山岡鉄舟 江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者

山岡鉄舟 江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者
 明治維新の際、江戸城を平和のうちに明け渡し、江戸100万の市民を戦火から救った功労者の一人に、剣客山岡鉄舟がいた。江戸城明け渡しのための、西郷隆盛と勝海舟との江戸高輪の薩摩屋敷での会見には、実はこの山岡鉄舟も同席していた。
 会談が終わって、夕暮れ近くなってから、海舟が西郷を薩摩屋敷近くの愛宕山に誘った。愛宕山の上から江戸の市中を見て「明後日は、この江戸も焼け野原になるかもしれない」というと、西郷はそれには答えず、「徳川家はさすがに300年の大将軍だけあって、えらい宝物をお持ちですなあ」という。海舟が「徳川家の宝物とは何ですか」と聞く。すると、西郷はこの会談で西郷の身辺警護のためにずっと一緒にいた鉄舟をさして「あの人ですよ。あの人はなかなか腑の抜けた人だ。ああいう人は命もいらない。名もいらない。カネもいらない。実に始末に困る人だ。ああいう始末に困る人でなければ、天下の大事は共に語れない」と、こういう批評をした。
 鉄舟は江戸進軍の途中の西郷にすでに会っていた。上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜は、官軍の江戸入りを前に、静寛院宮ほか公卿を通じて恭順の意を伝える、いろいろな運動をしていた。それらがあまり成功しない中で、慶喜は側近の高橋泥舟に官軍の首脳部に直接交渉してくれるよう頼んだ。泥舟は辞退し、彼が最も信頼のおける人物として、義弟の鉄舟を推薦した。この時まで無名の剣客に過ぎなかった鉄舟は、慶喜の恭順を確かめたうえで、この大役を引き受けた。鉄舟は軍事総裁だった勝海舟に初対面した後、友人の薩摩藩士益満休之助を伴って、押し寄せる官軍の群れをくぐり抜け、駿府(現在の静岡)に陣取っていた西郷隆盛のもとまで出かけた。
 鉄舟の使命は「江戸城は平和裏に明け渡す。慶喜があくまで恭順の意を示していることを伝え、この慶喜を入城後の官軍がどう処するかを確認すること」などだった。勝と西郷との談判の前に、実は駿府での西郷、山岡の下交渉があって、これこそが劇的だったのではないかとの見方がある。勝海舟からの親書と、同伴の薩摩藩士益満休之助に助けられたとはいえ、無官の剣客鉄舟の、官軍総参謀西郷との談判は至難の交渉だったろう。西郷に対し権謀術数ではなく、死を覚悟して、ただ自分の誠心誠意をもってむき出しにいく。こうした鉄舟の姿勢、人間性が西郷の琴線に触れ、江戸無血開城となって結実したといえよう。
 徳川家の三河以来の旗本で、小野家というのがある。本家は210石余の身代だ。分家が四軒あるが、その一つに600石の身代の家がある。その何代目かに朝右衛門高福がいた。妻妾に7人の子女を生ませたが、妻と死別したので、常陸の鹿島神宮の神職塚原石見の二女磯と再婚して6人の男の子を生ませた。その後妻の生んだ一番上の子が、後に山岡鉄舟となる鉄太郎だ。
 鉄太郎は、天保7年6月10日江戸で生まれた。彼は武術に対して天性の素質と興味があった。小野家も代々武術に興味のある家柄だったが、母の生家塚原家は卜伝を出した家で、武術家の血筋だ。両家の遺伝だろう。9歳の時に、久須美閑適斎について、新影流の剣術と樫原流の槍術とを学んだ。11歳の時、父が飛騨高山の代官となって赴任したので、鉄太郎も連れていかれたが、ここで井上清虎について北辰一刀流を学んだ。井上は千葉周作の高弟だ。
 明治5年(1872)、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍従となった。平安朝以来、女官たちに囲まれていた天皇の生活に、武骨な男子の気風を注ぎ、宮中の空気を一変させようという西郷の宮中改革に協力したものだった。天皇の側近になってからも、鉄舟は一般の人と積極的に交わった。『怪談牡丹灯籠』をはじめ、多くの名作を生み、明治落語界の巨匠といわれた三遊亭円朝も、鉄舟の弟子の一人だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、海音寺潮五郎「江戸開城」、「日本史探訪22 /山岡鉄舟」(坂東三津五郎・大森曹玄)、五味康祐「山岡鉄舟」、藤沢周平「回天の門」

坂上田村麻呂 至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号

坂上田村麻呂 至難の蝦夷平定を達成した征夷大将軍第一号
 奈良の平城京から京都の長岡京へ、そして平安京へと遷都が繰り返され、日本が新たな律令国家へと向かった歴史の転換期にあって、わが国最初の征夷大将軍、坂上田村麻呂の功績は絶大だった。
 第五十代桓武天皇は国家財政が破綻寸前にあった中で、奥州(陸奥・出羽)=東北の蝦夷の平定と、平城京から長岡京への遷都という難しい国家プロジェクトを並行して行うと宣言した。この計画は一見、一石三鳥に見えなくはなかった。成功すれば北方からの慢性的な脅威は去り、開拓された蝦夷地からは、莫大な税が徴収できる。その税を用いれば遷都は容易となり、天災の補填にも充てられる。
反面、この計画はリスクが大きかった。もし、蝦夷平定が順調に行かなかったらどうなるか。例えば奥州での戦線が膠着したら、兵站はそれだけで国家財政を瓦解させてしまうに違いなかった。そうなれば遷都どころか、国家は立ち往生を余儀なくされ、朝廷の存立自体が問われて、分裂・混乱の事態が出来しかねなかった。心ある朝廷人はこぞって桓武帝の壮挙を危ぶんだが、日本史上屈指の英邁なこの天皇は、自らの計画を変更することはなかった。
そして、この危惧は不幸にして的中してしまう。延暦3年(784)2月、万葉の歌人として著名であり、武門の名家でもあった陸奥按察使兼鎮守将軍の大伴家持が持節征東将軍に任じられ、7500の兵力とともに出陣したが、途中で急逝してしまう。また、長岡京の造営も桓武帝の寵臣で造営の責任者でもあった藤原種継が暗殺され、暗礁に乗り上げてしまう。延暦7年、今度こそはと勇み立った桓武帝は「大将軍」に参議左大弁正四位下兼東宮大夫中衛中将の紀古佐美(56歳)を任じ、5万2000人余の朝廷軍を編成して蝦夷へ派遣した。
しかし、地の利を生かした徹底したゲリラ戦に遭い、古佐美の率いた軍勢は壊滅的な大敗を喫してしまう。まさかの敗戦に、大和朝廷は存亡の危機を迎えた。兵力は底をつき、軍費も枯渇している。長岡京に続いて桓武帝が決断した平安京への遷都の事業も、もはや風前の灯となっていた。
この最悪の状態の中で桓武帝が切り札として北伐の大任に抜擢したのが坂上田村麻呂だ。延暦9年、田村麻呂32歳の時のことだ。ただ、その将才はほとんど未知数だった。正確に記せば初代の征夷大将軍は61歳の大伴弟麻呂が任命されている。弟麻呂は大伴家持が持節征東将軍となったおり、征東副将軍として兵站の実務を執った人物だ。田村麻呂は「征東副使」=「副将軍」への抜擢だった。だが、老齢の弟麻呂は軍勢を直接指揮することをせず、代わって実際の現地指揮は田村麻呂に一任された。
彼は可能な限りの兵力を動員し、征討軍を10万で組織したが、それをもって蝦夷と一気に雌雄を決することはしなかった。武具・武器をひとまず置き、将士には鋤や鍬を持たせた。そして、荒地を開墾しながら、防衛陣地を構築しては、徐々に最前線を北上させていったのだ。相手が攻撃してくれば、容赦なくこれを撃退したが、彼は蝦夷に対し“徳”と“威”をもって帰順を説き、農耕の技術まで教えるという懐柔策を取った。延暦16年11月5日、田村麻呂は「征夷大将軍」となり、4年後の44歳の時、遂に至難の蝦夷平定を達成した。
延暦24年6月、参議に任ぜられ、第五十一代平城天皇、第五十二代嵯峨天皇の御世まで生き続ける。弘仁2年(811)、54歳で病没すると、その亡骸は勅令により、立ちながら甲冑兵仗を帯びた姿のまま葬られたという。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち」、「日本の歴史4/平安京」北山茂夫

 

 

 

 
                             

佐久間象山 幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家

佐久間象山 幕末、一貫して開国論を唱え続けた天才・自信家
 佐久間象山は元治元年(1864)7月11日夕刻、京都三条木屋町で刺客、肥後藩士・河上彦斎に暗殺された。享年54歳だった。象山は当時でも稀な大自信家だった。果たして実像はどうだったのか。
佐久間象山の塾で教えを受けた吉田松陰は、兄の杉梅太郎に送った手紙のなかで、象山を「慷慨気節あり、学問あり、識見あり」と称え、「当今の豪傑、江戸の第一人者」と記し、山鹿素水・安積艮斎らをも凌ぎ「江戸で彼にかなう者はありますまい」とまで書いている。象山には“大法螺(おおぼら)吹き”とか“山師”といった批判もあった反面、非常に見識のあった人物だ。ペリーの来航を機に攘夷の虚しさを認識し、これ以後、開国策を終始一貫して全く変えないで、あの時代に主張したのは彼だけだ。象山とともに開国論を唱えていた横井小楠は攘夷の側へブレているが、30年間ずっと世界の大勢を説いて、開国論を唱えてきたのは彼以外にいないのだ。
 象山の言葉にこんなのがある。
「余、年二十以後、すなわち匹夫にして一国に繋ることあるを知る。三十以後、すなわち天下に繋ることあるを知る。四十以後、すなわち五世界に繋ることあるを知る」 
 意味するところは、20代は松代藩、つまり藩単位でものを考えていた。30歳を過ぎると、天下=日本の問題としてすべてを考えるようになってきた。40歳以降になると、全世界というものを考えるようになってきた-というわけだ。勉強すればするほど問題意識が広がるし、それにつれて自分の使命感も重くなる。そんな心境を表現しているとみられる。
 勝海舟の妹にあたる妻の順子に、象山自作のカメラのシャッターを押させて撮った写真が残っている。晩年の象山の姿だという。これをみると、象山は西洋人ではないかと思われるような、ちょっと変わった顔をしている。安政元年正月、ペリーが和親条約締結のため二度目に日本に来たとき、象山は横浜で応接所の警護の任にあたっていて、たまたま、ペリーが松代藩の陣屋の前を通り、軍議役として控えていた象山に丁寧に一礼したことがあったという。日本人でペリーから会釈されたのは象山だけだというので、当時、語り草になった。これは象山の風采が堂々としていて、当時の日本人としては異相の人だったことを物語るエピソードだ。
 象山は天才意識が強く、大変な自信家だった。彼は自分の家の血統を誇りに思って、優れた子孫を遺そうと必死になっている。蘭学の勉強を始め、普通は1年かかるオランダ文法を大体2カ月でマスターした。そして8カ月も経った頃には、傍らに辞書をおけばもうすべて分かるようになったと手紙に書いている。ショメールの百科全書を読みながらガラスを作ったりもしているのだ。また、大真面目にあちこちへお妾さんを世話してくれという手紙を書いている。これも自分のような立派な男子の種を残すということは、国家に対して忠義だというような調子で語っている。少し度を超えた自信家である。現代の日本人にぜひ欲しいくらいの自信だ。
 象山は文化8年(1811)、信州松代藩の下級武士の家に生まれた。彼は誰に教わることもなく、3歳にして漢字を覚えた。早くから彼の才能に目をつけた城主、真田幸貫の引き立てで学問などに修養。天保12年(1841)幸貫が幕府の老中に就任するや、翌年、彼を海防係の顧問に抜擢した。象山32歳のことだ。それまで漢学に名をなしていた象山が、洋学に踏み入ったのもこの幸貫の信頼に報いるためだった。優れた漢学者としての“顔”に加え、後半生、洋学に心血を注いだ象山は、それがもたらした科学を西洋の芸術と称え、これと儒教の道徳との融合を自分の人生と学問の究極と考えていた。
 幕末、京都における象山の立場はかなり自由なものだった。彼は幕府の扶持を貰いながら、山階宮や一橋慶喜からの招請に応じ西洋事情を説くなど、その諮問に応じ、また朝廷に対する啓蒙活動を続けていた。ただ彼が日本の将来を考えて飛び回り、活躍すればするほど、その死期が刻々と近づきつつあった。
彼のその風采ともあいまって、京の街では目立ち過ぎたのだ。
 象山を暗殺した河上彦斎は、幕末の暗殺常習者の中でも珍しく教養のある方だったが、この後、彼は人が変わったように暗殺稼業をやめた。斬った瞬間、斬ったはずの象山から異様な人間的迫力が殺到してきて、彼ほどの手だれが、身がすくみ、心が萎え、数日の間、言い知れない自己嫌悪に陥ったという。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、日本史探訪/開国か攘夷か「佐久間象山 和魂洋才、開国論の兵学者」(奈良本辰也・綱淵謙錠)、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと4」

高野長英 鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才

高野長英 鳴滝塾でシーボルトの薫陶を受けたオランダ語の天才
 高野長英は文化元年(1804)、水沢藩士後藤実慶の三男として生まれた。9歳のとき父が病死したため母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄である水沢藩医、高野玄斎の養子になった。
 長英は18歳のとき、養父の玄斎の反対を押し切り、江戸へ遊学。故郷を出奔同様に離れた折の後ろめたさは、彼の胸に深い傷として残されたが、江戸に着いてからの記憶も苦々しいもので、生活費にも事欠く有様だった。
翌年、内科専門の蘭方医として知られる吉田長淑の塾に学僕として入門し、ようやく学問に専念できるようになった。彼の学才は次第に発揮され、長淑は彼の将来性を認め、それまで高野郷斎と名乗っていた彼に、自分の長淑の長の一字を与えて、長英と改めさせた。
長英の人生において大飛躍のきっかけとなったのが、21歳のときのシーボルトが主宰する長崎・鳴滝塾への入塾だ。文政8年(1825)、長英は長崎の医師、今村甫庵に誘われ、長崎に赴く。長崎には2年前に来日したシーボルトが郊外の鳴滝に塾を開き、すでに湊長安、岡泰安、高良斎、岡研介、二宮敬作ら全国の俊秀が、塾生として蘭学の修業に専念していた。
当初、学力の乏しさに暗い気持ちになった長英だったが、生まれつき語学の才に恵まれていた彼は、塾の空気に慣れるにつれて頭角を現した。シーボルトは、長英の才質を高く評価し、様々なテーマを彼に与えた。長英もこれに応え、5歳年長の初代塾長の岡研介とともに鳴滝塾の最も優れた塾生と称されるまでになった。
長英は、三河国田原藩年寄末席の渡辺崋山に初めて会った天保3年、わが国最初の生理学書「西説医原枢要」を著し、優れた語学力を駆使して洋書を読みあさり、医学、化学、天文学への知識を深めていた。さらに崋山との接触によって、社会に対する関心も抱くようになった。
しかし、暗雲もかかり始めた。崋山が「慎機論」、そして長英が「夢物語」を書き、幕府の対外政策に対する危惧を訴えたことなどがきっかけとなり、「蛮学社中」が幕府の目付鳥居耀蔵に目をつけられることになった。鳥居は大学頭林述斎の子で儒学を信奉し、極端に洋学を嫌っていて、崋山とその周囲に集まる洋学者に激しい反感を抱いていた。それは生半可なものではなく、その矛先は崋山と親しく交わり西洋の知識を身につけた川路聖謨(としあきら)、江川英龍らの幕臣にも向けられたほど。これが近世洋学史上、最大の弾圧である“蛮社の獄”に発展する。
天保10年(1839)5月、崋山が投獄され、その4日後、長英は北町奉行所に自ら赴いた。長英は追放刑程度で済むと思っていたのだが、投獄7カ月余の後、申し渡された刑は、死ぬまで牢内生活を強いられる永牢だった。それから6年後、小伝馬町の牢に不審火があって、囚人が一時、解放される。長英もその一人として一散に走り出た。そして彼は3日の期日が過ぎても牢へ帰らなかった。
こうして友人、門弟たちとも消息を絶ち、彼の孤独な逃亡生活は始まった。北は陸奥国水沢から南は鹿児島へ逃れたとされる。「沢三泊」と名を変え、悲惨な逃亡生活だったが、西南雄藩に身を寄せた時期もあった。中でも伊予宇和島藩主・伊達宗城や薩摩藩主・島津斉彬庇護のもとに洋書を翻訳したりした時期もあった。
というのは当時、西洋の軍事、砲術を取り入れようとすると、オランダ語が必要になる。当時、日本で一番語学ができるのは、万人が認めるところ高野長英だ。師、シーボルトは単に医学だけでなく百科学、いわゆる科学全般を教えるという立場で鳴滝塾を開いていたのだ。
その当時の軍事では、一番必要なのが「三兵」に関する訓練だった。三兵とは歩、騎、砲で、三兵をいかに把握して、これを総合的に動かすかということが用兵のポイントだ。それを最もうまく駆使したのがナポレオンだ。そのナポレオン戦法を書いたのが『三兵答古知幾(さんぺいタクチーキ)』。だから、この本をぜひ翻訳したい。ところが、この日本語訳をやれるのは、長英以外にはいないといわれていたわけだ。
長英は宇和島でこれを翻訳し、砲台建設の指導をする。逃亡中の身で彼はこれらのことをやったのだ。薩摩藩主・島津斉彬は後にこの翻訳書をもとに大訓練をやっている。
 長英にようやく少しは穏やかな生活が訪れるかにみえた矢先、不幸に襲われる。逃亡・潜行生活5年、嘉永3年(1850)10月11日、江戸・青山百人町で夫婦に子供3人の「沢三泊」という町医者が高野長英であることを突きとめた捕方に取り囲まれ、彼は小刀をのどに当て、頚動脈を断ち切り自決した。47歳だった。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、同「歴史に学  ぶ」、山手樹一郎「群盲」、杉本苑子「みぞれ」

 

 

橋本左内 幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー

橋本左内 幕政改革の半ばで散った早熟の天才リーダー
 橋本左内(景岳)は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本
彦也長網の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7
日、「安政の大獄」により江戸伝馬町の獄舎で斬首された。その生涯は、
わずか26年である。そして、藩主・松平慶永(春嶽)の命を帯びて、水戸
薩摩など雄藩と朝廷の間を駆け巡った期間はほんの1~2年位にすぎない
にもかかわらず、彼は偉大な足跡を遺したと言わざるを得ない。
 左内は早熟の天才だった。幼少時の彼は父の志士的気概の影響を多分に
受けて育ち、7歳の時から漢籍・詩文・書道などを学び始めるとともに、
12歳で藩立医学所済世館に入学した。これは医家の子弟としては予定され
たコースだが、その傍ら武芸の稽古にも熱心だったというところに、父の
影響がはっきり表れている。
 15歳の時、左内は藩儒吉田東篁に師事して経書を学んだ。彼はよほど傑
出した学問的能力に恵まれていたようで、ここでも高い評価を得ている。
 嘉永元年(1848)、数えで15歳の左内は感興の赴くままに『啓発録』と
題する手記を著した。この中で彼は、武士であった7、8代前の祖先と
同じく士籍に列し、堂々と政治の世界で腕を振るってみたいが、医家の
長男に生まれたことで、自分の志を成し遂げることができないことを嘆い
ている。
左内が大坂・適々塾に入門したのは、嘉永2年(1849)、主宰者の緒方
洪庵が種痘事業に本腰を入れ始めた前後のことだった。その当時、同塾
の塾頭は大村益次郎だったが、残念なことに左内と益次郎の交遊に関し
ても詳しくは分からない。察するに、同塾での左内はひたすら勉学に打
ち込んだようだ。福沢諭吉の『福翁自伝』などに記された、自由闊達で
いささか放恣な塾風に対しても左内は同化せず、終始批判的な態度を取
り続けた。
彼は同塾所蔵の原典をことごとく読破し、原典の筆写の誤謬を訂正できるほどの学力を備えるまでになった。その精進ぶりは、洪庵からも高く評価され「いずれわが塾名を上げるものは左内であろう、左内は池中のこう竜である」との褒詞を授けられたという。「池中のこう竜」とは、やがて時を得れば天下に雄飛するに違いない英雄・豪傑のことをさす。
 適々塾での修学は、左内に福井藩第一号の給費生という栄誉をもたらしたが、何とか医家から武士身分に取り立てられたいという彼の切なる期待も虚しく、2年と3カ月ほど後にピリオドが打たれる。嘉永5年(1852)閏2月、父の病臥の報を得たからだ。父が左内の治療の甲斐なく没したことで、藩命により橋本家を相続。父と同じく藩医に任じられて職務に精励する。とはいえ、藩医の地位に安住する日々の過ごし方は、彼にとっては不本意だった。
 安政元年(1854)、彼は藩当局に江戸遊学を願い出る。江戸の土を初めて踏み、坪井信良、次いで杉田成卿・戸塚静海に師事して蘭学を究めようとした。彼はこの江戸でまた学問上の頭角を現し、幾人かの人々から賞賛を浴びる。その結果、安政2年(1855)、「医員を免じて士分に列す」という藩命が下り、遂に晴れて藩士の身分を獲得したわけだ。
 安政4年(1857)正月、左内は藩校明道館の学監心得となって、藩校の教育体制改革の中心的地位に昇りつめる。左内23歳のことだ。さらに、藩主春嶽はこの青年を国事周旋の場における己の片腕とすることに決める。同年8月、左内は春嶽の侍読兼御用掛に任命され、以後、一橋慶喜を推す将軍継嗣に関する春嶽のブレーンとして、一橋派の雄藩(薩摩・土佐・宇和島・水戸)への周旋や大奥、そして京都・朝廷に対する工作のため、精力的に入説してまわった。
その結果、いったんは幕閣内でも一橋慶喜こそ次期将軍に相応しいといわれた。だが、井伊直弼の大老就任で事態は急転、紀州藩の慶福を推す南紀派が勝利。一橋派に厳しい処分を下されることになる。井伊直弼による「安政の大獄」の幕が切って落とされるのだ。
 左内は1年余りの取り調べの結果、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎刑場で斬罪に処された。数えの26歳だった。島流しに遭い、南の島でこれを聞いた西郷隆盛は「橋本さんまで殺すとは、幕府は血迷っている。命脈は尽きた」と嘆息したという。同じ獄舎につながれた吉田松陰の刑死に先立つこと、ちょうど20日前の処刑だった。両者は互いにその名を知り、同じ獄舎にあることを知りながら、遂に相まみえる機会を持てなかった。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、橋本左内/伴五十嗣郎全訳注「啓発録」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、津本 陽「開国」

