皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

皇帝ネロ 治世当初“名君”も、母・妻殺害の暴挙で暗転

 王制、帝政、そして日本の武家社会などを含め統治形態は異なっても、トップの後継争いは常に血みどろの争いが付き物だ。古代ローマ帝国の場合も全く例外ではない。強い母の導きと画策で帝位に就いた第5代皇帝ネロは、キリスト教徒を迫害し、後世“暴君”の代名詞とされたが、果たして、等身大の皇帝ネロの姿はどうだったのだろうか。

 皇帝ネロは小アグリッピナ(母)と、グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス(父)の息子として生まれた。母は初代皇帝アウグストゥスの孫、大アグリッピナとゲルマニクスの娘だった。ネロの生没年は37~68年。皇帝在位は54~68年。生まれたときの名前はルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス。

 40年、ネロが3歳のとき父グナエウスが死去。その翌年にカリグラが帝位に就くが、まもなくカリグラによって母が追放された。そのため、ネロは叔母に育てられた。しかし、その3年後カリグラが暗殺され、伯父のクラディウスが擁立され第4代ローマ皇帝になると、彼によって母はローマに戻ることを許された。この時点では初代皇帝の孫、ネロの母もようやくローマ市民に戻ったにすぎなかった。

 第4代皇帝クラディウスはメッサリナを妃として迎えており、すでに後継者ブリタンニクスがいた。ところが、メッサリナは48年に不義の咎で殺害され、幸運にも後妻としてネロの母がクラディウスと結婚、皇妃となったのだ。まさに人生の歯車がうまく回転し始めたわけだ。そして、その母の采配でブリタンニクスは徐々に疎外され、ネロの存在が際立つようになる。そこで、年少のブリタンニクスよりも後継者にふさわしいとみられるようになり、ネロをブリタンニクスよりも先に王位に就ける確約を得た。

  ここまできたら、あとは待っていればいいようなものだが、権力志向の強いネロの母は動きをみせる。54年、信じがたいことだが、その母が第4代皇帝クラディウスを暗殺してしまう。クラディウスが死ぬとネロが第5代皇帝に即位し、1年も経たないうちに、今度はネロがブリタンニクスを毒殺したのだ。

 ところで、暴君の代名詞のようにいわれる皇帝ネロだが、治世初期は予想外に、“名君”の評判もあったほど良かった。それは家庭教師で哲学者セネカと親衛隊長官セクトゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐によるものだ。しかし、そのメッキは徐々に、そして確実に剥がれていく。ネロはまず59年に母を殺害する。これは公私にわたり強引に干渉してくる母が疎ましくなったためだった。また、62年には妻オクタヴィアを、姦通罪(冤罪)を理由に殺害してしまう。そして、人妻だったポッペア・サビナと強引に結婚するのだ。無茶苦茶としかいいようがない。

   62年に側近の一人、親衛隊長官ブッルスが急死。この頃からもう一人の側近セネカも遠ざけられて、ネロの統治は破綻していく。64年にローマで大火が発生するが、人々はネロが自分の宮殿を建てるために、街に放火したと噂したという。真偽のほどは分からないが、そこでネロは、こうした噂を打ち消すべくキリスト教徒に罪を着せて、迫害する挙に出る。恐らくネロのこうしたやり方に、側近だったセネカが強く苦言を呈して諌めたためだろう。65年にはそのセネカが自殺させられているのだ。

 あとは坂道を転げ落ちるように、皇帝ネロの治世は暗転していく。68年にタラコンネシス属州の総督ガルバらによる反乱が起こり、各地の属州総督がこれに同調。遂には元老院から、ネロは“国家の敵”とされてしまう。ここまできてはさすがのネロもなすすべなく、同年自ら命を絶ち、30年の生涯を閉じた。

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

ヒトラー 政権掌握後「指導者原理」唱えて民主主義を排除し“暴走”

 「ナチのファシストで独裁者」アドルフ・ヒトラーは第二次世界大戦を引き起こし、ヨーロッパ全土を恐怖に陥れた「狂信的殺人鬼」とも称された。そんな巨悪なイメージとは別に、青年時代のヒトラーは純粋な芸術に取り組む小人物だったという。それが、どうして、どこで、数多くの“虐殺”を行っても動じない“独裁者”に変わったのか。

 アドルフ・ヒトラーは、ドイツとの国境近くのオーストリアの小さな町、ブラウナウで税関吏の子として生まれた。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家だった。アドルフはアロイスの3番目の妻クララとの間に生まれた。名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗っている。認知した父の姓は「ヒドラー」だったが、「ヒトラー」と改姓。ヒトラーの生没年は1889~1945年。

 父アロイスは厳格で自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。少年時代のヒトラーは成績が悪く、2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの、直感に頼り努力が足りない」と評されている。歴史や美術など得意教科は熱心に取り組むが、数学、フランス語など苦手教科は徹底して怠ける性質だったという。

 ヒトラーは若くして両親を失い、ウィーンで画家になろうとして失敗し、同市の公営施設を常宿として絵を描いて売ったり、両親の遺産に頼ったりして生活した。その間に下層社会や大衆の心理について見聞、体験したことが、後に政治活動するうえで役立った。

 1913年、オーストリアで兵役につくことを嫌ってドイツのミュンヘンに逃れた。第一次世界大戦が始まるとドイツ軍に志願兵として入隊し、とくに伝令兵として功を立てて、一級鉄十字章を受けた。ドイツ革命(1918~19年)の後、ミュンヘンの軍隊内で軍人のための政治思想講習会に出席して、民族主義思想を固めた。

 ヒトラーは1919年、ドイツ労働者党(後の国家社会主義ドイツ労働者党、すなわちナチス)という国家主義と社会改良主義を結び付ける小党に入党した。そして、1921年に党首となった。1923年、ミュンヘン一揆を起こすが、失敗。それ以後、ワイマール共和制打倒・ベルサイユ条約打破・反ユダヤ主義を主張し、議会制民主主義の制度的枠組みの中で党勢を拡大していき1933年、首相に就任した。就任すると直ちに、ワイマール憲法に基づく緊急命令の発動や授権法の制定によって、権力基盤を固めた。そして翌年、大統領を兼ねて総統となった。

 政権掌握までの過程は民主的だった。しかし、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて、民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたことが、その後の“暴走”を招いたわけだ。以後、ヒトラーは再軍備宣言(1935年)・ラインラント進駐(1936年)・スペイン内乱への介入(1936年)・ミュンヘン会談(1938年)と軍備を拡張する中で積極外交を展開した。そして1939年、ポーランド侵攻によって第二次世界大戦への勃発を招き、ヨーロッパを広範な戦禍に巻き込むとともに、ドイツを敗北に導いた。1944年には保守派がヒトラーの暗殺を含むクーデター計画を実行したが、失敗に終わった。ヒトラー自身はベルリン陥落寸前の1945年4月30日、ベルリンの首相官邸の地下壕で、前日、結婚式を挙げた17歳の花嫁、エヴァ・ブラウンと「心中」、ピストル自殺した。

 ヒトラーの思想は『わが闘争』の中に見い出される。アーリア人種が文化創造の主体であるという生物学的な人種理論を唱える一方で、「民主主義、議会主義、マルクス主義、拝金主義などがユダヤ人の世界支配の陰謀に基づく」という「反ユダヤ主義」を主張し、「民俗共同体」を人種的生存の核として位置付けた。

 秘密国家警察(ゲシュタポ)や強制収容所の存在が象徴するように、ヒトラー独裁の下では国民の自由は抑圧され、またユダヤ人が迫害された。だが、他方で失業問題の克服や社会的階層秩序の流動化、そしてなによりも外交上の成功によって、少なくとも1937~38年ごろまでのヒトラーが国民の相当程度の支持を得ていたことも見逃せない。

 

(参考資料)寺山修司「さかさま世界史 怪物伝」

 

藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

藤原頼長 貴族政治立て直しのため“暴走”したが、度外れた勉強家

 藤原頼長(ふじわらのよりなが)は平安時代後期の政治家で、藤原北家の嫡流、摂関家という名門再興を志すとともに、貴族政治の立て直しを図った人物だ。ただ、その思いが強すぎて、その施政は呪い・裏切り・陰謀など手段を選ばず“暴走”してしまったきらいがある。そのため、恐怖の左大臣、「悪左府(あくさふ)」と称された。反面、1136年(保延2年)、17歳で内大臣、1149年(久安5年)、30歳で左大臣となった頼長は、いわば“斜陽名家”の貴公子であって、決してカネや人脈だけで出世したわけではない。彼は日本一の大学生といわれたほどの勉強家だったのだ。

 藤原頼長は、父・藤原忠実、母・土佐守藤原盛実の娘の子として生まれた。幼名は菖蒲若(あやわか)。頼長は父忠実に愛され、父の強力な後押しで、兄の関白・忠通をさし措いて、藤原氏長者・内覧として執政の座に就いた。だが、鳥羽法皇の信頼を失って失脚。そこで、頼長は鳥羽法皇により譲位させられていた崇徳上皇に接近、政権奪取を図って後白河天皇、兄・忠通と対立したが、「保元の乱」で敗死した。生没年は1120(保安元)~1156年(保元元年)。

 頼長が執政として返り咲くための、最初で最後の決戦の場が「保元の乱」だった。ここで彼はメンツ、あるいはタテマエにこだわり、勝機をみすみす逃してしまったのだ。『保元物語』によると、頼長は崇徳上皇を擁し、後白河天皇に対して兵を挙げたのだが、源為朝(みなもとのためとも)の夜襲の建議を退けてしまった。そして、後白河天皇、兄・忠通方から逆に夜襲を受け、上皇方を敗戦に導いてしまったのだ。王統の争いに、夜襲などという卑怯な手は使えないとの判断からだった。絶対に勝つ、そのためにはどのような作戦も取る-といった必死な姿勢はなかったのだ。

 「保元の乱」(1156年)の構図を記すと、後白河天皇と崇徳上皇の対立で、関白・藤原忠通(ただみち)と左大臣・頼長の争いがこれにからんでいた。天皇方に馳せ参じた武士は、平清盛や源義朝(頼朝の父)など800。対する上皇方は平忠正や源為義など、500にも満たない。そこで急遽、為義は九州・大宰府にいた息子の為朝を呼び寄せた。忠通と頼長は兄弟、忠正と清盛は叔父甥、為義と義朝は親子だ。

 この戦の大本の原因は、白河法皇が養女の藤原璋子(しょうし)を孫の鳥羽天皇の中宮とした、1118年(元永元年)にまでさかのぼる。このとき璋子は白河法皇の子を身籠っていた。生まれたのが顕仁(あきひと)親王だ。鳥羽天皇にとって名目上は長男にあたるが、実質的には祖父の子だから叔父にあたる。そのため、鳥羽天皇は顕仁親王を「叔父子(おじご)」と呼んで憎悪した。

 しかも、白河法皇は1123年(保安4年)には、21歳の鳥羽天皇を廃し、わずか5歳の顕仁親王を即位させ崇徳天皇とした。このため、鳥羽上皇の憎悪は深まり、1141年(永治元年)に崇徳天皇を廃し、寵姫、美福門院得子との間に生まれた体仁(なりひと)親王を近衛天皇とした。

 近衛天皇が1155年(久寿2年)17歳という若さで崩御すると、崇徳上皇は自分が再び皇位に就くか、わが子の即位を望んだが、鳥羽法皇はその希望を踏みにじり、自分の第四子、雅仁(まさひと)親王を皇位に就けた。後白河天皇だ。そのため、崇徳上皇は後白河天皇を激しく憎んでいた。病床の鳥羽法皇の生死いかんで、即、戦になりかねない状況にあった。

 そして開戦。いったんは敗色濃厚となった天皇方が、頼長が退けた夜襲を決断、これが勝敗を分けた。乱後の処理は陰惨を極めた。首謀者の頼長は、合戦の最中に首を射抜かれ、奈良まで落ち延びて死んだ。兄・忠通と対立し、最後は父・忠実にも見放された、寂しい生涯だった。崇徳上皇は捕えられ、讃岐に幽閉された。上皇方についた武士の大半は斬られた。しかも、清盛には平氏を、義朝には源氏を斬らせるというむごい仕打ちだった。

 ところで、慈円がその著書『愚管抄』で頼長を「日本第一の大学生(だいがくしょう)」と評したほど、頼長は古今稀な、博学な政治家だったが、人に厳しく、行動にもバランスを欠いていた。頼長が残した日記『台記(たいき)』は、異色の日記だ。この『台記』には本来、絶対に秘すべきことが堂々と、あるいは露骨に語られている。彼の召使の国貞(くにさだ)を殺した下部(しもべ)が殺されたことが記され、その注で実は私が家来に命じて殺したのだ-と告白しているのだ。関白・忠実の最愛の次男の左大臣の仕業なら、罰せられるようなことはない-とタカをくくっていたのか。

また、この日記には同性愛、男色の記述が多い。それは当時の貴族として、とりわけ不倫なことではなかったのだが、鳥羽上皇、後白河天皇、頼長の父、忠実、兄・忠通、忠雅と頼長とが男色愛好者だったという。それだけに、当時の人間関係を考えるには、この男色関係を的確に把握する必要があろう。

 こうした異常な性癖の一方で、頼長は度外れた勉強家で、牛車の中にすら『太平御覧(たいへいぎょらん)』など厖大な巻数の書籍を持ち込み、禁中への行き帰りに、揺れる車内で読書三昧に耽ったといわれる。旅にまで本を離さず、抜き書きや校合に夜を徹することもしばしばあったという。1136年(保延2年)、17歳で内大臣に任ぜられて以来、筆を起こし1155年(久寿2年)までかけ、既述した、12巻にわたる『台記』を著している。これは禁中の諸儀式、故実、摂関家の一員である頼長自身の、公私にわたる進退や動静を詳述した漢文体の日記だ。今日なお、これが根本史料の一つとして、平安朝史の研究に役立っている。

 そんな頼長だけに、蔵書は夥しい数になったため1145年(久安元年)、自ら設計して立派な書庫をつくった。彼の威勢、財力からみれば、別に驚くことでもなかったろうが、防火対策はもちろん防湿・通風にも配慮された設備が施されていたという。

(参考資料)安部龍太郎「血の日本史」、梅原 猛「百人一語」、杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣

藤原時平 菅原道真を讒言で大宰府へ左遷、失脚させた切れ者・左大臣

 藤原時平は、史上初めて摂政・関白、太政大臣を務めた巨人、藤原基経の長男だ。若くして栄達したが、21歳のとき父が亡くなったため、政治の実権は彼の血脈を離れ、計らずも天皇による親政が復活した。宇多天皇は彼の父・基経に何らの抵抗もできなかったが、そのため不満が内攻、天皇の政治上の権限強化に燃えていた。そこで宇多天皇は、皇親の源氏や学者の菅原道真を積極的に起用した。藤原氏、とくに時平に対する対抗策だった。

 宇多天皇の後を受けて醍醐天皇が即位すると、時平は道真とともに左右大臣に並んだ。だが、時平は次第に道真と対立し、先代の宇多天皇時代に重用され強力な後ろ楯ともなっていた、その宇多がいなくなった道真の排除に動く。そして901年、遂に道真を讒言して大宰府に左遷させることに成功した。

 この讒言による道真左遷で後世、彼は決定的な“悪役”イメージでみられることになった。だが、果たして彼はそれほど腹黒い悪人だったのか。政治上の藤原氏の権勢を抑えるために、宇多天皇が意識的に道真を、異例のスピード出世、そして破格の高官へ登用したことで、高級貴族の間で道真に対する反感が強まっていたことも讒言を後押ししたのではないか。時平自身、その後、国政改革に意欲を燃やしたが、摂政や関白になることもなく、その意味であまりいい目をみないまま、わずか39歳の若さで亡くなっているのだから。

藤原時平の生没年は871(貞観13)~909年(延暦9年)。母は操子女王。子に保忠、顕忠など。弟に仲平、忠平などがいる。

 藤原時平は当時、東西随一の秀才と呼ばれた。それと父・基経の威光も加わって異例の出世を果たしている。21歳で参議になり、23歳で中納言、27歳で大納言、氏長者、29歳で左大臣となっている。もっとも、父は彼が21歳のとき亡くなっているから、彼自身の優れた才能、実力が評価された面も当然あったのだろう。

 一方、菅原道真の出世の早さは異常だ。蔵人頭となって政界にデビューし、その翌々年、参議にまで出世しているのだ。宇多天皇のバランスを欠いた“えこひいき”の産物だった。ただ年齢をみると、時平との比較上、対立を意識させるものではない。なぜなら道真は49歳で参議になり、51歳で中納言、55歳で右大臣になっているのだ。

 ところで、57歳の道真が突然、大宰府に左遷されてしまうことになった罪状だが、要約すると「急に大臣まで取り立てられたにもかかわらず、分をわきまえず、さらに高い地位を望んでいる。しかも専制的な権力を欲しがり、醍醐天皇に代わる天皇を立てようと企んでいた」というものだった。醍醐天皇とは宇多天皇の第一皇子の敦仁(あつきみ)親王のことで、宇多天皇が時平に追い出されて「逃位(とうい)」したのに伴い、897年、若干13歳で皇位に就いたのだ。罪状にある醍醐天皇に代わる天皇とは、橘広相(たちばなのひろみ)の娘を母とする第三皇子の斎世(ときよ)親王のことを指している。皇太子選びの中で候補に上がっていたことからみても、道真からみて次に天皇にしたい人物だったろう。

 では、実際にそのような企てを道真はしていたのか。大方の歴史家たちの見方は冤罪説をとっている。しかし、『扶桑略記』が引用している「寛平御記」では、醍醐天皇が、大宰府に左遷されて幽閉同然の道真の様子を、側近の藤原清貫(きよつな)に見てこさせたときのことが書かれている。清貫は「道真自身が左遷された理由について、承服しているようだ」としており、さらに道真自身が「自分で企てたことではないが、源善(みなもとのよし)の誘いを断りきれなかった」と語ったというのだ。

 果たして事実無根の冤罪だったのかどうかは謎のままだが、少なくともそれらしい行動があったことは否定できないのではないか。打倒、藤原氏を掲げて、宇多天皇とともに画策しようとしたことは多くの状況証拠が語っているからだ。

 901年、道真を失脚させた直後、時平は妹の穏子(おんし)を醍醐天皇の女御として入内させた。彼女は902年(延喜2年)、醍醐天皇の第二皇子を産んだ。保明(やすあきら)親王と名付けられた、この皇子は翌年早くも皇太子に立てられた。若い時平も摂関家的な土壌を踏襲し、天皇家の次代に対して外舅という関係をつくろうとしていたわけだ。

 ところが、全く想定外のことが起こった。時平自身が39歳の若さで亡くなり、保明親王も夭折して、不幸にも名門・時平の血脈は絶え、政治の実権は弟・忠平の子孫に移った。時平の早すぎる死は6年前、彼が死に追いやり、怨霊となった道真の祟りと噂された。さらに道真の死後20年経った923年、皇太子の保明親王が亡くなったのも、道真の怨念を感じた人が多かった。

 時平が亡くなった翌日、正一位、太政大臣が贈られた。 

(参考資料)北山茂夫「日本の歴史④ 平安京」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、歴史の謎研究会 編「日本史に消えた怪人」、久松潜一「全釈 小倉百人一首」

