内大臣をはじめ公卿16人、殿上人30余人、そ
の他の国司や衛府の武官80余人を数えたといいます。
 しかし、清盛が白河法皇のご落胤でなかったら、あれほどの出世は望めな
かったでしょう。となると、権勢に満ちあふれた、あのような大規模な平家
一門全盛の時代は訪れていなかったのではないでしょうか。そう仮定すると、
後の歴史も幾分変わっていたと思わざるを得ません

 

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」

『I f 』⑩「大伴家持が藤原氏に対する対抗意識を捨てていたら」
 現存最古の歌集『万葉集』の実質的な編集者とされている大伴家持が、藤
原氏に対する対抗意識を捨てていたら、間違いなく彼はもっと出世していた
と思われます。『万葉集』は全20巻に及び、中に長歌と短歌合わせて実に
4500余首の歌が収められています。この4500余首の1割を超す479首もの歌が
大伴家持の歌なのです。

新興勢力・藤原氏に阻まれた大伴氏の権勢と出世の道
 こうしてみると、家持はよほど優れた歌人だったのでしょうが、彼は同時
に名門大伴氏の長、すなわち武人的貴族としての顔もあったのです。その面
からみると、家持は新興勢力・藤原氏の台頭を常に苦々しい思いで眺めてい
たに違いなく、またそれゆえに対抗意識を持ち続け、何度も出世の妨げにな
ったことは間違いありません。
 大伴氏の長としての立場を忘れることができたなら、歌人・大伴家持は藤
原氏と中立的な距離を保つことで、中央政界でももう少し重職に就くことが
できたのではないでしょうか。揺るぎない権勢を手にしつつあった藤原氏に
とって、当面敵とならない存在であれば、藤原氏も家持の処遇に作為的に口
をはさむことは避けるでしょうから、後代にも長く重んじられた『万葉集』
の最大の歌人、家持のより高い官位へ昇る道は開かれていたはずです。

物部氏と並んで軍事力の中心となっていた大伴氏
 そもそも大伴氏は、大和王権の段階から大連(おおむらじ)として、物部
氏と並んで軍事力の中心となっていた家です。一時衰えはしましたが、「壬
申の乱」(672年)のときに大海人皇子方について家運を挽回し、安麻呂・
旅人の活躍によって、名族復活を印象付けており、旅人は大納言まで出世し
ています。
 その旅人の長男が家持で、旅人の死後、大伴氏の長として一族を束ねる地
位にあったのです。しかも、それは苦難の道のりでした。藤原氏でない者が
置かれた宿命的なものでしたが、彼の一生は藤原氏の専横に対する不満の一
生でした。
 例えば757年(天平宝字元年)、橘奈良麻呂の乱のときには、家持自身は
これに加担しなかったが、一族の者が加わっていたということで、一時失脚
しています。この乱は、藤原仲麻呂(恵美押勝)の専横に反対する勢力が橘
諸兄の子、奈良麻呂を担ぎ出して反乱を起こしたものでした。
 また、762年(天平宝字6年)にも、反仲麻呂のクーデターが計画され、
今度は家持もそれに加わっていましたが、この計画は未然に発覚してしまい、
家持自身、官位昇進などでは相当なハンディを背負ってしまいました。

藤原氏への対抗意識が邪魔した家持の生涯
 その結果、家持は中納言どまりで、とうとう父・旅人の大納言の位まで昇
ることができませんでした。古く、大連として物部氏と並んで軍事部門を担
当する家だったという伝統から、当然のように782年(延暦元年)陸奥按察
使鎮守府将軍、784年(延暦3年)、持節征東将軍に任じられていますが、
これなどは大伴氏を中央政界から遠ざけてしまおうという藤原氏の陰謀によ
るものでしょう。邪魔者を遠ざけ、しかも危険な場所に送り込むということ
は、いつの時代にもみられることです。藤原氏にとっての対抗勢力の一つ、
大伴氏がこのような形で地方に追いやられたということです。

 

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」

『I f 』⑨「聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら」
 聖徳太子については様々な謎があります。突き詰めていえばその存在自体
が謎といわれます。実は聖徳太子という人物はいなかった-という説もある
のです。確実にいたのは厩戸皇子です。倭=日本という国を、対外的に決し
て野蛮な国ではなく、男性大王のもと、きちんとした治政がおこなわれてい
る国であることを対外的にPRするために、聡明で神がかり的な“聖徳太子
像”がつくられたようです。