 

 

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身

北条義時 若いときは平凡人、だが中年から凄腕の政治家へ大変身
 人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。
頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。
 北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。
 ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。
結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。
 北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。
 実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。
 ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
 また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
 北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。

(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

福沢桃介 日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家

福沢桃介  日本の電力王で、公私とも破天荒貫いた一流の実業家
 福沢桃介は福沢諭吉の女婿だが、「日本の電力王」と呼ばれたほか、エネルギー、鉄道など国のインフラに関わる事業会社や、後年、一流企業に育つ様々な会社を次々に設立した、一流の実業家だった。のち明治45年から一期だけだが政界にも進出、代議士となり政友倶楽部に属した。ただ、政治家は肌に合わないと痛感したのか、その後は絶対に政治には出なかった。後年は愛人“日本初の女優”川上貞奴と同居し、夫婦同然の生活だった。まさに、事業においても、プライベートな生活においても、一般的な常識ではとても計れない破天荒な人物だった。生没年は1868(明治元年)~1938年(昭和13年)。
 福沢(旧姓岩崎)桃介は武蔵国横見郡荒子村(現在の埼玉県吉見町)の農家に生まれ、川越の提灯屋岩崎家の次男として育った。彼の人生に、最初の大きな転機が訪れるのが大学生のときだ。慶応義塾に在学中、福沢諭吉の養子になり、20歳で入籍。米国留学を終えて22歳で諭吉の次女、房(ふさ)と結婚したのだ。しかし、福沢家には4人の息子がおり、「養子は諭吉相続の養子にあらず、諭吉の次女、房へ配偶して別居すること」と申し渡されていた。大学卒業後、北海道炭礦鉄道(のち北海道炭礦汽船)、王子製紙などに勤務。
桃介はこのころ肺結核にかかり、1894年から療養生活を余儀なくされた。療養の間、株取引で貯えた財産を元手に株式投資にのめり込んだ。当時は日清戦争の最中で、日本勝利による株価の高騰もあり、当時の金額で10万円(現在の20億円前後)もの巨額の利益を上げたという。
破天荒な生き方はまだまだ続く。病癒えた彼は独立して丸三商会という個人事業を興す。この事業も結局は頓挫。その最中に再び喀血、入院する。しかし、ここでまた不運と隣り合わせの幸運を掴んで起き上がる。株だ。今度は日露戦争前後の一大株式ブームに便乗して、たちまち200万円を儲けるのだ。
1906年、瀬戸鉱山を設立、社長に就任。木曽川の水利権を獲得し、1911年、岐阜県加茂郡に八百津発電所を築いた。1924年、恵那郡に日本初の本格的ダム式発電所である大井発電所を、1926年に中津川市に落合発電所などを次々建築。1920年に五大電力資本の一角、大同電力(戦時統合で関西配電⇒関西電力)と東邦電力(現在の中部電力)を設立、社長に就任。この事業によって「日本の電力王」と呼ばれることになる。
1922年には東邦瓦斯(現在の東邦ガス)を設立、他にも愛知電気鉄道(後に名岐鉄道と合併して名古屋鉄道となる)の経営に携わったほか、大同特殊鋼、日清紡績など一流企業を次々に設立。その後、代議士にもなり、政友倶楽部に属した。
こうして福沢桃介はほとんどあくせくせずに、人生とビジネスを同時に楽しみながら、生来の楽天主義と、義父福沢諭吉直伝の独立自尊の精神を通し、気ままに生きた。有名な、名妓、名女優とうたわれた川上貞奴とのロマンスもそうしたものの一つだったのだろう。60歳で実業界を引退してからは、文筆に明け暮れ、悠々自適の余生を楽しんだ。
桃介が興し、育てた様々な事業は彼の後輩で、後年「電力の鬼」と呼ばれるようになった松永安左衛門に引き継がれた。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「まかり通る」、小島直記「日本策士伝」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

中島知久平 日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王

中島知久平  日本初の民間飛行機製作所を設立した飛行機王
 中島知久平はわが国史上最大の軍需工場、中島飛行機製作所の創立者だ。大正・昭和初期にかけて国防思潮の主流となった「大艦巨砲主義」に異を唱え、早くから「航空機主義」を主張。「飛行機報国」の信念から、慣例を破って海軍を中途で退役し、日本初の民間飛行機製作所(後の中島飛行機株式会社、後の富士重工業)を設立。戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、陸軍戦闘機「隼」はじめ飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長させた、日本では稀有な経歴を持つ大正・昭和期の実業家、政治家だ。生没年は1884(明治17)~1949年(昭和24年)。
 中島知久平は群馬県新田郡尾島村字押切(現在の群馬県太田市押切町)で、比較的豊かな農家の長男として生まれた。明治33年、17歳で家出を敢行。独学により海軍機関学校に入学し卒業。卒業後、中島は二つのことで注目を集めた。一つは「常磐」乗務のとき発明を構想した。艦船が編隊で航行するとき、各艦は一定の間隔を保つ必要がある。中島のアイデアは、そのためのエンジンの回転数を自動調整するメカニズムだった。頻繁に回転数を操作しなくていいから、運転者の負担が減り、石炭消費量を節約することができる。
 いま一つは「石見」乗務のころ、兵器としての飛行機の可能性に着目したことだ。海軍飛行機専門家として1910年、フランスの航空界を視察し、1912年
にはアメリカで飛行機組み立てと操縦術を学び、1914年に再度フランスに渡った。訪仏前に「大正三年度予算配分ニ関スル希望」を上司に提出した。中島は「大艦巨砲主義」を批判し、貧国が採用すべき航空機戦略主張した。軍人としては軍政と兵術に優れていた。
中島は、明治40年代初めより憑かれたように、航空機の研究に熱中した。横須賀海軍工廠内飛行機工場長を経て1917年(大正6年)に大尉で退官。同年飛行機研究所を創立。中島35歳のことだ。同研究所は後に中島飛行機株式会社と改称し、日本初の民間飛行機会社となった。軍用機生産で社業を拡張し大企業に成長させ、戦時下に一大軍需会社として発展した。
 太平洋戦争前から敗戦に至るまで、「愛国」「報国」「隼」「零戦(三菱が設計士、製造の半数を受け持った)」「疾風(はやて)」といった数々の軍用機を、次々とつくりだしたのが中島飛行機だ。中島知久平が築き上げたものは、世界に類のない巨大な」「軍需産業王国」で、最盛期の昭和20年には全国に工場100カ所、敷地面積合わせて1500万坪。就業人員26万人という膨大なもの。昭和50年ごろのわが国最大規模の企業であった新日鉄の就業者数が約7万人だから、当時の中島飛行機からみれば、約4分の1といったところだ。まさにわが国、空前絶後のマンモス企業家だったといえよう。
中島は1930年(昭和5年)、第17回衆議院議員総選挙に群馬5区から立憲政友会公認で立候補して初当選した。翌年、中島飛行機製作所の所長の座を弟、喜代一に譲り、営利企業の代表をすべて返上、政治家の道を歩き出した、その後も衆議院議員当選5回。その豊富な資金力をバックに、所属する“政友会の金袋”ともいわれた。商工政務次官を経て、第一次近衛文麿内閣の鉄道相を務めた。1938年以降、鳩山一郎と党総裁の地位を争い、翌年4月分裂後の党総裁(中島派政友会)となった。
その後、内閣参議、大政翼賛会総務などを経て、1945年敗戦直後、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣の軍需相となった。その後、GHQによりA級戦犯に指定され自宅拘禁となったが、1947年(昭和22年)解除、釈放された。

(参考資料)豊田穣「飛行機王 中島知久平」、内橋克人「破天荒企業人列伝」

 

真田幸村 天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣

真田幸村  天才軍師は虚像 配流生活の“総決算”が大坂冬・夏の陣
 真田幸村は江戸時代以降に流布した、小説や講談における真田信繁の通称。真田十勇士を従えて大敵、徳川に挑む天才軍師、真田幸村として取り上げられ、広く一般に知られることになったが、彼自身が「幸村」の名で残した史料は全く残っていない。また、真田家の戦(いくさ)上手の評価も、父昌幸由来のもので、信繁の戦功として記録上、明確に残っているものは1600年、真田氏の居城・上田城で父昌幸とともに徳川秀忠軍と戦ったものと、大坂冬の陣・夏の陣(1614~15年)での活躍しかない。戦いに明け暮れた智将・軍略家のイメージがあるが、これはあくまでも小説や講談の世界のもので、実態は意外に地味なもののようだ。
 真田信繁は真田昌幸の次男で、武田信玄の家臣だった真田幸隆の孫。信繁の生没年は1567(永禄10)~1615年(慶長20年)、ただ一説には生年1570年(永禄13年)、没年1641年(寛永18年)ともいわれる。
 関ケ原の戦いに際しては、信繁は父昌幸とともに西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘で徳川軍の東軍についた兄信之と袂を分かち戦った。昌幸と信繁は居城・上田城に籠もり、東軍・徳川秀忠軍を迎え撃った。寡兵の真田勢が相手だったにもかかわらず、手こずった秀忠軍は上田城攻略を諦めて去ったが、結果として秀忠軍は関ケ原の合戦には間に合わなかった。
 しかし、石田三成率いる西軍は東軍に敗北。昌幸と信繁は本来なら切腹を命じられるところだったが、信之の取り成しで紀伊国高野山麓の九度山に配流された。信繁は34~48歳までの14年間、この配所の九度山で浪人生活を送った。父昌幸は1611年(慶長16年)、失意のうちにこの配所で死去している。
 信繁が再び歴史の表舞台に登場するのは大坂冬の陣・夏の陣だ。1614年(慶長19年)に始まる冬の陣では信繁は当初、毛利勝永らと籠城に反対し、京を押さえ宇治・瀬田で積極的に迎え撃つよう主張した。しかし籠城の策に決すると、信繁は大坂城の弱点だった三の丸の南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し、先方隊に大打撃を与えた。これにより越前松平勢、加賀前田勢などを撃退し、初めて“真田信繁”として、その武名を知らしめることになった。
 冬の陣の前に大坂城に集まった浪人は10万人を超えた。主家を滅ぼされたり、幕府の酷政によって取り潰された者たちが、豊臣家の勝利に出世の望みを託して集まったのだ。だが、冬の陣の和議によって大坂城の堀を埋め立てられ、本丸だけのいわば裸城となって勝利の望みがなくなった今も、7万人もの浪人が城に残っていた。生き長らえても、徳川の世に容れられる望みのない者たちばかりだ。夏の陣に家康は16万の軍勢を大和路と河内路の二手に分け布陣した。
 対する大坂方は悲惨だった。兵力は敵の半数以下で、しかも総大将たるべき者がいなかった。秀頼には合戦の経験がなく、大野治長は闇討ちに遭って重傷を負い、総大将と目されていた織田有楽斎に至っては早々と城を逃げ出していた。真田信繁、毛利勝永、後藤又兵衛、木村重成、長曽我部盛親ら、大阪方の武将は、誰が全体の指揮を執ると決めることができず、互いに横の連絡を取り合って、戦わざるを得なかった。
 夏の陣では、信繁は道明寺の戦いで伊達政宗の先鋒を銃撃戦の末に一時的に後退させた。その後、豊臣軍は劣勢となり、戦局は大幅に悪化。後藤又兵衛や木村重成などの主だった武将が討ち死にし疲弊。そこで信繁は士気を高める策として豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀殿に阻まれ失敗した。
豊臣軍の敗色が濃厚となる中、信繁は毛利勝永と決死の突撃作戦を敢行する。その結果、徳川家康本営に肉薄。毛利勢は徳川方の将を次々と討ち取り、本多勢を蹴散らし、何度も本営に突進した。真田勢は越前松平勢を突破し、毛利勢に手一杯だった徳川勢の隙を突き徳川家康の本陣まで攻め込んだ挙句、屈強で鳴らす家康の旗本勢を蹴散らした。しかし、手薄な戦力ではここまでが限界だった。信繁の手勢は徐々に後退、最終的には数で勝る徳川軍に追い詰められ、信繁は遂に四天王寺近くの安居神社(現在の大阪市天王寺区)の境内で斬殺された。
男盛りの14年間を九度山で、不自由で困窮を極めた配流生活を送った信繁の人生の“総決算”が、この大坂冬の陣・夏の陣だったのだ。そう考えると、信繁の不器用な生き方が少し哀れな気もする。虚構の真田幸村とは大きく異なり、真田信繁は実利や権勢は全く求めず、武将としての潔さが目を引く人物だったのだろう。
 信繁討死の翌日、秀頼、淀殿母子は大坂城内で自害、ここに大坂夏の陣は徳川方の勝利に終わった。そして、磐石な徳川の時代が始まった。

(参考資料)司馬遼太郎「軍師二人」、司馬遼太郎「関ケ原」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、池波正太郎「戦国と幕末」、海音寺潮五郎「武将列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

松平容保 不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに

松平容保  不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに
 松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。
容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。
また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。
 松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は銈之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。
 1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。
その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
 容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。
 容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」、童門冬二「流浪する敗軍の将 桑名藩主松平定敬」

松浦武四郎 全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

松浦武四郎  全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親
 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。
 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。
 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。
 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。
この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。
 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。
1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」、更級源蔵・船山 馨・吉田武三「日本史探訪/海を渡った日本人 松浦武四郎」

 

山本常朝 江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

山本常朝  江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者
 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。
『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。
 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。
 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。
 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。
 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。
 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。
 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

 

高橋泥舟 鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近

高橋泥舟  鳥羽伏見での敗戦後、恭順を説き、支え続けた慶喜の側近
 高橋泥舟は槍術の名手で、第十五代将軍慶喜の側近を務めた。鳥羽伏見の戦いで敗戦後、江戸へ戻った慶喜に恭順を説き、慶喜が水戸へ下るまでずっと、側にあって護衛し支え続けた。勝海舟、山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれる。生没年は1835(天保6)~1903年(明治36年)。
 高橋泥舟は旗本山岡正業の次男として江戸で生まれた。幼名は謙三郎。後に精一郎、通称は精一。諱は政晃。号を忍歳といい、泥舟は後年の号。母方を継いで高橋包承の養子となった。生家の山岡家は自得院流(忍心流)の名家で、精妙を謳われた長兄山岡静山について槍を修行。海内無双、神業に達したとの評を得るまでになった。生家の男子がみな他家へ出た後で、静山が27歳で早世。山岡家に残る妹、英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
 1856年(安政3年)、泥舟は幕府講武所槍術教授方出役となった。21歳のときのことだ。25歳の1860年(万延元年)には槍術師範役、そして1863年(文久3年)一橋慶喜に随行して上京、従五位下伊勢守を叙任。28歳のことだ。1865年(慶応2年)、新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。1868年(慶応4年)、幕府が鳥羽伏見の戦いで敗戦後、逃げるように艦船で江戸へ戻った慶喜に、泥舟は恭順を説いた。
以後、江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を護衛。勝海舟・西郷隆盛の粘り強い会談の結果、江戸の町を舞台とした官軍と幕府軍との激突が回避され江戸城の無血開城、そして慶喜の処遇が決まり、水戸へ下ることになった慶喜を護衛、支え続けた。
 勝海舟が当初、徳川家処分の交渉のため官軍の西郷隆盛への使者としてまず選んだのは、その誠実剛毅な人格を見込んで高橋泥舟だった。しかし、泥舟は慶喜から親身に頼られる存在で、江戸の不安な情勢のもと、主君の側を離れることができなかった。そこで、泥舟は代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦。鉄舟が見事にこの大役を果たしたのだ。そして泥舟の役割はまだ終わっていなかった。後に徳川家が江戸から静岡へ移住するのに伴い、地方奉行などを務めた。
 明治時代になり、主君の前将軍が世に出られぬ身で過ごしている以上、自身は官職により栄達を求めることはできないという姿勢を泥舟は貫き通した。幕臣の中でも、明治時代になって新政府から要請があって、この人物が戊辰戦争で本当に敵・味方に分かれて戦ったのかと思うくらい、新政府の中で要職に登り詰めた人も少なくないが、泥舟は幕府への恩義は恩義として、金銭欲も名誉欲も持たず、終生変わらぬ姿勢を保持した人物の一人だった。
 山岡鉄舟が先に亡くなったとき、山岡家に借金が残り、その返済を義兄の泥舟が工面することになった。しかし、泥舟自身にも大金があるはずがなく、金貸しに借用を頼むとき「この顔が担保でござる」と堂々といい、相手も「高橋様なら決して人を欺くことはないでしょう」と顔一つの担保を信用して引き受けた-といった、泥舟の人柄を示す逸話が多く残っている。
 廃藩置県後、泥舟は引退して書家として生涯を送った。

(参考資料)海音寺潮五郎「江戸開城」

秋山真之・・・日露戦争でロシア艦隊を全滅させた天才・参謀

 明治37~38年(1904~1905)の日露戦争、日本の連合艦隊司令官は東郷平八郎、この海戦に完勝したことによって、アドミラル・トーゴーの名は世界中に喧伝され、イギリスの名将ネルソンと並んで東郷は海戦の歴史を語るうえで欠かすことのできない英雄になった。東郷は確かに傑出した提督だった。ただ、彼を司令長官に任命したのは海相山本権兵衛で、実際の作戦を立案指導したのは、一参謀だった秋山真之だった。

極言すれば司令長官が別人でも、その人が秋山に作戦を委ねていれば、ほぼ同じ結果を得たのではないだろうか。何故ならこの日本海海戦でロシア艦隊を全滅させ、日本海軍の損害は小さな水雷艇三隻のみという、奇跡的な圧勝をもたらしたのだから。昭和20年までの軍部の歴史の中で、これほどの先見性と洞察力を持った軍人は、秋山一人だった。

 秋山家は子だくさんで、男5人女1人に恵まれた。二男と四男は他家へ養子に行き、三男の好古は陸軍に入り、日露戦争のときは騎兵部隊の指揮官として大いに活躍した。海軍に入った真之は明治元年(1868)3月20日、松山藩士秋山久敬の五男として生まれ、大正7年(1918)2月に病死した。享年50歳。武士は明治維新後の廃藩置県で、いわば失業したようなものであり、秋山家も生活は苦しかった。

 陸軍士官学校に入って軍人となった好古が卒業後に任官し、15歳の真之を呼び寄せ、大学予備門に入れた。この学校は後の第一高等学校だ。つまり東京帝国大学へ入ろうとするものは、予備門に入ることが多かった。真之は松山以来の友達の正岡子規と一緒に下宿して予備門に通ったが、19歳のときに海軍兵学校を受験して、55人の合格者のうち15番目の成績で入校した。大学へ行くには学資が必要で、それを好古に負担させまいとしたのだ。軍隊の学校なら、衣食住の全部が支給されるし、少額でも給与がつく。真之は明治22年に海軍兵学校をトップで卒業した。入校したときは15番だったが、それ以外は毎学年、彼は常にトップだった。

 明治36年6月、秋山真之はアメリカ留学の辞令をもらい渡米する。学校での授業は退屈で、得るものは少ない。そこで彼は戦術の大家として知られたマハン提督を訪ね個人的にレッスンを受ける。この中で海戦だけでなく、陸戦も含め古今の実戦を詳しく調べ徹底的に研究することを教えられた。また海図に将棋の駒のような軍艦の模型を配置して行う兵棋演習で、実戦の疑似体験を積む方法があることを知った。さらに、アメリカとスペインがキューバの独立をめぐって戦争を始め、幸運にも秋山は観戦武官として従軍した。この戦争のあとイギリス出張を経て帰国し、海軍大学の教官になった。