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索

 中根正盛は徳川三代将軍家光の時代、幕府要人の言動や諸大名の動静を報告する、幕府のいわば“CIA長官”だった。こうした役目は通常、表には顔を見せない隠密が担当するものだが、中根はそんな裏稼業を担っていたわけではない。彼は5000石取りの高官であり、二の日の評定所会議にも出席し、老中、諸奉行の発言を克明に脳中にメモってくる資格を持っていた。また、彼の配下の22人の与力は常時、諸国に派遣され、大名の動きを探っていた。

 探索の際、中根は幕府のため、各国(藩)の密事を嗅ぎ出せ。腐臭、腐肉のみに眼を向けよ。また嗅ぎ出した腐臭、腐肉はありのまま報告せよ。自分の判断や評価はしてはならない-と与力たちに指示した。まさに、幕府の諜報機関そのものであり、与力は22人の諜報員だった。

 そんな徳川版CIAが扱った事件・事案として記録が残っているのが、「松平定政事件」の処分に端を発した、浪人救済を意図した1651年(慶安4年)の「慶安事件」(油比正雪の乱)だ。

 松平定政は、徳川家康の異父同母弟の子で家康の甥にあたる。家光の小姓をしていたが、家光も好感を持っていた。1651年(慶安4年)春、家光が亡くなった。後継の四代将軍家綱はまだ少年だ。将軍交代を待っていたかのように、くすぶっていた浪人の生活困窮問題が突然火を噴いた。関ヶ原の戦い以来、大坂冬・夏の陣で取り潰しになった大名家が数多くあり、それに伴い多数の武士が失業に追い込まれたからだ。

 松平定政は7月突然、幕府に対し自分が受けている2万石は全部返上するから、これで失業浪人を救ってくれ-と言い出して大名職を辞し、雲水に身を変えた。それだけでなく、江戸市中を歩き回り、浪人救済のために、ご喜捨を-などと物乞いを始めたのだ。世間は驚倒した。仮にも、前将軍の叔父にもあたるような定政が、大名を捨てて乞食坊主になるなど、本人の意思や思惑はともかく、幕府に対する最大の嫌がらせと受け止められた。

 早速、幕閣は定政を狂気の者とし、兄の松平隠岐守に預け、所領を没収した。しかし、これで事が収まったわけではなかった。この中根正盛も定政の真意が浪人救済にあるのではなく、むしろ幕政批判にあるとみていたからだ。家光死後の閣僚、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋、松平信綱らの政策が、定政はことごとく気に入らないのだ。とくに松平信綱が気に入らない。大名職と封土の返上は、いまの幕政に一石を投じたつもりだろう。したがって、定政が取った行動の根は深く、罪も重い-と中根は判断した。

 松平定政の処分が発表された後、油比正雪に関する密告が、松平信綱や町奉行の石谷(いしがや)貞清のところにあったとの情報が中根のもとに入ってきた。密告者の多くは中根や松平信綱が前々から神田連雀(れんじゃく)町の裏店(うらだな)にある油比正雪の学塾に、門人として潜入させておいた者ばかりだ。“やらせ訴人”だ。

 中根は配下の与力(=諜報員)を、かなり前から駿河(現在の静岡県)、河内(同大阪府)、大和(同奈良県)、紀伊(同和歌山県)、京都などへ派遣していた。油比正雪の素性、学問歴、そして正雪が唱える楠木流の軍学などを調べさせていた。

 これは、松平信綱と正盛に、油比正雪一派の鎮圧とともに、先の松平定政よりももっと大きな幕政批判者、紀伊頼宣(紀州藩藩祖・徳川家康の十男)を、この際、一挙に叩き潰そうという謀計があったからだ。頼宣は豪放かつ英明な器量人で、武功派の盟主だった。彼は幕政が次第に、合戦を知らない若い吏僚の手で運営されることに反発し、浪人をすすんで抱えた。

そのため、外様大名や浪人、庶民から非常に好感されていた。それだけに、幕閣の文治派閣僚はそんな頼宣に警戒していた。とくに松平信綱は、厳しい眼差しで紀州をにらんでいた。中根が配下の与力を紀州に派遣したのも頼宣と由比正雪との関係を何としても立証しようというためだった。たとえ火のない煙でも、探り出せ-と厳命した。頼宣、正雪の両者に少しでも関係があれば、強引に処罰、断罪しようという姿勢だった。

 しかし、紀州の探索方3人からは、信綱、中根が期待した答えは返って来なかった。頼宣、正雪の両者に関わりは全くない-というものだった。これでは、頼宣の弾劾はとてもおぼつかない。だが、信綱、中根とも、それで諦めたわけではなかった。

 由比正雪の死体が駿府の河原で磔(はりつけ)にされ、丸橋忠弥らが品川で

処刑されて、この騒乱は一応終わった。が、その直後、頼宣は江戸城に召喚された。そこでは頼宣の言葉が引用された、由比正雪の遺書が用意されていた。頼宣が正雪を示唆、煽動したと解されてもやむを得ない文面がつづられていた。そのため頼宣も、もう覚えがないでは切り抜けられなかった。完全な頼宣の敗北だった。あぶら汗の出るような屈辱の怒りを、こらえるほかなかった。

 頼宣は四代将軍家綱あてに、全く二心なきことを認めた誓紙を書かされたうえ、この日から1659年(万治2年)まで10年間、国許の紀伊国(和歌山県)へ帰ることは許されず、江戸城内で暮らした。松平信綱、中根正盛の勝利だった。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」、童門冬二「慶安事件 挫折した幕府転覆計画」、童門冬二「男の器量」、安部龍太郎「血の日本史」

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

水野忠邦 改革の着眼点はよかったが、ブレーンに恵まれず改革失敗者に

 水野忠邦は、1841年(天保12年)から断行された「天保の改革」を推進した老中首座として知られている。水野忠邦の狙いは、諸事、徳川家康が定めた御法の通り、家康の時代に戻すことだった。財政を復興させ、幕府という一党独裁体制の維持を目指す。そのため、倹約令、奢侈禁止令などが発せられた。そして、その実践者として起用された甲斐守・鳥居耀蔵が目を光らせ、その過酷な検察ぶりに憎悪と戦慄を覚えさせるほどの“恐怖政治”をここに出現させることになり、挙げ句、改革は大失敗した。

 水野忠邦は唐津藩第十代藩主・水野忠光の次男として江戸同藩上屋敷で生まれた。幼名は於莵五郎、諱は忠邦。別号は松軒、菊園。母は側室・恂(じゅん)。長男が早世したため跡継ぎとなり、19歳の若さで唐津藩第十一代藩主となった。忠邦の生没年は1794(寛政6)~1851年(嘉永4年)。

 唐津藩は代々、幕府の長崎警備という役目を担っている。そのため、藩主は中央での昇進は望めないという慣例があった。ところが、忠邦は中央=幕政での昇進願望が極めて強い人物だった。自分の思いを遂げるためには国替えしかなかった。

そこで、忠邦は半ば自ら希望する形で唐津藩から、実収の少ない、財政的にはデメリットの多い浜松藩へあえて移った。浜松藩主は、幕閣での出世コースといわれていたからだ。1817年(文化14年)、忠邦24歳のときのことだ。その後、1828年(文政11年)、35歳のとき西丸・老中となり、幕閣の中枢の一員に列せられた。1834年(天保5年)、本丸・老中、そして1839年(天保10年)には思惑通り老中首座に昇り詰めた。

 江戸文化の花を咲かせた文化・文政時代は、一方で十一代将軍・徳川家斉による浪費のため、幕府の財政は窮迫の一途をたどっていた。そして迎えた天保時代、人々は上下とも贅沢に慣れ、反面、地方では飢饉に続く一揆・打ちこわしが頻発していた。近海に外国船が姿を現し、日本国内の様子をうかがい始めていた。十二代将軍家慶の時代になっていた。

 「天保の改革」に乗り出した老中・水野忠邦が最初に出したのが倹約令だった。町人に対し、木綿以上の着物は一切、着てはならない-とのお触れを出した。そして、髪結い、風呂屋から櫛(くし)、笄(こうがい)の類に至るまで細かく全部制限した。実際に女髪結いというものまでを禁止してしまったので、自分の家では誰も髪が結えないので、町家の女房たちの髪形がすっかり変わってしまったという。

 また、天保のころは町家で一般の人々は絹の着物か紬を着ていたので、それが禁止され、もう着る人がほとんどいなかった木綿の着物を着ろという命令に大変困った。木綿の着物なんて一枚も持っていない人が多かった。大坂や京都の町家の人たちは、生活に余裕があって、絹の着物を着ているのではなく、世間一般の風俗でそれを着ているので、木綿の新しい着物を買い求める余裕がない。

 芝居も禁止された。歌舞伎の市川団十郎が江戸から追放された。女歌舞伎も禁止された。茶屋なども禁止され、花街もほとんど火が消えたような状態になっていった。禁止令のおかげで失業者が続出し、首くくりや捨て子が頻発した。

 こうした民衆の風俗の締め付けの一方で、水野は幕府の財政改革にも乗り出そうとした。例えば二宮尊徳を重用した利根川の治水、印旛沼の干拓、さらには大坂の十里四方、江戸の十里四方をすべて直轄地にしようとする案だ。彼は大英断をもってこの政策を打ち出した。だが、大坂、江戸の直轄地化は取り上げられる連中の総反撃を食ってしまう。利根川、印旛沼の治水・干拓も依頼された二宮尊徳が、付近の農民があれほど搾取されて弱っていたのではとても大工事はできないと判断。そこで、尊徳はまず治水事業に先立ち、この付近の農民をいかに立ち直らせるかという計画を立て、実際の治水事業は、農民が立ち直る30年ぐらい後になってから開始すべきだと提言した。

 しかし、幕府としては30年は待ってはいられない。それなら、もう結構だと断った。そして、尊徳に代わって登用したのが鳥居耀蔵だった。これが、最悪の選択だった。この人選に象徴されるように、水野忠邦の周りには、科学に明るい開明派の学者や役人がほとんどいない、旧式の人物ばかりだった。開明派の学者、役人らは、幕府中枢から遠ざけられていた。これが、水野にとって最大の不幸、不運だった。結論をいえばこのことが「天保の改革」失敗の最大の要因だった。

 周知の通り、鳥居は林大学頭の子で、学問にコンプレックスを持っている水野には付け入りやすい。鳥居は頑固で信念はあるが、科学的な才能はない。まして治水をやれるような人物ではない。鳥居は、房総半島と相模の地図を作る競争でも、高野長英門下の内田弥太郎と競うが、誰が見ても勝敗は明らか。それで、始末の悪いことに、鳥居は蘭学者を逆恨みし、でっち上げて「蛮社の獄」(1839年)を起こすのだ。水野は鳥居に振り回されてしまった。結局、鳥居は借金を重ねるだけで、大失敗してしまう。

 ただ、奇妙なことに、当然、水野は1843年(天保14年)、いったん老中御役御免となるのだが、幕閣に人材がいなかったのか、首座の引き受け手がなかったのか、彼は1844年(弘化元年)老中に再任され、さらに老中首座に返り咲く。しかし、翌1845年(弘化2年)老中を辞職、隠居、蟄居に追い込まれた。失政の責任を取らされた形だ。

 水野忠邦の政策の着眼点が悪いわけではなかった。彼の周囲に優れた顧問や、いいブレーンがいなかったことが致命的だった。このことが、彼を後世、不名誉な改革失敗者あるいは悪役として仕立て上げることになった大きな要因だ。 

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ 水野忠邦の悲劇」、松本清張・岡本良一「日本史探訪/幕藩体制の軌跡 水野忠邦」、吉村 昭「長英逃亡」、中嶋繁雄「大名の日本地図」

 

 

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

酒井忠次 家康の心理をくみ取れず、悲劇を生んだ単細胞男の暗転人生

 酒井忠次(さかいただつぐ)は、徳川家で「徳川四天王」といわれた「酒井、榊原、井伊、本多」の一人だ。そして、忠次はその四天王の筆頭に位置づけられていた。だが、彼の忠誠心や誠実心は、他の補佐役を務めた武将たちとは少し異なっていた。そのため、彼の取った行動は問題になり、悲劇を生むもとになった。忠次の生没年は1527(大永7)~1596年(慶長元年)。

 忠次の対応が物議をかもした端的な例を挙げると、豊臣秀吉と徳川家康が対決した「小牧・長久手の戦い」の後、天下を取った秀吉が行った論功行賞というか、徳川家主従に対する気配りへの対応だ。秀吉は、家康はもちろん忠次ほか何人かの勇将にいろいろな贈り物をした。忠次には京都に大きな屋敷を与え、「その屋敷の維持管理費に、近江の国で1000石やろう」といった。さらに、従四位下に叙され、左衛門尉という官位も与えた。

 ところが、他の武将は違った。彼らの中にはいきなりその場で秀吉に「私は徳川家康の部下です。あなたからこんなにいろいろなものをいただくわけにはまいりません」と断った者もいた。あるいは、「主人と相談してまいります」といって、一度秀吉の前から退り、家康にこのことを報告したうえで、改めて秀吉のところに行き、「主人と相談致しましたが、とてもお受けすることはできません。ご好意は、ありがたいと思います」と辞退する者もいた。

 あっけらかんと、くれるものは全部もらってしまったのはこの忠次だけだ。こういう補佐役を見ていて、家康がどんな感じをもったか、想像に難くない。だが、忠次にしてみれば「秀吉様がくださるというものを、もし辞退すれば機嫌が悪くなる。秀吉様の機嫌を悪くするということは、そのまま主人の家康様に対する感じ・印象を悪くするということだ。だから自分は別に欲しいとは思わないが、自分が我慢してもらうことが、家康様への忠義につながるのだ」と考えていたのだ。

忠次の忠誠心や誠実心はあまりにも単純で、トップ=徳川家康の人間研究が甘かったといわざるを得ない。忠次は生涯、ただひたむきに、ひたすら家康に忠誠を尽くし、誠実さを吐露することによって終わってしまった。

 家康は複雑な人間だ。彼は、それほど部下を信じなかった。子供のときから人質になった彼は、ある意味で強い人間不信に固まっていたといっていい。忠次は、人質生活を一緒に送っているにもかかわらず、トップのそうした心理面の研究が足りなかったのだ。

 忠次は徳川氏の前身、松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として三河国額田郡井田城(現在の岡崎市井田町)で生まれた。幼名は小平次、小五郎。元服後は徳川家康の父、松平広忠に仕え、酒井小五郎、のち左衛門尉と称した。家康(当時は竹千代)が、今川義元への人質として駿府へ赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

 1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで、その今川義元が織田信長に殺されると、家康は岡崎城に帰った。このころから忠次は家康の補佐役として活躍し始める。1564年(永禄7年)、吉田城攻め、1570年(元亀元年)姉川の戦い、1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦い、1575年(元正3年)長篠の戦いなど、彼は家康の合戦には常に先頭に立った。戦場に出たことは数知れない。そして奮戦した。とくに長篠の戦では別働隊を率いて、武田勝頼の背後にあった鳶巣山砦を陥落させ、勝頼の叔父、河窪信実らを討ち取る大功を挙げた。

 こうした功績を挙げた一方で、忠次は取り返しのつかない大きな罪を犯した。忠次は自分の身に降り掛かる火の粉をきれいに払い落とせず、というより、相手の意のままに振り回され、結果として家康の息子、信康と、正室・築山殿を死に追い込んでしまったのだ。

 このあらましは次のようなことだ。桶狭間の戦いに劇的な勝利を収めた織田信長が、その後、勢力を拡大するために家康と同盟した。そのために、信長の娘と家康の息子(信康)との政略結婚が行われた。ところが、信長の娘は一面スパイの性格を持っていたので、信康と築山殿について、「二人は密かに武田に通じて徳川家と織田家を滅ぼそうとしている」などと、父(信長)にいろいろと悪い報告をした。

 この真相については諸説あり、詳らかではない。しかし、いずれにせよ、信長はこれを黙殺しなかった。信長は忠次に対し「申し開きをしに来い」と命じた。だが、実をいえばこれはおかしい。忠次の主人は家康で信長ではない。その家康の配下に対して、信長が直接名指しで、申し開きに来いというのは、越権行為だ。本当なら、忠次は断るべきだった。

 ところが、忠次は信長に命じられた通り、すぐ信長の城に行った。行ってから彼は後悔した。忠次に対する信長の尋問は厳しかった、忠次は驚いた。そして動転した。結局このとき忠次は完全に申し開きできなかったということで、信康は切腹させられ、築山殿も殺された。このことは徳川家に大きな傷跡を残した。忠次を見る周囲の目は険しくなった。“裏切り者”というような眼差しを、しきりに投げつけられることになった。

 忠次は1588年(天正16年)、長男・家次に家督を譲り、隠居した。家康は1590年(天正18年)、関東に入国し、功労のあった家臣団に知行を与えた。四天王のうち三人は、すべて10万石以上与えたが、忠次の息子だけはわずか3万石しか与えられなかった。家康は息子と正室を殺されて以後、その遠因をつくった忠次を許せなかったのだ。家康にとって、忠次は悪役そのものだった。 

(参考資料)童門冬二「男の器量」

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

 河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後熊本藩士で、幕末の英才・佐久間象山を殺害したことで知られる、維新史の刺客の中でも屈指の人物だった。幕末・維新の時代に“人斬り”という異名を冠して呼ばれた人物には、概して無学の者が多かった。しかし、河上彦斎は一通りの学問はあった。上手ではないが、漢文を書き、和歌も詠んでいる。したがって、彼の場合、誰かの示唆や指示のもとにターゲットとする人物を殺害した単なる“殺し屋”というより、理論の裏打ちがあるように思える。また、名利の念は全くないのが特徴だ。彦斎の生没年は1834(天保5)~1872年(明治4年)。

 彦斎は、肥後熊本藩士小森貞助、母わかの子として熊本城下神馬借町に生まれた。幼いとき同藩の河上源兵衛の養子となった。諱は玄明(はるあきら)。通称は彦次郎、のち彦斎。16歳のとき、細川家の花畑邸のお掃除坊主となり、後に江戸に勤番して家老付きの坊主となった。彦斎と名乗るのはこのためだ。

 彼は儒学を轟木武兵衛(とどろきぶへい)に学び、兵学を吉田松陰の親友、宮部鼎蔵に学び、国学を林桜園について学んだ。桜園は熊本の学者だ。桜園の原道館の同門に、後に「神風蓮の乱」(1876年)を起こした太田黒伴雄や加屋栄太らがいて親交があった。儒学にも通じていたが、兵学者でもあった。国学についてはとくに精通しており、国粋主義者で、敬神の念が厚かった。

 こんな彦斎が、ペリー来航以来の時勢に心を揺さぶられ、尊王攘夷の思想を持つようになったのは、最も自然なことだった。彼は、いわゆる“肥後もっこす”的性格だったから、その思想は牢固たる信念になって、終生決して動かないのだ。このことが、後の彼の運命を決めることになるのだが…。

 文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。このとき随従員として彦斎とともに上京したメンバーに肥後勤王党の轟武兵衛(儒学者)、宮部鼎蔵らがいた。彦斎はそれまでの国老付坊主という職を免ぜられて蓄髪を許された。その後、彦斎は滞京して、熊本藩選抜の親兵になった。

