西周 慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介

西周 慶喜の政治顧問を務め、わが国に西洋の諸文明を総合的に紹介
 西周(にしあまね)は、大政奉還前後の期間、第十五代将軍・徳川慶喜の政治顧問を務めた人物だ。また、わが国に西洋の諸文明を初めて総合的に紹介した人物の一人で、西洋哲学の翻訳・紹介など哲学の基礎を築くことに尽力。福沢諭吉とともに西洋語の「philosophy」を音訳でなく、翻訳語として、「哲学」という言葉を創った。このほか、「芸術」「理性」「科学」「技術」「主観」「客観」「帰納」「演繹」など、今日ではあたり前になっている多くの哲学、科学関係の言葉は西の考案した訳語だ。
 西周は石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医、西時義の長男として生まれた。父・西時義は、森鴎外の曽祖父・森高亮の次男で、周にとって鴎外は従兄弟の子にあたる。年齢は30歳以上違う。周の生家の川向いには親戚、鴎外の生家がある。幼名は経太郎、明治維新後、周(あまね)と称した。幼時から漢学に親しみ、1841年(天保12年)藩校養老館で蘭学を学んだ。江戸時代後期の幕末から明治初期の啓蒙家、教育者。生没年は1829(文政12)~1897年(明治30年)。
 数え年20歳のとき、朱子学に専心することを命じられ、大坂、岡山に遊学した後、藩校の教官となった。1854年、ペリー来航により江戸に派遣され、時勢の急迫を感じ、翌年脱藩して洋学に専心。1857年(安政4年)には徳川幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)の教授手伝並となり、同僚の津田真道、加藤弘之などとともに哲学ほか西欧の学問を研究。1862年(文久2年)には幕命で津田真道、榎本武揚らとともにオランダ留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学、経済学、国際法などを学んだ。このときフリーメイソンに入会、その署名文書はライデン大学に現存する。
 1865年(慶応元年)に帰国した後、大政奉還前後においては、将軍徳川慶喜
 の政治顧問を務め、1868年(慶応4年)、幕府の沼津兵学校初代校長に就任。1870年(明治3年)、明治政府の兵部省に入り、以後、文部省、宮内省などの官僚を歴任。軍人勅諭、軍人訓戒の起草に関係するなど、軍制の整備とその精神の確立に努めた。
 軍人勅諭、正確には『軍人に賜りたる勅諭』は、西周が起草し、井上毅が全文を検討し、福地源一郎が兵にも分かるように、文章をやわらかくした。公布されたのは1882年(明治15年)だった。
 周は1873年(明治6年)、森有礼、福沢諭吉、加藤弘之、中村正直、西村茂樹、津田真道らとともに「明六社」を結成し、翌年から機関誌「明六雑誌」を発行。西洋哲学の翻訳・紹介に努めた。1890年(明治23年)、帝国議会開設にあたり、周は貴族院議員に任じられた。
 明治維新後の文化史を語るとき、西周は欠かすことのできない人物だが、同時代に活躍した福沢諭吉ほどよくは知られていない。それは、周が福沢のように政府の外部にあって自由主義を説く立場をとらず、体制内にあって漸進的立憲君主制の立場をとったからだ。そのため、周を“御用学者”と見做して過小に評価されている側面があるのだ。哲学、科学に限らず様々な分野で日本の近代化に貢献した功績は、再評価されてしかるべきと思われる。
 森鴎外は西周没後の1898年(明治31年)、正伝ともいうべき「西周伝」を書いている