蘇我馬子抜きに聖徳太子の事績は語れず
 聖徳太子には様々な事績や功績があったといわれています。太子は摂政と
して、「冠位十二階」制定(603年)や「十七条憲法」を制定(604年)し、
小野妹子を隋に派遣(607年、608年)し、隋との国交を開くなど華やかな活
躍をしたことになっています。しかし、その背後には蘇我馬子の強大な存在
がありました。当時の最高権力者、馬子の存在を抜きにして、聖徳太子を語
ることはできません。それが、どのようなことであれ、馬子の賛意もしくは
了解を得ずに進められたことはなかったはずです。
 しかし、ある時点で聖徳太子の「思い」と馬子の「思惑」にずれ、あるい
は隔たりができたとき、太子と馬子の間に対立が生まれたのです。聖徳太子
は仏教や道教を学んで、人間平等主義の思想を育てていきました。それとと
もに、仏教を政治の道具として利用する馬子に反発するようになっていきま
す。

聖徳太子の治政に立ちはだかった巨人・馬子
もともと馬子がどこまで仏教を理解していたかは疑問です。神祇権を持つ
物部氏に対抗するためと、大王家のカリスマ的権威を落とすために、仏教
を担ぎ出したまでで、敬虔な仏教徒だったとは思えません。馬子はリアル
な政治家、聖徳太子は理想主義的なロマンティスト。こんな二人が所詮、
合うはずがないのです。
その結果、太子の施政の、それまで確固とした庇護者だったはずの馬子
が、とてつもなく大きなカベとなって立ちはだかったのです。その時期は
恐らく、601年(推古9年)、聖徳太子が斑鳩に宮を建て、そこに遷った
ころからでしょう。太子は斑鳩宮にいってから、自分なりの政治や生活を
模索し、馬子と一線を画すようになり、自分は大王という意識を持ち始め
ていたのではないでしょうか。

馬子に敗れた聖徳太子、譲位の目消える
 608年(推古16年)、遣隋使・小野妹子の帰国と一緒にやってきた裴世清
(はいせいせい)が隋の皇帝・煬帝(ようだい)の使者として聖徳太子に
会います。このとき太子は倭王として応対するわけですが、裴世清は倭王は
聖徳太子だと完全に認識して帰っていきます。この後、610年(推古18年)、
新羅と任那の使者が来るのですが、このころから馬子は太子を警戒し、推古
女帝と手を組んで、太子から権力を奪い始めていくのです。

年少の太子が馬子の死後に照準を置いて治政に臨んでいたら…
もし、聖徳太子が蘇我馬子に敗れていなかったら、あるいは対等の関係を
保持できていたら、推古女帝から譲位を受け、太子は天皇になり(実は聖
徳太子は天皇になっていたという説もあるのですが)、太子一族の血脈を
その後も残していたかも知れません。対中国(隋・唐)を考えた場合、律
令のもとでは、女帝は考えられなかったわけですから。何事もなければ、
聖徳太子が皇位に就くのは自然な成り行きだったはずです。もちろん、
その場合、聖人君子的な太子像はもう少し薄れていたでしょうが。そうな
ると、太子は馬子より当然長生きし、その後の歴史はかなり変わったもの
になっていたのではないでしょうか。
 聖徳太子は622年(推古30年)に49歳で亡くなり、その4年後、蘇我馬子が
亡くなります。76歳ぐらいだったと思われます。ですから、聖徳太子と馬子
は20歳以上違うのです。太子が馬子の死後に照準を置いて、辛抱強く摂政と
して治政に臨んでいたら、太子自身、絶望することはなかったはずです。
惜しまれます。

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」

『I f 』⑧「藤原秀衡がもう少し長生きしていたら」
 奥州藤原氏の全盛期を築いた藤原秀衡。その秀衡がもう少し長命だったら、
その後の様々な歴史が変わっていたでしょう。