 文久3年、30歳のとき、彦斎は熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。環境が異なれば、この後、宮部鼎蔵らに近い生き方をしてもおかしくなかったのだ。ところが、彼はこの後、密かに“人斬り”としてその惨劇を演じることになる。

 元治元年(1864年)7月11日、愛馬に跨った松代藩士・佐久間象山が従者2人、馬丁2人を従えて京都・三条通木屋町を通りかかったとき、通行人に紛れていた刺客2名が飛び出し、馬上の象山に斬りかかった。しかし、この一刀は象山が馬上にあったため、傷は浅かった。ただ、この後、象山には不運な偶然が重なった。この急襲を受けて象山は馬腹を蹴って、この場を逃れようとした。

ところが、馬丁の1人が刺客に気付かず、馬が狂奔したのだとみて、大手を広げて前に立ちふさがったのだ。このために馬が棒立ちになったところを、追いすがる刺客の1人が、躍り上がって斬りつけてきた。たまらず象山は鞍上から、もんどり打って地に落ちた。さらに刺客は隙を与えず、一、二刀あびせると、混乱する場に紛れ、姿を消した。白昼の凶行だった。

この刺客こそ、彦斎だった。手馴れたものだった。ただ急襲されたにせよ、馬丁が事の成り行きをつぶさに見ていたなら、象山は最初のひと太刀だけで、浅い傷を負っただけで逃れていただろう。しかし、こうして不幸にも幕末、一貫して開国論を唱え続け、吉田松陰らに影響を与えた天才、佐久間象山は暗殺されてしまった。

彦斎はこの後、藩の仲間と別れ長州軍に身を投じる。象山暗殺後の8日後の7月19日、「八月十八日の政変」(1863年)で京都を追放された長州藩が、巻き返しを企図して起こした「禁門の変」(1864年)で、彦斎は長州家老の国司信濃隊に入って戦っている。しかし、圧倒的兵力差の前に敗れ去った長州軍はバラバラに撤退。彦斎も国司信濃と別れ、しばらく鳥取藩邸に身を隠している。

第二次征長戦(四境戦争)では、彦斎は芸州口、石州口を守り戦っている。が、幕府軍で肥後熊本藩が、小倉で長州軍と対峙したと聞き、怒り、悲しみ、思い悩んだ。そして、桂小五郎や高杉晋作らが猛反対する中、長州軍を抜け、一人熊本へ帰っていった。時勢に気付いていない藩首脳たちを説得するためだった。

 慶応2年(1866年)2月、彦斎は熊本へ帰ったところを脱藩罪で捕らえられ、投獄された。説得どころか、佐幕派の藩首脳には全く聞き入れられなかった。しかし、彦斎が投獄されていた一年の間に大政奉還、戊辰戦争があり、幕府側は朝敵となった。そのため明治2年(1869年)2月には投獄されていた勤王派志士たちとともに釈放され、藩の役員に取り立てられた。彦斎は外交係に任命され、まもなく名を高田(こうだ)源兵衛と改め、肥後熊本藩の藩命を受けて東北地方へ遊説に出かけている。こうして、名うての人斬りも時代に迎合して…といいたいところだが、彦斎の場合、筋金入りの攘夷家で、維新後の明治政府の開化政策にも順応することができなかった。そして、遂に政府転覆を企てたかどで、明治4年(1871年)12月4日、38歳で断首された。

 彦斎の容姿は身長5尺前後(150cm程度)と小柄で色白だったため、一見女性のようだったという。剣は、伯香流居合を修行したという説もあるが、我流で片手抜刀の達人だったと伝えられている。また、“人斬り”の異名を持ちながら、彦斎が斬ったとはっきり分かっているのは佐久間象山だけで、あとは定かではない。 

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち 河上彦斎」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、奈良本辰也・綱淵謙錠「日本史探訪⑲開国か攘夷か 和魂洋才、開国論の兵学者 佐久間象山」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」

 

 

 

 

 

 

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化

井上 馨 西郷に“三井の大番頭”といわれた“貪官汚吏”の権化
 井上馨(いのうえかおる)は、薩長藩閥の恩恵もあって明治維新政府の大官になったが、明治初頭の尾去沢銅山事件、藤田組の贋札事件など、彼にかかっている疑惑の雲は容易に拭い去ることができないものだ。それだけに、彼がやらかした公私混同も甚だしい、その行為は“貪官汚吏(たんかんおり)”の権化とされた。井上馨の生没年は1836(天保6)~1915年(大正4年)。
 井上馨は萩藩の郷士、100石取りの井上五郎三郎光享(みつゆき)の次男として生まれ、後に250石取りの志道慎平(しじしんぺい)の養子になった。幼名は勇吉、通称を1860年(万延元年)、長州藩主・毛利敬親から賜った名前、聞多(もんた)で呼ばれた。諱は惟精(これきよ)。
 井上馨が三井財閥や長州系の政商と密接に関わり、賄賂と利権で私腹を肥やしたダーティーなイメージの強い人物であることは間違いない。一時は実業界にあっただけに、三井財閥においては最高顧問になるなど密接に関係しているだけに、否定のしようがないわけだ。こうしたあり方を快く思わなかった西郷隆盛からは、井上は政府高官ながら“三井の大番頭”ともいわれたほどだ。
 井上は明治維新後、官界に入り、主に財政に力を入れた。だが、1873年(明治6年)、司法卿・江藤新平に予算問題や尾去沢銅山の汚職事件を追及され辞職。その悪質さは目に余るものだったのだ。司馬遼太郎氏によると、明治の汚職事件は常に井上馨が中心だった。彼は公の持ち物と自分の持ち物が分からない、天性汚職の人だった-と司馬氏が記しているほど。
ところが、懲りないというか、明治の元勲たちにもあった“互助”意識とでも表現すべきものが存在したわけだ。井上は一時は三井組を背景に、先収会社を設立するなどして実業界に身を置いたが、伊藤博文の強い要請のもと復帰。様々な要職を歴任、鹿鳴館を建設、不平等条約の改正交渉にもあたっているが、汚職・不正疑惑の噂が常につきまとう、“貪官汚吏”の権化とされる人物だった。
 こんな井上だが、初めから悪人、いや悪役だったわけではない。彼は幕末期の長州藩の若い志士たちの間で支配的だった尊皇攘夷派に属し、1862年(文久2年)、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らとともに、品川御殿山のイギリス公使館の焼き討ち事件にも参加している。
1863年(文久3年)、井上は伊藤博文、野村弥吉、山尾庸三、遠藤謹助らとロンドンに密航するため、英国船の石炭庫に隠れて横浜を出港した。イギリスでの留学中、攘夷騒ぎ、外国船砲撃のことを英国新聞で知って、井上と伊藤は半年で帰国したが、それでも英語力はかなりついていたらしい。この1年半後、坂本龍馬や中岡慎太郎が仲介、奔走して成立した「薩長同盟」の成果として、薩摩藩名義で「亀山社中」が購入窓口となった武器買い付けの際、井上と伊藤らは亀山社中のメンバーとともに長崎の武器商人、トーマス・グラバーを訪ね、ゲベール銃の購入契約を結んでいるのだ。
 この武器購入には、二つの歴史的意義があった。一つは「蛤御門の変」以来、犬猿の仲となっていた両藩が歩み寄り、幕府への強力な対抗勢力となったからだ。いま一つは、この新式武装によって長州軍は面目一新し、幕府の征討軍を武力打倒できる軍備を備えることになったからだ。
 幕末期の井上には、少なくとも“悪役”イメージはない。また、維新後の太政官制時代に外務卿、参議となり、黒田内閣で農商務大臣、第二次伊藤内閣で内務大臣、第三次伊藤内閣で大蔵大臣など数々の要職を歴任している。
では、どうして彼のダーティーな、疑惑の雲が生まれたのか。当時の長州藩の情勢が、その気風を養成した点も大いにあった。長州藩主・毛利慶親(よしちか)も、世子の元徳(もとのり)も賢いという人物ではなく、普通の殿様だった。家老にもまた、たいした人物はいなかった。馬関戦争の後始末ができず、当時座敷牢に入れられていた高杉晋作を、大急ぎで引っ張り出して事にあたらせたことをみても、それは明らかだ。こんな藩のありさまでは気力、気概にあふれた若い連中の活発な動きなど統制できるはずはなかった。統制どころか、その連中に鼻面を取って引きずり回されるありさまだった。
 この時代の長州の若い志士たちは、何とか名目をつけては藩から金を引き出しては、品川の遊郭・土蔵相模その他で遊興しているが、それはこの表れの一つだ。こんなとき藩の重役たちに談じ込んで金を引き出す役目にあたったのが井上だったのだ。維新政府ができたとき、井上が大蔵大輔に任命されて、維新政府の財政の局にあたったのは、幕末、長州藩内におけるこの因縁に違いない。維新草創期の大らかさともいえるが、近代日本・再生のスタートの時期だっただけに、「適材適所の人員配置」という物差しでみると、時代遅れで見当違いも甚だしい。

(参考資料)司馬遼太郎「歳月」、司馬遼太郎「世に棲む日日」、司馬遼太郎「この国のかたち 六」、童門冬二「伊藤博文」、三好徹「高杉晋作」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」

足利義政・・・応仁の乱で都を荒廃させ、浪費に明け暮れた政治家失格者

 日本史において15世紀後半は「暗黒の時代」といわれている。足利幕府の統治力が緩み、管領はじめ有力大名の内輪もめを抑えるどころか、家督争いのゴタゴタは将軍家にまで波及し、それがエスカレートした結果、遂に10年余にわたる「応仁の乱」が勃発。都は荒れ果て、一揆・暴動が洛中洛外に蜂起して、さながら無政府状態に似た状況となった。それにもかかわらず、総責任を負う立場にある将軍足利義政は、浪費に明け暮れる政治家失格者で、幕僚・側近に人材なく、幕府の威令はいよいよその重みを失って、戦国乱世の様相へのめり込んでいった。すべて“無責任”将軍義政が招いたものだ。確かに義政の政治に対する無策・無関心には目を覆うものがあるが、そんな気質を育んだ環境にも原因はあったようだ…。足利義政の生没年は1436(永享8)~1490年(延徳2年)。

 足利義政は、六代将軍・足利義教の子として生まれた。とはいえ、すでに兄に二歳年長の義勝がいたから、義政の立場は暢気なものだった。足利宗家では嫡流の惣領以外は、男女を問わず子供は門跡寺院などに入室させて、僧尼にさせてしまう慣例があり、義政の場合もそんなレールが敷かれていたはずだった。 
 
ところが、運命は彼の人生コースを大きく変えた。彼が6歳の時、父の義教が赤松満祐に暗殺されたのだ。「嘉吉の乱」だ。青蓮院門跡から還俗して将軍位に就いた義教が幕府権威の伸張を急ぐあまり苛烈な独裁政治を断行した反動だった。その赤松一族は誅滅させられ、七代将軍の位は義勝が継いで、乱の収拾もついたかにみえた2年目だった。今度は少年将軍義勝が病気であっけなく亡くなってしまったのだ。本来なら仏門に入っておとなしくのんびりと、好きな庭造りや香・華・能など遊びの道を楽しみつつ一生を終わるべく運命付けられていた次男坊の義政が、幸か不幸か8歳の若さで八代将軍の座に座らされ、いやおうなく歴史の表面に引きずり出されることになったのだ。

 将軍義政に対する閣僚・諸大名らの目は、二代続いての不幸に懲りて、将軍は幕威をシンボライズする旗であればそれで足りる。適当に骨を抜いておいた方が牛耳り易い。変に政務に欲など出してくださるなと、幼少の義政に“無能”教育を施したきらいがあるのだ。それにしては、青年期の義政は頑張った。側近・重臣の思惑通りに操られる傀儡ばかりで過ごしたわけではない。

 そんな義政も後半生は最高権力者としての責任を放棄、何もしない無責任で怠惰そのものの、優柔不断で自堕落な将軍に成り下がっている。そして、妻の日野富子には全く相談もせずに、義政は自分の弟で出家して義尋(ぎじん)と名乗っていた僧を口説いて、自分の後継者にしようとしたのだ。このとき義政はまだ30歳そこそこだ。妻の富子は25歳で当時としては若くはないが、まだまだ子供を産める年齢だ。側室をもうければ男の子が生まれないとは限らない。むしろこれから生まれる可能性の方が高い。それなのに、なぜ義政は引退など考えたのか?趣味に生きたい義政は、将軍の座を引退することによって、面倒な儀式や将軍として最低限果たさなければならない義務を放棄し、その代わり大御所として気ままに生きようと考えたのだ。

 義政に今後男の子が生まれても、それは出家させ決して跡継ぎにしない、という条件を義政が確約したため、当初、兄義政の申し出を断っていた義尋は、結局その申し出を受けた。還俗して義視と名乗り屋敷を京の今出川に構えた。

 ところが1年後、妻富子が男の子を出産したため、義政の軽率な決定が大きな問題となってしまった。富子は何が何でも自分の腹を痛めた子を将軍にしたい。そこで、彼女は気の弱い亭主の義政を何度も攻め立てたというわけだ。義政も弟よりは自分の子供の方を将軍にしたいと思ったに違いないが、自分が楽隠居するために、弟を無理矢理、還俗させ養子にしたという負い目があった。そう簡単に約束事をほごにできない。結局、義政は将軍を辞めるに辞められなくなった。

 こうして義政の、政治などしたくないというわがままと、富子の自分の子を何が何でも将軍にするというわがままが、10年余の長きにわたり国内を二分する、日本未曾有の大乱「応仁の乱」の種を蒔いたのだ。全く人騒がせな夫婦だが、それにしてもその大元の責任はやはり義政の優柔不断で、軽率な行動にあった。引退するなら、それに伴うルールと約束をきちんと守る覚悟が必要なのだ。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史・中世混沌編」、杉本苑子「決断のとき」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

足利義満・・・大胆不敵な皇位簒奪計画が成就する直前、急死した将軍

 室町幕府の第三代将軍・足利義満は皇位簒奪を計画していたといわれる。その計画が成就する直前、義満は急死。その空前の恥ずべき所業は後世に残ることはなかったが、その大胆不敵とも思われる計画の証拠のいくつかを今日、私たちは目にすることができる。義満の生没年はユリウス暦1358(延文3)~1408年(応永15年)。

義満の幼名は春王、のち義満、道有、道義。封号は日本国王、諡号は鹿苑院太上天皇。父は第二代将軍・足利義詮(よしあきら)で、母は紀良子。正室は大納言日野時光の娘、日野業子。またその後、業子の姪、日野康子が2番目の正室となった。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

父の第二代将軍・足利義詮が38歳で思い半ばで病没。1368年(応安元年)、義満は征夷大将軍に任じられた。わずか11歳の将軍に、さしあたり何もできるはずはない。乱世の余燼さめやらぬそのころ、一つ間違えば天下の大乱が起こりかねない情勢だったにもかかわらず、何事もなく推移したのは父が残していってくれた補佐役・細川頼之のお陰だ。政務のすべてをこの細川頼之に任せていた義満が、初めて書類に花押を据えたのは15歳のときのことだ。

この時期から目立つのが義満の官位の昇進だ。義満の邸宅「室町殿」が落成、彼は後円融天皇を招いて大掛かりな宴を催した。この後、彼は内大臣に、そして25歳になったときは左大臣に任じられているのだ。三代目将軍が公家になって出世するというパターンは鎌倉幕府の源実朝と似ているが、その意味は全く違う。実朝の場合は、朝廷からの“お恵み”によって与えられた称号だった。右大臣になったからといって、実朝はその下にいる大納言以下ににらみを利かせることはできなかった。

だが、義満の場合は正真正銘の実力者として、彼は公家社会に割り込み、まもなく公家の叙位・任官へも大きな発言力を持つようになったのだ。公家社会はいまや完全に義満に制覇されて、その下風に立つことになった。これは鎌倉時代にはなかったことだ。義満による公家社会の制覇といっていい。
こうして権力者・義満は、次は強大な権威の象徴=天皇をも膝下に置くことを目指す。皇位簒奪計画がそれだ。皇位簒奪とは義満自らが天皇に即位するわけではなく、治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって、王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。義満は寵愛していた次男・義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収しようとしたのだ。

 義満は1406年(応永13年)、2番目の妻康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)とし女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に後小松天皇が北山第へ行幸したが、この際、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。4月には宮中において、次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためで、義嗣の践祚が近づいていることは公然の秘密だった。これより少し前のことになるが、1402年(応永9年)の明による日本国王冊封も、当時の明の外圧を利用しての義満の簒奪計画の一環と推測される。

 ところが、皇位簒奪のゴール直前、義嗣元服のわずか3日後、義満は急病を発して死の床につく。こうして空前の簒奪劇は未遂に終わったのだ。あっけない幕切れだった。義満の死因には多くの様々な謎がある。海音寺潮五郎氏や井沢元彦氏らは暗殺されたとの見方をしている。

 義満の死後、朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、四代将軍となった子の義持は、斯波義将らの反対もあり辞退している。義満の法名は鹿苑院天山道義。遺骨は相国寺鹿苑院に葬られた。そして相国寺には「鹿苑院太上天皇」と記された過去帳が残っており、以後、相国寺は足利歴代将軍の位牌を祀る牌所となった。

(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、井沢元彦「天皇になろうとした将軍」、今谷明「武家と天皇-王権をめぐる相剋」、永井路子「歴史の主役たち-変革期の人間像」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

井伊直弼・・・ 視点は幕府のみで、日本の将来見据える視点に欠けた超保守派

 井伊直弼といえば「安政の大獄」で、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎など将来日本の様々な分野で名を成したであろう、多くの有為の人材を罪に陥れ、処断した“極めつきの悪役”というイメージが強い。だが、果たして彼は本当に根っからの悪人だったのか?