 明治37年2月10日、ロシアに対し宣戦布告。秋山は東郷司令長官の下で作戦主任参謀だった。彼の上に参謀長がいるが、作戦の立案は彼に任されていた。旅順のロシア艦隊は戦力的には日本とほぼ対等だったが、本国のバルチック海に旅順艦隊と同程度の艦隊を持っていた。当面は旅順艦隊対連合艦隊の戦闘になるが、もしバルチック艦隊が極東へ回航してくれば、ロシアの戦力は日本の2倍ということになる。したがって、日本としては同等戦力のうちに旅順の敵艦隊を全滅させ、やがて到着するはずのバルチック艦隊に備えておく必要があった。それも、旅順艦隊とは損害ゼロで完勝することが求められた。

 味方が砲撃される機会を減らし、相手を砲撃する時間を増やす。このテーマに答えて考え出されたのが、山屋他人中佐の半円戦法だった。一列に進んでくる敵に対し、こちらは右へ半円形を描いて展開する。秋山はこの半円戦法を改良して「丁字」戦法を考え出した。丁の字、あるいはカタカナの「イ」の字でもよい。一列に進んでくる敵に対して、その進行方向を遮るように進むのだ。丁字戦法は敵の行く手を遮るから、双方が遠ざかるということはない。その代償として、味方の先頭艦が一列になった敵艦から集中砲火を浴びる危険があった。ただ、それを通り越してしまえば、横一列に展開した味方の各艦から、敵の旗艦に砲火を集中できる。ある意味で皮を切らせて肉を切り、肉を切らせて骨を切る戦法だった。

(参考資料)吉村昭「海の史劇」、生出寿「知将 秋山真之」、三好徹「明治に名参謀ありて」、加来耕三「日本補佐役列伝」                    

小林一茶・・・ “不幸の塊”52歳で初めて妻帯した忍従の俳人

 俳人・小林一茶は“不幸の塊”のような人物だった。3歳で実母に死に別れ、8歳のときやってきた継母にいじめ抜かれ、この母に子供が生まれてからは、ますます折り合いが悪くなった。そのため、15歳のとき江戸に奉公に出された。江戸では「わたり奉公」して食いつなぐ生活の連続で、暮らしが楽であるはずがない。父が病気になったので見舞いに帰郷するが、継母や義弟とはうまくゆかず、父の死後は遺産のことでゴタゴタし、この問題は長く尾を引いた。やっと遺産問題が決着し、一茶が故郷へ戻るのは50歳のときだ。妻を初めて迎えたのはその2年後、52歳のときのことだ。

生涯、一つの考え方にこだわって妻帯することなく過ごした英傑は少なくない。だが一茶の場合、そうではない。世間一般の親子揃っての、慎ましやかな暮らしさえできず、故郷でようやく落ち着いた暮らしができると思い、初めて妻を迎えたとき、世間的に表現すれば人生の大半を終わっていたということなのだ。

 小林一茶は信濃北部の北国街道柏原宿(現在の長野県上水内郡信濃町大字柏原)の貧農の長男として生まれた。本名は小林弥太郎。生没年は1763(宝暦13)~1828年(文政10年)。3歳のとき生母を失い、8歳で継母を迎えた。この継母に馴染めず、15歳のとき江戸へ奉公に出された。江戸では「わたり奉公」で食いつなぐ、苦難の生活を続けた。25歳のとき、二六庵小林竹阿に師事して、俳諧を学んだといわれる。ただ、この点については確かな史料は全くない。
 29歳のとき、故郷に帰り、翌年から36歳まで俳諧の修行のため、近畿・四国・九州を歴遊する。39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが、1カ月ほど後に父は死去。以後、遺産相続の件で、継母と12年間争った。この間、一茶は再び江戸に戻り、俳諧の宗匠を務めつつ、遺産相続権を主張し続けた。

 50歳で再度、故郷に帰り、その2年後28歳の妻「きく」を娶り3男1女をもうけるが、悲しいことにいずれも幼くして亡くなっている。その妻「きく」も痛風がもとで、37歳の生涯を閉じている。2番目の妻、田中雪を迎えるが、老齢の夫に嫌気がさしたのか、半年で離婚。3番目の妻「やを」との間に1女「やた」をもうけた。ただ、「やた」は一茶の死後に生まれたもので、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世に伝えた。

 1827年(文政10年)、柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を失い、焼け残った土蔵で生活するようになり、同年その土蔵の中で、“不幸の塊”のような、65年の生涯を閉じた。
 一茶の俳諧俳文集『おらが春』は1819年(文化2年)、一茶が57歳のときの一年間、故郷での折々のできごとに寄せて詠んだ俳句・俳文を、没後25年になる1852年(嘉永5年)に白井一之(いっし)が、自家本として刊行したものだ。『おらが春』は時系列に沿って書き記された日記ではなく、刊行を意図して構成されたものだ。さらに一茶自身、改訂や推敲を重ねたが、未刊のままに留まっていたものだ。表題の『おらが春』は白井一之が本文の第一話の中に出てくる「目出度さもちう位也おらが春」(めでたさも ちゅうくらいなり おらがはる)から採って名付けたものだ。一茶の代表的な句として、よく知られている

・我と来て遊べや親のない雀(われときて あそべやおやのないすずめ)
・名月を取ってくれろとなく子哉(めいげつを とってくれろとなくこかな)
などはこの作品の中に収められている。

(参考資料)藤沢周平「一茶」

大隈重信・・・政治的力量・人間的魅力を備えた実力派の政治家

 大隈重信は政治家と教育者の2つの顔を持っている。政治家としては大久保利通没後、参議筆頭となって殖産興業政策を推進、いわゆる大隈財政を展開し、第八代および第十七代内閣総理大臣を務めた。また彼は周知の通り、早稲田大学(当時の東京専門学校)の創設をはじめ終生、教育事業に力を尽くした。国書刊行会、大日本文明協会の設立、『新日本』『大観』などの雑誌の主宰、『開国五十年史』『開国大勢史』の著述など広く明治文明の推進者としての功績を持っている。大隈の生没年は1838(天保9)~1922年(大正11年)。

 大隈重信は肥前国・佐賀城下会所小路(現在の佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子(みいこ)夫妻の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は知行400石の砲術長を務める上士の家柄だった。大隈は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色の『葉隠』に基づく儒教教育を受けた。だが、これに反発し、1854年(安政元年)同志とともに藩校の改革を訴えた。1856年(安政3年)佐賀藩蘭学寮に転じた。のち1861年(文久元年)鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

 1865年(慶応元年)、佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)で、副島種臣とともに教頭格となって指導にあたった。また、フルベッキに英語を学んだ。このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きな影響を受けた。そして、京都や長崎に往来して尊王派として活動した。

薩長土肥、明治維新に功績があった4つの藩だ。このうち、薩摩と長州は武力討幕を打ち出し、そのための政治活動をした。だが、土佐と肥前は違う。土佐は、戊辰戦争が始まる直前まで徳川氏擁護で動いていたし、肥前藩は政治的な動きは全くしていなかった。その土佐と肥前が、薩長と並び称されるようになったのは、戊辰戦争になってからの役割が大きかったからだ。

明治政府が本格的な仕事を開始すると、土佐藩の比重はまたあやしくなってくるが、肥前は出身者個々人の政治的力量によって、新政権の中で次第に重きを成していった。ここに取り上げる大隈重信はじめ、江藤新平、副島種臣らはみな抜群の政治的力量の持ち主だ。とりわけ大隈重信は財政や外交手腕と政治的包容力とで、薩長出身者をも配下に抱え込むほどの一大勢力を形成した。

大隈がその存在感を発揮したのがキリスト教処分問題だった。彼はこの問題で、英公使パークスと堂々とわたり合い談判したのだ。パークスは41歳。フランス公使ロッシュは徳川方にかけ、パークスは倒幕派にかけた天下のバクチで勝ったうえに、列国に先んじて明治政府を承認した功労者だ。半面、このことを恩に着せて、ことごとに先輩面、保護者面、指導者面で横車を押そうとするところがあった。ところが、フルベッキ宣教師についてすでにキリスト教と万国公法を学んでいた大隈はいささかもたじろがず、昼食抜きで6時間もの大激論をやり抜いた。

このとき通訳を務めたシーボルトが、後に三条実美や岩倉具視に「パークスもきょうの談判には大いに愕いて、これまで日本で大隈のような男と談判したことはない、といって、日本の外交官に少し尊敬の気持ちを加えたようです」と語ったのだ。そこで、大隈の評価が高まり、その後抜擢され出世していったというわけだ。

また、「築地梁山泊」とも呼ばれた大隈邸には井上馨、五代友厚、山県有朋、中井弘、大江卓、土居通夫、山口尚芳、前田正名、古沢滋など、ひと癖もふた癖もある豪傑たちが集まっていた。木戸孝允や大久保利通なども、ここに集まる連中の動向を大いに気に病んでいたという。ともかく、これほど癖のある人物たちをも引き付けるだけの人間的魅力が、大隈にあったということだ。
 大隈は、岩倉具視一行の遣欧中の留守政府内では西郷隆盛らの征韓論に反対の立場を取り、次いで大久保利通の下で財政を担当しつつ秩禄処分、地租改正を進め、大久保没後は参議筆頭となって殖産興業政策を推進した。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、三好徹「日本宰相伝 葉隠嫌い」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

折口信夫・・・「折口学」で、「あの世」を明らかにしようとした巨人

 折口信夫は「あの世」とは何か?を考え、明らかにしようとした異様な人物であり、巨人だった。彼は「折口信夫」の名で国文学、民俗学、宗教学の論文を書き、「釈迢空(しゃくちょうくう)」の名で詩や歌や小説を書いた。折口の成し遂げた研究は「折口学」と総称される。芸能史、国文学を主な研究分野としてはいるものの、折口の研究領域は既存の学問の範疇に収まりきらないほど広範囲にわたっている。したがって、折口の研究および思想を一つの学問体系とみなしたものが「折口学」なのだ。折口の生没年は1887(明治20)~1953年(昭和28年)。

 彼は書くものにより、折口信夫と釈迢空の二つを使い分けた。漠然と学問的な著述には折口を、文学上の創作には釈を用いた。だが、彼の仕事の二つの方面が明解に分かれているわけではなかった。この二つを区別し難いところに、彼の発想の特異さがあった。学問において、彼の詩人的な想像力が実証の方法の届かない隅にまで浸透して、不思議なまでにまざまざと古代的世界を再現してみせる。だから、その学問といえども、彼の豊かな想像力の産物に違いなかった。

 折口信夫は大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区)に父秀太郎、母こうの四男として生まれた。生家は医者と生薬(きぐすり)、雑貨を売る商家を兼ねていた。中学生のころから古典を精読し、友人の武田祐吉らとともに、短歌創作に励んだ。1905年(明治38年)、天王寺中学を卒業し、国学院大学に進んだ。国学院では国学者、三矢重松(みつやしげまつ)から深い恩顧を受けた。卒業して大阪の今宮中学の教員となったが、2年余で辞して上京。国文学の研究と短歌の創作に情熱を注いだ。歌人島木赤彦を知って「アララギ」に入会。また、民俗学者柳田国男を知って深い影響を受け、進むべき道を見い出した。

 折口は1919年(大正8年)、国学院大学講師となり、のち教授として終生、国学院の教職にあった。1920年、中部・東海地方の山間部を民俗採訪のため旅行。1921年「アララギ」を退会、この年と1923年の二度にわたって沖縄に民俗採訪旅行した。折口の古代研究はこの時期の採訪旅行によって開眼した。1923年、慶應義塾大学講師となり、のち教授として没年まで勤めた。

折口は1924年、前年亡くなった三矢重松の「源氏物語全講会」を継承して開講。またこの年、古泉千樫(こいずみちかし)、北原白秋らの短歌雑誌「日光」に同人として参加した。1926年、長野県、愛知県山間部に花祭、雪祭を採訪調査。1930年(昭和5年)とその翌年、東北地方各地を旅した。1932年、文学博士となった。1948年(昭和23年)、第1回日本学術会議会員に選ばれ、翌年歌会始選者となった。

 「常世」「貴種流離譚」「宮廷歌人」など、折口によって初めて提唱され、定着した概念は多い。しかし、折口学において最も重要かつ広く知られる概念は「客人(まれびと)」と「依代(よりしろ)」だ。冒頭に述べた「あの世」とは何かを解き明かすため、折口は語っている。ただ、難解で非常に理解しにくい。梅原猛氏によると、「あの世」の人は依代を目印に天からこの地上に降りてくる。その依代は「まとい」であり、「のぼり」だった。「あの世」の人はどういう形で「この世」にやってくるのか。それは「まれびと」すなわち客人としてやってくる。「まれびと」は遠い遠い彼方の「あの世」からやってきて、「この世」の人に恩恵を与えて、また「あの世」へ帰っていく。「あの世」とは地下の黄泉(よみ)の国であり、あるいは海の彼方の「ニライカナイ」だった。

 そして梅原氏は、折口自身が少なくとも「まれびと」が乗り移る依代であり、「まれびと」の言葉を語る能力を持っていた人ではないか-としている。折口の小説「死者の書」の中に出てくる。主人公・大津皇子が殺されて二上山に葬られ、その肉体は腐っていくのに、その霊は目覚めて、“言葉”を語る。大津皇子の霊にとって、それは“声”だったが、普通の人には聞こえない。そういう普通の人には聞こえない、声でない言葉がいつまでも続いている-とある。

「死者の書」は奈良・当麻寺の曼陀羅にまつわる中将姫伝説に題材を得た小説だ。大津皇子が死んで神となり、次いで仏となり、恋人・耳面刀自(みみものとじ)の生まれ変わりである中将姫を二上山へ呼び寄せ、死霊としての阿弥陀仏と生霊である中将姫との交わりによって、あの有名な「当麻曼陀羅(たいままんだら)」という芸術を生み出すという物語だ。難解だが、折口の異様さの一端が分かるのではないか。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、小島直記「逆境を愛する男たち」、「日本の詩歌/釈迢空」

安積艮斎・・・学派を超え自由な学風を貫き、多くの著名な門人を輩出

 安積艮斎(あさかごんさい)は、ペリー来航時のアメリカからの国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった、幕末の朱子学者だ。ただ、艮斎の功績はそれだけにとどまらない。むしろ図抜けた教育者としての功績が圧倒的に大きい。

艮斎が開いた私塾「見山楼」の門人には小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、2282人の名前が門人帳に記されており、幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。

したがって、私塾「見山楼」は今日風に表現すれば、“超”有名私立大学で、ここに籍を置くことがある意味でステータスだった側面があったのかも知れない。門人帳にはそれほど、後世に名が残る人材がきら星のごとく名前を連ねている。艮斎の生没年は1791(寛政3)~1861年(万延元年)。
 安積艮斎は陸奥・二本松藩の郡山(現在の福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれた。幼名は兵衛、名は重信、通称は祐助。字は思順(しじゅん)・子順(しじゅん)とも。号は艮斎(ごんさい)。別号は見山楼。

 艮斎は幼いころから学問に興味を持っていた。5歳から11歳ごろまで約6年間、二本松藩の寺子屋で学問に励んだ。16歳で婿入りしたが、容貌がよくなく、日夜読書に耽るので妻に嫌われ、実家に戻った。恐らく、落ち込んだことだろうが、その後の切り替えがやはり違う。17歳で学問を志して江戸に出奔。当初、日蓮宗妙源寺の日明和尚のもとで生活した。その日明和尚の紹介で、当時一流の学者だった佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。林述斎は幕政顧問として、当時の文教政策を取り仕切る大物だ。

 1814年(文化11年)、24歳で江戸駿河台の小栗忠高邸内に長屋を借りて私塾「見山楼」を開いた。この小栗忠高の子が小栗忠順(のちの小栗上野介)で、この13年後に出生する。艮斎は門弟の教育と学業研鑽に励んだ。そして、41歳のとき『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになった。この間、塾は何回か移転するが、小栗邸の塾を残して続けられた。小栗剛太郎(上野介の幼名)は数え年9歳のとき入門している。このとき艮斎46歳だった。

 艮斎は1843年(天保14年)、二本松藩・藩校敬学館の教授、そして1850年(嘉永3年)には幕府の昌平○教授に任命された。艮斎60歳のときのことだ。
幕府の公的学問所の教授となったことで、艮斎は幕末の動乱期の外交文書にも様々な形でタッチすることになった。まず、1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳だ。また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。

 艮斎は朱子学者だったが、陽明学など他の学問や宗教を排することなく、学派を超えてよいものを取り入れようという自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。

 このほか、艮斎は開国か鎖国かと世論が分かれる中、幕府に対して、外交に関する意見書として『盪蛮彙議(とうばんいぎ)』を提出した。
 艮斎は、師の佐藤一斎とともにアカデミズムの頂点に立つ学者として知られ、没する7日前まで講義を行っていたと伝えられている。
 著書に上記のほか、『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。

(参考資料)

石田三成・・・外征めぐり豊臣政権下、No.2同士の抗争で千利休に勝利

 豊臣政権下、豊臣秀長と千利休による両輪補佐の体制が、秀長の死に伴って崩壊した。そして利休も、まもなく切腹に追い込まれる。当然、秀吉は将来の政権維持のため石田三成ら、将来を嘱望される奉行職に期待し、70歳の高齢者利休を見捨てたとの見方もできるが、果たしてそうなのか。そして、その石田三成の「補佐役」としての力量は?

 石田三成は石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で生まれた。幼名は佐吉。生没年は1560(永禄3年)~1600年(慶長5年)。石田村は古くは石田郷といって、石田氏は郷名を苗字とした土豪だったとされている。

三成は秀吉が近江長浜城時代、しきりに近江周辺で新規の家臣を募った際にスカウトされた若手人材の一人だった。他に増田長盛、長束正家、前田玄以らが“近江閥”を形成していた。この流れには大谷刑部(吉継)、小西行長らも含まれた。これに対し、利休の拠って立つ基盤は“尾張閥”で、この方の家臣団グループには加藤清正、福島正則、浅野長政らが属し、少し距離はあったが加藤嘉明、山内一豊、黒田長政なども同類と見做せた。近江閥のバックボーンが淀君であり、尾張閥のバックボーンがいうまでもなく秀吉の正妻おね(北政所)だ。この両派閥の対立がこの後、歴史の端々に顔をのぞかせることになる。

 正妻と側室(愛妾)の対立は、歴史を動かす確かな要因だ。つまり、利休は全く意識していなかったとしても、三成の側からは政敵と看做されていた可能性は高いのだ。そのためか、三成は秀吉にどれだけ勧められても、利休の茶の湯に馴染むことなかったという。

 尾張閥と近江閥の対立に加えて、加来耕三氏は各々の派閥に別個の商人グループが荷担していた事実があると指摘している。利休-(尾張閥)-堺商人、三成-(近江閥)-博多商人の両グループの対立だ。利休は茶人で秀吉側近であると同時に、その出身が堺で、堺を代表する納屋衆の一人となった人物だ。これに対し、三成と博多商人との強い結びつきは、九州征伐のあと、戦火で荒廃した博多の復興のために、秀吉が三成・長束・小西らを奉行に任じたときから始まっていたのだ。

利休切腹の半年後、1591年(天正19年)、秀吉は朝鮮、明国への出兵決意を正式に表明した。実はこの決定までに両グループから、水面下で利権にまつわる凄まじい駆け引きがあったはずだ。大陸貿易の独占を目指す博多商人と、南蛮貿易すなわち東南アジアへのルートを強化し、かつての“黄金の日々”を取り戻したいとする堺商人の思惑がせめぎ合っていたことだろう。

 朝鮮出兵は、秀吉のいくつかの選択肢の一つだった。少し遅れて徳川家康が呂宋(ルソン)攻略を真剣に計画したように、この時代、国内統一を完成しつつあった豊臣政権は新たな領土獲得、市場確保のためにも海外進出をしなければならない強迫観念に襲われていた。後に無謀な侵略と失敗を反省し、渡海しなければよかったといったものの、その準備段階では九州の大名たちは嬉々として、この無謀な計画に参画しているのだ。

 秀吉の外征が、朝鮮半島から中国大陸へのルートに決まるか、それとも琉球、台湾、ルソンの東南アジアに決定するか、各々の方面に独自の利権を持つ博多商人と堺商人は最も関心を寄せていた。しかし、秀長が病死し、孤立した利休では勝負にならなかった。利休は三成に、政治的駆け引きに敗れ、遂にはその死生を制されたのではないか。つまり利休の唐突な死は、将来を展望した際、必要と思われた外征をめぐる、豊臣政権下、ナンバー2(補佐役)同士の抗争に敗れた結果、招いた悲劇だったのだ。

(参考資料)堺屋太一「巨いなる企て」、藤沢周平「密謀」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」

太田道灌・・・力量・声望・実績がありすぎて、主君の妬みを買い葬られる

 京都の大半を焼け野原と化し、奥州・関東・東海を除く日本の至るところで、11年も続いた「応仁の乱」は終息したが、関東の騒乱はむしろ文明8年頃から激しさを増していく。そして、それが扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家宰・太田道灌の名を天下にとどろかせるとともに、またその実力がありすぎたがゆえに、後の悲劇を生むことにもつながった。