秀衡健在なら「平泉王国」の栄華は続いていた
まず奥州藤原氏による「平泉王国」はまだまだ続いていたはずです。秀衡
が健在なら、慎重に事を運ぶ源頼朝が奥州藤原氏に戦を仕掛けることはな
かったでしょう。頼朝にとって奥州藤原氏を攻め滅ぼすことは重要な課題
でした、が、かなり高い確率で、頼朝は秀衡の死を待つ作戦にでたはずで
す。
なぜなら無理に仕掛けるとすれば、豊富な財力に裏打ちされた「奥六郡」
の軍事力と、軍略の天才、源義経の指揮の下に逆襲されたら、鎌倉頼朝軍
は簡単に攻め落とすことなどできません。長期戦になってしまうからです。
それに伴うダメージを考えるなら、秀衡の死後がポイントとみていたはず
です。
 また、秀衡が健在で藤原氏の栄華が続いている以上、秀衡に匿われていた
義経も健在で、近い将来の対鎌倉軍の戦のための訓練や準備に忙しい日々を
過ごしていたでしょう。秀衡の全面的なバックアップがあれば、義経は縦横
無尽な働きをみせるべく、準備していたことは間違いありません。そうなる
と、秀衡が存命な限り、鎌倉の世と一定の距離を取りながら「平泉王国」も
命脈を保ち続けたのではないでしょうか。

秀衡は義経を匿い通すことを遺言
 ところが、1187年(文治3年)その秀衡が死んでしまったのです。60代半
ばでした。そして、後を継いだのが初代清衡、二代基衡、三代秀衡に次ぐ四
代目の泰衡でした。33歳でした。秀衡は亡くなるに際し、義経を匿い通すこ
とを遺言したと思われます。そのことは、泰衡がしばらくの間、頼朝からの
義経引き渡し渡し要求を突っぱねていることによって分かります。

秀衡の死後、わずか2年で平泉王国は滅亡
 しかし、奥州藤原氏にとって秀衡の死は大きな痛手でした。単なる一人の
当主の死にとどまりませんでした。継いだのが33歳の当主なら普通、問題は
ないはずですが、家の“束ね役”はそれなりの人格と見識を必要とするもの
なのです。泰衡が家督を継いでから、奥州藤原氏の権勢は下り坂になり、わ
ずか2年後、義経を攻めて殺し、やがて「北方の王者」と呼ばれた「平泉王
国」が、坂道を転げ堕ちるように滅亡に追い込まれていくのです。

 

 

 

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」

『I f 』⑦「田沼時代に異常気象と大飢饉がなかったら」
 田沼意次といえば、一般に賄賂をむさぼった悪徳政治家のイメージが強い
のですが、近年は彼が打ち出した、従前には見られなかった様々な政策が見
直され、評価が一新されつつあります。意次は、いわゆる由緒ある家柄の幕
閣・保守グループに足を引っ張られながらも、斬新な政策を次々に打ち出し
た開明派の政治家でした。

賄賂政治家から開明派の政治家に評価一新の田沼意次
田沼意次による政権運営がもうすこし続いていたら、江戸時代を通じて見
ても、もっとみるべき実績を挙げていたでしょう。少なくとも、時代遅れ
の松平定信による「寛政の改革」などよりは、客観的に見て経済政策面で
はるかに優れていたはずです。
その田沼意次が失脚した要因は、保守的な譜代大名たちの巻き返しによる
部分が大きかったのですが、この「田沼時代」、未曾有ともいえる飢饉や
異常気象が頻繁に起こったことが意次の足を引っ張ったのです。
 根本順吉氏の『歴史気象学の進展-“江戸小氷期”と飢饉』によると、江
戸時代は全体として寒い時代で、とくに寒い「小氷期」が3回あったといいま
す。この時期は冬の寒さが厳しく、夏も冷涼・多雨でした。そこで「田沼時
代」をみると、暴風雨・洪水・火山の噴火など、自然災害が相次いでいるこ
とに驚かされます。

未曾有の飢饉、異常気象に足を引っ張られた田沼政治
 例えば、意次が老中に就任した1772年(安永元年)、7月に九州で暴風雨、
8月上旬には東海から関東にかけて、やはり暴風雨と洪水、下旬には中国・
四国・近畿・東海各地を暴雨風と洪水が見舞っており、ちょうどその時期、
稲刈り間近で、せっかく実らせた稲が流されたり倒れたりして、農作物に甚
大な被害が出てしまったのです。元号の「明和」をやめて「安永」へ改元し
たくらいですから、被害の大きさは並みではなかったことが分かります。し
かも、前々年、前年は干ばつで、3年連続の不作になったのです。