 井伊直弼は近江彦根藩第十一代藩主井伊直中の十四男。幼名は鉄之助、鉄三郎。字は応卿、号は埋木舎・柳王舎・宗観。本来なら他家に養子にいく身だったが、庶子だったため養子の口もなく17~32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。1846年(弘化3年)、第14代藩主で兄の直亮の世子だった井伊直元(直中の十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定した。1850年(嘉永3年)直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり掃部守(かもんのかみ)に遷任する。

 直弼は1858年(安政5年)、幕府の大老に就任すると、孝明天皇の勅許なしで米国と日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を配下の堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外へ放遂した。また、違勅調印を断行した直弼らの責任を問うため、大挙して江戸城に登城した越前藩主松平慶永、水戸藩前藩主徳川斉昭、水戸藩主徳川慶篤、尾張藩主徳川慶勝、一橋慶喜らを、逆に大弾圧に乗り出した。いわゆる「安政の大獄」の始まりだ。弾圧の嵐は止まるところを知らず、反井伊派の公家、幕臣、藩士らに及んだ。吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らは死罪、近衛忠煕は辞官に、公卿だけでも90数人を処罰した。

また、十三代将軍家定の後継問題では、直弼は紀州藩主の慶福(よしとみ)を擁立し、第十四代将軍家茂を誕生させたが、対立した一橋派の徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝、一橋慶喜、宇和島藩主伊達宗城、土佐藩主山内豊信らを、違勅調印を唱えたことをからめて永蟄居や隠居などに処罰した。このほか川路聖謨、水野忠徳、岩瀬忠震、永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

 通商条約の違勅調印に続く安政の大獄は、尊皇攘夷派の反発、憤激を呼び1860年、大老井伊直弼は桜田門外で脱藩した水戸浪士ら総勢18人による襲撃で暗殺された。この日、3月3日朝、夜通しの雪が降りしきっていた。そのため、井伊家の120人余の供方は、いずれも菅笠に桐油合羽(とうゆかっぱ)といういでたちで、刀には柄袋をかけていた。不意の事件で、身支度も整わず斬られた者も多い。
井伊家の届け出には、井伊大老は負傷ということにして、子・愛麿が家督を相続し三十九代掃部頭直憲となった後、病死として処理された。ありのままに発表すれば、井伊家改易は幕府従来の規律だからだ。この「桜田門外の変」を境に、幕府の権威はかげりを帯びるようになる。この事件は白昼、お膝元、江戸城の間近で幕府最高の権力者が惨殺されたものだっただけに、世間に大きなショックを与えた。

 幕閣でこれだけの強権・独裁・恐怖政治を断行した井伊直弼だが、これは、あくまでも大老という職責を担う公人として、“徳川幕府の威信”を守るためにやったことだった。だが、この時代、求められていたのはもう少し俯瞰で、日本の将来にとってどうあるべきかを考え、行動できる人物だったのだろう。ところが、現実に幕閣を担った井伊直弼は、そうした視点に欠けた、超保守的な人物だったのではないだろうか。

 井伊直弼は、彦根藩主時代は藩政改革を行い名君と呼ばれた。彼は部屋住み時代、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを咲くことのない埋もれ木にたとえて「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた住まいで世捨て人のように暮らした。この頃、熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど聡明さを早くから示していた。したがって、彼は幕末・安政年間、幕閣に大老として登場して、その時代の幕府側にとって求められた“役割”を粛々と実践したに過ぎないのかも知れない。それだけに忌まわしい「安政の大獄」「桜田門外の変」に直結した井伊直弼の極端な“悪役”イメージを、彼自身はちょっと心外に思っているのかも知れない。

(参考資料)吉村昭「桜田門外の変」、松本清張・奈良本辰也「日本史探訪/開国か攘夷か」、奈良本辰也「不惜身命 如何に死すべきか」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、立原正秋「雪の朝」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、白石一郎「江戸人物伝」

石川五右衛門 ・・・2人の外国人によって裏付けられた五右衛門の実在

 安土・桃山時代の盗賊の怪盗、石川五右衛門は、太閤秀吉を暗殺しようとして伏見城に侵入するが、あえなく御用となり、釜ゆでの刑に処せられたといわれる。数々の伝説に彩られ、その正体は不明で、歌舞伎や浄瑠璃などでよく演じられるが、果たして架空の「義賊」か、実在の「悪党」だったのか?結論をいえば、実在したことは確かなようだが、確かな経歴は不明で、俗説と伝承が混在して、その実体はよく分かっていない。

 五右衛門と思われる人物について記述された最も古い史料は、公家の山科言経(やましな・ことつね)の日記「言経縁記」だ。そこには「文禄3年(1594年)8月、盗人スリ10人、子1人を釜にて煮る」と書かれている。次に登場するのが1642年(寛永19年)に儒学者、林羅山が幕府の命を受けて編纂した秀吉の伝記「豊臣秀吉譜」だ。ここには文禄の時代に石川五右衛門という強盗を捕え母親と同類20人を煮殺したと記されているが、仮に山科言経の日記が正しければ、この記録は1594年に処刑された日からすでに50年も経過している。沢庵禅師も随筆に五右衛門のことを執筆しているが、「豊臣秀吉譜」よりさらに年代を経ている。そのため、これらの史料はいまひとつ信憑性に欠けると見做す研究者もいるようだ。

 ただ、山科言経の日記「言経縁記」には五右衛門の名前こそ出ていないが、記載されている盗人が彼のことであることはほぼ100%間違いないと研究者たちはみている。なぜなら「言経縁記」と処刑の期日と方法が全く同じように書かれた文献が発見されたからだ。それは国内ではなく、意外にもローマのイエズス会文書館に所蔵されている。

 日本訳「日本王国記」というタイトルのその本の著者はスペイン人、アビラ・ヒロン。アビラは16世紀から17世紀にかけて、約20年、日本に滞在した貿易商で、1615年(元和元年)、長崎でこの本を書き上げた。内容は、1549年(天文18年)、三好長慶が十二代将軍足利義晴を京都から追放し占領したことから徳川家康の晩年まで、要するに戦国時代から安土・桃山時代まで、日本に起こった出来事や社会情勢が克明に著されているのだ。その中に、石川五右衛門の処刑についての記述が残されている。記述によると、都を中心に荒し回る盗賊の集団がいて、彼らは普段は町民の格好をして働き、夜になると盗みを働いたという。

 集団の中から15人の頭目が捕えられ、京都三条の河原で彼らは生きたまま油で煮られ、妻子、父母、兄弟、身内は五親等まで磔(はりつけ)に処せられた。頭目1人当たり30人から40人の手下がいて、彼らも同じ刑に処せられたという。京都で起きたこの事件は、当時としてはすこぶる早いスピードで長崎まで伝わったというが、それはいかにこの処刑が前代未聞の大事件であったかを物語っている。

 しかし、実はこのアビラの記述には石川五右衛門という名は登場しないのだ。では、なぜこの記述が石川五右衛門を指していると分かったのか。「日本王国記」の原本は現在、所在が不明だが、その写しが残されており、そこには400カ所以上にわたって注釈が書かれていたのだ。書いたのは日本にやってきた宣教師ペドロ・モレホンという人物だ。彼の注釈は盗賊処刑の記述にも付されていた。「この事件は1594年(文禄3年)の夏のことである。油で煮られたのは<Ixicavagoyemon=石川五右衛門>とその家族9人ないしは10人であった」と書かれているのだ。このペドロという人は、処刑当時、京都の修道院の院長をしていたという。つまり、処刑を見物し、あまりに印象が強かったために、わざわざ注釈を入れたというのだ。石川五右衛門実在説は、こうして2人の外国人によって裏付けられたのだ。

(参考資料)歴史の謎研究会・編「日本史に消えた怪人」

吉良上野介・・・刃傷事件の片手落ちの処置が招いた“悪役”のレッテル

 吉良上野介というと、誰もがまず「忠臣蔵」の中での赤穂浪士の敵役で、極め付けの悪役のイメージが浮かぶ。吉良上野介=吉良義央(よしひさ、よしなか)は幕府高家の家柄で、父は足利一族の名門義冬、母は大老酒井忠勝の弟忠吉の娘、妻は米沢藩主上杉定勝の娘だ。権門と姻戚関係にあるうえ、儀典の職にあたって、有職故実の指南を請う諸大名に尊大の風をもって接したといわれる。こうしたところが一般に毛嫌いされ、稀代の“悪役”あるいは“愚君”のレッテルを張られた要因なのだろうが、果たしてどうだったのか?

 義央の官位は従四位上左近衛権少将、上野介。生没年は1641年(寛永18年)~1703年(元禄15年)。1659年(万治2年)から父とともに幕府に出仕。1662年(寛文2年)、大内仙洞御所造営の御存問の使として初めて京都へ赴き、後西(ごさい)天皇の謁見を賜った。以降、義央は生涯を通じて年賀使として15回、幕府の使者として9回、計24回上洛している。この24回もの上洛は高家の中でも群を抜いて多く、まだ吉良家の家督を継いでいない部屋住みの身でありながら、使者職を行っていたことは、22歳で従四位上に昇進しているように、義央の高家としての技量が卓越していたことを表している。また、その優秀な技量を五代将軍綱吉が寵愛したためとも伝えられている。

 高家としての技量に優れていただけに、京都の朝廷にも受けが良く、その家格を鼻にかけていた側面があることは容易に想像がつく。では、領主としての義央はどうだったのだろう。領地の三河国幡豆郡吉良荘では、彼が1686年(貞享3年)に築いた黄金堤による治水事業や、富好新田をはじめとする新田開拓などに力を入れるなど善政を敷いて、領民から名君として敬われ、現在でも地元では非常に慕われているのだ。江戸城内でのあの“刃傷”事件がなければ、決して飛びぬけてということではないが後世、善政を敷いた名君の一人と呼ばれていたかも知れない。

だが、現実には1701年(元禄14年)、江戸城内・松の廊下で播州赤穂藩主・勅使饗応役の浅野長矩に刃傷を受け、御役御免、隠居。「喧嘩両成敗」が通り相場の時代に、義央は重い処罰を免れ、徳川五代将軍綱吉の指示で赤穂藩主・浅野長矩だけが即日切腹、お家(赤穂藩)断絶に処せられた。こうした片手落ちの処罰に、江戸の一般庶民は旧赤穂藩士に同情的になり、対照的に義央は敵役=悪役に仕立て上げられた形だ。

 将軍綱吉も、一般庶民の気持ち=世論がここまで赤穂藩士に傾くことは想定外だったに違いない。それなら、もっと打つ手はあったと…。播州赤穂藩と比較して、幕府内における様々な人脈、吉良家の家格を重視した上での綱吉の判断だったはずだが、ものの見事に外れてしまったのだ。

そして不幸にも吉良上野介は、翌年12月14日夜半、吉良邸への、大石内蔵助に率いられた赤穂浪士四十七士の討ち入りに遭い、首級を挙げられるという屈辱的な最期を遂げた。この壮挙に江戸の一般庶民は喝采の声を挙げ、赤穂浪士たちは本懐を遂げた。一方、吉良家は後世にも容易に払拭できない、吉良=稀代の悪役という“汚点”を残す破目になった。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、菊池寛「吉良上野の立場、」井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

後醍醐天皇・・・天皇親政めざし倒幕へ策謀をめぐらし続けた君主

 後醍醐天皇は、時の政治の中で策謀をめぐらし続けた人物だ。醍醐・村上両天皇の治世を理想の時代として追慕して後醍醐と名乗り、律令国家最盛時に匹敵する政治を実現しようとした。そのため、天皇の絶対的権威を確立しようとする志や姿勢は、武士にとっては相容れない、対立する“悪役”と映っても仕方のないものだったのだ。

 天皇親政による政治の刷新、これが後醍醐天皇の目的だったから、それを実現するためには鎌倉幕府の存在が障害となっていた。そこで倒幕の計画を練るために、無礼講や朱子学の講習会を開き、同志を糾合した。このあたり天皇というより幕末の志士といったやり方だが、この計画は事前に漏れて頓挫する。これが1324年(正中元年)の「正中の変」だ。しかし、この後も後醍醐天皇は倒幕の意志を変えず、吉田定房、北畠親房、万里小路宣房ら「後の三房」や日野資朝、日野俊基らを腹心として重用、倒幕の機会を探っていた。

 1331年(元徳3年)、吉田定房の密告によって後醍醐天皇の計画を知った鎌倉幕府は、直ちに日野俊基や円観・文観らを逮捕した。後醍醐天皇は辛うじて京都を脱出、笠置に布陣して近隣の土豪・野伏らに参戦を呼びかけた。しかし、鎌倉幕府の大軍によって笠置は陥落。楠木正成の河内・ 赤坂城も幕府軍に蹂躙されてしまい、1332年、後醍醐天皇は隠岐へと流された(元弘の乱)。

 ところが元弘2年、吉野で護良親王が再挙し、さらに河内・千早城で楠木正成が再挙して、諸国の反幕府運動が急速に展開し始めるムードが出てきた。こうした戦局の変化に応じて、1333年(元弘3年)、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、出雲で在地豪族の名和長年に迎えられ、船上山に立て籠もって朝敵追討の宣旨を諸国に発したのだ。
このとき、幕府の将として西上していた足利高氏が、後醍醐天皇に応じて反幕府の旗幟を鮮明にすると形勢は一気に逆転した。高氏は赤松氏と協力して六波羅軍を壊滅させてしまった。また、東国において新田義貞が上野生品神社に挙兵し、長躯して鎌倉を攻略。遂に鎌倉幕府崩壊、「建武新政」の実現に至るわけだ。

 しかしその「建武新政」は、記録所や恩賞方、雑訴決断所などを整備するとともに、各地に国司、守護を置いて治安の維持に努めるなど後醍醐天皇の精力的な推進にもかかわらず、公家、武家、荘園の農民などの期待に応えることができなかった。そのため、後醍醐天皇の建武の新政に失望した武士は、次第に足利尊氏の方へ結集。この後、後醍醐天皇と足利尊氏の対立が時代の構図となり、建武新政の瓦解、花山院御所への幽閉、吉野での朝廷の再建、北朝に対する南朝の劣勢。こうした中で後醍醐天皇は後村上天皇に譲位の翌日、52歳の生涯を閉じた。

 後醍醐天皇の執念で鎌倉幕府は滅亡したが、理想としたその「建武新政」は、武士社会の法「年紀法」(持ち主が20年以上支配している土地の権利は変更できない)を無視したことで、武士の不満が噴出してわずか3年で崩壊した。また、後醍醐天皇は自己の子孫に皇位を世襲させることに執念を燃やしたために、この後60年の長期にわたる内乱の時代=南北朝時代をつくってしまった。

 司馬遼太郎氏も、後醍醐天皇がやった「建武新政」は、ことごとく歴史の現実や進歩に合わなかった-と酷評している。自分が理想とする平安期の「延喜・天暦の治」の断行に固執するあまり、武士階層のニーズが全く読めず、時代を戻そうとしただけの後醍醐天皇の治世は、成立するはずがなかった。やはり、暗愚の帝王と呼ばれても仕方がない。
(参考資料)徳永真一郎「後醍醐天皇」、村松友視「悪役のふるさと」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、井沢元彦「逆説の日本史」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

玄ホウ・・・橘諸兄政権の担い手として出世したが、やがて排除、左遷される

 玄ホウは奈良時代の法相宗の僧で、聖武天皇の信頼が篤く吉備真備とともに、橘諸兄政権の担い手として出世した。だが、彼の人格に対して人々の批判が多く、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、“君側の奸”として排除され、筑紫に左遷され、任地で没した。玄ホウの生年は不詳、没年は746年(天平18年)。

 玄ホウの俗姓は阿刀氏で阿刀阿加布の子。出家して義淵(ぎえん)に師事。717年(養老元年)、遣唐使に留学僧として随行。入唐して智周に法相を学んだ。在唐は18年に及び、その間当時の皇帝だった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。18年後の735年(天平7年)、遣唐使に随って経論5000余巻の一切経、仏像などをもって吉備真備らと帰国。

 玄ホウは736年(天平8年)、封戸を与えられた。737年(天平9年)、僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し、仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母=皇太夫人・藤原宮子の病気を祈祷により回復させることに成功、賜物を受けた。これを機に聖武天皇の篤い信頼を得て、幸運にも吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世した。まさに異例のスピード出世だ。ただ、こんな玄ホウも人格的には問題があったようで、人々の批判も強かった。

そのため、740年(天平12年)には大宰少弐・藤原広嗣が上表して、時の政治の得失を論じ、この玄ホウと吉備真備の追放を言上した。そして翌年には反乱の兵を挙げた。「藤原広嗣の乱」だ。これにより西海道はにわかに戦場と化したが、ほどなく平定され、広嗣は捕らわれて処刑された。これによって、世情の批判をいったんはかわした形だった。玄ホウは741年(天平13年)千手経1000巻を書写供養している。玄ホウが得意の絶頂にあったのは、このころまでだった。

聖武天皇はこの頃、平城京を発ち恭仁京、紫香楽京、難波京と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返した。また、玄ホウの意見により諸国の国分寺の建立や、盧舎那仏の造顕の詔を発して、鎮護国家思想を体現したとされるが、天皇の情緒不安定は大きく、政治の方向を見失わせた。

 藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、玄ホウも天皇の側から徐々に遠ざけられるようになった。そして玄_にとって黙ってみていられない事態が起こる。745年(天平17年)、行基が前例のない大僧正に任じられたのだ。僧正である玄_の上位に、文字通り仏教界の最高職が設けられ、そこに行基が就いたわけだ。玄ホウのプライドは完全に潰されたてしまった。

そんな心穏やかではない玄ホウだったが、さらに追い討ちをかけられるように彼は、遂に筑紫観世音寺別当に左遷された。観世音寺とは、天智天皇が筑前で亡くなった母の斉明天皇のために飛鳥時代に造り始めた寺だが、80年経過したこのときでも、まだ完成のメドも立たない寺だった。左遷に伴って、玄ホウは朝廷から賜っていた封物も没収された。そして746年(天平18年)、任地で没した。亡くなったとき、741年(天平13年)、玄ホウと吉備真備を朝政から排除するよう言上し、大宰府で乱を起こしたが失敗し、失意のうちに処刑された藤原広嗣の怨霊に殺されたのではとの噂が立った。
 玄ホウの弟子に慈訓(じきん)、善珠(ぜんじゅ)らがいる。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」

高 師直・・・足利尊氏の弟、直義と対立、引退に追い込み、幕政の実権握る

 高氏(こうし)はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係にあった。師直(もろなお)はこのような名家の一族であり、後年、足利尊氏が幕府を開いてからは、並みいる守護大名も畏怖するような権勢を振るった。そして、こうした権勢をやっかんだ氏族たちが流布したものなのか、古典「太平記」や後世の創作などにより、師直は“悪逆非道”の烙印を押された人物として記されている。また、とくに天皇家の権威・権力を軽んじる傍若無人な人物としても記されたものがある。果たして、師直の実像は?

