南方熊楠 粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

南方熊楠 粘菌研究で知られる破天荒な博物・生物学者

 南方熊楠は博物・生物・民俗学者で、柳田國男とともに日本の民俗学の草創者だ。とくに菌類学者として、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られている。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキに因んでの命名という。主著に「十二支考」「南方随筆」などがある。生没年は1867年(慶応3年)~1941年(昭和16年)。萎縮腎により自宅で死去。満74歳。

 熊楠は子供の頃から驚異的な記憶力を持つ神童だった。また常軌を逸した読書家でもあり、蔵書家の家で100冊を超える本を見せてもらい記憶、家に帰ってその記憶をたどり書写するという特殊な能力を持っていた。9歳の時、儒者で医師でもあった寺島良安が編纂した厖大な百科事典「和漢三才図会」の筆写を始め、5年かけ全105巻を筆写した。

このほか、9歳から12歳にかけて、植物学大事典ともいうべき明の李時珍が著した「本草綱目」52巻21冊、「諸国名所図会」、「日本紀」、貝原益軒の「大和本草」なども筆写したという。何日も家に帰らず、山中で昆虫や植物を採集することがあり、「てんぎゃん(天狗)」というあだ名があった。

 子供の頃の性格はその後も変わることなく、1884年、大学予備門(現在の東京大学)に入学するが、彼は学業そっちのけで遺跡発掘や菌類の標本採集などに明け暮れた。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、山田美妙などがいた。

 熊楠は1892年、渡英しロンドンの天文学会の懸賞論文に1位で入選した。大英博物館東洋調査部に入り、資料整理に尽力。人類学・考古学・宗教学などを独学するとともに、世界各地で発見、採集した地衣・菌類に関する記事を科学雑誌「Nature」などに次々と寄稿した。1897年にはロンドンに亡命中の孫文と知り合い、親交を始めている。孫文32歳、熊楠31歳のことだ。

 帰国後は和歌山県田辺町(現在の田辺市)に居住し、柳田國男らと交流しながら、卓抜な知識と独創的な思考によって、日本の民俗、伝説、宗教を広範な世界の事例と比較して論じ、当時としては早い段階での比較文化人類学を展開した。

 菌類の研究では新しい70種を発見し、また1917年(大正6年)自宅の柿の木で粘菌新属を発見。これが1921年(大正10年)“ミナカテルラ・ロンギフィラ”(Minakatella longifila 長糸南方粘菌)と命名された。1929年には田辺湾神島(かしま)沖の戦艦「長門」艦上で、紀南行幸の昭和天皇に進講する栄誉を担っている。

 熊楠はエキセントリックな行動が多く、酒豪だったが半面、酒にまつわる失敗も多かった。語学には極めて堪能で英語、フランス語、ドイツ語はもとより、サンスクリット語におよぶ19カ国語の言語を操ったといわれる。

 田辺では1906年に布告された「神社合祀令」によって神社林、いわゆる「鎮守の森」が伐採されて生物が絶滅したり、生態系が破壊されてしまうことを憂い、熊楠は1907年より神社合祀反対運動を起こした。今日、この運動は自然保護運動、あるいはエコロジー活動の先駆けとして高く評価されており、その活動は2004年に世界遺産(文化遺産)にも登録された「熊野古道」が今に残る端緒ともなっている。

 