相次ぐ火山の噴火、春に大雪、大地震、大飢饉頻発の不運
 しかも、どうしたわけか、「田沼時代」は、火山も活発な活動をしていま
す。1778年(安永7年)春と秋には、伊豆大島の三原山が噴火、この時期、
三宅島の雄山、浅間山、桜島なども噴火しているのです。こうした影響もあ
ってか、春の大雪など異常気象に見舞われています。1779年(安永8年)に
は4月に大雪が降っています。旧暦4月は現在の5月ですが、5月の大雪など
あまり例はありません。
さらにその年8月には、東海・関東から奥羽にかけての広い範囲に暴風雨
と大洪水の被害が起き、また大地震もあり、次から次に、まさに天災に狙
い撃ちにされたような状況でした。そして、決定的なものが1783年(天明
3年)の浅間山の大噴火です。この年も異常気象で、夏に綿入れを着なけ
ればならないほどの寒さだったといわれます。浅間山の噴火の火山灰が空
を覆い、冷夏に拍車をかけ、関東から奥羽にかけて大飢饉になりました。

保守グループの攻勢と息子・意知、後ろ盾・将軍家治の死で失脚
 こうした自然災害の場合、普通「あれは天災」と、為政者の責任にはしな
いものです。ところが、この意次の場合、常に保守グループが意次のあら探
しをし、「失政がないか」と虎視眈々とみており、天災をも意次のせいにし
ようとする動きがあったのです。
 さらにもう一つ、意次にとって不幸な事件が重なりました。1784年(天明
4年)、意次の子で若年寄になっていた意知(おきとも)が江戸城中で新番
士の佐野善左衛門政言(まさこと)に斬られ、それがもとで死んでしまった
のです。そして、意次にとって不運だったのは1786年(天明6年)、田沼政
治の後ろ楯だった十代将軍家治が亡くなったことだった。その結果、遂に保
守グループの攻勢に抗し切れなくなり、意次は政権の座から引きずり下ろさ
れてしまったのです。

陽の目見なかった田沼意次の斬新な政策
 このため、意次が打ち出した斬新な政策も、多くは陽の目を見ず頓挫、
実施・断行されないままに、葬られてしまいました。後は保守派の松平定信
などの全く新鮮味のない、場当たり的な政治に終始していきます。田沼意次
による政権運営が続いていたら、蝦夷地の開発はじめ、旧来の幕閣政治とは
一線を画した政治が具体化されたはずです。意次の挫折が惜しまれます。

 

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」

『I f 』⑥「『奥の細道』が単なる紀行文でなかったら」
 松尾芭蕉の有名な著作、『奥の細道』は優れた旅行文学の古典として今も
なお多くの人々に愛読されています。だが、この『奥の細道』には実は多く
の謎が隠されているのです。

同行した曾良の日記とは80カ所も日時と場所が異なる
 端的に言えば、芭蕉に同行した弟子・河合曾良(かわいそら)の日記との
食い違いが実に多いのです。曾良という人は几帳面な性格だったらしく、旅
をした場所と天候、それに日付を毎日欠かさず、初日からメモ風に書き残し
ていました。『奥の細道』が仮にフィクションだったとしても、曾良の日記
とは80カ所も日時と場所が異なっているのです。それは2日に1度の割合で違
いを見せています。こうなると、果たしてどちらが本当の行動だったのか、
首をひねらざるを得ない。

芭蕉には史跡を巡るほかに、別の目的があった
 曾良は師匠・芭蕉に同行していたはずなのに、日記と比較してみると、互
いに別々の宿に泊っていたり、会った人の名前や場所が違うなど、常に二人
が一緒ではなかったことが明らかになります。芭蕉は何か別の目的があっ
て、この旅に出て、弟子とは別行動を取る必要があったと考えれば、この食
い違いは納得がいきます。
 つまり『奥の細道』は、芭蕉と弟子の曾良が2日に1度ぐらいの割合で会い
ながらも、芭蕉が史跡を巡る旅をして句を詠むほかに、ある意味で、芭蕉は
重要な別の目的を持って旅をしていたことを裏付ける旅行記でもあった、と
見た方が自然です。したがって、『奥の細道』の日付・内容など事実とは明
らかに違う、加工が施されている部分があるというわけです。
 例えば伊達藩の平泉のくだりです。『奥の細道』では中尊寺の経堂に安置
されている仏像を見たことになっているのですが、曾良はここで仏像を見る
ことができなかったと書いています。