 高氏は公家の高階氏(たかしなし)の分かれで、成佐(なりすけ)という者の代に下野に土着して、武士への道をたどった。成佐の子は惟章(これあき)といったが、子供に恵まれず、八幡太郎義家の孫、惟頼(これより)を養子に迎え、家を継がせた。惟頼には何人かの兄弟がおり、そのうち義重は新田氏の、義康は足利氏のそれぞれ祖となっている。つまり、高氏はその系譜からすると新田氏や足利氏とは兄弟の家筋という関係にあったわけだ。
 鎌倉時代の高氏の動向ははっきりしないが、あるいは足利家と同格の御家人ではなかったかとも考えられている。足利家に臣従していたとしても、その地位は極めて高く、足利家の家宰(家老)職を占めていたようだ。いまひとつ足利家との近い関係を裏付けるものがある。足利家では尊氏の祖父家時が、子孫三代の間に天下が取れることを願い、置文(おきぶみ=遺言状)を残して自殺するという事件が起きており、その置文は師直の祖父師氏(もろうじ)に宛てられていたのだ。このことからみて、足利氏と高氏がかなり早い時期から単に親密であるという以上の特別な関係で結ばれていたことは、まず確実といっていい。

 高師直の生年不詳、没年は1351年(正平6年/観応2年)一般的に名字の「高」と諱の「師直」の間に「の」を入れて呼ばれる。高師重(もろしげ)の子として生まれた。別名は五郎右衛門尉(通称)、道常(号)。兄弟に高師泰がいる。足利尊氏の側近として鎌倉(幕府)討幕戦争に参加。1338年、尊氏が征夷大将軍に任じられ、室町幕府を開くと将軍家の初代執事として絶大な権勢を振るった。

 室町幕府内部は将軍尊氏と、政務を取り仕切る直義(ただよし)の足利兄弟による二頭制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき幕府を二分する権力闘争に発展していく。やがて直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって、執事職を解任された師直は師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃。さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲して、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。そして、直義の出家後、師直は将軍尊氏の嫡子、義詮を補佐して幕政の実権を握った。実質上、No.2に昇りつめたのだ。

 1350年(正平5年/観応元年)師直は直義の養子の足利直冬討伐のため尊氏とともに播磨へ出陣する。この際、直義は出家した身ながらウルトラCの奇策に出る。京を脱出して南朝に降参、南朝・直冬とともに師直誅伐を掲げて挙兵したのだ。あくまでも兄、尊氏・師直(北朝)に対抗する策だ。

そして1351年(正平6年/観応2年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦する。これで師直vs直義の対決も収拾されたかにみえた。ところが、師直は摂津から京への護送中、待ち受けていた上杉能憲によって武庫川畔(現在の兵庫県伊丹市)において、師泰ら一族とともに処刑された。直義方に謀られたのだ。尊氏と直義兄弟の仲に割って入り、室町幕府の実権を握り、まさに権勢を振るった高師直も、源氏の貴種という“血”には勝てず、権勢をほしいままにし過ぎたためか、“悪逆非道”の人物というレッテルを張られ、あっけない末路となった。

(参考資料)百瀬明治「軍師の研究」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」

後白河天皇・・・政治的洞察力に優れ、「院政」を始めた比類なき政略家

 後白河天皇の在位はわずか3年だったが、上皇として院政を始め、一時中断はあるものの、天皇五代30余年にわたり院政を敷いた。その間、隆盛を誇った平氏一門と対立。「鹿ケ谷の陰謀」事件や、平氏政権転覆を企てるなど平氏一門を翻弄し、比類なき政略家、陰謀を好む専制君主だったという見方がある。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝から「日本国第一の大天狗」と評されたほど、権謀術数に明け暮れる一生を送った人物だ。半面、政治的洞察力に優れ、決断力に富んだ偉大な政治家だったのではないかとの見方もある。後白河法皇は果たして本当に“悪役”だったのか否か?見方の分かれる人物に違いない。

 武士の台頭によって、公家政権が衰退していくという大きな流れの中で、後白河法皇のエネルギーは常に公家政権の存続のために費やされた。“武力”を表看板とする武士たちとの虚々実々の駆け引きには、確かに極めて興味深いものがある。

 後白河法皇は第七十七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子、母は待賢門院璋子。在位はわずか3年だったが、保元の乱で崇徳上皇方を破り1158年(保元3年)、皇子の二条天皇に譲位、上皇として院政を開始した。そして、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代にわたって院政を行い、30年以上にわたり君臨した。後白河は父の鳥羽院から「その器に非ず」との烙印を押され、忠通の子で博覧強記で知られる九条兼実には「不徳の君」などと蔑まれたが、新たに登場した武家の世にその辣腕ぶりを遺憾なく発揮した。

 後白河が院政政権を確立するにあたって協力関係にあった平家とは、平清盛の妾の妹にあたる小弁の君(建春門院)を寵愛し、その所生の皇子を皇位に就けて高倉天皇としたあたりまでだった。この後は清盛と激しく対立し、その流れの中で1177年(治承元年)の鹿ケ谷事件の発覚となった。1179年(治承3年)には亡くなった平重盛の遺領をめぐって清盛と衝突し、鳥羽殿に幽閉されてしまった。しかし、1180年(治承4年)に院の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が源頼政に擁立され、平家打倒の兵を挙げ、源頼朝・義仲らの源氏勢力が次々と蜂起。また高倉院や清盛が相次いで死去する幸運(?)に恵まれ、後白河は再び政界に復帰した。

 源(木曽)義仲と対立した際は、法住寺の御所に兵を集めて戦ったが、敗れて五条内裏に幽閉された。さらに源頼朝と義経との離間を計るなど、権謀術数に磨きがかかってきた。義経には頼朝追討の宣旨を与え、義経が敗れるや、頼朝に義経追捕の宣旨・院宣を与えるという具合だ。比類なき策謀家の面目躍如といったところだが、これによって公家政権が途絶えなかったことを思えば、公家勢力の顕示に貢献するとともに、単なる権力志向や私利私欲ではなかったということだろう。

 1169年(嘉応元年)、後白河は43歳で出家し以後、法皇と呼ばれるようになったが、神仏への信仰は極めて篤く、熊野への参詣は34回にも及んだ。また、今様を愛好し、自らその歌謡の選集「梁塵秘抄」を編んだ。その口伝集によると、世間に評判の能者は、その身分に関わらず院の御所に招き、その一人の遊女、乙前とは師弟の契りを結んだ。後白河法皇は、陰謀を好む比類なき政略家だったが、半面、信仰心の篤い一人の文化人でもあった。

(参考資料)井上靖「後白河院」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「絵巻」

芹沢鴨 ・・・近藤勇一派に敗れ、「燃えよ剣」のお陰で“悪役”に

 芹沢鴨は幕末の新選組の初代局長だ。ところが、映画や小説で取り上げられてイメージアップされ、後に活躍する近藤勇、土方歳三、沖田総司などに追いやられ、芹沢鴨はすっかり悪役に仕立て上げられてしまった感がある。新選組映画はほとんど近藤勇が主役の映画だ。当初は近藤勇にやたらに人斬りをすすめる鬼の副長だった土方歳三がなぜ脚光を浴びたかといえば、これはすべて司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」のお陰だ。そんな中で、悪役イメージを与えられた芹沢鴨とは、実際にはどんな人物だったのか。

 芹沢鴨は、常陸行方郡玉造の豪農の家に三男として生まれた。本名は木村継次。水戸藩浪士。江戸で神道無念流を修め、免許皆伝の腕前だったという。水戸の武田耕雲斎に私淑し、耕雲斎が天狗党を結成したとき、下村継次の変名で参加。隊員300名を預かるほどの存在だったらしい。だが、芹沢鴨に関する水戸での記録はほとんど分からない。
1863年(文久3年)、清河八郎による浪士隊の募集が行われた。浪士隊の役目は将軍上洛の際の護衛。支度金50両をもらえるほか、身分の保証がある可能性もある。この募集に芹沢鴨も、近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、山南敬助、原田左之助、井上源三郎など試衛館の一統とともに応じたのだった。

浪士隊が京へ入ったその夜、清河八郎が浪士を新徳寺へ呼び集め、このたびの浪士組結成は、将軍家茂の警護のためではなく、尊皇攘夷の先鋒となるためだという考えを明かした。一同は驚きの余り声をのんだ。司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」によると、清河八郎は兵を持たぬ天皇のために押しかけ旗本になり、江戸幕府よりも上位の京都政権を一挙に確立しようとしたのだ。

 清河八郎はその夜から公卿工作を開始し、浪士隊の意のあるところを天皇に上奏してもらえるよう運動した。清河の建白は大いに禁裏を動かした。もし時流が清河に幸いすれ。ば、出羽清川村の一介の郷士が、京都新政権の首班になることもあり得たということだ。だが、近藤や土方は清河を信用できず、“寝返り”の匂いを感じ取った。土方は芹沢の実兄が木村伝左衛門という名で、水戸徳川家の京都屋敷に公用方として詰めていることを知り、その縁を通じて京都守護職・松平容保に働きかけて、新党結成を実現しようと考え、一度だけという気持ちで芹沢と手を結んだ。このとき、近藤や土方らの試衛館一派と、芹沢一派が同じ宿舎でなかったら、こんな手の結び方は実現するはずもなく、新選組自体この世に生まれていなかったかも知れない。

 清河八郎の建白書は朝廷に容れられたが、それを聞いた幕閣は驚き、早々に浪士を江戸へ呼び戻した。清河八郎と浪士隊は、京に20日ほどいただけで江戸へ帰っていったが、近藤一派と芹沢一派は京へ残り、松平容保に嘆願書を出し、容保御預かりの身となった。いよいよ、新選組のスタートだ。

この後、新選組は近藤勇らによる、試衛館色に新選組を染めていく、いわゆる粛清の日々となる。芹沢鴨の暗殺もその一環だ。それだけに芹沢鴨の苛立ちは治まらない。酒を飲まないときはともかく、酒気を帯びると乱行が続いた。近藤勇一派に追い詰められて、毎日飲まずにはいられなかったのだろう。ここが芹沢鴨という男の終点だった。こうしてみると、芹沢鴨はやはり悪役がふさわしかったようだ。

その日も、酒宴で泥酔した芹沢は腹心の平山、平間と屯所に戻り、それぞれ女と寝ていた。土方は深夜、沖田総司、山南敬助、原田左之助を連れて密かに忍び入り、芹沢とその女、お梅、平山五郎の3人を斬殺した。土砂降りの夜中だった。芹沢殺しを成し遂げた土方は引き揚げて着衣を替え、何食わぬ顔で外へ出ると、事件の様子などを尋ねたという。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、村松友視「悪役のふるさと」、藤沢周平「回天の門」

蘇我入鹿・・・聖徳太子一族を滅亡に追い込み、国政を壟断した最高実力者

「大化改新」の主役が中大兄皇子、そしてこれを補佐した中臣鎌足だとすれば、その敵役は蘇我氏、それも宗本家の蘇我蝦夷・入鹿の父子ということになる。また、もう少し時代をさかのぼると、聖徳太子の子、山背大兄王ら上宮王家一族24人を凄惨な自殺に追い込んで滅ぼし、当時の国政をほしいままにした悪役。それがここに取り上げた蘇我入鹿だ。

 蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子が築いた繁栄をベースに君臨。蘇我氏は大臣(おおおみ)として大和朝廷の実権を馬子、父・蝦夷に次いで三代にわたって掌握した。642年(皇極元年)、父に代わって国政を掌握した入鹿は翌年、父から独断で大臣を譲られ名実ともに大和朝廷の最高実力者となった。644年(皇極3年)、甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を築き「上の宮門(みかど)」「谷の宮門(みかど)」とし、さらに自分の子女たちを皇子と呼ばせた。

しかし、専横を極めた蘇我氏は善玉の手で征伐されないと物語が成り立たない。入鹿は、彼が皇位に就けようと画策した古人大兄皇子の異母弟で、古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らのいわゆる「乙巳の変」のクーデターによって飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿で、皇極天皇に無罪を訴えるも、その御前であえなく止めを刺され、暗殺された。後日、父蝦夷も自決し、ここに馬子の時代から天皇家をも凌ぐ絶大な権力を持ち、栄華を誇った蘇我宗本家は滅んだ。

こうした部分だけみると、この入鹿という人物、権勢を背景にわがまま放題に振る舞う野心家で、“悪”の権化の印象を受けるが、果たしてそうなのか?入鹿は青少年期、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の学堂で学ぶ秀才だったと伝えられている。南淵請安は608年、遣隋使として派遣された小野妹子に従い、僧旻ら8名の留学生・留学僧の一人として留学。以来32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して640年、高向玄理らとともに帰国した。入鹿はその南淵請安から、新知識をかなり受け入れていた存在といえ、その学識レベルはやはり、単なるわがまま放題の悪役像と外れてくるのではないか。

また、この南淵請安の学堂には若き日の中臣連鎌子(後の鎌足)も出入りしていたというから皮肉だ。また、それだけに鎌足も入鹿の学識レベルを熟知。入鹿が権勢をバックにした、単なる野心家ではないとみて、綿密に打倒計画を練っていたのではないか。

「乙巳の変」決行に際して中大兄皇子、鎌足らは、日頃から注意深く慎重な入鹿の性格を知悉していたことから、わざと俳優(わざひと)を配して入鹿の帯びた剣を解かせた。中大兄皇子らは入鹿が入場すると諸門を固め、自らは長槍を持って宮殿の脇に身を隠した。鎌足は海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に命じて、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し、素早く入鹿に斬りかかるよう伝えた。

ところが、子麻呂らはいざとなると怖じ気づき、なかなか斬りかかろうとしなかった。上表文を読み進める蘇我倉山田石川麻呂は、なかなか刺客が登場しないのに、たじろいで大汗を流した。異変に気付いた入鹿が石川麻呂に問いかけるやいなや、中大兄皇子らが躍り出て遂に入鹿に斬り付けた。

 皇極天皇は惨劇を目の当たりにして、中大兄皇子に説明を求めた。そこで、中大兄皇子は、皇位を簒奪しようとする入鹿の悪行を余すところなく糾弾した。この「乙巳の変」を機に、わが国では史上初めて譲位が断行され、皇極天皇から同天皇の弟、軽皇子へバトンタッチされ、孝徳天皇が誕生した。
(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、村松友視「悪役のふるさと」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

蘇我赤兄・・・近江朝で天智天皇に仕え、有間皇子を謀略にかけた人物

 645年(皇極4年)、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。古代史上最大のクライマックスともいえる蘇我入鹿暗殺事件だ。この事件の直後、入鹿の父・蝦夷も自決し、蘇我本宗家は滅亡した。しかし、ご承知の通り、これによって蘇我氏全体が滅んだわけではない。反対に、蘇我氏一族の中で、それまで本宗家の馬子直系による権力の独占に不満を持っていた一族は、出世そして繁栄の機会を得たものと、これを大歓迎した。蘇我氏の中で境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)の一族で、ここに取り上げる蘇我赤兄(そがのあかえ)がその一族の一人だ。

 蘇我赤兄は孝徳天皇の息子、有間皇子を孝徳天皇の死後、謀略にかけ、死に追い込んだ張本人として知られている。ただ、これについても確かに謀略にかけたのは赤兄だが、その指示を出していたのは中大兄皇子(後の天智天皇)との見方が有力だ。となると、少し事情は違ってくるが、史料が伝えるその人となりは、やはり悪人としかいえない、ずる賢さが漂っている。

 658年(斉明天皇の4年)、斉明天皇は中大兄皇子らとともに紀伊の牟婁温泉(むろのゆ、現在の和歌山県白浜温泉)に保養に出かけた。その留守中のことだった。留守官(るすのつかさ)として飛鳥の都に残っていた蘇我赤兄が、有間皇子邸を訪れた。そして、土木工事を中心とする公共事業の頻発で、この労役のために民が苦しんでいることを挙げて、斉明天皇-皇太子・中大兄皇子による政治を批判し、皇子に謀反を勧めたのだ。さらに、赤兄は自分の兄たち(石川麻呂、日向)が中大兄皇子に裏切られたことを持ち出して、中大兄を恨んでいることを語ったのだ。

 赤兄の巧みな芝居で、まだ19歳という若い有間皇子は実力者の赤兄が見方についたと早合点し、心を許しすっかり信用。赤兄に兵を挙げる意思があることを明かしてしまったのだ。そして、翌々日、皇子は自ら赤兄の家へ行き、謀反の密議をこらした。ところが、その夜半、赤兄は有間皇子の邸を囲み、牟婁温泉にいる天皇のもとに急使を走らせ、有間皇子の謀反を告げたのだ。皇子はまんまと赤兄の謀略にひっかかったわけだ。まったく、やり方が汚いとしかいいようがない。

 捕らえられた有間皇子は、牟婁に送られ、謀反の動機について中大兄皇子の厳しい尋問を受けた。それに対して有間皇子は、「天と赤兄と知る。われはもっぱらわからず(天と赤兄だけが知っていること。それがしは全く知らぬ)」と答えた。この「天」とは中大兄を指した言葉といわれ、このとき初めて有間皇子は自分を陥れた張本人が中大兄だったことを知り、いわば捨てぜりふを吐いたとみられる。この取り調べだけで、有間皇子は死刑と決まった。そして悲しいことに、その2日後、有間皇子は藤白坂(現在の和歌山県海南市)で縛り首となった。

 甘い言葉に乗せられた有間皇子に用心深さが足りなかったことは認めるが、やはり卑怯なのは赤兄だ。有間皇子も、軍備・軍勢を整えて、正々堂々戦って負けるのであれば納得できたろうが、罠にかけられた悔しさは筆舌に尽くし難いものだったろう。

 赤兄の生没年は不詳だ。『公卿補任』によると、天武天皇の元年(672年)8月配流、それに続いて「年五十一」と記されている。これが事実ならば、生年は推古天皇31年(623年)となる。父は蘇我倉麻呂で、兄に石川麻呂、日向(ひむか)、連子(むらじこ)、果安(はたやす)がいる。娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)は天智天皇の嬪となり、山辺皇女(大津皇子の妃)を産んだ。大○娘(おおぬのいらつめ)は天武天皇の夫人になり、穂積親王、紀皇女、田形皇女を産んだ。

 赤兄は671年、左大臣となり近江朝廷の最高位の臣下として天智天皇に仕えた。天智天皇の死後は近江朝廷の盟主、大友皇子を補佐。吉野に逃れて軍備を整えた大海人皇子軍との対決となった、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)では、赤兄は大友皇子とともに出陣した。最後の決戦となった瀬田の戦いで敗れて逃亡。翌日大友皇子が自殺し、赤兄はその翌日、捕らえられた。そして、その1カ月後、子孫とともに配流された。ただ、その配流先は不明だ。

(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、豊田有恒「大友皇子東下り」、永井路子「裸足の皇女」、遠山美都男「中大兄皇子」

平重衡・・・寺社勢力討伐へ、東大寺・興福寺焼き討ちの実行者

 平重衡は1181年(治承4年)、平氏の総帥・平清盛の命により東大寺、興福寺の堂塔伽藍を焼き払った。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇残さず焼き尽くし、多数の僧侶が焼死した。この「南都焼き討ち」は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒から“憎悪”の眼で見られ、ひどく憎まれた。滅びてはならないもの、また滅びるはずのないものと信じ切ってきた精神的支柱が、たった一晩の業火であっけなく無に還ってしまった驚きは、現代人の理解の範囲を、遥かに超えたものであったに違いない。

戦(いくさ)の中で寺が主戦場となった場合は別として、通常、戦のため寺が火災に遭うのは多くは類焼だ。ところが、この「南都焼き討ち」は寺社勢力に属する大衆(だいしゅ=僧兵)の討伐を目的としたもので、「治承・寿永の乱」と呼ばれる一連の戦役の一つだ。

では、なぜ清盛は重衡に南都の代表的な寺の焼き討ちを命じたのか。それは、聖武天皇の発願によって建立され国家鎮護の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺だった興福寺が、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景に、元来、自衛を目的として結成していた大衆と呼ばれる武装組織=僧兵の兵力を恃(たの)みとして、平氏政権に反抗し続けていたからだ。清盛としては寺社の格の区別なく、平氏の“威光”を天下に示す必要があったのだ。

とはいえ、当時の日本人は、僧兵どもの横暴や我欲を指弾しながらも、この鎮護国家の二大道場、東大寺・興福寺に伝統的な畏敬と信頼を保ち続けていた。それが消えた、という事実は彼らの胸を不安と絶望に塗りつぶしてしまった。この事件によって人々が強いられたのは、遂に動かし難い「末法の世」への確認だった。それは“恐怖”そのものだった。

平重衡は、そんな大それた悪行を実行した張本人にしては、年もまだ24歳にしかなっていない貴公子だった。平清盛の四男で、6歳で従五位下・尾張守に任じ、左馬頭に叙せられ、やがて正四位に進み左近衛権中将、続いて蔵人頭に補された。同じ年の5月、源三位頼政が以仁王を奉じ、全国の源氏に先駆けて打倒平家の兵を挙げたとき、重衡は甥の維盛とともに2万の兵力を率いて頼政を宇治に破ったが、合戦の経験といえばこれが生まれて初めての、いわば典型的な“公達”武者なのだ。