(参考資料)鶴見和子「南方熊楠」、神坂次郎「縛られた巨人-南方熊楠の生涯」

      津本陽「巨人伝」

本居宣長 ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

本居宣長 ライフワークとして「古事記伝」全44巻を著した国学者

 本居宣長は生涯、桜を愛した国学の大成者だ。当時すでに解読不能に陥っていた「古事記」の解読に成功し、「古事記伝」を著した。このように表現すると、堅苦しい、文人気質の学者タイプの人物を想像してしまうが、実際はかなり違ったようだ。確かに本居宣長は常軌を逸した振る舞いが非常に嫌いで、日々の生活態度がかなり厳格な人だった。ところが、彼は医師だった関係で、日々の患者のこと、調剤のこと、謝礼のことなどを、実に細かくつけていたのだ。また、23歳の春、医師になるため京都に留学したが、彼の「在京日記」をみると、勉強もしたが、相当遊びもしたのではないかと思われる。とくに歌舞伎は相当通であったことがうかがえるし、乗馬をしたり、お茶屋へも遊びに行ったのではないかと思われ、酒も相当飲め、とくにタバコが好きだったようだ。その意味では、当然必要だったとはいえ、また青年時代のこととはいえ、従来のイメージの、真面目で、ストイックで、文人気質一辺倒とは裏腹の、日常性に徹するというか、とにかく普通の生活者タイプの学者だったといえる。

 本居宣長は伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿問屋、小津三四右衛門定利(おづさじえもんさだとし)の次男として生まれた。幼名は富之助。名は栄貞。通称は瞬庵、春庵(しゅんあん)、鈴屋大人(すずやのうし)と号した。

 伊勢商人は近江商人と並んで、各地の大都会に繰り出して商売を広げてきた。とくに江戸の大伝馬町には、伊勢店(いせだな)と呼ばれる出店がずらりと軒を並べて、手広く松坂木綿を商っていた。しかし江戸の出店の経営は、支配人に任せ、主人は松坂に住んで、趣味的な生活を送る-。これが伊勢松坂の木綿問屋なのだ。宣長の父もまた、そのような旦那衆の一人だった。

 ところが、任せていた支配人の過ちから父は家産を失い、宣長が11歳のとき失意の中で病死した。江戸の出店も、松坂の本宅も整理された。宣長は母かつの手で育てられ、叔父の江戸の店で商いの見習いもしたが、本を読めぬ生活を嫌い帰郷。小さいときからおとなしく、書物が好きだった宣長をみて、母は彼を商人よりも、医者にすることにした。京都に留学した宣長は、堀景山という儒学者の家に寄宿。まず儒学を学び、その後、小児科の医者を目指して5年4カ月を京の都で学んだ。

 28歳。松坂に帰った宣長は、小児科医として開業し、診察、往診、家伝の子供用の飴薬作りもした。そして、忙しい間を縫いながら、なお独力で古典研究を続けた。とくに賀茂真淵の著書を読み、その学問に傾倒した。こうして医業と学問の生活を続けて5年余り。結婚し、長男(後の本居春庭)も生まれたその年の初夏、かねてから心の師と仰ぐ賀茂真淵との対面が実現。1763年(宝暦13年)、賀茂真淵67歳、本居宣長34歳だった。

 真淵は国学者としてすでに名声が高く、国学研究の究極は「古事記」にあり、と考えていた。そして、その「古事記」研究の前段階として「万葉集」の研究が必要だと考えていた真淵は、すでにこれを完成していた。しかし、真淵は「万葉集」の研究に多くの歳月を失い、「古事記」研究を成し遂げるには老い過ぎたことを自覚していた。一方、宣長もまた、古典研究の最終テーマは「古事記」にあると考えていた。同じ志を持つ者の、熱い思いに駆られた二人は、夜の更けるのも忘れて語り明かした。

 真淵は自分の「万葉集」の研究成果を基礎にして、「古事記」の研究を大成するよう宣長を励まし、自らの注釈を施した「古事記」の書入れ本を宣長に託した。二人はここに師弟の縁を結び、宣長は正式に真淵の門人に名を連ね、江戸と松坂の間を書簡で結んで学び合った。しかし、この師弟が直接会って言葉を交わしたのはこの時の面会が最初で最後だった。

 宣長は、真淵から託された「古事記」の研究にそのすべてを注ぎ込んだ。以来、およそ30年、古い茶室を改造して住まいの二階に付け加えた、四畳半にも満たない「鈴屋」と名付けた狭い書斎で続けられた。1798年(寛政10年)、宣長は遂に「古事記伝」全四十四巻を完成した。35歳から始めて69歳まで、実に34年が経過していた。ライフワークを果たした宣長は、その喜びを友人に書き送り、鈴屋に知人や門下生を集めて祝賀の歌の会を催した。