主君の「補佐役」の地位を運命付けられていたとはいえ、もし道灌に“下克上”に徹する思い切りがあれば、北条早雲が名を成すより早く、関八州を制圧できたに違いない。彼にはそれだけの力量、声望・実績があった。ところが道灌は、育った環境からか、思い切りがなかった。動かなかった。そのため反対に、主家の妬みを買い、トップに葬られてしまった。

 太田道灌は扇谷上杉家の家宰・太田資清の長子として相模国(現在の神奈川県)に生まれている。幼名は鶴千代。元服して源六郎持資、後に資長と称した。道灌は入道してからの号。江戸城を築城した武将として有名。生没年は1432(永享4年)~1486年(文明18年)。

 「関東管領」は京都にあった室町幕府の出先機関で、初代の関東管領は足利尊氏の四男・基氏が任ぜられている。その後、この出先機関が重きを成し歳月の経過とともに、その権威は肥大化。京都に対して“関東御所”“関東公方”などと格上げして呼ばれるようになり“管領”は執事として実務を総攬してきた上杉家の呼称となった。上杉家は山内・扇谷・詫間・犬懸の四家に分かれ、適宜、有能な人物が出て関東公方を補佐した。

 古河公方-堀越公方-関東管領・上杉家の3者は、その権威と実力で関東を3分していた。もっとも、武力による限りは関東管領=山内上杉氏が他の2者に隔絶している。四上杉家の中でも犬懸は先に滅亡。詫間は山内と友好関係にあり、扇谷は領地も軍勢もはるかに山内に劣っていた。それでも山内上杉家の人々は心底、扇谷に不安を抱いていた。扇谷上杉家の家宰・太田資清・持資(道灌)父子が、領内にくまなく善政を敷き、人材を育成して登用するなど、内実は侮り難い成果を挙げていたからだ。中でも持資=道灌の器量は、広く世に知られていた。

 道灌は9歳から11歳まで、鎌倉五山の寺院で学問を修めていた。戦国武将にあって、北条早雲などとともに秀でた学識を持つ、数少ないインテリだった。1455年(康正元年)、24歳で家督を継いだ道灌は、その頃はまだ武州(東京都)の荏原品川にいた。居館は御殿山あたりで、それを古河公方(足利成氏)との対抗上、江戸に移したのは翌年のことだ。江戸城は1年でほぼ完成している。平地に自然の地形と人工の堀をうがち、土居(土塁)を築き複雑な曲輪を組み入れ、防衛力を飛躍的に向上させた斬新な城だった。

 道灌は戦いの場においても、領内の施政においても打つ手が鮮やかで手際がよすぎた。力量、声望・実績がありすぎた。そのため、主家は道灌の存在が恐ろしくなり、疑心暗鬼に陥ってしまった。ここに悲劇の“温床”があったのだ。「道灌謀反」の噂はまたたく間に関東全域に広がり、山内、扇谷の両上杉が結託した。1486年(文明18年)、道灌は招かれた糟屋の扇谷上杉家の別館で暗殺された。「補佐役を」失った扇谷上杉氏は瞬時に機能を停止し、山内上杉氏との間では団結はおろか不和が表面化。両家の対立抗争は間断なく続き、遂には両家とも衰亡の途をたどることになった。

(参考資料)加来耕三「日本補佐役列伝」、安部龍太郎「血の日本史」

安倍晴明・・・「式神」を自在に操り、闇の世界を制した希代の陰陽師

 安倍晴明の生涯は謎に包まれている。『尊卑分脈』所収の安倍氏系図によると、右大臣安倍御主人(みうし)から九代目の大膳大夫益材(ますき)の子という。『公卿補任』大宝3年(703)の項に、閏4月1日、右大臣阿倍御主人が69歳をもって_じたことが記され、「安倍氏陰陽先祖也」と記されている。また、『続日本紀』巻三・大宝3年閏4月1日の条に、「この日、右大臣従二位阿倍朝臣御主人が_じた」と記されている。「阿倍」と「安倍」の表記の違いはあるが、阿倍御主人を安倍晴明の祖と考えてよい。

 晴明がどこで生まれたのか、実は全くわからない。ただ、没年と享年は分かっている。そこから逆算すると、生年は延喜21年(921)、没年は寛弘2年(1005)。享年は、当時としては驚異的な長寿といえる84歳。生地には3つの説がある。讃岐国(香川県)由佐、常陸国(茨城県)猫島、摂津国(大阪府)阿倍野の3カ所だ。この中では阿倍野説が有力視されている。

 後世の伝承によると、晴明は「式神」と呼ばれる精霊や神々を自在に操り、京の都に災いをなす悪鬼や悪霊を次々に退治したという。また時の権力者だった御堂関白、藤原道長にかけられた呪詛を打ち破り、自らも並ぶ者がないほど強い呪術力を持っていた。さらに「反魂(はんごん)の秘術」「生活続命(しょうかつぞくめい)の法」を操り死者を蘇らせ、あるいは「式占(ちょくせん)」を用いて都に起こる数々の異変を予言したとされている。

 『今昔物語集』巻第二十四「安倍晴明随忠行習道語」第十六は、天才陰陽師、晴明の並々ならぬ力のほどを見せてくれる。この説話は・少年時に鬼と出会った話・晴明の力を試そうとした老僧の話・蛙を殺した話・式神を使役していた話-の四話から構成されている。また、『宇治拾遺物語』も晴明の異能ぶりを伝えている。

 生前に彼が築いた権威は子孫に受け継がれ、後にそこから土御門家という一族が生まれた。土御門家はやがて従来、朝廷に仕える陰陽師の頂点に立っていた一族、賀茂家を圧倒し、陰陽道の宗家として君臨する。さらには、陰陽道と神道を習合させた土御門神道=安倍神道も成立した。そして晴明は、こうした後の信仰の象徴として神格化されていくのだ。

 陰陽道は古代中国で起こった「陰陽五行説」を土台にしている。陰陽五行説とは、対立する陰と陽の2つの気、そして木・火・土・金・水の五行によって、森羅万象を説明する思想のことだ。日本へは、古代律令国家が建設された時に中国の知識や技術とともに移入された。7世紀後半にはすでに「陰陽寮」と呼ばれる機関が設置され、陰陽五行説の研究、教育が行われていたらしい。

(参考資料)志村有弘「陰陽師 安倍晴明」、歴史の謎研究会編「日本史に消えた怪人」、加来耕三「日本創始者列伝」

上杉謙信・・・仏道に帰依し信義に厚い家風をつくった越後の国主

 上杉謙信は、自ら毘沙門天の転生であると信じていたとされる、戦国時代の越後国の有力武将だ。室町幕府の重職、関東管領を務めるとともに、足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大、戦国大名・甲斐国の武田信玄とともに、同時代の武名を二分した。生没年は1530(享禄3)~1578年(天正6年)。

 上杉謙信は、越後守護代、長尾為景の四男(三男との説もある)として春日山城で生まれた。近世上杉家・米沢藩の祖。本姓は平姓、長尾氏。幼名は虎千代。初名は長尾景虎。兄の晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。後に関東管領、上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する室町幕府の重職、関東管領に任命された。また、後に将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて、最終的には上杉輝虎と名乗った。号は宗心。渾名は越後の虎、越後の龍、聖将、軍神。1570年(元亀元年)から不識庵(ふしきあん)謙信と名乗った。

 謙信は7歳で寺に預けられ、その年に父と死別、以後7年間みっちりと禅や武道を学んだとみられる。14歳のとき初陣、15歳で元服し景虎を名乗った。19歳で兄、晴景から家督を引き継ぎ、長尾景虎として名実ともに越後の国主となった。その後、24~34歳までの10年間に川中島の合戦を五回も繰り返し、ことに四回目の合戦では武田軍と凄まじい死闘を演じ、わずか半日で双方6000人近い死者を出し、それでも勝負がつかなかったという。

 このとき、武田の軍旗“風林火山”に対して、上杉軍が掲げたのが毘沙門天の“毘”と懸乱竜の“籠”の旗だ。これは毘沙門天に代わって世の中の邪悪な者を懲らしめる正義の軍であり、一度戦えば天から風を呼ぶ竜の如く雄々しく勇ましい軍であることを示したものといわれる。

 謙信は27歳のとき出家を志して高野山に登るが、臣下に思いとどまらせられ、40歳になったとき法号「謙信」を称した。そして45歳で剃髪、法印大和尚に任ぜられるまで常に仏道を修し、その後も49歳で病に倒れるまで、生涯その道を離れることはなかった。

 織田信長が岐阜を根拠地として京都を押さえ、畿内を平定し始めたころ、彼以上の実力を持つといわれる者が、少なくとも二人いた。上杉謙信と武田信玄だ。司馬遼太郎氏は、「信長はこの二人を宥めるために人間の知恵で考えられる限りの策謀と外交の手を打ち続けた。ときには卑屈窮まる言辞をも使った」と記している。文献によると、京にいた信長は謙信に対し、あなたが京へ上ろうとなさるのなら、この信長は京を出て、瀬田のあたりまでお出迎えして、御馬のくつわを取ります-とまでの態度を取ったほど。そのころの信長にとって、謙信はそれほどに大きな、超え難い存在だったのだ。

 そのうち、二強の一角、信玄が死に、謙信が残った。当時、謙信は300万石の経済力と日本での最強の軍団を持っていた。このころ信長は、狩野永徳の作と伝えられる「洛中洛外屏風図」六曲一双を謙信に贈っている。1574年(天正2年)のころのことだ。

 謙信亡き後、上杉家は景勝が国主のとき、豊臣政権のもとで会津に移封され大身となったが、「関ヶ原の戦い」で西軍につき辛酸を舐め、米沢の地で細々と徳川幕府に仕えたが、謙信を祖とするその信義に厚い家風は代々受け継がれた。

(参考資料)海音寺潮五郎「天と地と」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」

大村益次郎・・・蘭方医学より西洋兵学に通暁した上野戦争の官軍総司令官

 江戸と呼ばれていたこの町が東京に生まれ変わろうとする戦争があった。上野戦争だ。この時、この町は大きな戦災を被ってもおかしくなかった。ところが、戦火から救うべく唯ひとり作戦に苦しみつつ、それを見事成し得た一人の戦術家がいた。大村益次郎だ。

 益次郎は文政7年(1824)、現在の山口市鋳銭司の、のどかな農村で生まれている。父、村田孝益は医業のかたわら、田3反を耕す村医者だった。益次郎も18歳で近くの蘭医、梅田幽斎に学び、続いて九州日田の広瀬淡窓の塾に入った。そして弘化3年(1846)21歳の時、全国にその名を知られていた大坂、適塾の緒方洪庵の門を叩く。嘉永2年(1849)彼はここでは塾頭をも務め、オランダ語などは、師をも凌ぐほどだったといわれる。

ところが、彼は所期の目的である蘭方医学よりも西洋兵学の研究に熱中し始める。軍制、砲術、築城…と、適塾所蔵の洋書のうち、彼が親しむようになったのは、西洋兵学に関する書物だった。彼はどうして、医学とは一見縁遠い兵学にのめりこむことになったのか。それは、彼一流の時勢認識で、これからの時代に最も必要とされるのは医学よりもむしろ西洋兵学だということを、明敏に見抜いたのだ。この点、彼は抜群の語学力に恵まれていた。

だが、彼は一介の村医者に過ぎない。したがって、彼の才能を生かす場も手がかりもなかった。5年後、彼は洪庵に才能を惜しまれつつ故郷に舞い戻り、村人相手の医者の生活にひたってしまう。当時、わが国でも最高の医術や蘭学を修めていた益次郎も、村医者としては失格だった。自分を誇るふうでもなく、人にこびずはよしとしても、人付き合いのまずさだけは終生変わることがなかったからだ。嘉永6年(1853)、30歳の益次郎は逃げ出すようにして故郷の鋳銭司村を去った。

 その後、益次郎は家業を捨て、緒方洪庵の勧めもあって蘭学の才能を買った伊予宇和島藩に出仕する。藩主・伊達宗城は高禄をもって彼を遇した。この時、彼は百姓身分から村田蔵六を名乗る侍となったのだ。ちょうど30歳、ペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航した嘉永6年(1853)のことだ。宗城の命を受けた益次郎は、ここで日本人では最初ともいうべき蒸気船を造り上げ、人々の度肝を抜いた。そのかたわら西洋兵書の翻訳にも手を染め、独自の兵法を編み出し、兵学者として頭角を現すのだ。
 安政3年(1856)、藩主・宗城の参勤に従って江戸へ上った益次郎は、宇和島藩に在籍のまま彼に目をつけた幕府に雇われ、幕府の洋学所、蕃書調所の助教授、さらには講武所の教授手伝も兼ね、西洋兵学者としての名が高まっていく。ちなみに、講武所の教授陣には勝海舟、高島秋帆らが名を連ねていた。そうなると、今度は長州藩が放ってはおかなかった。長州藩では洋式学所(博習堂)の改組などに取り組んでいたが、どうしてもリーダーの人材が足りない。そこで、もともと藩領内出身の益次郎の存在が注目されることとなり、ぜひ我が藩で召し抱えて能力を発揮させるべきだ-との声が高まり、益次郎の召還が藩議決定をみる。

 益次郎の長州藩帰属が正式に実現したのは、桜田門外の変の翌月、万延元年(1860)4月のことだ、ただ、長州藩が提示した報酬は百姓同様の極めて低いものだった。それにもかかわらず、幕府の要職や宇和島藩の高禄を未練もなく捨て、彼は長州藩の士分に列し、郷国のために尽力することになる。
 益次郎が仕える間もなく、長州は疾風怒涛、動乱の時代を迎える、文久3年(1863)、八・一八の政変、翌年の蛤御門の変、外国艦隊との下関戦争…など。慶応元年(1865)、幕府の第二次長州征伐の噂が高まったその年、益次郎は木戸孝允の推挙により軍務大臣に抜擢された。そして藩命により、村田蔵六を改め、大村益次郎を名乗ることになる。翌慶応2年、四境戦争、いわゆる第二次長州征伐の折りは、海軍・高杉晋作、陸軍・益次郎がすべての作戦を立てた。

2年後の慶応4年(1868)、益次郎は大政奉還で開城した江戸城にいる。上野彰義隊攻撃の総司令官とされているのだ。これは西郷隆盛や木戸孝允の英断によるものだったが、この時までほとんどの官軍首脳たちは、まだ益次郎の能力を信じていなかったといわれる。アームストロング砲を主力に、十数藩による完璧の布陣と、江戸の市中が戦火にかからぬことを第一とした益次郎の綿密な作戦により、上野戦争はわずか一日で終わった。

その後、箱館戦争に至る戊辰戦争の全戦線の平定を終えた彼は新国家の建設に取りかかる。明治2年(1869)9月、益次郎は京都木屋町で突然刺客に襲われ、2カ月後、この傷が悪化し46歳の生涯を閉じた。

(参考資料)百瀬明治「適塾の研究」、司馬遼太郎「花神」、「日本史探訪/22 上野戦争の官軍総司令官 大村益次郎」司馬遼太郎

阿部正弘・・・身分に捉われない人材登用など「安政の改革」を推進

 江戸幕末期の第7代備後福山藩主・阿部正弘は、以前はその内政、外交姿勢から「優柔不断」あるいは「八方美人」な指導者とみられ、評価は低かった。しかし、当時の幕政および、黒船来航に始まる海外列強の開国・通商要請など時代背景を重ね合わせると、個人のリーダーシップに帰し難いものがあり、近年は相対的に人物評価が高まっている一人だ。1854年に日米和親条約を締結。身分に捉われない大胆な人材登用を行い、品川沖に台場を築き、大船建造の禁を解くなど、「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を推進した。生没年は1819(文政2年)~1857年(安政4年)。

 阿部正弘は1843年(天保14年)、25歳で老中となり、1845年(弘化2年)、「天保の改革」の際の不正を理由に罷免された水野忠邦の後任の老中首座に就いた。そして、第十二代家慶、第十三代家定の時代の幕政を統括した。老中在任中は度重なる外国船の来航や中国のアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われた。

 阿部は、幕政においては1845年(弘化2年)から海岸防禦御用掛(海防掛)を設置して外交・国防問題に当たらせた。薩摩藩の島津斉彬、水戸藩の水戸斉昭など諸大名から幅広く意見を求め、江川英龍(太郎左衛門)、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努めるとともに、筒井政憲、川路聖謨、岩瀬忠震、ジョン万治郎などを起用、大胆な人材登用を行った。

 また、人材育成のため1853年(嘉永6年)、備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館(せいしかん)」に改め、身分に関係なく学べるよう教育改革を行った。このほか講武所や洋学所、長崎海軍伝習所などを創設。また西洋砲術の推進、大船建造の禁の緩和など「安政の改革」に取り組んだ。

 ただ阿部には、老中首座としてリーダーシップに欠けた人物との評価がある。実際にペリー艦隊来航から日米和親条約締結に至るまで1年余りの猶予があったにもかかわらず、朝廷から全国の外様大名まで幅広く意見を募ったあげく、何ら対策を打ち出せず、いたずらに時間の引き延ばしを図っただけだったというのがその論拠だ。

 しかし、これは阿部のリーダーシップ云々より、これこそが当時の幕府の体質といえるもので、その証拠に前任の水野忠邦は方法が過激すぎると反発を受け失脚、阿部の後を受けて強攻策を取った井伊直弼は、幕閣どころか朝廷や国内各層の反感を買って国内を大混乱に陥れている。

 こうしてみると、阿部の協調路線は幕政を円滑に運営する有効な方策だったといえ、幕府の威光よりも混乱回避を優先した姿勢は、それなりに評価され得るものだったとみられる。また、前記した通り、慣習に捉われない人材登用については評価され、阿部の政策を「安政の改革」として、いわゆる「三大(享保・寛政・天保)改革」に次ぐものとして扱うこともあり、39歳という早世を惜しむ声も多い。

(参考資料)童門冬二「歴史に学ぶ後継者育成の経営術」

歌川広重・・・フランス印象派の画家に影響与えたヒロシゲブルー

「東海道五十三次」の名所風景画で知られる歌川広重。彼の作品はヨーロッパやアメリカでは大胆な構図などとともに青色、とくに藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青を欧米では「ジャパンブルー」あるいは「ヒロシゲブルー」とも呼ばれて、19世紀後半のフランス印象派の画家たちや、アールヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与え、当時ジャポニズムの流行を生んだ要因の一つともされている。
 歌川広重は、江戸・八洲河岸(八重洲河岸)の火消し同心の安藤家に生まれた。幼名は徳太郎。長じて重右衛門といった。13歳で家督を継ぎ、その後、27歳で同心の役職を退くまで画家と公務の両立を果たしていたといわれる。「安藤広重」の名で紹介されることがあるが、この名で残された作品は見当たらない。画人としては歌川派の歌川広重が正当だ。広重の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。
 広重は当初、初代歌川豊国に弟子入りを請うたが、門弟が多く叶わなかった。そこで、15歳のとき同門の歌川豊広に入門した。翌年、師・豊広から「広」の一字を受け、「広重」と名乗った。
 広重の入門は叶わなかったが、初代歌川豊国が中心となって発展させた浮世絵師の最大勢力・歌川派で、幕末に活躍した三代豊国、国芳、そして広重は歌川三羽烏と称された。それぞれ、豊国は似顔絵、国芳は武者絵、広重は名所絵を得意とし、評価されていた。
 そんな名所絵・広重のきっかけとなったのが、「東都名所」だ。1831年(天保2年)、葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発刊したとき、広重はその「東都名所」を発表し、風景画家としての評価を受けたのだ。このとき北斎72歳、広重は35歳だった。翌年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、広重はその行列に参加して上洛。東海道を往復した際に、その印象を克明に写生。それが、翌年シリーズとして発表する「東海道五十三次絵」に生かされた。
 この「東海道五十三次絵」は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々が憧れた外の世界を垣間見る手段としても大変好評を博した。
 当時、広重は教えを請うため、尊敬していた北斎のもとをよく訪れていたといわれる。40歳近くも年の離れた先輩、北斎老人に広重は何を学ぼうとしたのだろうか。技法だったのか、何か精神的なものだったのか。
 その後、作品「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景・名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」などを次々と発表。60歳で制作を開始した「名所江戸八景」を完成させた1858年(安政5年)、62歳で永眠したと伝えられる。死因は、当時大流行したコレラといわれる。
 広重の作品はヨーロッパやアメリカで、その大胆な構図と、とくにブルーの美しさで評価が高い。色鮮やかな青は「ジャパンブルー」とも「ヒロシゲブルー」とも呼ばれ、19世紀フランス印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えた。
(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

大山巖・・・西郷の影響受けた日清・日露両戦争で功績大の「陸軍の大山」

 大山巖は軍人として華麗な一生を送った。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに日本の勝利に大きく貢献した。元老としても重きを成したが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた、この時代にあっては珍しい清廉な人物だ。生没年は1842(天保13)~1916年(大正5年)。

 大山巖は薩摩国鹿児島城下加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)で薩摩藩士・大山彦八綱昌の次男として生まれた。幼名は岩次郎。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。大山が生まれた家は、西郷隆盛の家の筋向いの家の裏にあった。西郷隆盛・従道兄弟とは従兄弟にあたり、西郷家とは生涯にわたって親しく、とくに従道とは親戚以上の盟友関係にあった。