今度はその重衡に4万の大軍を与えて、南都攻略に向かわせた清盛の狙いは何だったのか。実は当時、源三位頼政の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源氏との富士川での戦いに平家は敗れ、清盛は都を福原から京都に戻さざるを得なくなり、平家一門にとってはまさに四面楚歌の状態にあったのだ。そこで、そんな局面打開策の一環として、南都攻略が企図されたわけだ。焼き討ちの挙に出るまで、清盛もぎりぎりまで衝突を避けようと腐心し、調停の使者をさしたてている。しかし、使者は髷のもとどりを切られたり、鎮撫の兵も斬られ、奈良僧兵たちがあざけり、挑発的行為に出るに及んで、清盛も怒り、決断したのだ。

そんな清盛の意を受けて、「僧徒たちは悪鬼、寺は悪鬼のこもる城だ。焼き滅ぼして何が悪かろう」。恐らく重衡はそんな思いだったに違いない。しかし、堂塔伽藍が一斉に華麗な炎をあげ始め、さらに大仏殿までが火焔に包まれ始めたとき、彼も青くなり、仏法に仇する“怨敵”の烙印を額に押されて、平然としていられるほど太い神経は持ち合わせていなかったろう。若い重衡には、この体験は残酷に過ぎたといえる。

この事件を契機に、好意的だった寺社勢力さえが離反し、平家の孤立化は決定的となった。そして、源氏との間で「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇の浦の戦い」と坂を転げ落ちるように平家は負け続け、滅亡の道をたどった。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

鳥居耀蔵・・・洋学嫌いが高じて「蛮社の獄」をでっちあげた“妖怪”

 江戸時代末期の幕府重臣だった鳥居耀蔵は、一貫して洋学に反感を持ち、それが高じて洋学者に憎悪の目を向け、高野長英、渡辺崋山らの洋学者を大弾圧した「蛮社の獄」をでっちあげたとの見方すらある。多くの場合、悪役のレッテルを張られるケースが多いのだが、“妖怪”とも称された彼は世間から“悪役”の衣を着せられたのではなく、むしろ確乎たる悪人だったのではないか。

 鳥居耀蔵は大学頭・林述斎の次男として生まれた。名は忠耀(ただてる)。25歳のとき旗本、鳥居一学の養子となった。1837年(天保8年)、目付けとなった。この年はアメリカ船モリソン号が日本人漂流民を乗せて渡来するにあたり、渡辺崋山が「慎機論」を、高野長英が「夢物語」を著して、幕府の撃退方針を阻止しようとしたが、とくに崋山は時勢に遅れた鎖国体制の固守はかえって外国の侵略を招く恐れのあることを強調した。崋山に限らず、蛮社の人々は江戸湾が封鎖された場合、幕府のお膝元である江戸の物資がたちまち払底するだろうという恐れを共通して抱いていた。

 蛮社は、江戸の山の手に住む洋学者を中心として、新知識を交換するためにつくられた会合の名称で、「尚歯会」または「山の手派」ともいわれた。蛮社は「蛮学社中」の略だった。三河田原藩の家老・渡辺崋山を盟主とし、町医師・高野長英、岸和田藩医・小関三英らの蘭学者、勘定吟味役・川路聖謨(としあきら)、代官・江川太郎左衛門栄龍、代官・羽倉外記、内田弥太郎(高野長英門下)らの幕吏、薩摩藩士・小林専次郎、下総古河藩家老・鷹見忠常、農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)らを加えた、つまりは開明分子の一団だった。

 こうした時代背景の中で、老中・水野忠邦は「寛政の改革」以来の江戸湾防備体制をさらに強化する必要があると判断。1838年(天保9年)目付・鳥居耀蔵と、代官・江川栄龍に、浦賀など江戸湾の防備カ所の巡見を命じた。ところが、この命に鳥居耀蔵は過剰に反応。儒学を信奉していて異常なほどの洋学嫌いな彼は、日頃、強い反感を抱いていた蛮社の人々に報復する絶好の機会と捉え、近世洋学史上最大の弾圧といわれる“蛮社の獄”へとエスカレートさせていくのだ。

 鳥居耀蔵は小人目付・小笠原貢蔵に、老中・水野忠邦の内命と偽って蛮社の面々を探索するように命じた。それを、情報を提供した下級役人の花井虎一からの密訴という形で告発状をつくり、これを水野忠邦のもとへ提出した。この結果、政治を論じた「慎機論」「西洋事情」などの草稿が発見された渡辺崋山は、政治誹謗のかどで厳しい吟味を受け、藩に累が及ぶことを怖れた崋山は、自決している。高野長英も逃亡生活を送った後、自決。また代官・江川栄龍をも失脚に追い込んでいる。このような探索、吟味のやり方はすべて鳥居耀蔵の手によるものだった。

 水野忠邦がリーダーとなった「天保の改革」においても鳥居耀蔵は“活躍”する。彼は天保12年、策動して失脚させた矢部定謙(さだのり)に代わって南町奉行に栄転し、鳥居甲斐守忠耀となった。しかも、天保の改革が民衆から予想をはるかに上回る反発を受け、反対派の台頭が目覚しくなってくると、彼は直属の上司の水野忠邦を裏切り、反対派に機密書類を提供して寝返りを打った。

出処進退の潔さが強く求められた時代に、この往生際の悪さはどう表現したらいいのか。悪の典型といわれても仕方あるまい。
 この後、鳥居耀蔵は四国丸亀に25年もの長きにわたり幽閉され、奇跡的に生還。78年の人生を生き抜いた。まさに“妖怪”だ。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、松本清張・松島栄一「日本史探訪/開国か攘夷か」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、白石一郎「江戸人物伝」

天智天皇・・・謀略を駆使し、頂点に昇りつめた自己顕示欲に長けた策謀家

 天智天皇(当時は中大兄皇子)は、母・皇極帝の3年、「乙巳(いっし)の変」で中臣鎌足らと謀って、当時極めて大きな権勢を誇った蘇我氏(蝦夷・入鹿)を打倒、叔父・軽皇子を即位させ、孝徳天皇として立てて「大化改新」を断行。のち再び母を即位させ、自らは皇太子として政務を執った。こうしてみると、表面上はNo.2に甘んじる控えめな皇子を連想し勝ちだが、実はそうではない。様々な背景・理由があって即位することはなかったが、実権は彼が掌握していたのだ。有間皇子、蘇我倉山田石川麻呂、そして孝徳天皇など、彼にとって邪魔な存在はすべて謀略にかけ、追い込んで排除していく策謀家の側面が強い。

 天智天皇は父・田村皇子(後の舒明天皇)、母・舒明天皇の皇后、さらに後に即位して皇極天皇、重祚して斉明天皇となる宝皇女との間に生まれた。名は葛城皇子、開別(ひらかすわけ)皇子。田村皇子即位後、蘇我馬子の娘を母とする古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子とともに、皇位継承資格者とみなされ中大兄皇子を称した。皇后には古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)を迎えた。父、古人大兄皇子は孝徳朝初期に吉野にあったが、謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺害された。その際、倭姫は幼少のため中大兄皇子に引き取られ、後に輿入れしたのだ。

 天智天皇をめぐる女性の数は多く、嬪(みめ)として遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)が嫁ぎ、さらに女官として色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、黒媛娘(くろめのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)らが後宮に入った。遠智娘との間には建皇子、大田皇女、○野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)が生まれ、姪娘との間には御名部(みなべ)皇女や阿閉皇女(後の元明天皇)が、伊賀采女宅子娘との間には伊賀皇子(後の大友皇子=弘文天皇)が生まれた。

 中大兄皇子は、大化改新以前は隋に渡った南淵請安や僧旻(みん)から大陸、半島情勢を学び、高句麗や百済の動向、さらには唐の覇権拡大などを十分認識して皇室を中心とする中央集権国家の樹立に邁進した

 冒頭で様々な事情から即位せず、皇太子として政務を執り続けたと述べたが、その最大ともいえる事情の一つが実妹、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)と、男女の関係にあったと伝えられることだ。これは由々しきことだ。古代社会では、同母でなければ兄弟姉妹での男女関係、あるいは婚姻に至るケースはよくあり、決して珍しくない。近親同士の男女関係、いや婚姻についても甥と叔母、叔父と姪のケースは極めて多いとさえいえる。

ところが、実父、実母同士の男女関係は、現代はもちろん、古代社会においても厳に認められておらず、タブーとなっていた。中大兄皇子(=天智天皇)はこのタブーを破って、長く間人皇女との男女関係にあったので、即位したくても即位できなかったのだ。それでもいっこうにひるむことなく、実権は握り続けたわけだ。中大兄皇子は誰も仕返しが怖くて、そのことを指摘し非難できないことをいいことに、やりたい放題だったのだ。それほど身勝手で、自分だけは別の存在だとばかりに振る舞う、まさに“専制君主”あるいは“悪魔”のような人物だった-といった方が的を射ているかも知れない。

天智天皇とは、こんな人物だったから側近はいつもピリピリし、表面上は絶対服従の姿勢を示しながらも、内心はうんざりして、周囲も辟易していたろう。同天皇の打ち出す朝鮮半島政策に対する危うさも加わって、新羅、高句麗からの渡来人・帰化人らが入り混じった形で、反対勢力がいつどのように動き出してもおかしくなかった。同天皇が進言に耳を貸す人物でないだけに、朝鮮半島政策の路線を修正・変更するには抹殺するしかなかったわけだ。

 天智天皇の死には謎が多い。歴代天皇の中で天智天皇の墓がないのだ。山科の草むらで同天皇の沓が見つかったが、『扶桑略記』には亡骸は遂に見つからなかったとある。何者かに襲われ殺害された可能性もあるのだ。それが、弟の大海人皇子に好意を寄せていた勢力の人物だったかも知れない。

(参考資料)遠山美都男「中大兄皇子」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「隠された帝」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」、梅原猛「百人一語」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」

徳川綱吉・・・知性派将軍も「生類憐みの令」を出したため“悪役”に

 徳川綱吉といえば、“犬公方”などとも呼ばれ、江戸時代を通じても天下の悪法「生類憐みの令」を出し、一般庶民を苦しめた人物だ。ただ、綱吉自身は大変学問好きだった将軍で、15人を数えた徳川歴代将軍の中でも上位に数えられ、決してバカではなかった。それが、跡継ぎができないことを憂い、母・桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで、この悪法を世に出し、まさに“悪役”のレッテルを張られてしまったのだ。綱吉の生没年は1646(正保3)~1709年(宝永6年)。

 徳川五代将軍綱吉は、三代将軍家光の四男。幼名は徳松。母は桂昌院(お玉)。綱吉の正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院(お伝)、寿光院、清心院。お手付きに牧野成貞の妻阿久里とその娘の安などがいたという俗説もある。

 綱吉は1651年(慶安4年)、父家光の死後、上野国(現在の群馬県)その他で所領15万石を与えられ、1661年(寛文1年)10万石加増され、館林藩藩主となった。そして、1680年(延宝8年)、兄の四代将軍家綱に継嗣がなかったことから、彼がその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同年40歳の若さで家綱が死去したため、幸運にも彼が将軍宣下を受けたものだ。

 1687年(貞享4年)、殺生を禁止する法令「生類憐みの令」が制定された。この法令では綱吉が丙戌年生まれだったため、とくに犬が保護されたが、対象は犬のほか猫、鳥、魚類・貝類・虫類にまで及んだ。当初は生き物に対する殺生を慎めという意味があっただけの、いわば精神論的法令だった。しかし、一向に違反者が減らないため、遂には御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて犬への虐待が取り締まられることになった。そして1696年(元禄9年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることになったのだ。もう精神論ではなくなってしまった。その結果、一般民衆からは天下の悪法として受け止められ、幕府への不満が高まった。

 綱吉が当時、一般民衆の間で人気を落とした事件がもう一つある。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの後処理だ。映画、テレビ、講談などでもお馴染みの「忠臣蔵」だが、周知のとおり江戸城内・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ播州赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩の即日切腹と、同藩のお家断絶(取り潰し)だ。大名たるものが裁判や審議を全く受けることもなく、即日処刑されてしまったのだ。異例のことだった。

これに対し、吉良上野介は“お咎め”なし。通常は武家同士の揉め事は「喧嘩両成敗」が相場。この片手落ちの処分に当事者の赤穂藩関係者の“怒り”は当然だが、一般民衆も頭を傾げた。そして、“判官贔屓”にも似た心境になり、赤穂浪士による討ち入りで彼らが上野介の首級を挙げ、主君の恨みを晴らすという本懐を遂げたときは、心の中で拍手喝采したのだ。幕府の処断は間違っていると態度で示したわけだ。明らかに綱吉の判断ミスだ。

江戸時代は改革や事件の後処理など幕閣が判断し方向性を決め、将軍の裁可を仰ぐケースが多い。中にはほとんど筆頭老中や側用人に任せっきりであった将軍もいた。しかし、強烈なリーダーシップを発揮した将軍もいたのだ。将軍の権威が最高となったのが元禄時代だ。綱吉は専制独裁君主だった。勅使饗応の日に浅野長矩が刃傷事件起こしたことで、綱吉は激怒。その感情、憤りをそのまま処分に結び付け、独断で全く審議もせずに内匠頭を切腹させてしまったのだ。

 綱吉は戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。林信篤をしばしば召し出し、経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど学問好きな将軍だった。儒学を重んじる姿勢は新井白石、室鳩巣、荻生徂徠、雨森芳洲、山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなった。

また、綱吉は儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍として知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、大和国と河内国一帯の御陵計66陵を巨額な資金をかけて修復させている。このほか、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用へ道を開いている。荻原重秀もここから登用されているのだ。

 ざっと綱吉の事績を挙げてみたが、治世の前半は基本的には善政として「天和の治」と称えられている。「生類憐みの令」がなければ、恐らく彼は賢人、善政を行った将軍として名を残していたことだろう。

 とはいえ、綱吉の場合、女性にはだらしなかった。いや、彼は男色にも精を出した。きっかけは恐らく、綱吉にへつらう側用人・牧野成貞が美女を腰元にして近づけたことだったろう。これはよく知られた話だが、女の味を覚えた綱吉は牧野の妻を江戸城に呼びつけ、それきり自分の妾にした。さらには牧野の娘で、結婚したばかりの新妻に目をつけた。これは一晩か二晩で帰されたが、その夫は切腹してしまう。その新妻も翌年死ぬ。綱吉は男色にも精を出し、彼に愛玩された男女は実に100人を超えたといわれている。とても単なる“女好き”とかいうレベルではない。やはり常軌を逸した部分のある人物だったことは間違いない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、永井路子「歴史のヒロインたち 五代将軍綱吉の母・桂昌院」、白石一郎「江戸人物伝 大石内蔵助良雄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、小島直記「逆境を愛する男たち」

徳川慶喜・・・ 膨大な数の幕臣を見殺しにし、敵前逃亡した最後の将軍

 徳川慶喜といえば幕末、英明で知られた徳川十五代将軍だ。それだけに、このシリーズに加えることに違和感を持たれる人がいるかも知れない。しかし、最高司令官としての慶喜がきちんと対応していれば、幕府軍の官軍との戦いは、まだまだ互角以上の勝負が可能であった。にもかかわらず、彼は鳥羽・伏見の戦いに敗れると、敗兵を置き去りにして、こっそり大坂城を抜け出して海路、真っ先に江戸に戻ってしまった。

これはトップとして恥ずべき最大の汚点だ。「敵前逃亡」だ。慶喜は膨大な数の幕臣を、ある意味で見殺しにしてしまったのだ。組織のトップとしては、完全に“失格者”だったといわざるを得ない。トップにはトップの者として、その立場に合った、幕臣が納得する、ふさわしい引き際があったはずだ。

 徳川慶喜は、確かに徳川の歴代将軍の中では知性も教養も備え、幕政改革にも取り組む、最後まで可能性を探し続けた「徳川日本株式会社」(幕府)の“経営者”だった。慶喜がやろうとしたのは、単なる財政再建ではなく、“勢威”の回復にあった。つまり、将軍を核にした徳川幕府の勢威を昔日に戻そうとしたのだ。

そのため、彼は軍制、財政、組織の三改革を実施した。組織改革では老中以下の合議制を改め、「省」制を導入した。内務、外務、陸軍、海軍、財、農、商、土木、司法、教育、宗教などに分けた。また、横須賀造船所を建設した。

 そして、西南雄藩を中心とする反対勢力の伸長に対抗、彼は突然、ウルトラCの逆転戦法に出た。「大政奉還」だ。諸藩の有力者に対し、“ポスト徳川”の運営がお前たちにできるのか?やれるならやってみろ-との気持ちが強かったと思われる。つまり、彼は本気でトップの座を降りる気はなかったのだ。彼は“時代の空気”を読みそこなった。彼の目算では、討幕勢力は四百万石という徳川クラスの“大企業”経営の経験がない連中だけに、すぐに音を上げて投げ出してしまうだろうと、たかをくくっていたのだ。

 ところが、西南雄藩の連中は音を上げるどころか、十分やる気で、天皇を担ぎ出し「今後、日本の経営は天皇が行う」と宣言した。「王政復古」だ。この奇襲に慶喜も完全に足をすくわれた格好だ。そして、鳥羽・伏見の戦いでの敗戦で彼は、取り返しのつかない、決定的なミスを犯してしまった。側近のみを伴っての敵前逃亡だ。哀れなのは置き去りにされた、膨大な数の幕臣たちだ。

 歴史に「たら」「れば」は無意味ということを承知で、敢えて大坂城で一戦していれば、と考えてしまう。負けてもいい。負けたら江戸で一戦すべきだったのではないかと思う。大坂城では軍備も戦力もあった。江戸でも戦う人々はたくさんいたのだ。そうすれば佐幕派の諸藩や旗本ら幕府軍も結末はどうあれ納得できただろう。江戸の庶民もそうだ。

 しかし、慶喜は江戸に戻って後、ひたすら恭順の姿勢を取る。京都や大坂にいて幕政改革の陣頭指揮を執った、あのエネルギッシュでダイナミックなトップの面影は全くない。この落差がどうにも理解しにくいところだ。“朝敵”の汚名は何としても返上したい-の思いは確かにあったろうが、もうすこし、常識的に対応すれば、こんな追い込まれ方はしなかったのではないか。

 徳川慶喜の生没年は1837(天保8)~1913年(大正2年)。江戸・小石川の水戸藩邸で第九代藩主・水戸斉昭の七男として生まれた。幼名は七郎麻呂。斉昭の命で徹底した英才教育を受け、水戸弘道館で学んだ後、1847年(弘化4年)一橋家を継いで慶喜と改名した。内大臣。従一位勲一等公爵。

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」
      奈良本辰也「歴史に学ぶ」、杉本苑子「残照」

藤原兼家・・・初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物

 藤原兼家は、藤原氏の中でも初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物だ。天皇の外戚となり、権謀術数の限りを尽くして地位を確立した藤原氏は、兼家の子、道長の時代に絶頂期を迎える。兼家は、その道長の全盛時代の礎をつくったのだ。兼家の生没年は929(延長7)~990年(永祚2年)。
 藤原兼家は藤原北家の流れ、藤原師輔の三男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長、道綱らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母がいる。