 

(参考資料)西郷信綱「日本史探訪/国学と洋学」、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

福沢諭吉 「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 

福沢諭吉 「天は人の上に人を造らず…」で門閥制度を嫌った啓蒙思想家

 福沢諭吉は封建社会の門閥制度を嫌った。中津藩士で、儒学に通じた学者でもあったが、身分が低いため身分格差の激しい中津藩では名をなすこともできずにこの世を去った父と幼少時に死別、母の手一つで育てられたためだ。福沢は『福翁自伝』の中で「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とさえ述べている。『学問のすすめ』の冒頭に記されている「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」という有名な人間平等宣言も、こうした生い立ちがその根底にある。そのため、明治維新後、新政府からの度々の出仕要請も断り、もっぱら民間にあって慶応義塾の教育と国民啓蒙のための著作とを使命とする態度を変えなかった。福沢の生没年は1834(天保5)~1901年(明治34年)。

 明治時代の啓蒙思想家で慶応義塾の創立者、福沢諭吉は大坂の中津藩蔵屋敷で十三石二人扶持の藩士、福沢百助とお順の二男三女の末っ子として生まれた。わずか2歳のとき父と死別、母子一家は中津(現在の大分県中津市)へ帰った。現在、中津市内に福沢旧邸が昔のままに保存されているが、これは二度目の住居であり、中津帰郷当初住んでいた家は倒壊寸前のひどい荒屋(あばらや)だったという。その荒屋で姉たちと福沢は、18歳までの歳月を送った。

1854年(安政1年)、福沢は長崎へ蘭学修行に出て、翌年大坂の緒方洪庵の適々塾に入門。1856年(安政3年)、兄三之助が病死し福沢家を継ぐが、適々塾に戻り、1858年、藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開くことになった。これが後の慶応義塾に発展する。   

1859年、福沢は横浜に遊び、愕然とすることになった。開港されて、外国人の行き交う姿が珍しくない横浜の街で見かける看板は、オランダ語ではなく、英語が幅を利かせていたからだ。これまで必死で学んできた蘭学の無力さを痛感。英学に転向、以後、独学で英学に取り組む。

 1860年(万延1年)、福沢は咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。1862年(文久2年)には幕府遣欧使節団の探索方として仏英蘭独露葡6カ国を歴訪。1864年(元治1年)に幕臣となった。1866年(慶応2年)、既述の洋行経験をもとに『西洋事情』初編を書き刊行。欧米諸国の歴史、制度の優れた紹介書となった。

1867年(慶応3年)、幕府遣米使節に随従するが、このとき福沢は、幕府はもうどうにもならぬと見当をつけていたので、自分の手当から公金まで全部動員して書物を買い込んだ。大中小の各種辞書、経済書、法律書、地理書、数学書など大量に持ち帰った。そのため、福沢は勝手に大量の書物を買い込んだかどで、帰国後3カ月の謹慎処分を受けた。しかし、そのお陰で、後述するように、福沢の慶応義塾では、生徒一人ひとりがアメリカ版の原書を持たせてもらって、授業を受けることができたので、次第に人気が高まるのだ。

 1868年(明治1年)、福沢はこれまでの家塾を改革し、慶応義塾と称し「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とした。同年5月15日、上野の彰義隊戦争の最中、福沢は大砲の音を聞きながら、生徒を前にして経済学の講義をしていたという。同年、幕臣を辞し、中津藩の扶持も返上。明治新政府からの度々の出仕要請も断った。1871年の廃藩置県を歓迎した彼は、国民に何をなすべきかを説く『学問のすすめ』初編(1872年刊)を著す。冒頭に「天は人の上に人を造らず…」というあの有名な人間平等宣言を記すとともに、西洋文明を学ぶことによって「一身独立、一国独立」すべきだと説いた。この書は当時の人々に歓迎され、第17編(1876年)まで書き続けられ、総発行部数340万部といわれるベストセラーとなった。これにより、福沢は啓蒙思想家としての地位を確立した。