 大山の風貌には西郷隆盛に通ずるところが多い。人間的度量においても両者共通する大きさを感じさせ、大山は西郷の偉大さに影響を受けている。藩内の有馬新七らに影響されて過激派に属し、倒幕運動に参加したが、1862年(文久2年)、寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国、謹慎処分となった。また前年の生麦事件の報復として1863年(文久3年)起こった「薩英戦争」では西欧列強の軍事力に強い受け、幕臣・江川太郎左衛門の塾で砲術を学んだ。「弥助砲」と呼ばれる大砲を開発するなど戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽伏見や会津などの各地を転戦。討幕運動に邁進した。

 明治維新後の1869年(明治2年)、大山は渡欧して普仏戦争などを視察。1870(明治3年)~1873年(明治6年)の間はジュネーブに留学した。陸軍では順調に栄達し、西南戦争はじめ相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官として、従兄の隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰ることはなかったという。

日清・日露の両戦争では日本の勝利に大きく貢献し、同じく薩摩藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」といわれた。大山は元帥陸軍大将として頂点を極めた。
 明治中期から大正期にかけて、第一次伊藤博文内閣から第二次松方正義内閣まで、陸軍大臣を長期にわたって務め、また参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きを成し、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、終始、総理候補に擬せられることを避け続けた。当時としては稀有な、清廉な人物だった。

 周知の通り、真の西郷隆盛の肖像画というものは残っていない。もちろん写真もない。西郷の肖像画として紹介されているものは後にモデルを使って描かれたものだ。大山はその何点かある西郷の肖像画のモデルとなった人物の一人だ。また大山夫人は、日本人女性で最初に大学を卒業し、「鹿鳴館の貴婦人」と呼ばれた女性、旧姓山川捨松だ。

(参考資料)文藝春秋編「翔ぶが如くと西郷隆盛」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」

新井白石・・・幕政改革の理想に燃えた当時並ぶ者なき偉大な学者政治家

 新井白石は江戸中期、六代将軍徳川家宣、七代将軍徳川家継に仕え、幕政改革の理想に燃えた、“鬼”の異名を取った稀代の学者政治家だ。その学識の高さは、その当時における、というより江戸時代を通じてすら、比較すべき者の少ない学者だった。

 白石が儒者として俸禄四十人扶持(年72石)で甲府藩に召抱えられたのは元禄6年。彼が37歳の時だ。そして、それ以前の白石は久留里藩の土屋家、古河藩の堀田家と2度も浪人し、20歳代から長い間貧しい生活を強いられ、37歳のその時は本所で私塾を開いていた。この間、白石の器量を見込んでか、富裕な商家から二つも縁談があった。その一つは相手が河村瑞賢の孫娘だったので、承知すれば豪商の家の婿に納まることもできたわけだったが、白石は断った。甲府藩に仕えることができたのは、学問の師である木下順庵の推挙によるものだった。

元禄15年12年に200俵20人扶持に引き上げられた。加増の理由はこの年3月、起草してからほぼ1年余を経て完成、藩主・網豊に献じた『藩翰譜』の成功に対する褒賞ではないかと思われた。藩翰譜は、儒者というよりは歴史家としての白石の本領を示した労作で、12巻18冊、ほかに凡例総目次1巻を加えた大著だった。ここに書きとめられた諸家の数は333家におよび、これを記すのに紙1480枚を費やしたが、草稿、浄写の作業に写し損じを加えれば費やした紙数は3000枚に上ったろう。いずれにしても、ようやく白石は貧しさを気にしなくて済む身分になった。

 五代将軍綱吉の死後、白石は側用人・間部詮房とともに、六代将軍家宣となった藩主の天下の治世に乗り出していく。「勘解由(白石)を経書を講ずるだけの儒者とは思っておらぬ。政を助けよ。意見があれば、憚りなく申せ」という将軍家宣の篤い信頼のもとに、白石は「政治顧問」的な立場で様々な下問に対し、先代までの慣例や事績にこだわらない、あるべき意見も含め献策する。

「生類憐れみの令」の停止およびその大赦考、改鋳通貨「宝永通宝」の通用停止、武家諸法度新令句解などがそうだ。こうした出仕が評価され、白石は200石加増され、従来の200俵20人扶持を300石に直し、計500石とされた。

 白石は宝永6年(1709)11月、江戸小石川茗荷谷の通称切支丹屋敷で、ヨーロッパの学問16科を修めたというイタリア人、ジョバンニ・バチスタ・シドッチと会い、尋問する。シドッチは薩摩・屋久島に流れ着いた宣教師だ。白石はこの尋問の前に、あらかじめカトリックの教義について予備知識を得たいと思い数冊の書物を読んだ。

白石が西洋人に接したのは初めてであり、最初シドッチが何を言っているのか分からなかったが、次第に分かってきた。他の日本人には全く分からなかったが、白石はシドッチの日本語に近畿地方や山陰、九州の方言が入り混じっていることに気付いた。発音にもシドッチのクセが出る。そのクセは当然、一定の法則性のようなものがある。それを白石は見抜いた。これらに照らして理解していけば、シドッチの日本語が自然と分かってくるのだ。白石の頭脳が、シドッチの不思議な日本語を理解させたのだ。白石はシドッチの持っている知識を貪婪に吸収した。白石はこれを『西洋紀聞』に書いたが、シドッチの母国語までは理解するには至らなかった。イタリア語を吸収できるほどの時間的余裕がなかったからだ。しかし、白石が行った尋問で、結果として彼自身の学識の高さを示すことになったことは確かだ。

 ・貨幣の改鋳の停止・裁判の公正・長崎貿易の見直し-など白石の献策は、それまでの幕府官僚の施策とは明らかに異なり、本質的には的を射たものだった。が、白石はやはり学者で潔癖でありすぎた。そのため“鬼”の異名と取ることになり、周囲に煙たがられた。そして、彼の得意時代はそれほど長くは続かなかった。正徳2年、10月14日、家宣が享年51歳で亡くなり、嫡子鍋松(家継)がわずか4歳で将軍職を継いだが、家継も8歳で亡くなってしまったのだ。結局、白石が幕政にタッチしたのは7年ほどで、紀州藩から入った八代将軍吉宗が登場すると、即、更迭され、彼の「善政」はすべてご破算になってしまう。

 ただ、白石はこれからが凡人とは違った。60歳から死ぬまでの9年間、『折りたく柴の記』をはじめ数々の名著を執筆するのだ。彼が政治家として得意の時代を続けていたら、これらの名著は生まれなかったかも知れない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、司馬遼太郎「歴史の中の日本- 白石と松陰の場合」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」                    

歌川国芳・・・“武者絵の国芳”と称され人気を博した反骨の浮世絵師

 葛飾北斎、歌川(安藤)広重らの人気絵師が活躍した江戸時代末期。実は同時代に活動したのがここに取り上げる歌川国芳だ。しかし、国芳は彼ら人気絵師に比べ、日本における知名度や評価は必ずしも高いとはいえなかった。ただ、“武者絵の国芳”と称された彼の作品が一世を風靡したことは間違いない。ことに幕府政治を風刺した数々の作品を発表。その反骨精神は旺盛で、老境に入ってからも新シリーズへの意欲をのぞかせた。とはいえ、彼がこうした作品を残した、江戸時代末期を代表する浮世絵師の一人として、あるいは「幕末の奇想の絵師」として注目され再評価されるようになったのは、20世紀後半になってからのことだ。

 2008年、富山県の農家の蔵から国芳を中心とした歌川派の版木が368枚発見され、これを購入した国立歴史民俗博物館により2009年に公開された。これにより国芳作品の創作過程の解明および浮世絵本来の「色」の復元が始まっている。

 歌川国芳は江戸日本橋の染物屋の息子として生まれた。本名は井草芳三郎。風景版画で有名な歌川広重とは同年の生まれで、同時代に活動した。国芳の生没年は1798(寛政9)~1861年(文久元年)。

 国芳は1811年(文化8年)、15歳で初代歌川豊国に入門した。豊国は華麗な役者絵で人気を博した花形絵師で、弟子に歌川国貞がいる。国芳は入門して3年後、1814年(文化11年)ごろから作品を発表。すでに歌川派を代表していた兄弟子、国直の支えもあって腕を磨いた。国芳が広く世に知られるのは師・豊国没後の1827年(文政10年)ごろに発表した『水滸伝』のシリーズで、これが評判となった。これを機に“武者絵の国芳”と称され、人気絵師の仲間入りをした。

 ところが、国芳が45歳のとき運命は一変する。老中水野忠邦による「天保に改革」が断行されたからだ。質素倹約、風紀粛清の号令の下、浮世絵も役者絵や美人画が禁止とされるなど大打撃を被ることになった。幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子、国芳は浮世絵で精一杯の皮肉をぶっつけた。1843年(天保14年)に発表した『源頼光公館土蜘作妖怪図』だ。表向きは平安時代の武将、源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか、妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて、実は十二代将軍家慶だ。国家危急のときに、惰眠をむさぼっているとの痛烈な批判が込められていた。このほか、絵の至るところに隠されている悪政に対する風刺があったのだ。江戸の人々は、国芳がこの作品に込めた謎を解いては、溜飲を下げて大喜びした。

 しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳は懲りず、禁令の網をかいくぐり、幕府を風刺する作品を描き続け、江戸の人々に大喝采を受けた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。ユーモアとウィットに富み、粋でいなせ、そして豪快で頑固な国芳に江戸中が夢中になった。

 やがて老中水野忠邦が失脚。国芳は待ってましたとばかりに、江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出していった。1848年(嘉永元年)~1854年(安政元年)にかけて国芳が描いた『宮本武蔵と巨鯨』は、浮世絵3枚分に描かれた、まるで大スペクタクル絵画。武蔵の強さを表現するのに、相手が人間では物足りない。ケタ違いの鯨と戦わせることで、ヒーロー武蔵の強さを伝えたのだ。またもや会心の作だった。

 武者絵で大成功を収める一方で、国芳は西洋の銅版画を集め、遠近法や陰影の付け方の研究にも積極的に励んだ。そして、これらの技法を採り入れた新シリーズの製作に取り掛かった。国芳56歳のときのことだ。このシリーズは47人の志士が揃う忠臣蔵。ただ、新しい西洋画の技法で忠臣蔵を描くには制約が多すぎた。公儀に逆らった赤穂浪士を称えることはご法度だ。そのため、舞台で演じられる役柄として、写実的に描くしかなかった。しかし、それでは彼の派手な浮世絵を見慣れている当時の人々にとっては、全く異質のものであって、受け入れられず、すぐに新シリーズは打ち切りとなった。彼の新しい挑戦は失敗に終わったのだ。
 国芳が赤穂浪士を描いた翌年、1853年(嘉永6年)、浦賀沖にペリーの黒船が来航した。まさに「泰平の眠りを覚ます蒸気船…」だった。ひとつの時代が終わり、新しい時代の幕開けをイメージさせるできごとだった。こうした時代の流れに合わせるかのように、国芳の時代は終焉を迎えたのだった。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

岡倉天心・・・日本美術の発展と、大観らを育て美術教育に大きな功績

 岡倉天心は、急激な西洋化の荒波が押し寄せた明治という時代の中で、日本の伝統美術の優れた価値を認め、美術行政家、美術運動家として日本美術の発展に大きな功績を残した。その活動には日本画改革運動や古美術の保存、「東京美術学校(現在の東京藝術大学)」の設立、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、多岐にわたり目を見張るものがある。「日本美術院」の創設者としても著名だ。また、東京美術学校の第二代校長時代の天心は、美術教育にとくに力を注ぎ、後年の大家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。生没年は1863~1913年。

 岡倉天心は元越前福井藩士で、生糸の輸出を生業とする石川屋、岡倉勘右衛門(かんえもん)の次男として横浜に生まれた。本名は覚三(かくぞう)。幼名は角蔵。父が貿易商で、幼い頃から英語に慣れていた。1875年(明治8年)東京開成所(のち官立東京開成学校、現在の東京大学)に入所し、政治学、理財学を学んだ。英語が得意だったことから、同校講師のアーネスト・フェノロサの助手となり、フェノロサの美術品収集を手伝った。また、天心は1882年(明治15年)に専修学校(現在の専修大学)の教官となり、専修学校創立時の繁栄に貢献し学生たちを鼓舞した。1890年(明治23年)、27歳の若さで東京美術学校の第二代校長となり、当時気鋭の青年画家、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てた。

 急進的な日本画改革を推し進めようとする天心の姿勢は、伝統絵画に固執する人々から激しい反発を受けることになる。とくに学校内部の確執に端を発した、いわゆる東京美術学校騒動により1898年(明治31年)、校長の職を退いた天心は、その半年後、彼に付き従った橋本雅邦をはじめとする26名の同志とともに日本美術院を創設した。
 横山大観、下村観山、菱田春草らの日本美術院の青年画家たちは、天心の理想を受け継ぎ、広く世界に目を向けながら、それまでの日本の伝統絵画に西洋画の長所を取り入れた新しい日本画の創造を目指したのだ。その創立展には「屈原(くつげん)」(横山大観)、「闍維(じゃい)」(下村観山)、「武蔵野(むさしの)」(菱田春草)などの話題作が出品された。

 天心の指導を受けた横山大観、菱田春草らの日本美術院の作家たちは大胆な没線(もっせん)描法を推し進めたが、その作品は「朦朧体(もうろうたい)」「化物絵」などと激しい非難を浴び、世間に受け入れられなくなった。こうした中で日本美術院の経営は行き詰まり、天心の目はインド、アメリカなど海外へ向けられていく。1904年(明治37年)、天心に従って渡航した横山大観、菱田春草らはニューヨークはじめ各地で展覧会を開き好評を博した。また、天心は自筆の英文著作「The Book of Tea(茶の本)」などを通して、東洋や日本の美術・文化を欧米に積極的に紹介するなど国際的な視野に立って活動した。

 1906年(明治39年)、天心は経営難に陥った日本美術院を再建するため、これを改組し、その第一部(絵画)を1903年(明治36年)に土地と家屋を買い求めておいた茨城県北茨城市・五浦に移転。この地で新しい日本画の創造を目指し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らを呼び寄せた。以後、ここを本拠に生活上の苦境に耐えながらも五浦の作家たちは、それまで不評を買った「朦朧体」に改良を加え、1907年(明治40年)に発足した文部省主催の展覧会(文展)に近代日本画史に残る名作を発表していった。
(参考資料)小島直記「人材水脈」

板垣退助・・・戦後、百円紙幣に肖像が用いられた自由民権運動の主導者

 板垣退助は周知の通り、自由党総理として「板垣死すとも自由は死せず」の言葉を遺し、自由民権運動の主導者として知られ、生存時、一般庶民から圧倒的な支持を受けていた。没後も、日本民主政治の草分けとして人気が高く、太平洋戦争後、50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。

 ただ板垣退助は、人柄は誠実でまじめだが、反体制ぶりは徹底していない。また生来、人が良く、もっといえばお人好しの側面があった。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となる場合がある。そのため、彼は自由民権運動の主導者と持てはやされ、国民的人気が高かった割には、政治的力量がなかったというか、少なくともそれにふさわしい評価を受けるには至らなかった。位階勲等は従一位勲一等。爵位は伯爵。板垣退助の生没年は1837(天保8)~1919年(大正8年)。

 板垣退助は土佐国・高知城下中島町(現在の高知市)に土佐藩士・乾(いぬい)栄六正成の長男として生まれた。幼名は猪之助、退助は元は通称で、諱は初めは正躬(まさみ)、のち正形(まさかた)と改めた。号は無形(むけい)だが、如雲(じょうん)とも号した。乾家は220石取りの馬廻役(上士身分)であり、同じ土佐藩士、後藤象二郎とは幼馴染みだ。坂本龍馬らの郷士(下士身分)よりも恵まれた扱いを受けていた。

 幕末、藩主・山内豊信(容堂)の側用役から始まり、藩の要職を歴任した。倒幕運動に参加し、武力倒幕を主張。土佐藩が大政奉還論に傾く中、薩摩藩の西郷隆盛らと倒幕の密約を結ぶが、土佐藩は後藤象二郎の主導により「薩土盟約」を締結。しかし両藩の思惑の違いにより、短期間に破綻。後藤・容堂主導により、「大政奉還の建白」が成された。慶喜がこれを受けいれるが、薩摩藩を中心とした倒幕派はこれに飽き足らず、「王政復古の大号令」に伴う「小御所会議」で慶喜の辞官納地を決定。反発する旧幕府側の兵により、「鳥羽伏見の戦い」が勃発する。

 戊辰戦争では退助は、土佐藩軍指令、東山道先鋒総督府参謀として従軍した。天領(旧幕府領)の甲府城の掌握目前の美濃大垣に着いた1868年(慶応4年)、武田信玄の重臣、板垣信方の没後320年にあたるため、甲斐源氏の流れを組む板垣氏の後継であるとの家伝を示して、甲斐国民衆の支持を得ようと先祖の旧姓とする板垣姓に改姓した。この後、退助の目論見どおり甲斐国民衆の支持を受け、甲州勝沼の戦いで近藤勇率いる新選組を撃破した。

 征韓論をめぐり政府で大分裂が起きた際、西郷隆盛が退助に宛てて出した手紙がある。その中で西郷は「朝鮮への使節には私が単身乗り込みたい。そうすれば、きっと殺されるだろう。一国を代表する使節が殺されたとなれば、戦争する名文は十分に立つ。戦争になってからのことは、一切あげて貴君にお任せする。だから、私が使節になる案を支持していただきたい」という意味のことを書いている。この手紙をもらった退助は、西郷を朝鮮に派遣する案を全面的に支持した。参議の会議でも西郷派遣案を決定した。

 ところが、外遊から帰ってきた大久保利通や木戸孝允が真っ向から反対し、右大臣で臨時太政大臣代理となった岩倉具視が、大久保と組んで参議の決議とは正反対の意見を上奏し、天皇はそれを採可した。参議の決議は踏みにじられた。西郷は直ちに辞表を出し、続いて退助も後藤象二郎、肥前の江藤新平、副島種臣らと参議を辞めた。

 退助は翌1874年(明治7年)「民選議院設立建白」を出した。自由民権運動の始まりだ。土佐立志社系の有志たちとの運動だった。そして1881年(明治14年)、退助は自由党を創立、総理となるが党内左派の激化などにより、党を解散する。「板垣死すとも自由は死せず」という退助の有名な言葉がある。このあたりが退助の絶頂期だった。

 国会開設後は目立った事績は残せなかった。第一次大隈内閣で1898年6月30日~11月8日、第十七代内務大臣を務めたことくらいだ。

板垣退助の反体制ぶりは徹底していない。だからといって不誠実なわけではない。まじめな人柄だ。まじめすぎるといってもいいだろう。それが、ある場合には真価を発揮したが、裏目に出たことも多い。板垣が人に騙されやすいお人好しの側面があったことが、明治の反体制運動を一本に絞れなかった大きな要因の一つだ。政治の世界でのお人好しは致命的な弱味となるといっても過言ではない。国民的人気がたかった割には、政治信条としては一定せず、ブレがあり、政治的力量にも欠けたとみるのが妥当だろう。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

運慶・・・日本の仏像彫刻の最高峰に燦然と君臨

 平安末期から鎌倉の初期にかけて、寺社仏閣に仏像を刻んだ仏師は星の数ほど存在した。けれども、日本の仏像彫刻の道を登りつめ最高峰に到達し、その後、仏像彫刻としては日本文化史上、この人を超える仏師は遂に現れなかった。その人こそ運慶だ。

 運慶という仏師は、その生涯の多くが謎に包まれている。六波羅蜜寺に現存する「運慶の像」と称される木像僧形の座像がある。これを見ると、やや尖った頭頂に頑丈な体躯、数珠を指に絡ませ、「法眼」の位を許された僧侶だが、漂う朴訥な風情は、一介の職人だ。運慶に限らず、当時の仏師は例外なく、寺院に付属する職人集団であり、彼も南都=奈良を本拠とする、東大寺や興福寺に所属し仏像の製作・補修にあたる一団の一人に過ぎなかった。したがって、仏師運慶も、決して現代的な意味での芸術家ではなかった。

 運慶は1140年代から1150年代の初めにかけて生まれたと考えられる。平等院鳳凰堂に代表される浄土信仰が一世を風靡し、貴族と結びついた京都仏師たちは、優雅な阿弥陀如来像を次々と生み出していく。その京都仏師の頂点にあったのが定朝であり、運慶が生まれた頃には定朝直系の仏師が、仏像彫刻の主流となっていた。中でも院尊を棟梁とする院派、明円を頭と仰ぐ円派の二代派閥が、都でその創造の優秀さを競い合っていた。

運慶はこうした京都仏師を横目に、創造の機会すらほとんどない、修復をもっぱらとする旧勢力の南都=奈良仏師の集団に、父の康慶の代から参加していたのだ。康慶は奈良仏師でも傍流の出であり、運慶には仏像の修理の末端しか回ってこなかったようだ。

 こうした劣勢な環境の中で、わずかでも幸運だったのは興福寺が権門・藤原氏の氏寺だったことだ。鎌倉時代までの日本政治史は、いわば藤原一族の歴史であり、権力と富はこの一門のみに集まった。そうした家を大檀那としている限り、「食うに困らぬ」の思いであったろう。保元の乱(1156)、平治の乱(1159)を経て、藤原氏の権勢が地に落ちて、恐らく仏像の修理もこれまでのようには行われなくなったはずだ。