兼家は円融天皇のとき、長兄の伊尹(これただ)が早世すると、次兄兼通と摂関の地位をめぐって激しく対立した。兼家は次の関白を望んだが、結局敗れ、その地位は兼通に奪われてしまった。ここから兄弟による、ちょっと信じがたいほどの対立状態が続き、兼家にとって不遇の時代が続いた。関白となった兼通は兼家を憎み、ことごとく兼家の出世の邪魔をし、死に際には兼家を大納言から治部卿に降格させることまでやった。どうして?そこまでやるか?くらいの意地の悪さだ。

 なぜ、兄弟間のこんな陰湿な対立が生まれたのか?それは、ずばり弟の兼家が兄の兼通の官位を超えて出世してしまったからだ。967年(康保4年)、冷泉天皇の即位に伴い、兼家は兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌968年(安和元年)には兼通を超えて従三位に叙された。969年(安和2年)には参議を経ずに中納言となった。蔵人頭は通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし兼家は従三位に達し、さらに中納言就任直後までその職に留まった。

これは長兄伊尹が自己の政権基盤確立のため企図したもので、宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられる。そして、これが「安和の変」に兼家が関与していたとされる説の根拠とされている。その後、伊尹が摂政になると、兼家はさらに重んじられた。伊尹は兼家が娘の超子を入内させるのを黙認しただけでなく、972年(天禄3年)には兼家を正三位大納言に昇進させ、さらに右近衛大将・按察使を兼ねさせた。その結果、兼家の官位が兼通の上となり、このため兼通の兼家に対する恨みが増幅した形となったのだ。

 972年(天禄3年)伊尹が重病で辞表を提出すると、当然兼家は関白を望んだ。しかし兼通がこの事態を黙ってみているわけはなかった。そして兼通は「関白は宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じたのだ。孝心篤い天皇は遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白とした。兼通の勝利だった。

 兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごすことになった。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王を産むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、兼家が次女の詮子を女御に入れようとすると、兼通はこれを妨害した。兼家の官位の昇進も止まってしまった。『栄華物語』によると、兼通は「できることなら(兼家を)九州にでも遷してやりたいものだが、罪がないのでできない」とまで発言している。

 兼通の、兼家に対する憎しみは死を前に爆発する。きっかけは、兼通の勘違いだった。977年(貞元2年)、重体に陥った兼通が邸で臥せっていたとき、兼通の門前を通りかかった兼家の車が当然、見舞いにきたものと思っていたが、実はそうではなく、通り過ぎて禁裏へ行ってしまったことを激怒したのだった。そこで兼通は、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。兼通は最後の力を振り絞って、兼家にできる限りのダメージを与えることに執念を燃やしたのだ。そして満足したか、程なく兼通は死去した。

 兼家の出世にとって最大の“障害”だった兼通が亡くなったことで、あとは策略と処世術に長けた兼家自身が、外戚の立場を最大限に活かし、着実に階段を昇るだけだった。兼通の死後は右大臣に任じられ、次第に朝廷内での権勢を得ていった。そして、寛和2年6月には息子、道兼を使い策略によって花山天皇を出家させ、退位させた。そして娘が産んだ一条天皇の擁立に成功。986年、念願の摂政に就任した。その後、兼家の家系が摂政を独占することになった。

 ただ、兼通・兼家の兄弟の間に憎しみにも似た争いがあったように、勝者の兼家の息子・孫の世代でも争いは繰り返されている。中でも兼家の末っ子、道長と長兄道隆の子供(伊周ら)たちとの官位争いだ。両家一族挙げての対立は、ほとんど手加減なしの想像以上に激しいものだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条高時・・・田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った執権

 鎌倉幕府最後(第十四代)の執権となった北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った。『太平記』『増鏡』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれている。いずれにしても、執権としての自覚に乏しく、酒色におぼれ、政務を疎かにしたことは間違いない。高時の生没年は1303(嘉元3)~1333(元弘3年/正慶2年)。

 杉本苑子氏は、北条氏は不思議な氏族だという。鎌倉時代のおよそ130年、北条氏は十六代にわたる執権家、とくに得宗と呼ばれた宗家嫡流の権力保持には、どすぐろい術策の限りを尽くした。その結果、後世の人々には陰険な氏族として毛嫌いされているほど。それにもかかわらず、執権を務めた人物一人ひとりの生き方は、権位にありながら、珍しいほど清潔だった-と杉本氏。ただ、これには例外があった。北条氏の執権を務めた中に一人、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した人物がいた。それがここに取り上げた十四代・北条高時だ。

 北条高時は第九代執権・北条貞時の三男として生まれた。成寿丸、高時、崇鑑と改名した。日輪寺(にちりんじ)殿と呼ばれた。1316年(正和5年)、14歳で執権となった。したがって、まだ執権としての器量にも欠けていたため、実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っており、高時に政務の出番はなかった。ただ、飾り物としての執権職に嫌気したか、彼は成長してからも真面目に職務に就くことは少なかったようだ。

 高時の道楽の極め付けが闘犬だった。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、これが高じて遂に国税あるいは年貢として徴収し出す始末だった。公私混同も甚だしい。また、気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美を与えた。こうなるとめちゃくちゃだ。こうした闘犬狂いの高時のご機嫌を取ろうとして諸大名や守護、御家人たちは競って珍しい犬を飼っては献上するので、当時、鎌倉に4000~5000匹の犬がいたという。月に12度も「犬合わせの日」が定められていたというから、少なくとも3日に1度は闘犬にうつつを抜かしていたというわけだ。この高時の闘犬狂いは地方にも波及し、地頭や地侍までが闘犬に夢中になったと伝えられている。

 1326年(正中3年)、病のため高時は24歳で執権職を辞して出家した。後継をめぐり高時の実子、邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こった。いったんは金沢貞顕が執権に就くが、すぐに辞任。赤橋守時が就任することで収拾した。

 1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して、伯耆国の船上山で挙兵。ここから事態は急展開。足利高氏、新田義貞らが歴史の表舞台に登場し、鎌倉幕府の命運は危うさを増していく。

 高時の放蕩三昧でタガの緩み切った鎌倉幕府に、新しい勢力の流れを阻止する力は残っていなかった。同年、新田義貞が鎌倉に攻め込んできたときには、緩み切った鎌倉幕府もさすがにこれには対抗、烈しい死闘を演じた。だが、結局6000人もの死者を出し、鎌倉幕府は滅亡、高時は東勝寺で自刃した。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」、司馬遼太郎「街道をゆく26」、杉本苑子「決断のとき」

藤原信西・・・博覧強記で、信念に沿った行動が敵視され“悪役”に

 日本人は合理的に物事を考え処理していく人物をあまり好まない。そのため頭が切れ、眼識が鋭く、決断力に富み、毀誉褒貶を意に介さず、信念に沿って行動するタイプの人間はややもすると敵視され、“悪役”に仕立て上げられるケースが少なくない。当世無双の博覧強記といわれ、「諸道に達する才人」といわれたこの藤原信西などはその代表的な例かもしれない。信西の生没年は1106(嘉祥元)~1160年(平治元年)。

 藤原信西は平安末期の貴族・学者・僧侶。信西は出家後の法名。俗名は藤原通憲(みちのり)。信西の家系は曽祖父藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父藤原季綱は大学頭だった。ところが1112年(天永3年)、父藤原実兼が蔵人所で急死したため、幼少の通憲は縁戚の高階経敏の養子となった。このことが後の彼の生き方を大きく左右することになった。

 通憲の願いは曽祖父、祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会のしくみでは、高階家の戸籍に入ってしまった通憲には、その時点で実範・季綱を世襲する資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていたのだ。これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。

 鳥羽上皇はこれを宥めようとして1143年(康治2年)、正五位下、翌年には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、さらに息子・俊憲に文章博士、大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年出家して「信西」と名乗った。
 鳥羽上皇は信西の才能に注目し『本朝世紀』の選者とした。これは官選の国史『六国史』の後を受けて、宇多帝の御宇から近衛帝までおよそ250年間にわたる宮廷内でのできごとを、外記・日記をはじめ諸家の記録を参照し、年代を追いつつ整理編纂したもので、史学史上、重要な文献となっている。

 『法曹類林』の述作も、地道な業績のひとつといえよう。明法家・司法学者らの意見、実施に適用された令法上の慣例などを、古書・古文献を丹念に渉猟して、事項別に分類・収集した法律書だ。全230巻におよぶ大部なものだから、当時の官界・学界に大いに活用されたばかりでなく、現在なお、平安朝時代の法例・法理を考察するうえで貴重視されている。

 また信西自身、自分の家系が朝廷内で出世の見込みが薄いことで、傍目にはとても皇位に就く可能性が低い鳥羽上皇の第四皇子、雅仁親王に目をつけた。ただ、それは決して自暴自棄になって選択したのではなかった。成算を見込んでのものだったのだ。そして、彼は政治状況や天皇家の内紛、人間関係などを冷静に観察、分析して、雅仁親王こそ天皇になれると見抜き、接近した。

 1155年(久寿2年)近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた雅仁親王がその見立て通り、後白河天皇として即位。信西はその信頼厚い権力者の地位を得た。1156年(保元元年)、鳥羽上皇が崩御すると、その葬儀の準備を行い、「保元の乱」が起こると源義朝の献策を積極採用して、“夜襲”作戦を断行。後白河天皇方に勝利をもたらした。

 信西は乱後、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、新制七カ条を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど絶大な権力を振るった。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。

 しかし、強引な政治の刷新は反発を招き、二条天皇が即位し後白河上皇の院政が始まると、当時、後白河の寵臣となっていた藤原信頼と対立。徐々に歯車が狂い始める。その一方で、保元の乱をきっかけに、さらに力を持った信西は源義朝が申し入れてきた婚姻関係を断り、平氏の娘と自分の息子で婚姻血縁関係を結んだ。このことは後に大きな禍根を残すことになった。源義朝は保元の乱の時の活躍を正当に評価されなかった不満と、信西に持ち込んだ婚姻関係を断られたことに怒り、信西と対立した勢力と結んで1159年(平治元年)、「平治の乱」を起こしたのだ。

 信西は源義朝・藤原信頼の軍勢に追われ、伊賀の山中で切腹した。だが、後に源光保によって地中から掘り起こされ、首を切り取られ都大路に晒されたという。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

藤原純友・・・京での貴族社会から脱落し、開き直って官位を持つ海賊に

 藤原純友は平安時代中期、朝廷に対し海賊の頭領として西国で反乱を起こし、同時期に関東で平将門が起こした反乱と合わせ呼称される「承平・天慶の乱」<935(承平5)~941年(天慶4年)>の首謀者として知られる。純友は将門のように神や英雄として崇められることも少ない。また、純友に関する伝説や史料は乏しい。純友は将門を語るうえで無視できない西国の「敗者」なのだ。純友の生年はよく分からないが、893年(寛平5年)ごろと推察される。没年は941年(天慶4年)。

 藤原純友は右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。当時の朝廷の権力の中心を占めていた藤原北家に生まれている。曽祖父は陽成天皇の外祖父、贈太政大臣・藤原長良であり、大叔父には最初の関白・藤原基経がいる。しかし、ここに異説がある。純友は伊予の豪族高橋家の生まれで、藤原良範が伊予守となっていたと思われることから、その縁で良範の養子になったというものだ。いずれにしても、近い一族に高位の有力者がいたことは間違いない。

 ところが、純友の人生を狂わせることが起こる。それは父が若くして死んでしまったのだ。そのため、様々な人脈の伝手で可能であったろう仕官の“芽”が摘まれてしまったわけだ。都での出世が望めなくなった純友は、地方官となった。当初は父の従兄弟の伊予守藤原元名に従って「伊予掾」として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。「掾」は地方官として三番目の官で、伊予は上国だから従七位上相当官だ。しかし、元名帰任後も帰京せず、伊予国(現在の愛媛県)に土着した。

 ところで、純友が活躍したのは瀬戸内海だが、このころの瀬戸内海沿岸や無数の島々はどんな状態になっていたのか。瀬戸内海に海賊が横行していたことは、紀貫之の『土佐日記』の記述でよく分かる。彼は土佐守の任期がきて帰京するのに、絶えず海賊襲来の噂に怯えつつ航行している。貫之が土佐から帰京した934年(承平4年)末から935年(承平5年)初めのことだ。『三代実録』にも、海賊が跳梁跋扈し、一向にやまない状況を嘆き、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐などの国々に海賊を追捕するよう命じた-とある。

 さらに、その後、播磨・備中・備後などの国々から相次いで、海賊を捕らえたとの報告がきているが、賊勢は一向に衰えた様子はない。噂によると、これは各国の国司らが責任逃れに汲々として、自分の管轄内だけの平穏を保つため、捕らえて退治しようというのではなく、追い払うだけだからだ-と『三代実録』にある。朝廷が海賊対策に躍起になっているのに、沿岸諸国の国司らが責任逃れだけのいいかげんなことをしていることがよく分かる。

 さて、京での出世の見込みがないと判断し土着した純友は、完全に開き直り、立場を180度変えてしまった。海賊を鎮圧する側ではなく、海賊そのものになったのだ。推定42歳ころのことだ。従七位・伊予掾の官位は盗賊の中では異色で、彼はまもなく頭角を現し、936年(承平6年)ころまでには海賊の頭領となった。伊予の日振島(現在の愛媛県宇和島市)を根城として1000艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を広げた。

そして、一大勢力となった彼は攻勢に出る。朝廷に対し叛乱を起こしたのだ。当初は各地で官軍を撃破し優勢だったが、次第に劣勢となり追い詰められ、941年(天慶4年)、藤原国春に敗れ、九州大宰府に敗走した。なおも追討軍の小野好古らの追撃を受け、その後、伊予・日振島に脱出するが、伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)の手で逮捕された。遠保は純友を京に護送するつもりでその身を禁固したが、獄中で死亡した。その死因は不明だが、自害かも知れない。

 純友らはなぜ叛乱を起こしたのか?純友らの武装勢力は、純友と同様、元は海賊鎮圧にあたった者たちで、鎮圧後も治安維持のため土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層だ。とくに親分株の者は氏素姓のある連中だった。彼らは親の世代の早世などによって、保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者たちだった。しかし、彼らは自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのだ。こうしてみると、この叛乱は律令国家の腐朽と弱体を白日の下に晒したものだった。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」

藤原仲麻呂・・・自分の栄達だけを考えた野心家の“脆さ”を露呈

 藤原仲麻呂は、温厚な兄、藤原豊成とは異なり、自身の栄達だけを考えて、次から次へと抜け目なく行動する野心家で、孝謙天皇との強いきずなを利用して、邪魔者を次々と抹殺していった。その結果、孝謙天皇からは「恵美押勝(えみのおしかつ)」の名を賜り、異例のスピードで出世し、重く用いられ頂点へ昇りつめたが、あっけなく滑り落ちた。藤原各家の争いと兄弟との出世争いがからみ、彼には悪役イメージが色濃い。現代風に表現すれば、出世頭のサラリーマンが最後の詰めを誤って失敗し、株主総会で罷免されてしまった人物-というイメージか。

 藤原仲麻呂は南家・藤原武智麻呂の第二子。彼が藤原京の邸に生まれたのは706年(慶雲3年)、祖父藤原不比等が48歳の大納言の頃だった。兄豊成は3歳、父武智麻呂は27歳で大学助から頭(かみ)になった年だ。そして、一家が平城京に引っ越したのが仲麻呂5歳のときだ。仲麻呂は幼い頃から頭がよく、勉強もよくしたらしい。「史書」や「漢書」など中国の史書も好きで、母方の親戚の大納言阿倍宿奈麻呂の邸に通って、算術も学び得意だったようだ。3つ違いの兄豊成に対して、常に次男としてのハンディを感じつつ育った。その感覚が兄を巻き返すエネルギーを生んでいき、自分がのし上がる手立てを模索するようになる。

 聖武天皇の死後、他の貴族たちがあたふたとしている間に、仲麻呂は光明皇后、阿倍内親王・皇太子に近づき、二人を常に激励することによって信用を得ていた。749年(天平勝宝元年)大納言となり中衛大将を兼ね、さらに光明の皇后宮職が拡大強化されて「紫微中台(しびちゅうだい)」という新しい機関が設置され、彼はその長官・紫微令に任じられた。この紫微中台は、単に孝謙天皇の後見役をするための役所ではなく、実質的に国政の中心となっていった点が重要なポイントだ。つまり、紫微令・藤原仲麻呂は、太政官の上に立つ絶対的な権限を握ることになったのだ。そして、以後ここを基盤として勢力を広げていった。

 758年(天平宝字2年)、孝謙天皇は大炊王(おおいおう)に譲位し太上天皇となった。大納言、藤原仲麻呂はこの大炊王に亡き息子、真従(まより)の未亡人、粟田諸姉(あわたのもろあね)を娶らせ、自邸の田村第に住まわせていた。その関係で、この大炊王=即位後の淳仁天皇は事実上、仲麻呂の計略によって擁立された天皇だったから、実権はことごとく仲麻呂の掌中に握られることになった。そして、仲麻呂は太政大臣同等の大師に任じられ種々の特権を賦与され、遂に正一位にまで昇りつめた。

 仲麻呂は淳仁天皇を自由自在に動かして専横を極めたが、光明皇太后の薨去と僧侶道鏡の出現によって事態は次第に緊迫し、その権勢にもかげりが見え始めた。琵琶湖畔の保良離宮で静養していた孝謙太上天皇は看護禅師、道鏡と次第に親密な関係になっていった。淳仁天皇がこれを見咎めると、上皇は激怒して762年(天平宝字6年)、平城京に戻ると法華寺に出家して、天皇は小事のみ行うべきであり、国家の大事と賞罰は自らがこれを行うと命じたのだ。

 そうした事態の急転に驚き、仲麻呂は反乱を企てたが、まもなく発覚。上皇方から追討の兵を向けられるとともに、官位や藤原の姓、職分や功封も剥奪されることになった。すべてを失った仲麻呂は近江へと敗走、越前に入ろうとしたが、764年(天平宝字8年)、近江国高島郡で一族ともども捕えられ、妻子とともに殺害された。野心家の仲麻呂は、攻めには強かったが、いったん守勢に回ると焦りまくり、“墓穴”を掘った。そんな、あっけない転落だった。

それだけでは済まなかった。中宮院にあった淳仁天皇も捕えられ、仲麻呂との共謀を指弾されて淡路へと流された。そのため、天皇は淡路公、あるいは淡路廃帝と称される。

(参考資料)笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、黒岩重吾「弓削道鏡」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

源 通親・・・権謀術数を駆使し厚顔に世渡りした汚辱の政治家

 源通親(みなもとのみちちか)は後白河天皇、二条天皇、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇、土御門天皇の七朝に仕え、没後に従一位を賜るほどの働きを成し、村上源氏の全盛期を築いた、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家政治家だ。ただ、裏を返すと彼は節操もなく、七朝にもわたって仕えた変節の政治家で、収賄の大家だった。時の権力者にすり寄り、その都度、権力者の係累と婚姻関係を結んで勢力を伸ばすというやり方で、まさに権謀術数に長けた腐敗政治家だったのだ。

そして、こうした汚辱にまみれた公家政治家の印象とは対極にあるが、曹洞宗の開祖・道元禅師の父でもある。源通親は「土御門通親」、曹洞宗では久我(こが)通親と呼ばれている。彼の生没年は1149(久安5)~1202年(建仁2年)。