 『学問のすすめ』(明治5~9年刊)や『文明論之概略』(明治8年刊)などを通じて、明治初年から10年ごろまでのわが国開明の機運は、福沢によって指導されたといっても過言ではない。1882年(明治15年)には『時事新報』を創刊して、この後、福沢の社会的な活動はすべてこの媒体で展開され、新聞人としても多大な成功を収めた。晩年の著作の「福翁自伝」(明治32年刊)は日本人の自伝文学の最高峰として定評がある。

 

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小島直記「福沢山脈」、小島直記「無冠の男」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」

 

 

 

中江藤樹 身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」

中江藤樹 身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」
 中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。
 中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。
 1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。藤樹は学者として藩内の武士たちに「孝を尽くせ」と教えながら、自分が近江の琵琶湖畔に母親を一人残していることに悩み続けた。そのため、思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。
 「格物致知」を朱子学、陽明学、藤樹のそれぞれの流派に沿って読み下すと次のような違いがある。
朱子学-物に格(いた)り知を致(いた)す
陽明学-物を格(ただ)し知を致(いた)す
藤 樹-物を格(ただ)し知に致(いた)る
 1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。
 中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した『翁問答(おきなもんどう)』にある言葉を紹介しよう。
○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
 父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。
○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
 本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。
○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
 私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。
こうしてみると、中江藤樹の教えは、まさに、“人間賛歌”の言葉だといわざるを得ない。江戸時代初期の儒学者ながら、身分の上下を超えた平等思想を説いた、“近江聖人”の呼び名そのものだ。