(参考資料)司馬遼太郎「この国のかたち 四」

西郷隆盛 征韓論に敗れて下野,人間的スケールの大きさ、知名度でNo.1

西郷隆盛 征韓論に敗れて下野,人間的スケールの大きさ、知名度でNo.1
 西郷隆盛は周知の通り、大久保利通、木戸孝允と並び称される「明治維新三傑」の一人だ。そしてその人間的スケールの大きさ、知名度の点ではNo.1だろう。勝海舟に西郷という人物を観察してみろといわれた坂本龍馬は「西郷という男は、大太鼓のような男だ。大きく撞けば大きく鳴り、小さく撞けば小さく鳴る。もしバカなら大バカ、利口なら大利口だ」と報告した。分かりやすい例を挙げれば、さしずめ龍馬が西郷を撞いてできたのが、まず難しいと思われていた「薩長同盟」ということになる。西郷の生没年は1828(文政10)~1877年(明治10年)。
 第十一代薩摩藩主・島津斉彬は、当時はもちろん、後世の歴史家によっても、恐らく江戸時代を通じて有数の賢候だったといわれる人物だ。薩摩藩の若者らの中で、この斉彬に最初に見い出され、引き立てられ、最も寵愛されたのが、西郷隆盛だった。斉彬は藩主として初めて国許に帰ったとき、家中に「藩政その他について、我らの心得になるようなことがあったら、文書をもって申してくれるよう」と触れを出した。志あるものはそれぞれ建白したが、西郷もその一人だった。
 西郷の建白書は、斉彬の襲封を妨げ、その系統を絶滅させるために斉彬の子女を呪殺したり、多年にわたって悪逆の限りを尽くしてきた重臣らが、何の咎めも受けず、位にとどまっているのは、信賞必罰の政治の根本に反するばかりでなく、世の道義の観念を乱すことでもある。手始めにこうした徒輩を処分あって、終始忠誠を存した人々を賞せられるべきである-という趣旨のものだった。この建白書が斉彬の目に留まったのだ。
 時代は斉彬亡き後に移る。西郷は、島津斉彬・久光の跡取り騒動の「お由邏騒動」以来、久光を毛嫌いしていた。そのため、西郷は久光が出兵上洛するときも「(急死した前藩主)斉彬公が考えたことを、いまさらマネをしてもしようがない」と突き放す。そして、久光から「京で工作しておけ」といわれても、これを無視する。驚いた大久保利通が「どうして主君の指示通り動かないのか」と訊くと「ジゴロ(チンピラ)のいうことを聞く気はない」と答える。久光にすれば、こういう男は余計に憎いというわけだ。そこで事あるたびに、久光と西郷の間は険悪な状態になって処分(島流し)されてしまうのだ。
 その点、大久保は現実的で薩摩藩を動かすには、現在の権力者・藩主忠義の父久光を動かすことが必要と考え行動したのだ。久光が碁が好きと聞くと、久光の囲碁相手の僧に囲碁を習ったりして、久光に接近し藩の中枢に食い込んでいった。大久保もお由羅騒動で父が処分され、鬼界ヶ島に流されており、久光に決して良い感情は持っていなかったはずだが…。
 西郷は島流し(徳之島、沖永良部島)になっていたため、寺田屋騒動や薩英戦争など幕末の様々な局面に参加できなかった。しかし、それでも藩をまとめるために西郷のカリスマ性が必要といわれるのは、さすがとしか言いようがない。島から帰還してすぐ藩の志士たちをまとめ上げ、中心人物に座ってしまう。西郷の「人望の巨大さ」はやはり凄い。こんな西郷だが、探せば欠点がないわけではない。すぐに厭世的になり、隠遁したがる。自分の命を粗末にしたがる。時代の進歩に歩調を合わせようとしない-など破綻が多く、間違いが多いといえるかも知れない。しかし、そのためにかえって、西郷の人生は人間味の豊かなものとなったのではないか。
 西郷は島流しから復帰後、活躍の舞台に戻る。薩長同盟の成立、王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導した。新政府の参与、参議を務めるが、西郷生涯の大勝負の一つ、征韓論に敗れて下野。1877年(明治10年)、西南戦争が起こり、西郷は城山で50年の生涯を閉じた。だが、彼の名声はますます高く、国民の追慕の情は高まる一方で、政府は対応に苦慮した。
 西郷の語録『南洲翁遺訓』の一説に「命もいらず、名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」という言葉がある。名もいらない、位もいらない、金もいらない、こういう人は実に始末に困ったものだ。しかし、このような困った人でなかったら、苦労をともにして国家の大事を成し遂げることはできない-というのだ。これは、まさしく西郷自身の自己告白の言葉だ。
 西郷隆盛は鹿児島城下の下加治屋町山之口馬場で生まれた。幼名は小吉(こきち)、長じて隆永、隆盛と名乗り、通称は吉之助(きちのすけ)で通した。号は南洲。一時、西郷三助、菊池源吾、大島三右衛門などの変名も名乗った。西郷家の家格は「御小姓与(おこしょうぐみ)」で、士分では下から二番目の身分の下級武士。次弟は戊辰戦争(北越戦争)で戦死した西郷吉二郎(隆廣)、三弟は明治維新の重鎮、従道、四弟は西南戦争で戦死した小兵衛(隆雄、隆武)。大山巖(弥助)は従弟、川村純義も親戚だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「江戸開城」、海音寺潮五郎「史伝 西郷隆盛」、童門冬二「西郷隆盛の人生訓」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、平尾道雄「中岡慎太郎 陸援隊始末記」、加藤蕙「島津斉彬」、豊田穣「西郷従道」、「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史(文芸春秋編)、海音寺潮五郎・色川大吉「日本史探訪/幕末維新の英傑たち 西郷隆盛」