旅のペースが緩急極端・不自然で不可解な旅程
 また、不思議なのは旅のペースです。何かを追いかけるように急いだり、
あるいは何かを待つように何日も同じ場所に逗留しています。曾良の日記に
基づいて検証すると、現在の埼玉県の春日部から、日光を目指して歩き、6
日後に東照宮を参拝しています。そして、一泊すると福島県にほど近い黒羽
まで3日間で歩くという強行軍で、そこで今度はなぜか13日間も逗留していま
す。旅の疲れが出たとも考えられますが、普通の旅ならいかにも不自然で
す。こうした不自然、あるいは不可解な旅程が続くのです。
 『奥の細道』では福島に入るときに数時間で42㌔㍍歩いたようにすらなっ
ています。こうなると、芭蕉は単なる45歳の俳人ではなく、忍者のような頑
健な体力の持ち主だったということになります。

俳聖・芭蕉、実は”諜報員”説さえ浮上
 まだあります。芭蕉は仙台の松島をぜひ見たいと楽しみにしていたはずな
のです。ところが、なぜかこの松島では一句も詠んでいません。松島は伊達
藩にあり、その行程をみると仙台から塩釜を通り、松島そして石巻へと抜け
るのですが、各地でそれぞれ一泊しかしていません。二人はまるで逃げるよ
うにして、旅の目的でもあった名勝地を通り過ぎているのです。その後、
芭蕉のペースはまた緩やかになりますから、不可解としか言いようがありま
せん。
 こうしたことを考え合わせると、俳聖・芭蕉は実は諜報員だったのではな
いか、という説が浮上しても全く不思議ではありません。むしろ、そのよう
に考えた方がつじつまが合うようです。

 

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」

『I f 』⑤「乙巳の変で蘇我入鹿が殺害されていなかったら」
 蘇我入鹿は周知の通り、皇極女帝の時代、「乙巳(いっし)の変」で暗殺
され、それが大化の改新の口火となります。そして、蘇我本宗家が滅びます。
しかし、もしここで蘇我入鹿が殺害されず、この難を逃れていたら、彼は最
終的に大王位の禅譲を受けていたかも知れません。

学識者で大陸の情勢にも明るかった入鹿
 蘇我入鹿は開明的な人物で、学識も備えていました。遣隋使として中国に
渡り、隋・唐と24年間にわたって留学していた僧・旻(みん)は帰国後、学
問所、講堂を開いています。その講堂に入鹿も中大兄皇子、中臣鎌足も通っ
ています。その僧・旻が「わが講堂に入る者で、宗我(蘇我)大郎(=そが
のたいろう)より優れた者はいない」と伝えています。

入鹿は禅譲制で大王位に就くことを考えていた?
 通説では、入鹿は大王になることまでは考えていなかったといわれている
のですが、彼は相当な学識者で大陸の政治情勢や文化に明るい人物でした。
ですから、蘇我本宗家の権勢を永続させるためにも、大王位に就くことを考
えたはずです。
 入鹿が狙いとしたその方法が、中国帰りの学問僧たちによってもたらされ
た禅譲制という制度です。入鹿は、祖父・蘇我馬子の娘が舒明天皇の妃にな
って産んだ古人(ふるひと)大兄皇子を大王にして、その大王から位を禅譲
させるという方法を考えていたようです。実はこれは、隋・唐で行われた方
法なのです。

いくつもある、入鹿が大王位を意識していた傍証
 蘇我入鹿が大王位を意識していた傍証は実はいくつもあるのです。『日本
書紀』によると、入鹿の父・蝦夷が葛城の高宮で、中国の天子にのみ許され
る「八佾(やつら)の舞い」を行ったり、今来(いまき)に双墓をつくって、
これを「大陵・小陵」と呼ばせ、大きい方を自分の、小さい方を息子の入鹿
の墓と定めたとも書かれています。
それから、645年には甘橿(あまかし)丘に巨大な屋形を建て、蝦夷の家を
「上の宮門(みかど)」、入鹿の家を「谷(はざま)の宮門」と呼ばせ、
子供たちを王子(みこ)と呼ばせています。これらはすべて入鹿の発案で、
彼が父の蝦夷を説得して行ったことなのです。中国では禅譲の前に権力者
が皇帝と同じようなことをするのです。