 源通親は村上源氏、父雅通は(まさみち)は内大臣、祖父は右大臣になっているから、まずかなりの家柄といっていい。しかし、摂政関白の座に就いて政治を左右し得る藤原氏の嫡流グループからみれば、明らかに一段劣り、たかだか伴食大臣の座にありつくといった役どころだ。10歳で叙爵、17歳で従五位上、19歳で右少将となり、ごく普通の出世ぶりだった。叙爵の2年前に保元の乱(1156年)が起こり、11歳で平治の乱(1159年)をみている。物心ついたとき、すでに争乱の時代は始まっていたのだ。乱が収束すると同時に、平清盛がめきめき頭角を現してきたのも見逃せないことだった。

 いつの時代も名門の子弟には二つのタイプがある。最初から勝負を投げて出世を諦めてしまうのと、ひどく抜け目なく立ち回って要領よく割り込んでしまうタイプだ。そして、後者の場合は小面憎いほどの技巧を駆使してみせる。通親はもちろん後者だ。公家社会のしくみも、その泣きどころも心得たうえでの、彼の巧妙な作戦は、右少将になる以前からすでに始まっていたようだ。

彼の最初の作戦計画は、大物・実力者の娘にターゲットを絞ったラブハントだ。彼がまず狙ったのは大納言花山院(藤原)忠雅の娘だが、忠雅はやがて内大臣から太政大臣へと昇進する。その意味では通親は見事に出世株の娘を手に入れたわけだ。

 既述の通り、通親は変節の政治家で、収賄の大家だった。また、節操もなく恥を知ることもない権謀術数の腐敗政治家だった。彼は平家が勢いを得はじめると最初の妻を簡単に捨てて、清盛の姪(清盛の弟・教盛の娘)を妻に迎え、清盛の庇護の下に政界にその勢力を伸ばし、高倉天皇の側近の地位を築いた。そして1179年(治承3年)、蔵人頭になって平家と朝廷のパイプ役として知られるようになった。同年の清盛による後白河法皇幽閉と、その後の高官追放(治承三年の政変)の影響を受けて参議に昇進。以仁王の乱の追討・福原京遷都ではいずれも平家とともに賛成を唱え、摂関家の九条兼実や藤原定家を代表とするその周辺と対立した。

 ところが、一転、平家が総帥・清盛の死後、落ち目になると、今度もまた二度目の妻を捨てて、高倉範子(はんし)を妻とし、後白河法皇の側についたのだ。彼には人としての“情”というものがなかったのか、見事というか、浅ましいというか、あきれるばかりの変わり身の早さだ。

 そして、驚くことにこの範子が高倉天皇の第四皇子、尊成(たかひら)親王の乳母だったのだ。この皇子・尊成こそ平家とともに都を離れた安徳天皇の後を襲って皇位に就いた後鳥羽天皇だった。やはり、彼には時代を見る目の鋭さがあったのか。以後、彼は後鳥羽天皇の忠実な側近として、廟堂の奥深くにじわじわと食い込んでいく。

 その後、後鳥羽天皇が譲位し、土御門天皇の御代になると、しばらくして通親は内大臣となり、後鳥羽院の別当を兼ねるのだ。これまでの廟堂のいざこざは、天皇側と上皇側の間の円滑さを欠くことから起こったものだが、彼は院と天皇と両方の権力を掌握してしまったのだ。事実上いまやすべての権力を彼が握ってしまった格好だった。

 さて、そこから次に彼がやろうとしていたことは何だったのか?残念なことに、縦横無尽の彼の活動に終止符が打たれるため、この先はない。頓死だった。53歳だった。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界 西国の権謀家たち」、永井路子「絵巻」

山城屋和助・・・維新後、名を変え陸軍省の長州人脈に暗躍した政商

 山城屋和助は明治維新後、名を変え、陸軍省の長州人脈に深く入り込み、軍需品納入で大儲けするようになってからの政商的商人としての名前だ。彼の本名は野村三千三(みちぞう)。後年、陸軍省から預かった公金で生糸相場に失敗。預かり金65万円を返済できず、陸軍省内で割腹自殺した。これが、彼が引き起こしたと一般的にいわれる山城屋事件だが、この事件の全貌については、彼の経歴・活動とともに謎に包まれた部分が多い。生没年は1837(天保8)~1872年(明治5年)。

 野村三千三は周防国(山口県)玖珂(くが)郡山城荘(やましろのしょう)本郷村で、医師、野村信高(玄達)の四男として生まれた。8~9歳のとき母、父を相次いで失った。1851年(嘉永4年)ごろ萩の浄土宗の寺、竜昌院に預けられ、その後出家、僧侶となって諸国を遍歴した。

 文久年間(1861~1864年)に帰郷。1863年(文久3年)に還俗して長州藩士高杉晋作が組織した「奇兵隊」に入隊。下関砲撃事件に参加。戊辰戦争には山県有朋の部下として参戦、越後口へ出征し小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれる。ここまでが野村三千三としての人生だ。
 明治維新後、野村はどのような経緯があったのか定かではないが、山城屋和助と名を変え、志を転じて商人となる。横浜に店舗を構えて、幕末、「奇兵隊」入隊以降、親交のある山県有朋を介して長州人脈と結びつく。この人脈を活かした、軍需品納入の商売は大繁盛した。陸軍省からの預かり金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商人となった。さらには諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得たのだ。

 政商として大いに自信をつけた山城屋和助の欲望には、もう際限がなくなっていた。山城屋は1871年(明治4年)、貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年帰朝した。1872年(明治5年)、山城屋は山県ら長州系の官僚に陸軍省公金15万・を借り、生糸相場に手を出す。長州系軍人官吏らは貸し付けの見返りとして山城屋から多額の献金を受けたとされている。

 しかし、山城屋は不運にも、普仏戦争勃発の影響によるヨーロッパでの生糸価格の暴落で大きな損失を出してしまう。そこで山城屋は陸軍省からさらに公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとしてフランスに渡った。ところが、商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使、鮫島尚信が日本の外務省に報告。これにより、山城屋への総額65万円に上る公金貸し付けが発覚したのだ。世にいう山城屋事件だ。

 陸軍省では当時、長州閥が主導権を握っていた。これを好機と捉えた他藩出身官僚が陸軍長州閥を糾弾する。山城屋と最も緊密だった山県有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋にはもはや借りた公金を返済する能力がないことだけが明らかになっただけだった。その結果、山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を絶った。

窮地に立たされた山城屋は、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山県への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は万策尽きたと判断し、陸軍省内部の一室、教官詰所で割腹自殺し、波乱に富んだ人生を終えた。1872年(明治5年)のことだ。この自殺により山城屋事件の真相は究明されないまま終わった。ただ山県への疑惑は強く、司法卿・江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年遂に山県は陸軍大輔をも辞任して責任を取った。明治初期の軍部の腐敗ぶりを反映した汚職事件だ。

(参考資料)井上清「日本の歴史 明治維新」

柳沢吉保・・・綱吉の寵愛受け大老格に大出世、引き際鮮やかな策士

 柳沢吉保は、初めは小身の小姓だったが、徳川第五代将軍綱吉の寵愛を受けて、異例の大出世を果たし、元禄時代には大老格として幕政を主導した。その出世の裏に何かからくりがあったのか。柳沢吉保に“悪役”の世評が多いのはなぜか。

 吉保の悪役イメージの一つは、忠臣蔵ドラマで事件の黒幕・悪役として描かれることが多いためだ。事実、1701年(元禄14年)の江戸城松の廊下での吉良上野介に対する浅野長矩の刃傷事件の、幕府の裁断には綱吉はもちろん、綱吉の側用人だった吉保の意向が関係していたといわれる。また、彼には側室をめぐって、主君綱吉との間で尋常ではない噂もあったからだ。

 柳沢吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として生まれた。母は安忠の側室・佐瀬氏。彼は房安、佳忠、信本、保明、吉保、そして保山と頻繁に改名を繰り返している。別名として十三郎、弥太郎(通称)とも呼ばれた。長男だったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は姉の夫(父安忠の娘婿)、柳沢信花が養嗣子となって継いだ。吉保は館林藩主を務めていた徳川綱吉に小姓として仕えた。このことが、後の出世のきっかけになる。

 柳沢吉保が異例とも言える“出世街道”を走ることになるのは、1675年(延宝3年)、家督相続し、これを機に保明(やすあき)と改名してからのことだ。1680年(延宝8年)、徳川四代将軍家綱の後継として、弟の綱吉が将軍となるに随って保明も幕臣となり、小納戸役に任ぜられた。その後、綱吉の寵愛を受け頻繁に加増され、1685年(貞享2年)には従五位下出羽守に叙任。1688年(元禄元年)、将軍親政のために新設された「側用人」に就任。禄高も1万2000石とされて、遂に大名に昇ったのだ。

 そして1690年(元禄3年)に老中格、1698年(元禄11年)には大老が任ぜられる左近衛権少将に転任した。1701年(元禄14年)は彼にとって極めてエポックメーキングな年となった。主君・綱吉の諱の一字を与えられ吉保と名乗ることになったのだ。出世はまだ続く。1704年(宝永元年)、綱吉の後継に甲府藩主の徳川家宣が決まると、家宣の後任として甲府藩(現在の山梨県甲府市)15万石の藩主となった。甲府は江戸防衛の枢要として、それまで天領か徳川一門の所領に限られていた。それだけに甲府藩主になったということは、綱吉が吉保をほとんど一門も同然とみなすほど、激しく寵愛していたことを如実に物語っている。

 吉保にも誇るべき閨閥があった。側室に名門公卿の正親町公通の妹を迎えていた関係から、朝廷にも影響力を持ち、1702年(元禄15年)、将軍綱吉の生母、桂昌院が朝廷から従一位を与えられたのも、吉保が関白・近衛基煕など朝廷重臣たちへ根回しをしておいたお陰だった。綱吉の“引き”と、こうした功績がものをいったか、1706年(宝永3年)には遂に大老格に昇りつめたのだ。

 しかし、“幸運児”吉保にも陽の当たらなくなるときがくる。1709年(宝永6年)、吉保の権勢の後ろ楯ともいうべき綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。吉保に代わって、新将軍家宣の側近、間部詮房(まなべあきふさ)、儒者新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは急速に失われていった。こうした状況を敏感に察知して吉保は自ら幕府の役職を辞するとともに、長男の吉里に家督を譲って隠居し、以降は保山と号した。その結果、その後、吉里の領地は甲府藩から郡山藩に移されたものの、柳沢家15万石の知行が減封されることはなかった。吉保の見事な引き際のお陰ともいえる。綱吉近臣派でも、その地位に留まろうとした松平輝貞や荻原重秀らは、新井白石らと対立して、免職のうえ減封の憂き目に遭っているだけに、極めて対照的だ。

 俗説によると、吉保の側室の染子はかつて綱吉の愛妾で、綱吉から下された拝領妻だという。そして、一説には吉里は綱吉の隠し子だともいわれる。もちろん、真偽のほどは定かではない。ただ、幕閣で権勢を誇った重臣で、次の将軍の下で生き抜くことや、家督を継いだ子供の世代に全く減封されることもなく、務め上げられるケースは少ないだけに、その背景・仔細を勘ぐりたくなる。前将軍・綱吉の近親者なら…と納得するところだが、事実は闇の中だ。

(参考資料)池波正太郎「戦国と幕末」

弓削道鏡・・・称徳天皇の支援のもと、法王にまで登り詰めた異例の怪僧

 弓削道鏡は761年(天平宝字5年)、近江保良宮で孝謙女帝の病を治して寵を得て以後、政界に進出。764年(天平宝字8年)、恵美押勝が失脚し、女帝が重祚して称徳天皇となると仏教政治を展開。彼は僧侶でありながら臣下として最高の地位である太政大臣に相当する、太政大臣禅師という前例のない地位に就き、766年(天平神護2年)には法王にまで昇り詰めた。

法王などというのは、それ以前に聖徳太子が後世の人たちから称せられた以外に例はない。待遇としては天皇に準ぜられる地位なのだ。そして、さらに道鏡は、宇佐八幡神の神託によって、皇族以外がなったことのない天皇の地位に、あわや手が届こうとするところまでいってしまったのだ。そんな道鏡という人物が、実際にはどれほどの人物だったのか?孝謙女帝との関係の真相はどうだったのか?宇佐八幡の神託事件は誰によって仕組まれたのか?

 孝謙天皇は749年(天平勝宝元年)、31歳の、夫のない処女の身で即位した。それは父、聖武天皇に皇位を継ぐべき男子がなかったためだ。この点、皇后であったり、皇太子が幼かったり病弱だった場合、皇太子が即位し得る条件が整うまで皇位に就いた、それまでの女帝(推古・皇極=斉明・持統・元明・元正)とは明らかに異なる特殊なケースだった。

 坂口安吾の作品「道鏡」によると、孝謙天皇は即位の後に、皇后職を紫微中台と改め、その長官に登用した大納言藤原仲麻呂に恋をした。50歳を過ぎた仲麻呂に対する、40歳近い女帝の初恋だった。母光明皇太后が死ぬまでは、それでも自分を抑えていた。しかし、母の死後は歯止めがなくなり、仲麻呂を改名して「恵美押勝」と名乗らせ、貨幣鋳造、税物の取り立てに、恵美家の私印を勝手に使用してよろしいという、政治も恋も区別のない、でたらめな許可を与えた。すべては愛しい男、藤原仲麻呂=恵美押勝に惹かれていたからだ。

 一方、道鏡は河内国弓削郷の豪族・弓削氏の出身で、安吾によると幼時、義淵(ぎえん)について仏学を学び、サンスクリットに通達していた。青年期には葛城山に籠って修法錬行し、看病薬湯の霊効に名声があった。下山後は東大寺に入り、内道場に入った。

 当時の僧は宮中の高貴な女性たちがいるところまで入り込んで、病気を治す祈祷をし、マッサージや揉み治療までもして、薬の知識も持っている。つまり、医者と薬剤師と祈祷師と坊さんとを兼ねた存在だったのだ。道鏡は、初めは女帝の病気を治すために宮中へ招かれた。761年、孝謙天皇の病を治してからは、にわかに政界に進出。そんな道鏡に惹かれるのに反比例して、女帝の中での押勝像が歪んでいく。押勝は、女帝と道鏡の結びつきを怖れ、女帝を怨み、嫉妬心に苛まれ失脚を怖れ、狂っていった。その果てに企てたクーデターが失敗し、死んだ。

 女帝(孝謙上皇)は淳仁天皇の後を襲い、法体のまま重祚して称徳天皇となり、道鏡は大臣禅師という前代未聞の官職に就いた。さらに翌年、太政大臣禅師となり、二年後法王となった。これに伴い、地方の中小豪族に過ぎなかった弓削一族も中央政界に進出した。道鏡と女帝との関係は単なる寵臣以上のものがあったとみられ、ここから女帝が道鏡を皇位に就けようとする事態に発展した。この計画は藤原百川らを中心とする律令貴族の暗躍と、和気清麻呂の儒教的倫理観によって失敗したが、女帝にとって道鏡はそれほどに重く、愛しい存在だった。

 しかし、770年(宝亀元年)、女帝が53歳で崩御すると道鏡の命運も尽きた。彼は罪を問われ、まもなく下野国薬師寺別当として流され没した。弓削一族も枢要な地位にあった者は土佐に流された。

(参考資料)黒岩重吾「弓削道鏡」、村松友視「悪役のふるさと」、杉本苑子「対談 にっぽん女性史」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

由比正雪・・・巷にあふれた浪人救済計画が、なぜか“謀反の挙”に

 由比正雪は、丸橋忠弥らと謀って徳川幕府を転覆させようとした謀反人だとされている。徳川三代将軍家光の頃には、関ヶ原の合戦において生まれた浪人が全国津々浦々にいた。幕府はこうした浪人が反幕府の力として結集せぬよう心を砕いた。浪人の取り締まりも厳しいものがあり、由比正雪はこれら浪人に対する幕府のやり方に反発し1651年(慶安4年)、それを正すために謀叛の挙に出たというわけだ。これが「由比正雪の乱」ともいわれる「慶安の変」で、この事件を起こしたことで、彼の“悪役”像がつくられることになったのだ。

 由比正雪は江戸時代初期の軍学者。「油井正雪」「由井正雪」「油比正雪」「遊井正雪」「湯井正雪」など様々に表現される場合もある。生没年は1605年(慶長10年)~16051年(慶安4年)。駿河由比の農業兼紺屋の子として生まれたといわれる。幼名は久之助。幼い頃より才気煥発で、17歳で江戸の親類に奉公へ出たが、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがてその娘と結婚し、婿養子となった。

楠木正雪あるいは楠木氏の本姓の伊予橘氏(越智姓)から「油井民部之助橘正雪(ゆい・かきべのすけ・たちばなの・しょうせつ/まさゆき)」と名乗り、やがて神田連雀町に楠木正辰の南木流を継承した軍学塾「張孔堂」(中国の名軍師、張良と孔明にちなむ)を開いた。大名の子弟や旗本なども含め、一時は3000人の門下生を抱え、絶大な支持を得たという。まずは順風満帆な軍学者としての生活を送っていたとみられる。

 こうした環境にあって、なぜ正雪が幕府転覆計画を立てた首謀者として追及されることになるのか?軍学塾の主宰者として、巷にあふれた、行き場のない浪人たちを目の当たりにして、立ち上がざるを得なかったのか、学者として理論と実践の重要さを門下生に教えるためだったのか?そこに至る経緯はよく分からない。しかし1651年(慶安4年)、三代将軍家光が没し、四代将軍家綱が11歳で将軍に就いたが、大名の取り潰しなどで多数の浪人が出て、社会は騒然とした状況にあった。

正雪は宝蔵院流の槍術家、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義などとともに、浪人の救済と幕府の政治を改革しようと計画。1651年(慶安4年)7月29日を期して江戸・駿府・京都・大坂の4カ所で同時に兵を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前に同志の一人が密告、この計画が発覚する。「慶安の変」と呼ばれる事件だ。正雪は移動途中の駿府梅屋町の旅籠で奉行の捕り方に囲まれ、部下7名とともに自刃した。享年47。しかし、幕府はさらに追及して、連累者2000人、うち1000人を断罪して決着をつけた。だが、一説によると、これは幕府の陰謀で、浪人弾圧の口実をつくるため、デッチあげたのだという。

正雪の意図は、天下を覆すことではなく、幕府の政道を改めようとし、そのため徳川御三家をも利用しようとしていた。このことは、真偽のほどは分からないが、徳川御三家・紀州徳川家の家祖、徳川頼宣(家康の十男)の印章文書を偽造していたという嫌疑がかかったことでも明らかだ。このため、一時は頼宣も共謀していたのではないかとの疑いをかけられ、10年間紀州へ帰国できなかった。頼宣は、後に紀州から出て徳川八代将軍となった吉宗の祖父だ。

 正雪のこうした目論見を、幕府の「知恵伊豆」といわれたマキャベリスト、松平伊豆守信綱が反乱事件として拡大、歪曲し、一挙に旧大名の残党を掃討し、徳川体制の不安を取り除いたのだという見方もある。だが、真相は分からない。

(参考資料)村松友視「悪役のふるさと」、山本周五郎「正雪記」、 武田泰淳「油井正雪の最期」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、安部龍太郎「血の日本史」、小島直記「無冠の男」