 

 

杉原千畝 国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官

杉原千畝 国家や政府の枠を超えユダヤ人にビザを発給し続けた外交官
 第二次世界大戦中、国家や政府の枠を超え、自らの立場や身の危険を顧みず、6000人の命を救う道を選んだ一人の日本人外交官がいた。その人物こそ、ここに取り上げる杉原千畝(すぎはらちうね)だ。杉原の生没年は1900(明治33)~1986年(昭和61年)。
 杉原千畝は海外では「センポ・スギハラ」、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる。「ちうね」という名の発音のしにくさから千畝自身がユダヤ人に音読みで「センポ」と呼ばせたとされている。いずれにしても杉原は勇気ある人道的行為を行ったと評価され、イスラエル政府から1969年、勲章を授与された。1985年には日本人として初めて「ヤド・バジェム賞」を受賞し「諸国民の中の正義の人」に列せられた。また、リトアニア政府は1991年、杉原の功績を讃えるため、首都ヴィリニュスの通りの一つを「スギハラ通り」と命名した。
 杉原は岐阜県加茂郡八百津町で父好水、母やつの次男として生まれた。旧制愛知県立第五中学(現在の愛知県立瑞陵高等学校)卒業後、千畝が、医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年(大正7年)、早稲田大学高等師範部英語科(現在の教育学部)予科に入学。1919年(大正8年)、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。早大を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルピンに派遣され、ロシア語を学んだ。そして、1920年(大正9年)12月から1922年(大正11年)3月まで陸軍に入営。1923年(大正12年)3月、日露協会学校特修科を修了。
 1924年(大正14年)、杉原は外務省に奉職。以後、満州、フィンランド、リトアニア、ドイツ、チェコ、東プロイセン、ルーマニアの日本領事館に勤務。そして1940年夏、リトアニア共和国・首都カウナスの日本領事館領事代理時代に、その後の彼の運命を変え、後世に語り継がれる“壮挙”を実行することになる。ソ連政府や日本本国からの再三、退去命令を受けながら、杉原と妻幸子は日本政府の方針や外務省の指示に背いて、ナチス・ドイツの迫害を逃れようとするユダヤ人に、1カ月あまりの間、退去する日、ベルリンへ旅立つ列車が発車する直前まで、駅のホームでビザを発給し続けたのだ。
 ナチス・ドイツに迫害されていたポーランドのユダヤ人は、中立国と思われていたリトアニアに移住した。だが1940年7月15日に親ソ政権が樹立され、ソ連がリトアニアを併合することが確実となった。そうなると、ユダヤ人たちは国外に出る自由を奪われてしまう。またヒトラーの戦略から、いずれは独ソ間で戦争が始まることも十分予想された。そのため、ソ連に併合される前にリトアニアを脱出しなければ、逃亡の経路は断たれてしまうとユダヤ人たちは予感していた。もはや一刻を争う状態だった。
 すでにポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスがドイツの手に落ちていたので、ユダヤ人の逃亡手段は日本の通過ビザを取得し、そこから第三国へ出国するという経路しか残されていなかった。だが、日本の通過ビザを取るためには受入国のビザが必要だった。ソ連併合に備え領事館が撤退する中、ユダヤ人難民に対して入国ビザを発給する国がない。この窮状を解決したのが、カウナスの各国領事の中で唯一ユダヤ人に同情的だったオランダ名誉領事、ヤン・ツバルテンディクだ。ユダヤ人救済のため彼が便宜的に考えた、カリブ海に浮かぶオランダ植民地キュラソー島行きの「キュラソー・ビザ」を持ってユダヤ人が日本領事館に押し寄せた。1940年7月18日のことだ。
 杉原は7月25日に日本政府の方針、外務省の指示に背いてビザ発給を決断。以後、9月5日までユダヤ人にビザ(=渡航証明書)を発給し続けた。現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。その家族や公式記録から漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人ともいわれている。
 1947年4月、杉原は帰国。2カ月後、外務省から突然、依願免官を求められ、外務省を退職。退官後は生活のために職を転々としたが、語学力を活かし東京PXの日本総支配人や貿易商社、ニコライ学院教授、NHK国際局などに勤務。1960年から川上貿易㈱モスクワ事務所長として再び海外での生活を送ることになり、国際交易㈱モスクワ支店代表を最後に退職。日本に帰国したのは75歳のときだった。

