『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」

『I f 』⑪「平清盛が白河法皇のご落胤でなかったら」
 平清盛は平安時代、日本で初めて武家政権を開いた人物で、武士では初め
て太政大臣となりました。しかし、清盛の大出世、運にも恵まれた側面はあ
るものの、実はその出自と決して無関係ではないようです。諸説あります
が、清盛の生母は祇園女御の妹という説が有力です。母の死後、この祇園女
御の猶子になったといわれます。そして清盛はこの祇園女御の庇護の下に育
てられたのです。祇園女御は白河法皇の晩年の寵妃です。また、『平家物
語』では懐妊した女御が清盛の父、忠盛に下賜されて清盛が生まれたとあり
ます。詳細は定かではありませんが、つまり清盛は白河法皇のご落胤という
わけなのです。
清盛は保元・平治の乱(1156年・1159年)を経て、源氏との戦いに勝利。破
竹の勢いで実力者に昇り詰めていきます。清盛だけではありません。一門
挙げて目を見張る勢いで、急速に権勢拡大していきます。普通ならここで
牽制する勢力との対決があっても決して不思議ではありません。

わずか8年で武家では初の太政大臣に、平家一門の栄達を実現
ところが、そうした勢力が現れないまま、清盛はわずか8年間に正四位か
ら従一位へ、ポストは左右大臣を飛び越えて太政大臣に就くのです。これ
は決してただごとではありません。それは、やはり公然の秘密として、清
盛が白河法皇のご落胤、あるいは縁者だと認知されていたからではないで
しょうか。だからこそ、有力貴族、高級官僚も一目置かざるを得なかった
のでしょう。
その結果、清盛の強烈な統率力のもとに「平氏に非ずんば人に非ず」と豪
語するほどの平家の時代を築き上げられたのです。『源平盛衰記』による
と、平家一門の栄達は重盛の内大臣をはじめ公卿16人、殿上人30余人、そ
の他の国司や衛府の武官80余人を数えたといいます。
 しかし、清盛が白河法皇のご落胤でなかったら、あれほどの出世は望めな
かったでしょう。となると、権勢に満ちあふれた、あのような大規模な平家
一門全盛の時代は訪れていなかったのではないでしょうか。そう仮定すると、
後の歴史も幾分変わっていたと思わざるを得ません

 

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