(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」

中江兆民 日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト

中江兆民 日本の自由民権運動の理論的指導者でジャーナリスト
 中江兆民はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介して自由民権運動の理論的指導者だったことで知られ、「東洋のルソー」と評された。第一回衆議院議員総選挙当選者の一人だ。彼の名を不朽にしたのは著述活動で、明治15年、36歳のとき出版した『民約訳解』、明治20年、41歳のとき出版の『三酔人経綸問答』の二つがとくに注目される。
1865年(慶応元年)、土佐藩が派遣する留学生として長崎へ赴きフランス語を学んだが、このとき郷士の先輩、坂本龍馬と出会っており、龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったなどの逸話を残している。江戸時代後期から明治の思想家、ジャーナリスト、政治家。生没年は1847(弘化4年)~1901年(明治34年)。
 兆民は土佐藩足軽の元助を父に、土佐藩士青木銀七の娘、柳を母として高知城下の山田町で生まれた。兆民は号で、「億兆の民」すなわち「大衆」という意味。「秋水」とも名乗り、弟子の幸徳秋水(伝次郎)に譲り渡している。本名は篤介(とくすけ、篤助)。幼名は竹馬(ちくま)。中江家は初代伝作が1766年(明和3年)に郷士株を手に入れ、新規足軽として召し抱えられて以来の家系で、兆民は四代にあたる。長男の丑吉は1942年(昭和17年)に実子のないまま死去し、中江家は断絶している。
 兆民は15歳のとき父を失って家督を継ぎ、翌年藩校文武館開校と同時に入学。漢学、英学、蘭学を学び、19歳のとき、土佐藩留学生として英学収容のため長崎へ派遣された。長崎には土佐藩の長崎商会、正式には開成館貨殖局長崎出張所があった。その商会の経営を任されていたのが岩崎弥太郎だった。また、坂本龍馬の海援隊があった。
  1866年(慶応2年)、兆民は江戸へ出て、1871年(明治4年)洋学者・箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の「箕作塾三叉(さんさ)学舎」に入門。どうしてもフランスに行きたいと思っていた彼は政府中、最大の実力者、大久保利通に直談判し成功。同年、岩倉ヨーロッパ使節団の一員に加わって留学生となった。1874年(明治7年)アメリカを経てフランスに入り、リヨンやパリで学ぶが、このころルソーの著書に出会い、パリで西園寺公望や岸本辰雄、宮崎浩蔵らと親しくなった。
 1874年(明治7年)帰国し、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開き、ルソーの著書『民約論』や『エミール』などをテキストとして使用する。1875年(明治8年)、明治政府より元老院書記官に任命されるが、翌年辞職。『英国財産相続法』などの翻訳書を出版する。
 1881年(明治14年)、西園寺公望とともに「自由」の名を冠した東洋最初の日刊紙(新聞)『東洋自由新聞』を東京で創刊(西園寺公望・社長、中江兆民・主筆)した。同紙はフランス流の思想をもとに自由・平等の大義を国民に知らせ、民主主義思想の啓蒙をしようとしたものだ。当時勃興してきた自由民権運動の理論的支柱としての役割を担うが藩閥政府だった明治政府を攻撃対象としたため、政府の圧力が強まった。
とくに九清華家(せいがけ)の一つ、京都の公家だった西園寺が、明治政府を攻撃する新聞を主宰することの社会的影響を恐れた三条実美、岩倉具視らは、明治天皇の内勅によって西園寺に新聞から手を引かせたため、結局同紙は「東洋自由新聞顛覆(てんぷく)す」の社説を掲げて第34号で廃刊となった。
 1882年(明治15年)仏学塾を再開し、『政理叢書』という雑誌を発行。1762年に出版され、フランス革命の引き金ともなったジャン・ジャック・ルソーの名著『民約論』の抄訳『民約訳解』をこの雑誌に発表してルソーの社会契約・人民主権論を紹介した。また、自由党の機関誌「自由新聞」に社説掛として招かれ、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答』を発表。三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。
そこで兆民は大阪へ行くことを決意。1888年以降、保安条例による“国内亡命中”なのに、大阪の『東雲(しののめ)新聞』主筆として普通選挙論、部落開放論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。
前年、保安条例による東京追放が解除されたため、1890年の第一回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、予算削減問題で自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立したことに憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」とののしって、議員を辞職した。まさに怒りの辞職だった。
 漢語を駆使した独特の文章で終始、明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を嫌ったその率直闊達な行動は、世人から奇行とみられた。
ところで、意外なことに兆民は、学者、思想家、役人、代議士などの経歴に自ら決別して、実業家を志したことがあった。明治25年、46歳のときのことだ。しかし、次から次に手をつけたが、ことごとく失敗に終わった。札幌での紙問屋を皮切りに、北海道山林組、帰京して毛武鉄道、川越鉄道、常野鉄道などの交通事業に関係し、また京都パノラマ、中央清潔会社に手をつけたが、一つとして成功しなかった。
 主な著書に明治34年に出版された随想集『一年有半』、兆民哲学を述べた書『続一年有半』などがある。この中には、様々な人物を俎上に挙げたユニークな人物論があり、おもしろい。彼は議論、時事評論の最も優れた人として5人を挙げている。福沢諭吉、福地桜痴(源一郎)、朝比奈碌堂、徳富蘇峰、陸羯南だ。また、近代における非凡人として31人を選んでいる。藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋、竹本春太夫、橋本左内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ヶ谷藤太郎、勝安房(勝海舟)、円朝、伯円、西郷隆盛、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢諭吉、越路太夫、大隅太夫、市川団洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、古河市兵衛。伊藤博文、山県有朋、板垣退助、大隈重信など、ときの政界の大物を入れず、多くの芸人を挙げているところに、兆民らしい反骨ぶりが出ている。
 両著ともに人気を呼び、売れに売れた。そして、そんな状況に胸をなでおろして?か、兆民は両著が出版された明治34年暮れ、54年の生涯を閉じた