(参考資料)杉原幸子「新版六千人の命のビザ」

山脇東洋 日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人

山脇東洋 日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人
 山脇東洋は江戸時代中期、日本で初めて人体解剖を行った実験医学の先駆者の一人で、このときの日本最初の人体解剖記録が、当時の医学界に大きな衝撃と影響を与え、後の時代の前野良沢、杉田玄白らのオランダ医学書のより正確性の高い翻訳事業につながっていくのだ。その意味で、山脇東洋は日本の医学の近代化に大きく貢献した人物だ。東洋の生没年は1706(宝永2)~1762年(宝暦12年)。
 山脇東洋は丹波国亀山(現在の京都府)の医家清水玄安の子として生まれた。名は尚徳、字は玄飛または子樹、号は移山、後に東洋と称した。幼いころから学問に長じ、父の没後も医学の研修に専念していたが、その才の非凡さは早くも周囲の驚異の的となっていた。
東洋が22歳のとき、父の師であった京都の医官山脇玄修の眼にとまり、山脇家の養子に迎え入れられた。山脇家は由緒ある医学界の名門であり、玄修の父玄心は宮中の侍医となり法印の位にも昇ったほどの医家。養子に入ってから数年間は、養父玄修について医を学んだが、東洋にとって気ぜわしい歳月だった。
 1727年(享保12年)養父玄修が死去したため、東洋は山脇家の家督を継いだ。そして家督相続の御礼言上の目的で京都から遠く江戸へ赴き、第八代将軍吉宗に御目見えをした。東洋24歳のことだ。翌年、法眼に任ぜられ、2年後には中御門天皇の侍医を命ぜられた。しかし、東洋は名門の当主であることに満足していなかった。
彼は一人の医家として、医学への知識追究に異常なほどの熱意を抱いていたのだ。そこで彼は当代随一の古医方の医家、後藤艮山(こんざん)に師事。後藤の医学に対する思想そのものともいえる実証精神を学んだ。その際立った業績の一つが、1746年(延享3年)、唐の王燾(おうとう)の著書『外台秘要方(げだいひようほう)』(40巻)の復刻だ。この書は幕府医官、望月三英が秘蔵していた漢方医学書で、東洋はそれを借り受けると私費で翻訳し、書物として刊行したのだ。東洋42歳のことだ。これにより彼は古医方家としての声価をいよいよ高めた。
 また、人体の内部構造についての五臓六腑説に疑いを持ち、先輩の話を聞いたり、内臓が人間に似ているといわれていた川獺(かわうそ)を自ら解剖したりしたが、疑問は解けなかった。それだけに、東洋は人体の内部を見たいという願望を熱っぽく抱くようになっていた。
そんな東洋に1754年(宝暦4年)、夢想もしなかった幸運が訪れた。それは京都六角の獄で5人の罪人が斬首刑に処せられたことから発したものだった。当時の京都所司代は若狭藩主酒井讃岐守忠用だったが、斬首刑が行われたことを知った、東洋の門人でもあった同藩の医家3人が、東洋に代わって刑屍体の解剖許可を酒井候に願い出たのだ。常識的にはそれは一蹴されるべきものであり、逆に厳しい咎めを受けかねないものだったが、所司代酒井忠用は深い理解を示して、それを許可した。その結果、東洋が長年願い続けながら到底不可能とあきらめていたことが実現することになった。
こうして東洋以下3人の医家たちは、初めて人体の内部構造を直接観察した。東洋たちは次々にあらわれる臓器に眼を凝らし、メモを取り絵図を描くことに努めた。このときの観察記録が1759年に刊行された『蔵志(ぞうし)』で、この書は日本で公刊された最初の人体解剖記録だ。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘した。国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな衝撃と影響を与えた。
東洋の影響を受け、江戸で前野良沢、杉田玄白らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手する。ドイツ人クルムスが著した原書のオランダ語訳の、あの『ターヘル・アナトミア』という解剖書だ。突き詰めていえば先人の山脇東洋がいたからこそ、あの当時、前野良沢による翻訳が進み、『解体新書』が生まれたともいえるのではないか。

(参考資料)吉村昭「日本医家伝」、ドナルド・キーン・司馬遼太郎対談「日本人と日本文化」

 