だが、それから間もなくして興福寺の系列の忍辱山円成寺の大日如来像を造顕する仕事が入った。どういう経緯からか不明だが、安元元年(1175)から1年をかけ、運慶は父とともに仏像制作に参加している。台座に「大仏師康慶実弟子運慶」と記されており、この仕事が運慶の名を史上、確実に登場させることになった。ただ、この像は後の運慶の荒々しい写実性のある作品に比べると、際立って王朝風の優雅さに彩られ端正で清冽ではあるが、独創的とは言い難く、いかにも優等生の作品といった印象が強い。この時代、政治は明らかに貴族の手から武士の手へ、平家そして源氏隆盛となり、興福寺でも多くの伽藍が消失。奈良時代の数多の仏像が焼き尽くされる。と同時に、運慶の姿は忽然と歴史の舞台から消える。

運慶が再び現れるのは南都最大の寺院、東大寺の復興においてのことになる。建久6年(1195)、大仏の開眼供養に際し、運慶は「法眼」に叙せられていた。翌建久7年、東大寺大仏殿で虚空蔵菩薩像、時国天像を運慶が製作。ただ、これらは現存していない。

運慶の作風が後世に伝えられるのは建仁3年(1203)の作品まで待たねばならない。弟子の快慶とともに、20年に及ぶ東大寺再建事業の最後を飾って、東大寺南大門に安置する阿吽(あうん)二体の金剛力士像=仁王像を彫り上げたのだ。仁王の筋骨の逞しさ、人間くさい勇壮さ、迫力・切れ味ともに、この作品は戦乱の中から生まれたことを雄弁に語っている。こうして運慶は、仏像彫刻界の頂点に立った。

金剛力士像が完成した5年後、承元2年(1208)、興福寺の北円堂で中尊の弥勒像をはじめ、脇侍二体、四天王、羅漢二体(無著・世親)が造られた。現存する弥勒と羅漢二体は、運慶を日本彫刻史上にその名を刻ませた最高の傑作といえるだろう。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」

                             

緒方洪庵・・・種痘を本格的に広め数多くの人材を輩出した「適塾」主宰者

 緒方洪庵は優れた蘭方医で、幕末から明治維新にかけて活躍した大村益次郎、橋本左内、大鳥圭介、福沢諭吉、長与専斎、佐野常民、高松凌雲、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)など数多くの人材を輩出した蘭学塾「適々斎塾(適塾)」の主宰者だ。

 緒方洪庵は当時最も恐れられていた病の一つ、天然痘の予防法である種痘を日本で本格的に広めた一人だ。1849年(嘉永2年)、洪庵40歳のとき、京へ赴き種痘を得、古手町(現在の大阪市中央区道修町)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始め、迷信のはびこる世の中の誤解や悪評に屈することなく、種痘の普及に努めた。日本最初の病理学書「病学通論」を著し、天然痘予防に尽力。また1858年(安政5年)、コレラ流行に際しては「虎狼痢治準(ころりちじゅん)」と題した治療手引書を出版し、医師に配布するなど日本医学の近代化に努めた。

 緒方洪庵は備中国足守藩士、佐伯瀬左衛門の三男として足守(現在の岡山市足守)で生まれている。諱は章。字は公裁、号を洪庵ほか、適々斎、華陰と称した。生没年は1810(文化4年)~1863年(文久3年)。
 1825年(文政8年)、大坂蔵屋敷留守居役となった父とともに大坂に出た。翌年から4年間、中天游の私塾「思々斎塾」で学んだ。1831年(天保2年)江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。1836年(天保7年)、長崎へ遊学しオランダ人医師・ニーマンのもとで医学を学び、この頃から緒方洪庵と名乗ったようだ。

1838年(天保9年)、大坂にもどり瓦町(現在の大阪市中央区瓦町)で医業を開業すると同時に、蘭学塾「適々斎塾(適塾)」を開いた。天游門下の先輩、億川百記の娘・八重と結婚。この後、6男7女をもうけている。1845年(弘化2年)、過書町(現在の大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入し適塾を移転した。洪庵の名声が高くなり、門下生が増えて手狭になったためだ。
 洪庵の若い頃の医学の主流は漢方だった。もちろん蘭方医学の興隆も目を見張るものがあったが、社会的には漢方が圧倒的に強かった。だが、洪庵は西洋医学蘭方の道を選んだ。杉田玄白の「蘭学事始」より11年後、洪庵17歳の時のことだ。

洪庵の特色はその語学力の冴えにある。医者としての名声もさることながら、その数多くの翻訳によって、緒方洪庵の名は広く世に知られた。適塾はいつしか医学塾にとどまらず、次第に語学塾の性格が強い塾へと発展していった。吉田松陰の「松下村塾」を思想教育の塾とすれば、適塾はいわば語学教育・実践教育の塾だった。そして語学を学ぶことは、西洋思想そのものを身につけることに他ならなかった。
 洪庵が医師の本来のあり方を啓蒙するとともに、自己の戒めとした翻訳書がある。これは後に「扶氏医戒之略」の名で世に知られるが、適塾のモットーともなった。十二章にもなるが、そのうちはじめの2章を紹介しよう。
一. 医の世に生活するは、人のためのみ、おのれがためにあらずといふことをその業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧(かえりみ)ず、唯おのれをすてて人を救はんことを希(ねが)ふべし。人の生命を保全し、人の疾病を復活し、人の患苦を寛解するの外他事あるものにあらず。

二. 病者に対しては、唯病者を知るべし。貴賎貧富を顧ることなかれ。長者一握の黄金を以って貧士双眼の感涙に比するに、その心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし。
洪庵は「医は仁術である」ということを、最もやかましく言ったというか、実践した人物だが、これらの言葉は現代においても必要とされる基本的な医の倫理ばかりだ。

 冒頭に記した通り、適塾からは多くの人材が出た。洪庵の門下は3000人といわれたが、様々な分野で活躍している。長与専斎は肥前大村の出身だが、日本近代医学の発展に尽くし、後に東京医学校の校長になる。橋本左内は越前出身で一般に志士としてのイメージが強いが、彼の本業は医者だ。越前藩の藩校の学長を務め、学制改革に力を尽くした。大村益次郎は日本国軍の創設者だ。佐野常民は佐賀出身で、後に日本赤十字社の創始者になる。高松凌雲は幕府の医官だった。幕府が倒壊した後、榎本武揚と一緒に箱館に行って戦い抜く変わった医者だ。しかし、明治維新後は政府の医学奨励に協力し、後に医療奉仕機関の同愛社を作る。箕作秋坪は有名なオランダ学者だ。福沢諭吉はいうまでもない。

 洪庵は1862年(文久2年)、幕府の度重なる要請により奥医師兼西洋医学所頭取として江戸へ出仕する。だが翌年、江戸の医学所頭取役宅で突然、喀血し窒息により死去、享年54だった。

(参考資料))百瀬明治『「適塾」の研究』、童門冬二「私塾の研究」、司馬遼太郎・緒方富雄「日本史探訪/国学と洋学」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

犬養毅・・・偶然が重なり首相になるが、軍部に暗殺された高潔の士

 犬養毅といえば「五・一五事件」で軍部に暗殺された総理大臣として記憶されている人物だ。だが彼自身、高潔にして毒舌の士で、この毒舌が様々な政敵をつくったが、それは決して政治家の頂点を目指すためではなかった。私生活では全く無欲の人で、細かいことには無頓着だった。そんな彼が総理大臣になったのは、いくつかの偶然が重なったのだ。犬養の生没年は1855(安政2)~1932年(昭和7年)。

 犬養毅は備中国賀陽郡庭瀬村(現在の岡山市北区川入)に大庄屋、犬飼源左衛門の次男として生まれた(後に犬養と改姓)。通称は仙次郎。号は木堂。慶応義塾在学中に郵便報知新聞(後の報知新聞)の記者として西南戦争に従軍した。
犬養は帰ってからの学費は、卒業まで社から毎月10円ずつ出してもらうという条件で、学校を休学して現地に赴いた。

彼が現地に着いたとき、ちょうど田原坂の激戦中だった。犬養の書いたルポルタージュは「戦地直報」というタイトルに「犬養毅」という署名入りで紙面を飾った。これは、鹿児島・城山が陥落するまで前後百数回連載されたが、何といっても実際に目撃した実況を書いたものだけに、非常に精彩があって大いに読者の歓迎するところとなった。

1890年(明治23年)の第一回衆議院議員総選挙で当選し、以後42年間で18回連続当選という、尾崎行雄に次ぐ記録をつくった。後に尾崎行雄とともに「憲政の神様」と呼ばれた。
 冒頭に述べた犬養首相誕生にあたって重なった偶然をみてみよう。犬養は1925年(大正14年)、自ら率いる「革新倶楽部」が選挙のたびに議席を減らすので、「立憲政友会」と合同した責任を取って政界を引退した。ところが、犬養の地元岡山の選挙民はこれに納得しない。そこで犬養の了承を得ないで、彼の引退に伴う補欠選挙で犬養自身を当選させてしまった。さらに、合同した立憲政友会の党首、田中義一総裁が急死するという偶然が重なった。

 立憲政友会は田中の跡目を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。そこで、党内の融和派が犬養を担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得したのだ。その結果、1929年(昭和4年)、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれてしまった。
 偶然はまだ続く。対立する民政党の瓦解だった。まず濱口雄幸総理が東京駅でテロリストに撃たれ、それがもとで退陣。後を継いだ第二次若槻禮次郎内閣も、1931年(昭和6年)勃発した満州事変を巡って閣内不統一に陥り、総辞職した。このころは現代の、昭和から平成にかけて50数年もの間、閣内不一致に陥ろうと、党内対立が起ころうとなりふりかまわず、党首をすげかえ政権をたらいまわししてきた自民党政治とは全く違う、かなり民主的な政治が行われていたのだ。

このころは、内閣が総辞職あるいは閣内が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第一党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。しかも、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持っていたことを評価して、昭和天皇に野党の立憲政友会の犬養を推薦したのだ。きちんとしたルールがあり、それを運用する人物たちがいた時代だ。このとき、犬養は数え年で77歳。確かに高齢ながら、こうして無欲で高潔の士、第29代犬養毅内閣総理大臣が誕生したのだ。

 しかし、犬養がその座にあったのはわずか5カ月間だった。1932年(昭和7年)5月15日、総理官邸で海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団に襲われ、暗殺されたからだ。犬養の無念の死だった
「五・一五事件」だ。犬養の死は大きな後遺症を残し、昭和史の分水嶺となった。五・一五事件の犯人たちは軍法会議にかけられたが、現職の内閣総理大臣を殺害したのに、なぜか極めて軽い処罰で済まされた。死刑が全く適用されず、数年後に全員が恩赦で釈放されるという軽い刑で処理されたのだ。このことが、4年後に起こった大掛かりな、軍部が引き起こした事件「二・二六事件」の遠因になったとみられる。

(参考資料)三好徹「日本宰相伝 官邸に死す」、小島直記「福沢山脈」

榎本武揚・・・幕臣で初めて海軍最高位・海軍中将になった男

 日本で初の陸軍大将になったのは西郷隆盛だ。そしてその頃、海軍の最高位の海軍中将に初めて任じられたのが榎本武揚だった。西郷は維新の元勲の一人だから当然としても、榎本は幕府海軍の司令官として、箱館五稜郭で官軍と戦った、敵将の一人だ。本来なら敗れた時、自刃していてもおかしくない。それが、後に海軍中将となり外務大臣となったのだから、これほど数奇な人生ドラマを体験した人は少ないだろう。

彼はまた海軍軍人であるとともに、技術官僚(テクノクラート)であり外交官であり、英・蘭・仏・独・露の五カ国語に通じ、さらに国際法から鉱物学、化学、地質学、気象学、電信技術に通じた第一級の人物だった。箱館五稜郭戦争で官軍の参謀、黒田清隆らが榎本の才能を惜しみ、維新後に必要な人材として降伏を勧めたのもうなずける。

 榎本武揚は天保7年(1836)8月25日、江戸下谷御徒町で、幕臣榎本円兵衛の次男として誕生した。幼名は釜次郎。父はもともと備後国安那郡箱田村(現広島県)の郷士で箱田円兵衛武規といったが、向学心に富んでいたので、江戸へ出て伊能忠敬の内弟子となった。そして彼は1000両出して御徒士で5人扶持55俵の禄高の榎本家の株を買って、榎本武兵衛の娘婿となって、幕臣の端くれに加わった。文政6年円兵衛は幕府の天文方に出仕する身となった。

文政10年、榎本の家付き妻が病死したため、後妻を迎え、その間に鍋太郎、釜次郎の二人の子供が生まれている。「鍋」と「釜」がついていれば生涯、食いっぱぐれがないだろう-というのが命名の理由と伝えられている。

釜次郎(後の武揚)は、儒者にしたいという父の願いで幕府の学問所に入学したが、途中で断念して技術関係に進みたいと考えるようになった。そして19歳の時、蝦夷地巡見使となった堀織部正の従者として蝦夷地へ赴く。幕臣の中では開明派に属する堀織部正は幕末初の外務官僚で、この良き先輩と北方領域を旅したことが、釜次郎の後半生を決定づける。

 安政3年(1856)、21歳の時、榎本は長崎に新設された海軍伝習所入りを命じられて、勇躍長崎へ向かう。幕臣ばかりでなく、薩摩から16名、長州15名、佐賀47名など各藩から優秀な人材が選抜されて入所した。幕府派遣の45名の中に勝麟太郎が加わっていた。ここで彼は航海と造船、砲術、機関術と測量術といった技術を修得する。

 文久元年11月、榎本らのアメリカ留学が決定された。ところが、当時アメリカで南北戦争(1861~65年)が勃発し、アメリカ政府は幕府からの軍艦注文と留学生受け入れを断ってきた。そこで、幕府は方針を変え、文久2年3月にオランダへ蒸気軍艦1隻の建造を注文し、同時に先に決定していた留学生を改めてオランダに派遣することを決めた。榎本27歳のときのことだ。15名の日本人留学生は文久3年4月の品川出港以来、11カ月の長旅の後、ロッテルダムに到着。その後、慶応2年(1866)までオランダで海軍軍人として必要な学科と実務を修得した。

 帰国した榎本は、幕府がオランダに発注し同国からの帰途、乗船した軍艦、開陽丸の船将を命じられた。榎本は32歳になっていた。この後、鳥羽・伏見の敗戦を経て幕府軍の立場は急転、十五代将軍慶喜が戦意喪失したため、薩長討幕派=官軍の前に防戦一方となった。江戸城での大評定で主戦派の小栗上野介を退け、和平派の勝安房守が主導権を手中にし若年寄、陸軍総裁に任命され、榎本は海軍副総裁となった。

勝が西郷隆盛東征軍参謀と江戸城明け渡しの交渉を進めているとき、榎本は艦隊を率いて抗戦すべく品川沖を出航した。そして、勝の制止、説得を振り切り、箱館五稜郭戦争まで突っ走ることになる。
 勝と榎本は共に外国をみてきているので、閉ざされた幕政のままでは、いよいよ日本は遅れるばかりと悟っていたはずだが、変わり身の速い、いわば先見性の豊かな勝に対して、榎本は現職に固執する融通の利かなさを多分に持っていた。政治家・勝に対して、技術家・榎本は幕府艦隊の長官という立場にこだわって、明治維新という時代の変化に乗り遅れたばかりか、むしろ取り残されてしまった。

 箱館五稜郭戦争での降伏、2年間の牢獄生活を経て明治41年、73歳で亡くなるまで、明治13年に海軍卿、後に初代逓信大臣、子爵、農商務大臣から外務大臣、枢密顧問官などを歴任した。彼は歴史の中心に位置した輝ける男の一人として終始した幸運児でもあった。

(参考資料)加茂儀一「榎本武揚」、邦光史郎「物語 海の日本史」 

尾形光琳・・・装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家

 尾形光琳は、後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家だ。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザインなどに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。

 尾形光琳は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の当主、尾形宗謙の次男として生まれた。光琳の生没年は1658(万治元年)~1716年(享保元年)。5年遅れて、陶芸家として名高い弟、乾山が生まれている。雁金屋は、祖父宗伯の頃には宮中御用を務めるほどで、京でも揺るぎのない富める商人であった。物心ともに豊かな環境に生まれ育った光琳は、幼いときから父に連れられ、二条関白家をはじめ公家の屋敷にも出入りし、よく能の相手を務めたという。豊かな情操の世界に遊んだ少年時代、後に花開く光琳の天分は、こうして蓄積されていった。

 光琳が30歳の時、父宗謙が死去。光琳の兄が家督を継ぎ、光琳は二つの家屋敷と能道具一式、それに大名などへの貸付証文などを譲られ、金利生活者として一生を送ることのできる保証を得た。しかし、彼は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を使い果たし、弟の乾山にも借金するありさまだった。光琳が40歳になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的困窮が一因だった。
 画家として立った光琳が常に思い浮かべるのは、呉服商だった生家、雁金屋の店先の華やかな打掛・小袖などの呉服の数々だった。この「美しきもの」が、少・青年期の彼の美意識の成長に大きな影響を与え、一生の拠りどころになったであろうことは容易に想像できる。彼が尊敬してやまない俵屋宗達が、その家業だった扇絵にその構成の基本を置いたように、光琳もまた「きもの絵」を忘れなかったようだ。

 1701年(元禄14年)、44歳の時、光琳は「法橋(ほつきょう)」に叙せられた。ようやく画家として世に認められた光琳だったが、能や茶の湯や音曲に日々を送り、遊里に通い詰める放蕩三昧の日々が続く。この頃には父より譲られた屋敷はすでになく、家宝を質入し借財も多かった。彼にとって快楽の追求は美の追求であり、親の遺産を食い潰し、食い潰すことを糧とする創作生活だった。この時代、芸術と称するものは公卿や武門の名家の貴族が育てた伝統だったことは確かだが、光琳の芸術は非常に貴族的であると同時に、その貴族を逆に眺め返している。商人としての本当の生活的なポイントから睨み返しているという要素がある。だから、いわゆる庶民的なバイタリティーを持つと同時に、貴族的な教養が絢爛として彼の血の中に流れているというわけだ。

 年号が宝永と改まった頃、光琳は江戸へ下向している。もう50歳近い。当時の江戸の人口は100万人。元禄前後の50~60年間に大名貸しの貸し倒れで破産した京の商人は50を数え、光琳の生家、雁金屋も破産した。江戸に迎えられた光琳は大名酒井雅楽頭の扶持を受けながら、制作に励む。しかし、江戸は光琳にとって、必ずしも居心地のよい場所ではなかった。やがて、50歳を超えた彼は京へ戻っていく。江戸は権力の中心であって、芸術の中心ではなかったのだ。

彼の二大代表作「紅白梅図屏風」と「燕子図屏風」の大作が、いずれも元禄も終末を迎えた頃から、さらに宝永・正徳と時代が下る晩年の作であることを思えば、この二点の作品は、光琳の晩年を飾るにふさわしい。

(参考資料)岡本太郎「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

大岡忠相・・・吉宗の信頼を得て「享保の改革」を支えた江戸町奉行

 一般に知られている江戸時代の「三大改革」のうち、最初に行われたのが八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」だが、江戸町奉行としてこれを支えた人物が、TVドラマでもお馴染みの、この大岡越前守忠相(ただすけ)だ。水戸黄門の水戸光圀などの例でも明らかなように、小説やTVドラマが伝えるものはいわば虚像であって、実像とはかけ離れている場合が少なくない。大岡忠相の場合は果たしてどうだろうか。

 大岡忠相は1677年(延宝5年)、旗本大岡美濃守忠高の十人の子供の中の七番目(四男)に生まれ、1686年(貞享3年)10歳のとき同族大岡忠真の娘のところに婿養子として入った。忠相が養子にいったころの実父忠高は奈良町奉行で2700石を知行し、養父忠真は御徒頭として1420石を知行していた。生家・養家ともに上級旗本で、彼の出発はいわば一定の出世を約束されたに等しい恵まれたものだった。

 1700年(元禄13年)、忠相は24歳のとき養父の後を継ぎ、26歳で初めて幕府の役職、御書院番に就いた。御書院番は戦時には将軍の身辺を守り、平時には江戸城の要所を守り、また将軍出行時にはその前後を守って随行する役だ。忠相がこの職にあった1703年(元禄16年)、江戸に大地震が起きた。震源地は小田原付近。死者は小田原でおよそ2300人、小田原から品川までの間で1万5000人、房州10万人、江戸3万7000余人といわれた。後の安政の大地震(1855年)、大正の関東大震災(1923年)とともに、関東地方を襲った地震の中でも最も規模の大きいものだ。忠相はこの地震の復旧作業に精励して功績があった。後の御普請奉行、町奉行への出世の足掛かりとなった。

 1704年(宝永元年)に御徒頭、1707年(宝永4年)に御使番、そして1708年(宝永5年)に御目付に進んだ。1712年(正徳2年)、山田町奉行に転じた。4年ほど山田町奉行を務め、1716年(享保元年)忠相は江戸に呼び返されて御普請奉行になった。吉宗が八代将軍になる直前のことだ。抜擢されて、世に名高い江戸町奉行・大岡越前守忠相となるのは1717年(享保2年)のことだ。