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、小島直記「無冠の男」、小島直記「逆境を愛する男たち」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」

竹本義太夫 人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖

竹本義太夫 人形浄瑠璃の歴史上不朽の名をとどめる、義太夫節の開祖
 人形浄瑠璃は江戸時代の民衆の中から生まれた、日本が世界に誇る伝統芸能だ。最近は若い男女の間にも年々愛好者が増えているという。この日本の誇る伝統芸能、人形浄瑠璃の歴史上に、不朽の名をとどめるのが、竹本義太夫だ。江戸時代の浄瑠璃太夫、義太夫節の開祖だ。
 竹本義太夫が摂津国(大坂)で農家に生まれたのは1651年(慶安4年)だ。この年、三代将軍家光が亡くなり、由比正雪の事件が発生している。本名は五郎兵衛。小さいときから音曲の道に趣味があった。初期には清水理太夫と名乗った。
 義太夫節は、中世から近世にかけて広く一般民衆の間で享受された平家琵琶や幸若、説経節などの「語り物」の流れを受け継いでいる。とくに竹本義太夫に先駆けて、万治・寛文期(1658~1672年)に一世を風靡した「金平浄瑠璃」は、この時代の「語り物」の姿をよく表している。これは酒呑童子の物語を発展させたもので、坂田金時の子で、金平という超人的な勇士を仮想し、これが縦横に活躍するストーリーを骨子とするものだった。この金平節を語り出した江戸の和泉太夫は、二尺もある鉄の太い棒を手にして拍手を取ったと伝えられるほど、その語り口は豪快激越だった。
 現在では浄瑠璃を語るということは、そのまま義太夫節を語るという意味に使われているが、もともと義太夫節は数ある浄瑠璃の中の一つで、浄瑠璃の総称ではない。浄瑠璃には常磐津もあれば、清元、新内、一中節もある。それが、もう今、浄瑠璃といえば義太夫節を指すようにいい、いわば浄瑠璃が義太夫節の代名詞のようになっているということは、それだけ竹本義太夫の存在が大きかったからだ。
 1684年(貞享元年)、大坂道頓堀に竹本座を開設し、1683年に刊行された近松門左衛門・作の「世継曽我」を上演した。翌年から近松門左衛門と組み、多くの人形浄瑠璃を手掛けた。近松が竹本座のために書き下ろした最初の作品は「出世景清」。竹本義太夫以前のものを古浄瑠璃と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃に与えた。厳密にはこの「出世景清」以前が古浄瑠璃、「出世景清」以降が当流浄瑠璃と呼ばれる。1701年(元禄14年)に受領し筑後掾と称した。  
1703年には近松の「曽根崎心中」が上演され、大当たりを取った。これは大坂内本町の醤油屋、平野屋の手代、徳兵衛と、北の新地の天満屋の女郎、お初とが曽根崎天神の森で情死を遂げたという心中事件を取り扱ったもので、まさにその当時の出来事をそのまま劇化して舞台に仕上げたところに、同時代の観衆を強く惹きつけた点があり、日本演劇史上でも画期的な意味を持つものだった。近松門左衛門が心血を注いで書いた詞章を、53歳の最も油の乗り切った竹本義太夫は、その一句一句に自分のすべての技量と精魂を傾けて語った。「曽根崎心中」で示された義太夫の芸は、二人の師匠、宇治嘉太夫と井上播磨掾の芸を見事に乗り越え統合したものだった。そこに、義太夫の新しい個性の発見があったのだ。この大ヒットで竹本座経営が安定し、座元を引退して竹田出雲に引き継いだ。
 竹本義太夫は1714年(正徳4年)、64歳で世を去った。徳川五代将軍綱吉の時代、幕府側用人として幕政を担当した柳沢吉保が没し、大奥の中老絵島が流刑された年にあたる。竹本義太夫が千日前の地で没して、すでに300年近い歳月が流れている。

(参考資料)長谷川幸延・竹本津大夫「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」