山本五十六 “熱い長岡魂”で、真珠湾攻撃を成功させた国民的英雄

山本五十六 “熱い長岡魂”で、真珠湾攻撃を成功させた国民的英雄
 連合艦隊司令長官、山本五十六の家系には、幕末の風雪の中で「武装中立」を叫び、明治新政府の北陸道鎮撫軍を迎撃。果敢に戊辰の北越戦争を繰り広げた越後長岡藩の軍事総督、河井継之助戦死のあとを守って、藩の総司令官になった23歳の若き家老、山本帯刀の“熱い長岡魂”が受け継がれている。五十六の生没年は1884(明治17)~1943年(昭和18年)。
 山本五十六は新潟県長岡市で長岡藩士、高野貞吉の六男として生まれた。五十六の祖父、高野秀右衛門、父の貞吉も戊辰の北越戦争を戦っている。この戦争に敗北し明治新政府の「逆賊」となった河井、山本両家から朝敵の汚名が消えるのは、五十六が生まれた1884年(明治17年)のことだ。そして、罪名が消滅した山本家を、旧藩主牧野忠篤から望まれて五十六が相続するのは、後年の1916年(大正5年)、五十六が海軍少佐のころだった。
 五十六は1919~23年アメリカに駐在してハーバード大学に学ぶ。25~28年アメリカ大使館付武官としてワシントンに駐在、28年空母「赤城」の艦長。29年ロンドン軍縮会議随員、33年航空本部技術部長・第一航空戦隊司令官などを経て、35年航空本部長になった。36年に海軍次官に就任、このとき米内光政海軍大臣、井上成美軍務局長とともに、日独伊三国同盟に体を張って抵抗した。そのため、脅迫状や暗殺の予告が相次いだ。
 39年、五十六は連合艦隊司令長官に就任。当時の旗艦「長門」に乗り込んだのは9月1日。この日ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったのだ。航空主兵論と短期決戦論に基づいて41年1月から真珠湾攻撃計画を立案、12月8日作戦を実行し成功させた。これにより彼の声望は絶大となり、国民的英雄と称えられた。しかし、早期決戦を意図して決行したミッドウェー作戦では、事前に待ち伏せしていた米機動部隊によって空母4隻を失う大敗北を喫した。
そして43年(昭和18年)4月18日、南太平洋方面の前線視察中にブーゲンビル上空で暗号を分析して待機していたアメリカの16機のロッキードP38戦闘機に五十六の搭乗機が撃墜され、戦死した。壮絶な最期だった。59年の生涯だった。今日では周知の通り、実は日本の情報は米軍に筒抜けだったのだ。公式発表では五十六は機上で被弾し、即死とされている。
 だが、大本営は五十六の戦死をすぐには発表しなかった。“無敵連合艦隊”の象徴、山本五十六の戦死はあまりにも戦意・士気の面でダメージが大きかったためだ。公表は、戦死から1カ月後の5月21日。五十六の死は海軍の軍人たちはもちろん多くの一般国民にも、深い悲しみと、戦争の前途に対する不安を与えた。五十六が戦死して、これはもう日本はもう駄目なのではないかと思った-ということは、五十六が海軍次官当時の副官たちをはじめ、多くの海軍関係者がそう証言している。
五十六は死後、元帥となり、43年(昭和18年)6月15日、9年前に東郷平八郎の葬儀が行われたのと同じ日を選んで、米内光政・海軍大将を葬儀委員長とする国葬が日比谷公園内の斎場で執り行われた。岡麓、斎藤茂吉、土屋文明、川田順、佐々木信綱、会津八一ら、大勢の歌人が悲しみの歌を詠み、高村光太郎、佐藤春夫、室生犀星、西条八十ら多くの詩人が五十六を悼む死を作った。
 山本五十六は男くさい魅力を持ったリーダーだった。嬉しいにつけ悲しいにつけ、彼はよく泣いた。人間としての情が、常人よりもはるかに多かったのだろう。部下だった山口多聞中将は「山本長官の部下思いは、単なる人情ではなく、命がけの迫力を感じました」と語った史料が残っている。
 もちろん、連合艦隊司令長官としてのリーダーシップを構成しているのは、こうした情ばかりではない。強烈な行動力、勝負師としての度胸と決断力に優れていた。大鑑主義が支配的だった海軍の中で、誰よりも早く「航空主力、戦艦無用論」を唱え、飛行機による艦船攻撃の優位性を説いた。それも精鋭主義ではなく、艦船攻撃は絶対に量だと主張し続けたのだ。