最大の豪族の家に生まれたエリートの弱さが、野望を未達に終わらせた
 ここまで準備しながら、入鹿の野望はなぜ成就しなかったのでしょうか。
それは入鹿が最大の豪族の家柄に生まれたエリートで、人間の苦界を見ない
で育った点にあるのではないでしょうか。「乙巳の変」の主導者の一人、
中臣鎌足などは地を這うようにして育ち、そこからのし上がってきた人物で
す。そんな鎌足に比べると、やはり入鹿には性格の甘さが感じられます。
入鹿の野望(=大王位)を真っ先に見抜いたのは恐らくこの鎌足でしょう。

 

 

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」

『If 』④「足利尊氏が鎌倉で幕府を開設していたら」
 足利尊氏が幕府を鎌倉に置いていたら、足利氏による幕府政治も随分、様
相の異なったものになっていたでしょう。

南朝勢力の帰趨を大きく左右した幕府設置場所
 まず後醍醐天皇率いる吉野の南朝勢力が勢いを盛り返していたのは間違い
ないところです。楠木正成や新田義貞など後醍醐天皇の軍事勢力がそれまで
とは違った攻勢にでることも十分考えられます。それに伴って、南朝方に付
く勢力も出てきていたはずです。
 ただ、それには、天皇親政のスローガン一点張りではなく、武家に対する
論功行賞も約束する姿勢を打ち出すことが必要だったでしょうが。
 九州で勢力を挽回した尊氏は1336年(建武3年、延元元年)4月、上洛行
動を開始し、5月、楠木正成を大将とする建武政府軍を湊川の戦いで破り、
6月には再び入京に成功。そして、重要なのはこのとき、尊氏が光明天皇を
擁立した点です。一方、吉野に逃れた後醍醐天皇も「自分こそが正統の天皇
である」と主張したため、ここに北朝と南朝の二つが並立する60年にわたる
南北朝の争乱が始まることになったのです。

尊氏は「鎌倉」か「京都」か、幕府開設場所を諮問
 尊氏は1338年(暦応元年、延元3年)8月に待望の征夷大将軍に任命され
ました。将軍になれば、当然、幕府をどこに置くかという問題が、にわかに
クローズアップされることになりました。候補として挙げられたのは鎌倉と
京都です。源頼朝以来の武家政権の伝統から考えると、鎌倉ということにな
るでしょう。それが、京都に決められたのはどうしてなのでしょう。
 この問題を考えていくうえでヒントになるのが、1336年11月7日に制定され
た「建武式目」です。これは全文17カ条からなる尊氏による成文化した施政
方針というべきものですが、その冒頭に、幕府をそれまで通り鎌倉に置いた
方がいいか、他所(京都)に置いた方がいいか諮問した一文があります。
尊氏関係者の間でも意見が分かれていたことが分かります。上層武士たちの
多くは、鎌倉にそれぞれの屋敷を持っていたため鎌倉に幕府を置くことを主
張したでしょう。尊氏の弟・直義(ただよし)は「建武の新政」のときも
鎌倉の守りについていたので、鎌倉を主張したのではないでしょうか。

南朝勢力を牽制するため尊氏が「京都」に決断
 ところが、鎌倉主流と思われた情勢の中で、尊氏本人は鎌倉より京都の方
がよいと考えていたようです。一つは軍事的に、幕府を鎌倉に置くと、吉野
にいる南朝勢力が勢いを盛り返してくる可能性があるためです。吉野の動き
を牽制するためには、幕府は京都に置かなければならないという論法です。
そしていま一つは政治的な理由で、「国家行政権を握るには、国家の中央に
位置する必要がある」という考え方です。鎌倉にいて朝廷をリモートコント
ロールするのは大変です。それで京都に幕府を置いて直接的にコントロール
しようとしたのではないでしょうか。

鎌倉に幕府を置いていたら南朝の御所奪還の動きは強くなっていた
 もし、尊氏が周囲の意見に押されて鎌倉に幕府を置いていたら、後醍醐天
皇の配下の者たちが暗躍し、その京・御所奪還への動きは活発になっていた
でしょう。後醍醐天皇はかなり自己中心的な人物だったという印象は強いの
ですが、よくいえば「強烈な個性でぐいぐい引っ張って行った」ということ
です。賢明な判断に基づいて京都に幕府を置いた尊氏が京にいたにもかかわ
らず、後醍醐天皇はあれだけ粘り強く戦い続けたのですから。