 江戸町奉行は京都町奉行・大坂町奉行・長崎町奉行・奈良町奉行・山田町奉行など幕府直轄の町を支配する町奉行の一つだが、江戸の場合だけは寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれて別格の待遇を受け、評定所の正規構成員として幕府最高の司法と行政に参与する高級閣僚の業務をも担当する特別官だった。

 忠相が江戸町奉行になったときは41歳、家禄は養父から引き継いだままの1920石だが、このころの江戸町奉行は大体1000石~1500石くらいの旗本が成っているので、異例のものとは言い難い。ただ、当時の町奉行は60歳前後の者が多かったから、41歳の忠相は早い出世といえる。彼はこの町奉行職に19年余という長期間就いている。吉宗が将軍だった間の町奉行の平均在職年数は9.27年で、忠相の場合はその倍を超えている。
 1736年(元文元年)、忠相は寺社奉行になった。60歳のときのことだ。江戸町奉行と勘定奉行は旗本が就くべき役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が就く役職だった。しかもこのポストは1658年(万治元年)以降は、将来徳川政権の首脳部(老中・若年寄・京都所司代・大坂城代など)になることを期待されて、その訓練・見習いを兼ねた幹部候補生という意味合いもあって、奏者番に抜擢された譜代大名の若手有能者の中から、さらに選ばれて兼務する名誉ある職だった。したがって、万石以上の譜代大名でもなく奏者番でもない、60歳という老旗本が寺社奉行になったということは、異例中の異例だ。

 1920石で江戸町奉行になった大岡忠相は、1723年(享保8年)「足高(たしだか)の制」が施行されて江戸町奉行が3000石相当の役職とされると、当然その不足高1080石を補われるが、1725年(享保10年)に2000石の加増を受けて3920石の家禄となり、足高の適用を外される。本来「足高の制」というのは、幕府財政に負担をかけないで人材を登用するために取られた措置なので、功労があっても加増はしないのが原則だから、忠相のこの大幅加増も異例というべきことだ。

 さらに寺社奉行に栄進したとき、新たに2000石を加増されて5920石の家禄となり、それに4080石の足高を加えて万石格となった。それから12年目の1748年(寛延元年)、足高になっていた分が加えられて、ここに正真正銘の大名となり、万石以上の譜代大名が奏者番となって寺社奉行を兼ねるという本来の姿になった。

 また、忠相は江戸町奉行・寺社奉行に付随する評定所一座という業務も「享保の改革」の全期間、幕府の機能中枢に当たるこのポストを占め続けた。このほか、1745年(延享2年)、23年間にわたって兼ねていた「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」の職の返上を願い出て、許されるまで務め続けている。農政はもともと江戸町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことであって、これをみても忠相がいかに吉宗から信頼されていたかが分かる。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、直木三十五「大岡越前の独立」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

小栗忠順・・・幕末、幕府軍の主戦派の代表、慶喜の説得に失敗 斬首される

小栗忠順は激動の幕末期、反幕府的な勝海舟らと対峙し、財政、外交、軍事に傑出した手腕を発揮した。明治新政府は幕臣であっても優れた人材を数多く登用した。ところが、不思議なことに横須賀造船所を建設し、日本海軍の礎を築いた先見と決断の人、小栗上野介忠順に対してはそうした動きは全くなかった。勝海舟の和平論に敗れた後に1868年、引退した彼が上州権田村・高崎烏川畔で、なぜ斬首されねばならなかったのか。

 1867年(慶応3年)12月25日、江戸の三田にある薩摩屋敷が幕府軍に攻撃され、全焼した。これが口火になって戊辰戦争になる。この薩摩屋敷攻撃は西郷隆盛が仕組んだもので、幕府軍がこの挑発に乗ってしまったというのが定説になっている。だが、西郷のこの挑発がなければ幕府に戦争の構えがなかったのか。いや、そうではない。幕府はやる気だった。この幕府のやる気を代表したのが小栗忠順、ときの勘定奉行だった。

 小栗は主戦派の先頭に立っていた。それだけに、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還が江戸に知らされたとき、彼は真っ先に「承服できん」と叫んだという。そのときから彼は薩長と戦う準備に入っていた。勘定奉行として軍資金の調達、戦略・戦術、あらゆる方面に手を打っていた。勝算も十分にあった。

後に、官軍の大村益次郎が小栗の戦略を知ったとき、「その通りにやられていたら俺たちの命はなかった」と驚いたという。大村のリップサービスもあるかも知れない。だが、小栗のプラン通りに幕府軍が動いていたら戊辰戦争はどうなっていたか分からない。いやもっといえば、戦況をそのように動かせるように、慶喜に納得させ、行動させることに小栗は失敗したのだ。雌雄を決する瀬戸際で工作に失敗した小栗は、官軍に無条件で降伏したが、殺された。そして、対照的に小栗の意見を退けた慶喜は殺されることなく、世が落ち着いてから華族になった。

 1855年(安政2年)小栗は28歳で家を継ぎ、30歳で御使番になった。30歳で世に出たのだから、かなり遅い。そして39歳で官軍に殺されるまでの10年間、何と70数回も職務を変わった。有能だった証明だ。自分から辞めたことも、辞めさせられたこともあった。辞めてもすぐに引っ張り出されるところが能吏たるゆえんだろう。同時に彼が他人と協調しにくい性格だったことも示している。彼は武術と、論語ぐらいは読んだだろうが、学問は実学だけをやった。

 1860年(万延元年)、小栗の身の上に画期的な事件が起こった。抜擢人事で目付に任命され、新見豊前守を正使とする条約批准使節一行の監察役として米国に派遣されたのだ。小栗32歳のことだ。

 小栗が家督を継いだ頃、油や砂糖の小売りから両替屋に切り替わった紀國屋の婿養子で店主となった三野村利左衛門が、店が小栗家のある駿河台のすぐそばの神田三河町にあったことから、小栗家に出入りするようになり、小栗家の財政運用にタッチしていたという。三野村は後に三井財閥の基を作った人物だ。

1862年(文久2年)、小栗が幕政三本柱の一つ、勘定奉行に初めて就いてから、三野村利左衛門との緊密な関係が作られていったのだ。
 冒頭に記した通り、引退して権田村に帰った小栗は官軍によって斬首された。旧幕府の高官で、有無をいわさずに官軍が処刑したのは小栗だけだ。小栗が幕府の主戦派の先頭に立って、「薩長とは断固戦うべき」と主張していただけに、いかに官軍に憎まれていたか、いかに恐れられていたかが分かる。
小栗は官軍からの呼び出しがくると、自分の身辺が危なくなってきたと判断。母の国子、妻の道子らを会津へ落ち延びさせた。道子はそのとき身重だった。道子は会津で一女を産んだが、会津落城とともに東京へ密かに戻り、三野村の保護を受けた。三野村は東京へ置いておくのは危ないと判断して静岡へ送り、箱館で降伏した榎本武揚らが無罪放免になったのをみてから、深川の自宅に引き取った。三野村は明治10年胃がんで病死するが、その前に彼は大隈重信に小栗の遺族のことを託した。また、自分の家族には、小栗家の人たちの生計費を出すように遺言した。

(参考資料)大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、三好徹「政商伝」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、小島直記「人材水脈」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

岩倉具視・・・下級公家の出ながら、明治の御世は朝廷内を牛耳る

 岩倉具視は幕末、王政復古を策した維新の元勲だが、人気の乏しい政治家の一人だ。この点は大久保利通も同様だが、いろいろな毀誉褒貶をかなぐり捨て、非常に緻密な計算を立てて、しかも国家百年の大計みたいなものを見通すと同時に、絶えずいろいろな情報を集めて、その中で自分はどう動くかという役割をしっかりと踏まえて生きた。日本の宮廷政治家の中で、これほどしたたかに権謀術数を思うままに駆使した人は、後白河法皇と岩倉具視の2人だろう。

岩倉具視は幕末、幕府の威信が低下、幕閣で公武合体で乗り切ろうとする動きが活発になってきた頃から表舞台に登場し、途中5年間ほどの蟄居生活を送った期間はあったが、下級公家の出でありながら、朝廷内で指導的な立場を保持して伸し上がり、明治天皇の御世には京都朝廷の中は彼の独壇場だった。

 岩倉具視は公卿・堀河康親(180石の下級貴族)の次男として京都に生まれた。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。贈太政大臣、贈正一位。生没年は1825(文政8年)~1883年(明治16年)幼い頃から朝廷儒学者、伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。1838年(天保9年)、満13歳のとき、岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい「岩倉具視」となった。

 岩倉家の家格は村上源氏久我家の江戸時代の分家で、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる150石の下級の公家だ。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元して免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も、とくになかったので、家計は大多数の公家と同様、常に裕福ではなかったという。

 1854年(安政元年)、歌を詠むことを口実に、五摂家の一つ、鷹司政通に取り入り、その推挙により遂に孝明天皇の侍従の地位を獲得する。岩倉、30歳のことだ。それはペリーが日米和親条約締結に成功した年だ。1858年(安政5年)、米国はさらに日米通商条約を政府に迫った。窮地に立った幕府は、条約締結の勅許を求めて、老中堀田正睦を京都朝廷のもとに送る。岩倉が公家の中で頭角を表すのがこの時だ。

岩倉は幕府の苦境に乗じて、朝廷の権威回復を図ろうと考えた。そして、日米通商条約の勅許が幕府に下されるのを阻止すべく立ち上がるのだ。中山忠能を先頭とする条約調印に反対の立場の公卿88人が参内して、勅許に抗議する阻止行動がそれだ(八十八卿列参事件)。列参は慣習違反というか違法行為だが、岩倉は必要なら直接、武家と接触したり、平気で禁令など乗り越えられる、枠に捉われない人物だった。彼は一晩に100人の公卿を訪問し説得して回ったという。岩倉の策謀は成功し、勅許は下されなかった。その結果、時の大老井伊直弼の独断での条約調印となってしまったのだ。

 岩倉は生涯に何度か歴史を動かす意見書を提出しているが、中でも知名度の高いのが『和宮御降嫁に関する上申書』。これは、孝明天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものだ。この上申書で岩倉は、今回降嫁を幕府が持ちかけてきたのは幕府の権威がすでに地に落ち、日に日に人心が離れていることに幕府自身が気付いており、ここで朝廷の威光を借りて幕府の権威を何とか粉飾しようという狙いがあると分析。

岩倉は今は「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだ。そして朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。したがって、今回の縁組は幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論した。幕府の政略結婚の申し入れに、孝明天皇はじめ宮中の要人は強硬に反対を唱えたが、岩倉はひとり和宮降嫁に賛成したのだ。
 1867年(慶応3年)、岩倉は蟄居生活から5年ぶりに赦されて、宮中に参与として復帰。王政復古のクーデターが起こったのは、まさにその日だった。西郷隆盛、大久保利通、そして岩倉が首謀者だった。薩摩、土佐、尾張、安芸、越前の兵が、一挙に京都御所を押さえ、「王政復古の大号令」を発したのだ。

しかし、その夜行われた将来の方針を決める、いわゆる小御所会議では徳川慶喜の「辞官納地」をめぐる賛否で意見が対立。会議は深夜に及んだが、岩倉側が押し切り慶喜の辞官納地を決めた。幕府側はこれを不服とし、兵を挙げる。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争だ。しかし、時代の大勢はすでに決まっていた。

 明治維新後の岩倉は、その死に至るまで天皇の権威確立と保持に心を砕いた。明治憲法の骨子も彼によって作られた。明治維新は大久保なしでは成功しなかった。と同時に大久保と呼応する形で、朝廷の側に岩倉がいなければ薩長対幕府という武力政権同士の争いで大混乱し、収拾のつかない争いに終わっていたかも知れない。

 明治新政府の閣僚決定に際して、岩倉は最高位の太政大臣に自分より身分の高い公家、三条実美を推し、政治の実権は大久保利通に任せ、自らは表に立つことはなかった。1883年(明治16年)、岩倉は59歳でこの世を去った。彼の葬儀は国葬の第一号として、盛大に行われた。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、城山三郎・小西四郎「日本史探訪/幕末の英傑たち」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、豊田穣「西郷従道」

大久保一翁・・・勝海舟の出世の方途を開き、江戸無血開城に貢献

 大久保忠寛(隠居後は一翁)は幕末時、勝海舟とともに政局混乱終息に動いた幕臣だが、勝が重要な政局収拾にあたったため、彼の名は勝ほど知られていない。ただ、彼は幕府存続のため大政奉還を前提とした諸大名による会議、つまり議会制の導入を早くから訴えるなど、先見の明を持っていた。江戸無血開城に貢献したため、勝海舟、山岡鉄舟とともに「江戸幕府の三本柱」ともいわれる。生没年は1818(文化14)~1888年(明治21年)。

 大久保忠寛は旗本大久保忠尚の子として東京で生まれた。幼名は市三郎、忠正。隠居後、一翁(いちおう)と号した。第十一代将軍家斉の小姓を務め、1842年(天保13年)家督を相続した。1854年(安政元年)、老中阿部正弘に登用され目付兼海防掛となった。以後、蕃所調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などを務めた。ところが、「安政の大獄」の際、大老井伊直弼の厳しすぎる処分に反対したため直弼に疎まれ、遂に罷免された。しかし、井伊直弼が暗殺された後、1861年(文久元年)再び登用され、蕃所調所頭取、外国奉行、大目付、側御用取次などの要職を歴任した。

 大目付は元来、目付と分業になっていたのだが、このころ目付を配下に組み入れるように変更されたから、大目付兼外国奉行は大変な権力だ。内務次官と外務次官を兼ねているようなものだ。また、側御用取次は旗本が就任し得る最高の地位といっていい。老中と将軍の間を取り次ぐため、その間に自分の意見を織り込むことも可能で、幕府の最高意思決定に介入できるのだ。このため権勢も老中に匹敵した。

 大久保の重要な功績の一つとして指摘しておかなければならないのは、幕末の幕府側のキーパーソンの一人、勝海舟の出世の方途を開いたことだ。1854年(安政元年)、大久保は意見書を提出した勝海舟を訪問。場所は赤坂の田町、勝はそこで蘭学塾を開いていたのだ。大久保が38歳、勝が32歳のときのことだ。会った大久保はこの男ならと、その能力を見い出し、老中阿部正弘に推挙して、勝を登用させたのだ。このことがなければ幕末、後の勝の出番はなかったか、あるいはあったとしても、もっと遅く小さなものになっていただろう。とすれば、後世の歴史は少し違ったものになっていたかも知れない。

 大久保は第十四代将軍家茂に仕えたが、政事総裁職となった越前藩主松平慶永らとも交友し、外国事情に関心を持つ開明的幕吏として、長州征伐などを批判し、早くから大政奉還も説いた。この大政奉還は幕府存続のためで、彼は諸大名による会議、つまり議会制の導入を第十五代将軍慶喜にも進言している。

 大政奉還は土佐藩の建白を慶喜が受け入れたものだが、土佐の建白の種を蒔いたのは周知のとおり坂本龍馬だ。そして、その龍馬に大政奉還論を教えたのが実はこの大久保なのだ。大久保が龍馬に会ったのは文久3年4月で、江戸の屋敷に引き籠もっている大久保を龍馬が訪問したのだ。このとき龍馬は勝に従って京都・大坂方面で活躍していた。神戸海軍操練所の設立が決まる直前の時期だ。その3月末から4月初めにかけて、勝は上方に残り、弟子の龍馬が幕府軍艦順動丸で江戸へ往復した。大久保のところへ行ったのは、勝に代わって上方の情勢を報告するためだった。

 1867年(慶応3年)、幕府崩壊後も大久保は幕府会計総裁として戊辰戦争の始末にあたる一方、新政府側からも旧幕府へのパイプ役として重んじられた。勝海舟、山岡鉄舟らとともに江戸無血開城実現に寄与したほか、のち静岡県知事、東京府知事(第五代)、元老院議官などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

尾崎行雄・・・63年間議員を務めた「憲政の神様」「議会政治の父」

 尾崎行雄は日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、この間、第一次大隈(隈板)内閣の文部大臣、東京市長、第二次大隈内閣の司法大臣を務めた。しかし、そうした閣僚経験よりも、彼を表現するにふさわしい呼称がある。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの日本記録を保持していることから、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれるのだ。彼はその95年の生涯を民主主義と議会政治の確立に捧げた。とくに、金権政治の排撃に努めた。生没年は1858(安政5)~1954年(昭和29年)。

 尾崎行雄は相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市津久井町又野)に生まれた。11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父、行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾に学び、一家も1871年(明治4年)に高崎へ引越し、地元の英学校にて英語を学んだ。そこで初めて「学校」に入った。1872年(明治5年)度会県山田(現在の三重県宇治山田市)に居を移した。尾崎も宮崎文庫英学校に入学した。

尾崎は1874年(明治7年)、弟とともに上京し慶応義塾童児局に入学するやいなや、塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下位から最上級生となるが、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して退学し、染物屋になるため、1876年(明治9年)に工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学するも、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩の横暴を批判する投書をはじめ、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶応義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三国演説館で演壇に立つなどした。

尾崎は、1879年(明治12年)には福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆になった。1882年(明治15年)、『報知新聞』記者となり、大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年(明治20年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた。その後、咢堂に改めた。

 尾崎は1890年(明治23年)、第一回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくった。彼はこの間、クリーンな政治家を見事に貫いた。63年も議員を務めていて、一度も総理にならなかったのは、彼が純粋すぎたからだともいえる。それだけに敵も多く、何度も暴漢に襲われたり、警察ににらまれたり、様々な妨害に遭ったが、生涯これに屈することはなかった。

 身長157cm・体重34kgの尾崎を支えた3人の女性がいた。最初の妻、繁子、死別後、迎えた二番目の妻、テオドラ、そして看護婦でその後、家政婦となって仕えた服部文子だ。これら3人の女性の支えなくしては、今日伝えられる尾崎の生涯はなかったろう。

 米国ワシントン・ポトマック公園に見事な桜並木がある。尾崎が東京市長時代(1903~1912年)の明治45年、日米友好の証としてワシントン市に贈った桜が世界的な「桜の名所」となっている。
(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本

一休・・・カラスの鳴き声を聞いて大悟 風狂の人生を送った名僧

 一休は世間の常識や名誉欲・出世欲から離れて生きた禅僧だ。後小松天皇の落胤といわれる一休が、いかにして悟りを開き、独自の思想を築き上げていったのか。一休の生没年は1394(応永元)~1481年(文明13年)。

 一休宗純は京都・嵯峨の民家で生まれた。幼名は千菊丸、長じて周建の名で呼ばれ、狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号。父は後小松天皇、母は南朝の公卿の娘だったという。後小松天皇は、南朝と北朝とが一つになったときの北朝の天皇だ。南朝最期の天皇、後亀山天皇が京都に遷り、嵯峨の大覚寺に入られたのが1392年(元中9年)10月2日。10月5日には神器を後小松天皇に授けて、ここに南北朝の争いに終止符が打たれたのだ。その2年後に一休が生まれたことになる。

 一休が天皇の落胤でありながら、嵯峨の民家に生まれ、僧として生涯“風狂”の生活を営んだというのも、その出自に原因がある。南北朝が統一されたころはまだ、宮中も南朝方に対する敵対意識も取り去られてはいなかった。一休の母が南朝方の血をひいていると分かると、後小松天皇がどんなに深くその女性を愛していたとしても、いや深く愛していたればこそ余計に、宮中にいられなくなるようにされたのだ。こうして一休は、父の顔を知らず、父の名を口にしてはならない人間として、嵯峨の民家に生まれたのだ。

 将軍足利義満は統一された両朝が再び分裂することを恐れた。その原因になりそうなものはすべて排除されなくてはならないと考えた。このとき、最もその原因になりそうな存在がこの千菊丸だ。そして、6歳の年に寺に預けることでけりがついたのだ。京都・安国寺の長老、像外鑑公(しょうがいかんこう)の侍童となり、周建(しゅうけん)と名付けられた。この小僧時代のことを材料にして作られたのが『一休頓智咄(とんちばなし)』だ。恐らくほとんどが後世の創作だろうが、当時の周建に、そういう片鱗がなかったとはいえない。

13歳のとき周建は、東山の慕_(もてつ)禅師について漢詩をつくることを学んだ。そのころから彼は、毎日一首の詩を作ることを自分に課していた。これによって詩才は磨かれ、漢詩「長門春草」、15歳のとき作った漢詩「春衣宿花」は洛中の評判となり賞賛された。

 1410年(応永17年)17歳のとき、西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんのうそうい)の弟子となり、戒名を宗純と改めた。5年間みっちりと仕込まれたのだ。ある日、謙翁は「わしの知っている限りのことはお前に授けた。もはや教えるべきことは何もない。しかし、わしは師から悟ったという証明をしてもらっていないから、お前が悟ったという証明もしない」と周建にいった。謙翁の師は妙心寺の無因(むいん)禅師だ。無因禅師が謙翁の悟境を認めて印可しようとしたとき、謙翁は固く拒んで受けなかった。それに値しないと謙遜したのだ。こういうことは当時珍しいことだったので、周囲の人はこの人を謙翁(謙遜する翁)と呼んだのだ。この後まもなく謙翁は死んだ。周建がこの師を失ったことは大きな打撃だった。21歳の周建は石山観音に参籠し7日間、必死に祈った。だがどうにもならず、遂に彼は瀬田の唐橋から身を投げようとした。しかし、彼の身を案じた母が密かに見張らせていた下男が抱きとめて、この投身自殺は失敗に終わった。