(参考資料)阿川弘之「山本五十六」、神坂次郎「男 この言葉」

坂田藤十郎 上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に

坂田藤十郎 上方の和事を創始,近松作品で人気を高め上方の第一人者に
 京の四条河原の掛け小屋に始まったといわれる芝居が、今日の絢爛たる歌舞伎にまで発展した経路には、いろいろな人と時代が反映して、そうなった紆余曲折があるが、その中の最も大きい転機をつくったものに、江戸の「荒事(あらごと)」、上方の「和事(わごと)」がある。その「荒事」は江戸の市川団十郎、上方の「和事」は坂田藤十郎によって創始されたといわれている。坂田藤十郎の屋号は山城屋、定紋は星梅鉢。
 元禄時代の名優、坂田藤十郎(初代)は1647年(正保4年)頃に、京の座元、「坂田座」の坂田市右衛門の息子として生まれた。当時、京の芝居小屋は鴨川の四条あたりの河原に集まっていた。現在も毎年の顔見世興行で有名な南座のあたりが今、わずかに往時の殷賑ぶりをしのばせている。劇場の横には歌舞伎発祥の記念の石碑があり、ここが日本の演劇史上、とりわけ大切な場所だったことを示している。
 ただ、京の坂田座は藤十郎の少年時代、観客同士の喧嘩から血をみる事件になり、遂に廃座となっている。しかも、これが官憲の忌避するところとなり、四条はじめ京中の芝居小屋は、ことごとく長い興行禁止に追い込まれている。それが、都万太夫はじめ、座元たちの嘆願哀訴がようやく実り、延宝年間に至って復興することができた。藤十郎が姿を見せたのはその時だ。1676年(延宝4年)11月、縄手の芝居小屋に藤十郎が出演したという記録がある。その時、彼は28歳で円熟の境にあった。
しかし、坂田座の子に生まれて以来、その間、藤十郎について何の記録も残っていない。彼はまず当時、東西比類なしといわれた大坂の嵐三右衛門を頼って、その膝下で修行したと思われる。また、上方ばかりで芝居をしていたわけではなかったようだ。江戸からきた役者と大坂で交友があったことも関連史料で分かる。しかし、江戸に居つかなかったことは確かで、気分が合わず、上方の和事師として一生を終わったと思われる。
出雲阿国をルーツとする歌舞伎、その流れの「女歌舞伎」が風俗を乱したというので差し止められた。これを受けて発生した男だけの「若衆歌舞伎」。そして、官憲がその役者の前髪を剃ってしまった。前髪を剃られると普通の男の形になる。そこで、「野郎歌舞伎」というものが生まれたのだ。この野郎歌舞伎が生まれて漸次、芝居という形を整えた延宝4年に、坂田藤十郎が初めて記録に出現したわけだ。江戸の荒事に対して、上方の和事というものを彼が戯作したのだ。それが今日伝わっている大阪・京都の一つの芸道だ。
 江戸の市川團十郎、上方の坂田藤十郎、二人はともに東西を代表する名優だ。團十郎は三升屋兵庫(みますやひょうご)の名でいろいろな脚本を書き、藤十郎は「夕霧名残(ゆうぎりなごり)の正月」などの傑作を残している。「夕霧名残の正月」は1678年(延宝6年)、藤十郎が初演して空前の大当たりを取った。伊左衛門役が大評判となり、藤十郎は生涯にわたってこの伊左衛門役を演じ続けた。また、近松門左衛門の作品に多く主演して人気を高め、上方俳優の第一人者となった。藤十郎が完成した和事は上方を中心とした代々の俳優に受け継がれた。
 坂田藤十郎の名を一躍、現代に有名にしたのは、大正初期に菊池寛が書いた「藤十郎の恋」だろう。藤十郎はある夜、京のお茶屋の内儀、お梶をかきくどいた。あまりの藤十郎の真剣さにほだされて、遂にお梶が意を決して行灯の灯を消した時、藤十郎は暗闇の中を外へ忍び出た…。人妻と密通する新しい狂言の工夫を凝らすあまりの、それは藤十郎の偽りの恋だった。あくまで写実に徹しようとした藤十郎の芸熱心に、世人は改めて驚嘆の目を見張った。
 坂田藤十郎の名跡は長い間途絶えていたが、2005年、231年ぶりに三代目中村雁治郎が四代目坂田藤十郎を襲名、復活した。

(参考資料)中村雁治郎・長谷川幸延「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」