 

 

 

『If 』③「蒲生氏郷が会津へ移封していなかったら」

 あまり知られていないことですが、天下人になった豊臣秀吉が最も恐れていたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。なぜなら氏郷は織田信長子飼いの直臣だったからです。

信長のもとで子飼いの直臣として育った氏郷
 氏郷は近江国(滋賀県)日野城主だった蒲生賢秀(かたひで)の息子です。賢秀は地方豪族にしては先見の明があり、それまで佐々木源氏系の六角氏に仕えていましたが、これからは織田信長の時代になると見抜き、そこで密かに使いを出し、従属を誓いました。
信長にはそういう豪族がたくさんいたので、すべて人質を取っていました。賢秀も息子の氏郷を岐阜城に人質に出しました。岐阜城には当時100人余りの同じような少年がいたといいます。しかし、信長はその中から氏郷に目を向けていました。というのは、氏郷が非常に賢く、今日風に表現すれば“経営感覚”を持っていたからです。

楽市・楽座での”規制緩和”など信長の都市経営を学んだ氏郷
 信長は、今後の大名はすべて領国経営に算盤勘定をいれなければいけないと考えていました。また、岐阜の城下町で展開した楽市・楽座で、単に呼び集めた商工業者の負担減だけではなく、今でいう“規制緩和”を積極的に行いました。撰銭令の発布、道路を整備し物流ルートを設定したほか、関所や船番所の撤廃なども行いました。
 こうした信長の新しい都市経営に、蒲生氏郷少年は目を向け、同時に信長の理念を自分のものとして体得していきました。そこで信長は人質の中でも氏郷は非常に期待できると考え、自分の娘を氏郷の嫁にしました。したがって、蒲生氏郷は信長の婿なのです。

信長の娘婿・氏郷を警戒し、会津に移封した天下人・秀吉
 豊臣秀吉は巧妙な政略によって天下人の座を占めましたが、内心では若いながら人使いがうまく、人望もあるこの氏郷を恐れていました。そこで、秀吉は「伊達政宗は油断できない。これを抑えられるのはあなただけだ」とうまい名目を付け、思い切って氏郷を会津に移封しました。近畿・東海地区から何とか、危険な氏郷を遠ざけ、伊達政宗を抑える駒として使う“一石二鳥”の妙案だったのです。

会津移封で天下取りを断念した氏郷
 この異動命令を受けた氏郷は、秀吉の巧みな意図をくみ取り、会津で大禄を得たにもかかわらず、「会津に行ったのでは、もはや天下の座は得られない。それが悲しい」と家臣に語り、さめざめと涙を流したと伝えられています。このことからも分かるとおり、一般にはほとんど知られていないことですが、実は氏郷にも天下取りの野望があったということです。
 氏郷が近畿もしくは東海地区にとどまっていたら、“信長の婿”の立場を最大限に活かし、天下人はともかく、豊臣政権から徳川政権へ移行する過程で、少なくとも後世に残る様々な影響力を行使していたのではないでしょうか。

利休の死後、千家の息子を匿った秀郷
 千利休の不慮の死の後、千家の息子たちはそれぞれ諸国に散っていきました。その一人を匿ったのが蒲生氏郷でした。秀吉は当然そのことを知っていました。現在、会津若松市にはこの千家の息子の匿われた家が、歴史的遺産として保存されています。

氏郷急死に、秀吉による毒殺説も
氏郷のこういう行為を秀吉は気に入りません。秀吉にすれば、氏郷はいぜんとして信長公の婿という誇りを持ち、自分(秀吉)に心から臣従していない。対抗心を持ち続けていると受け取ります。やがて、氏郷は京都に呼び戻され、そして急死するのです。世間では「蒲生氏郷は秀吉に毒殺された」と噂されました。

『If 』②「豊臣秀頼が関ヶ原の合戦場に立っていたら」

 豊臣政権下の武功派大名の、豊臣秀頼の父・秀吉に対する恩は極めて深いものがありました。そのため秀吉が亡くなった後も、これら武功派大名が秀吉の妻、北政所(ねね)のもとへ相談に出向く者も少なくなかったのです。

豊臣家滅亡は関ヶ原の戦いで秀吉恩顧の大名を味方にできなかったため
 それだけに、豊臣秀頼が大坂城から出て来て関ヶ原の合戦場に立っていたら、これらの大名はくるりと向きを変えて、秀頼のもとに駆け付けたのではないでしょうか。福島正則、加藤清正、黒田長政などはとくにそうです。そんな、秀吉恩顧の大名たちをつなぎとめ、味方にできなかったことが、豊臣家の敗北、そして滅亡に追い込まれていくのです。
 黒田長政は、小さいときに織田信長の人質となりました。父・黒田如水の行動が曖昧だったため、怒った信長が秀吉に「人質を殺せ」と命じたことがありました。が、秀吉は「そうします」といいながら、そうしなかったのです。長政の命を助けたわけです。したがって、長政にすれば豊臣秀吉は命の恩人なのです。

秀頼が戦場に赴かなかったことが、敵方の豊臣恩顧の大名を助けたその意味では、秀頼が大坂城から出なかったことは、この合戦の勝敗を決めた上で大きな役割を果たしたといえるでしょう。徳川家康にとっては実に幸運でした。周知の通り、小早川秀秋の裏切りもありましたが、それだけではありません。むしろ、この秀頼不出場の方が、影響が大きかったといえるのではないでしょうか。彼らは戦場で、敵方に恩ある太閤の遺児・秀頼の姿を見たら、とても討伐に向かえなかったことでしょう。

最後まで豊臣恩顧の大名を信用しなかった家康
 それだけに、家康もこの豊臣系大名たちが、自分の味方をしても心の底からは信じませんでした。「何かあれば、彼らは必ず裏切る」と警戒していたといわれています。とくに福島正則や加藤清正に対してはその思いを深めていました。が、どうしたわけか加藤清正は、大坂の陣の前に急死しています。「徳川家康に毒饅頭を食わされた」という噂がとんだほど、彼の死に方は不自然でした。

関ヶ原の功績で120万石の大封得た福島正則は秀忠の代に改易に
 福島正則は関ヶ原の合戦の功績で、毛利氏の拠点だった広島城を与えられ、120万石もの大封を得ました。ところが、家康が亡くなり、秀忠の代になって改易されてしまいました。徳川政権が安定したいま、警戒しながら大封を与えておく必要がない。「もう御用済み」というわけだ。不満があるならいつでも相手になるぞ-と威嚇されているにも等しい対応でした。
 そして福島正則は辛うじて家名を残され、信州(長野県)川中島でわずかな俸禄をもらう存在にまでおとしめられてしまったのです。正則も、自分がここまで徳川将軍家に警戒され、信用されていないのだということを思い知ったことでしょう。

『If』①「石田三成があれだけ武功派に嫌われていなかったら」

 豊臣政権下では「武功派」と「文治派」の争いが生まれていました。むろん、秀吉がまだ健在だったころのことです。直接の争いは、秀吉の朝鮮出兵時に起こりました。朝鮮に渡った諸大名の監察を行うために、石田三成が派遣されました。

三成の軽率な報告が招いた、その後の歴史をを左右した”禍根”
このとき福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤清正たちは心を合わせて戦闘に従っていましたが、ある日、小康を得、たまたま碁か将棋を打っていました。その光景を、監察に来た三成が目撃、秀吉に報告しました。秀吉は怒って、諸将に引き揚げを命じたのです。このことが遺恨として残りました。前線で苦労していた諸将は、たまたま三成がやってきたときに将棋を打っていただけで、長い間のわずかな安らぎに過ぎない。それを三成は誇大に報告した-と一致して三成を恨んだのです。

「三成憎し」なければ、東軍・西軍の勢力図は大きく変わっていた
 石田三成は近江(滋賀県)出身の文治派です。武功派の大名は三成を「算盤勘定と悪知恵だけで出世した奴」と軽蔑していました。ですから、三成とのこれほどの対立がなければ、これらの大名も果たして初めから徳川家康に味方したかどうか、全く分かりません。
関ヶ原の合戦で、豊臣恩顧の大名で、ひたすら「三成憎し」の思いから徳川家康に味方した人物は相当多かったのです。福島正則や加藤清正ら有力大名がそうでした。ですから、三成がそこまで武功派に嫌われていなかったら、東軍・西軍の勢力図は相当変わってしまい、様子見をしていた西軍の大名たちの戦への臨み方をも含め、勝敗の行方も分からなかったのです。