 1415年(応永22年)、京都・大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となった。そして5年後の1420年(応永27年)のある夜、カラスの鳴き声を聞いて、俄かに大悟したという。華叟は印可状を与えようとしたが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後、一休宗純は退廃した仏教界の慣習を次々破り、戒律を無視して、肉食もすれば、女も抱く。名刹の住持になるよりも、一所不在-ある時は京にはほど遠く、ある時は山の奥深くに庵を結んで、定住はせず、詩・狂歌・書画と風狂の生活を送った。

 1474(文明6年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の第47代住持に任ぜられ、寺には住まなかったが、再興に尽力した。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。自由奔放で奇行が多かった。1481年、一休宗純は88年の生涯を、酬恩庵(通称「一休寺」、京都府京田辺市)で閉じた。
 一休宗純が遺した言葉に、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」(狂雲集)などがある。

(参考資料)紀野一義「名僧列伝」、水上勉「一休」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

大久保利通・・・近代日本が生んだ第一級の政治家で日本の官僚政治の始祖

 大久保利通は、近代日本が生んだ第一級の政治家だ。周知の通り、西郷隆盛、木戸孝允と並び称される「明治維新三傑」の一人だが、日本の官僚政治の始祖といっていいかも知れない。冷徹な計画性、着実な行動力、感情におぼれることのない理性など、官僚政治家に求められる資質を備えた第一級の人物だったことは間違いない。大久保の生没年は1830(天保元)~1878年(明治11年)。

大久保は明治政府にあって、近代国家日本の基礎を、ほぼ独力で創始した。期間にしてわずか11年。厳密には」欧米列強への歴訪を終えて帰国した1873年(明治6年)から、紀尾井坂で暗殺される1878年(明治11年)までの5年ほどの間に、「富国強兵」「殖産興業」の二大スローガンに代表される、日本の方向、性格を決定づけたといっても過言ではない。

 大久保は「内務省」を創設し、一部エリートによる独裁をもって、日本の国力を短時日に欧米列強へ追い付かせるというプロジェクトを策定した。そのために、「薩長に非ずんば人に非ず」とまでいわれた藩閥政治の時代にあっても、非藩閥出の人々も含め、実に効率よく適材適所にあてはめている。それが様々な問題点を抱える人物であっても、明治国家にとって必要な人材と判断すれば、あえて火中の栗を拾うように、その人物を庇い同僚の参議たちに頭を下げた。 
  
黒田清隆や山県有朋らはその好例だ。黒田清隆は戊辰戦争において五稜郭攻めの司令官を務め、敵将の榎本武揚、大鳥圭介らを降伏させ、後に助命嘆願を周旋。しかも、彼らを政府に出仕させる離れ業までやってのけた。だが、黒田には一定量を超すと人が変わり、何をしでかすか分からない、恐ろしいぐらいの酒乱癖があった。

山県有朋は幕末の長州藩に、しかも奇兵隊に参加していなければ、恐らく歴史に名をとどめることはなかったろうと思える程度の人物だった。それが、藩内の動乱期(長州征伐)、高杉晋作、大村益次郎という天才軍略家を相次いで担ぎ、その下で着実に地歩を築き、明治以後、長州藩の恩恵でいきなり陸軍中将となったのだ。大村が暗殺され、山県には大村がやり残したことを仕上げる役割が残された。しかし、山県への風当たりは強く、金銭に汚いとの個人的悪評も重なって、味方であるはずの長州藩の木戸孝允からも嫌われた。そんな“奸物”、権謀術数をもっぱらとした山県を、大久保は重用した。

薩長閥出身者はいずれもひと癖もふた癖もあり、性格的にも問題のある人物が少なくなかった。一方、非藩閥出の人々は逆に、優秀で実直な人物が数多あったが、彼らにはその力量を発揮すべきポストが与えられにくかった。

 能力第一主義。大久保は欠点に優る長所があれば、多少のリスクを犯してもそうした欠陥人間をも登用、抜擢して用いる、そんな割り切り方をした。盟友の西郷隆盛は、大久保のこのやり方を不愉快に思い、木戸孝允は声を荒げて非難した。だが大久保は、西郷や木戸にもなんら抗弁もせず、そのやり方を変えることはなかった。

 大久保は1878年(明治11年)、紀尾井坂で西郷崇拝の加賀の青年、島田一郎・長連豪・脇田巧一らに暗殺され非業の死を遂げた。大久保はぜいたくな生活をしていたので、御用商人などから収賄して、ずいぶん巨額な財産を残しているだろうと思っている人が多かった。しかし、死後、遺産整理してみると現金わずかに数百円、借財が8000円余もあった。そして、その貸主は全部、知己・朋友で、癒着していると思われた富豪・御用商人などは一人もいなかったという。大久保が登用した人物には金銭的に随分、富豪・御用商人との癒着が指摘された者も少なくなかったが、自身は間違いなく清廉潔白の人だったのだ。

 大久保は薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)で、琉球館附役の薩摩藩士、大久保次右衛門利世と皆吉鳳徳の次女ふくの長男として生まれた。幼名は正袈裟(しょうけさ)、のち正助、一蔵。一蔵がよく知られている。家格は御小姓組と呼ばれる最下級武士。幼少期に大久保一家は甲突川を隔てた下加治屋町に移り住んだ。ここは島津家の下級武士の住む町で、70軒ぐらいの戸数だったが、ここから西郷隆盛・従道兄弟、日露戦争のときの陸軍の大山巖、海軍の東郷平八郎など、明治を飾る偉人が多く輩出したことで有名な町だ。

(参考資料))海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」松永義弘「大久保利通」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、加来耕三「日本創始者列伝」、「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史(文芸春秋編)、安部龍太郎「血の日本史」

織田信長・・・情報収集力・活用力に長けた、徹底した合理主義者

 織田信長は戦国時代、群雄が割拠する中で、いち早く“天下布武”のスローガンを掲げて天下統一を目指した武将だ。そして、安土に壮大な居城を築き上げ、天下取りを目前にしたとき、彼は天皇より上位に立とうとし、遂には「余が神である」といい、神に成ろうとした戦国時代では稀有な人物だ。日本人離れした、近代精神を兼ね備えた思考と行動で、まさに時代を駆け抜けた英雄・信長。そうした思考と行動はどこから生まれたのか?

 結論を先に言えば、信長は情報収集力・活用力に長けた、神仏も来世も信じない徹底的な合理主義者だった。このことが彼を天下人に押し上げた最大の要因だ。情報は、常日頃からスピードと正確さを備えた伝達回路を持っていなければ、いざというとき役に立たない。そのため、信長は同時代を生きた諸国の大名や武将とは、かなり異なった動き方をする。

例えば敵地を偵察させる場合、個人に物見に行かせるのではなく、麾下の武将に一軍を率いて敵地に強行侵入させ、状況を直接、肉眼で観察させるのだ。これだと敵陣深く潜行するため、キャッチする情報が正確だ。当然情報量も多い。とりわけ信長は迅速を尊んだ。織田家の武将たちは、こうした信長の情報戦略の中で鍛えられていた。

 その結果、織田軍団は上から下まで、情報の重要性を十分に認識することができ、トップへの情報伝達は全くといっていいほど疎漏がなかった。ちょっと信じ難いことだが、時には信長にとって聞きたくないようなことまでも、織田家ではいち早く伝える家風ができ上がっていたという。織田家の中核を担う情報・伝達将校の“母衣衆”は、そのための専門職でもあり、その選定にあたっては、私的な利害得失に拘泥しない、諫言・論争も辞さない人材が登用されている。後に加賀百万石を領した前田利家は、二つあった母衣の一方、赤母衣衆の筆頭を務めた人物だった。

 信長が、あの有名な桶狭間の合戦に勝利し得たのも、奇跡でもなければ、幸運が重なっただけのものでもない。敵将・今川義元が何処にいるかを、いち早く、的確にキャッチし得た、常日頃の情報管理があったからこそ成し得たのだ。

また、信長の生涯における最大の危機ともいえた金ヶ森の退却戦=第一次朝倉征討において、義弟・浅井長政の裏切りに遭い、九死に一生を得たのも、凶報の情報伝達の早さ、正確さと、それに機敏に反応した信長であればこそ、無事生還できたのだ。これらの要素の一つでも欠けていたら、朝倉・浅井連合軍の挟み撃ちに遭い、織田軍団は少なくとも壊滅的な打撃を受けていただろう。

 もっといえば、武田信玄や上杉謙信の死を他に先んじて確信できたのも、信長なればこその情報収集力・活用力だった。当時の戦国大名の多くは、格上の信玄や謙信の動向を恐れ、見えない影に怯えていた。

 信長は宗教が幅を利かせる「中世」の徹底的否定者だった。彼が青年期、父・信秀の葬儀に異様な風体をして現れ、仏前に抹香を投げつけたのも、後年、天下統一の邪魔をする宗教的権威・比叡山を焼き討ちにし、一向一揆で多くの門徒を殺したのも、近代という時代が中世的、宗教的権威の完全な否定の上にしか、築かれないことを示そうとしたのではないか。

(参考資料)今谷明「信長と天皇」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」、井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本創始者列伝」、海音寺潮五郎「武将列伝」、梅原猛「百人一語」、津本陽「創神 織田信長」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「覇王の家」、司馬遼太郎「この国のかたち 一」、童門冬二「織田信長の人間学」

笠原良策・・・幕末、私財を投げ打ち種痘を成功させ、天然痘予防に尽力

 笠原良策は蘭方医学に通じ、福井・越前藩の町医ながら、8世紀に日本に侵入し、恐るべき感染力で大流行を繰り返し、おびただしい人命を奪った日本の天然痘予防に尽力、医業も私財も投げ打っての苦闘のすえ、種痘を成功させた人物だ。良策の生没年は1809(文化6)~1880(明治13年)。

 笠原良策は福井の医師、笠原竜斉の子として生まれた。名を良、字を子馬、後に白翁と号した。15歳で福井藩医学所済世館に入り、漢方を学んだ。20歳で江戸に出て磯野公道について古医方を学び、23歳のとき福井に戻って開業した。27歳のとき山中温泉で大武了玄という蘭方医と知り合い、啓発を受けて蘭方への志を絶ち難く、京都の大蘭方医と称されていた日野鼎哉(ひのほうさい)の門を叩いて入門を許された。良策の勉学ぶりは真剣そのもので、たちまち頭角を現した。

 ところで1796年、イギリスのジェンナーは牛も天然痘にかかり、人間にもうつるが、症状が軽く発病しないうえに、一度かかると一生、天然痘にかからないことに注目し、種痘に成功した。そこで、日野鼎哉、笠原良策の師弟は日本にも種痘を普及させねばならないと一念発起した。しかし、これが日本に伝わり、天然痘の予防法として広まるには笠原良策らの、長期にわたる献身的な努力が必要だった。

 まず第一の難関が痘苗(とうびょう)の入手だ。長崎で種痘が成功を収めていることを知った良策は、1849年オランダ人の医師オットー・モーニッケがもたらした、液状の痘苗を入手した。福井越前藩の名君の誉れ高い松平春嶽に、鎖国下の日本にあって牛痘病の輸入を嘆願してからすでに3年の歳月が流れていた。それは医業も私財も投げ打っての苦闘の連続だった。まず液状の牛痘病で失敗した良策は、次に保存性の高い牛痘のかさぶたを使うと、今度は見事に登痘させることに成功した。そこで彼は日野鼎哉らの協力で、京都に種痘所を設けた。1849年9月ごろのことだ。

 京都で100人以上の子供に種痘を済ませたころ、その噂を耳にした名医の緒方洪庵も大坂に種痘を広めるために良策のもとを訪れている。しかし、京都で成功を収めた種痘も、福井では簡単に広まらなかった。同年11月いよいよ福井へ伝苗する。だが、障害は多い。それは未知のものだけに、痘苗を植え付ける恐怖がどうしても先に立つなど、多くの困難が立ちはだかったからだ。それでも良策らは伝苗にあたり、より確実な人から人へ植え継ぐ方法をとった。

 当時の医術では痘苗の保存は一週間が限界で、種痘を施した子供の腕に発痘がみられると、滲み出る膿を採って新たな痘苗とし、一週間以内に他の子供に植え付けるという作業を繰り返さなければならなかった。良策は京都から福井までの旅程一週間を考慮し、京から二人、福井から二人の幼児を雇い、未知の種痘に怯える幼児の両親を含め、総勢14名で京都を発った。

 季節は11月、積雪がないと異常気象とされる山岳地帯を、女子供を連れての旅は困難を極めた。京都→大津→草津→米原と経由し、そこで京童から福井童への種痘が行われた。このときも子供の両親が未知と天然痘への恐怖から説得に難渋したこともあったが、何とか種痘は行われた。役目を終えた京童とその両親はここで引き返した。ここからは山岳地帯を越えての福井入りだったが、ただでさえ雪深い栃ノ木峠が当時は六尺(2・)もの積雪があり、これに加え猛吹雪が一行を襲い、遂に日没を迎え遭難寸前のところへ追い込まれた。

しかし、事前に連絡を受けていた虎杖(現在の板取)の村落の人々が良策一行を心配し迎えにきていたため、危ういところを救出された。虎杖で一夜を過ごし、翌朝村を発ち、その日のうちに今庄へ着き、路上で計画通り府中(現在の武生市→越前市)の斎藤策順、生駒耕雲、渡辺静庵の三人の医師の子供たちに種痘を施した。京都を発って七日目、こうして良策の決死の雪中行は終わった。安政2年、藩医学所済世館の東に除痘館が併置された。

 良策はその後、嘉永6年までに6595人に種痘をし、その中で天然痘に感染したのは三国港の小役人鷲田楢右衛門の子供一人のみで、他は一人残らず感染から免れた。良策がもたらした種痘はその後、各地へ広がっていった。鯖江藩、大野藩、そして加賀藩金沢、富山、敦賀、勝山、丸岡、金津、三国などへも福井から分苗され、多くの人命を救った。

(参考資料)吉村昭「雪の花」、吉村昭「日本医家伝」

空海・・・密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域まで高めた天才

 弘法大師空海は日本仏教史および文化史の上に偉大な足跡を残している。空海の意図した宗教的世界は、周知の通り真言密教と呼ばれる。密教はインドに発したもので、実に難解な内容を持つが、東洋の仏教思想史上、その密教に独創的な教理体系をもたらし、完成の域にまで高めたのが空海だ。

 真言宗の開祖・空海は讃岐国多度郡屏風ヶ浦(現在の香川県善通寺市)で、父佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)、母阿刀大足(あとのおおたり)の娘(または妹)の三男として生まれた。幼名は眞魚(まお)。俗名は佐伯眞魚(さえきのまお)。生没年は774(宝亀5)~835年(承和2年)。能書家としても知られ、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。

789年(延暦8年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師だった母方の舅の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学んだ。792年(延暦11年)18歳で京の大学寮に入った。ところが、大学に入って一年後のことか、三年後のことか、時期ははっきりしないが、空海は突如として現世的栄達に背を向け、大学からも去って、山林修行に邁進し始めるのだ。

 そして、804年(延暦23年)正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る直前まで、御厨人窟(みくろど、高知県室戸市)、吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行に明け暮れたといわれる。ただ、この修行時代の詳細も、入唐直前まで私度僧だった空海が突然、留学僧として浮上する過程も、今日なお謎を残している。
 ただ、後の空海の行動や成し遂げた事績から推察すると、彼はいわばこの空白の期間に、諸経典のみならず南都六宗の教義、とりわけ密教につながる華厳教学に関してほぼ通暁するまでになっていたと思われる。また中国語やサンスクリットを修得したのもこの期間だったのではないか。さらに、空海を密教へ導いた密教の根本経典『大日経』との出会いもこの期間のことのようだ。

 いずれにしても、20数年ぶりに派遣される第16次遣唐使の一員、留学生(るがくしょう)として空海は渡航することになった。この遣唐使船(4艘で編成)には最澄が桓武天皇の信任を受け、留学生より格上の還学生(げんがくしょう)として、短期間滞在して天台教学を究めるため乗り込んでいた。

 空海の真の目的は真言密教を投網で打つように体系ぐるみ日本にもたらすところにあったが、このことは官に明かしていなかった。真言密教を体系ぐるみ導入するというのはひらたく言えば買ってくることなのだ。
 長安の諸寺を周遊した後、空海は青龍寺の恵果(けいか)と巡り合い、遂に正師と仰ぐべき名僧と確信。一方、恵果も空海の来訪を大歓迎したといわれる。中国密教の第一人者が、異国の僧をたった一度引見しただけで、たちまちその器を見抜き、空海を恵果自身が感得した正統密教の継承者として意識したのだ。このとき恵果は60歳で、健康に衰えがみえ、そろそろ後継者を選ばなければならない時期に直面していた。だが、弟子は1000人余いたものの、期待を託すに足る者といえば義明(ぎみょう)という弟子一人しか見当たらず、しかもその義明は病身だった。そんなところへ、思いがけず空海という大器があらわれたのだ。それは恵果にとっても、空海にとっても、ともに大きな幸運だった。

 恵果は空海が入門してほどなく、胎蔵界の学法灌頂(かんじょう)、金剛界の灌頂を授け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えた。さらに恵果は、まだ愛弟子の義明にも許したことのない伝法阿闍梨位の灌頂を遂に空海に授けた。こうして恵果から空海への伝法はここに成就したわけだ。

 留学生は20年の滞留を義務付けられているが、空海はこの1年余の間に目的のほとんどを達した。師恵果からも一日も早く故国に帰り、国のため万民のため密教を伝える算段をせよ-といわれている。空海という比類ない天才は、官から頂戴していた20年留学という分だけの砂金を、2年に短縮すれば集中的に大量に使うことができると判断したことだ。そして、空海の奇跡は一介の留学生にしてそれをやってのけたことだ。むろん、買って済むわけではなく、それらを理解しなければならないが、この点で空海の天才性はいうまでもない

 空海は、新訳などの経すべて142部247巻、梵字真言讃などすべて42部44巻、論疏章などすべて32部170巻、以上合計216部461巻に及ぶ経典、仏典を筆写、蒐集して持ち帰った。ほかに仏・菩薩・金剛天などの像、法曼荼羅、三昧耶曼荼羅、そして仏具・道具類などもあった。このために空海は大勢の写経生を雇い入れ、それはあたかも写経工場のようなものだったはずだし、仏像の制作に至っては多種類の工場を、一時的ながら空海は稼働させたことになったはずだ。金属製の仏具を改めて鋳造・彫金しなければならないから、空海が雇った仏師や画工は、下働きを含めて数百人といった規模になったのではないかとみられる。

 真言密教を体系ぐるみ持ち帰った空海を世の人々が注目するようになり、彼 が最澄とともに平安仏教界を指導する双璧となったのは812年(弘仁3年)、高 雄山寺における灌頂がきっかけだった。空海は嵯峨天皇に度々、そのひとつ一 つに心を込めた文章を付した贈り物をした。また同時並行して最澄との交渉も 頻繁に持った。これは主に書簡を介してのものだが、最澄の方が積極的だった ようだ。
これは遣唐使として入唐した際、中国ではすでに天台教学が斜陽化しつつあ り、密教が最新の仏教として脚光を浴びている状況だったのに、天台教学や禅を学んだ後、最澄が密教の典籍・法具などを伝承するとともに、金剛界・胎蔵界の灌頂を受けるなど、密教の資料収集や研修に時間を割けたのはわずか1カ月余に過ぎなかったからだ。いわば天台教学研鑽の片手間に密教を学んだに過ぎないという自覚を最澄が持っていたのだ。それだけに、密教をより深く体系的に修めた空海に、後輩であっても教えを乞う態度を取ったのだ。
 しかし、良好だった最澄と空海との交友関係にも徐々に亀裂が生まれ、最澄 の高弟、泰範問題によって、その溝が決定的に拡大、事実上断絶状態となった。 空海は816年(弘仁7年)、朝廷に上奏文を提出し、紀州高野山を密教修行の道 場として賜りたいと願い出た。そして819年(弘仁10年)、空海が作成した設 計プランに基づき、いよいよ堂塔伽藍の建設が始められた。
(参考資料)司馬遼太郎「空海の風景」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、百瀬明治「開祖物語」、八尋舜右「空海」、渡辺照宏・宮坂宥勝「沙門空海」、稲垣真美「空海」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」

近藤勇・・・ 粘り強く転戦した土方のしたたかさに比べ、潔さが際立つ最期

 近藤勇は農民の子として生まれながら、剣の道を究め天然理心流剣術宗家四代目を継承。幕末、新選組局長、そして甲陽鎮撫隊隊長を務めるまでに出世した近藤には、策謀家と潔さとの両面の“顔”が垣間見られる。果たしてどちらが近藤の実像に近いのだろうか。近藤の生没年は1834(天保5)~1868年(慶応4年)。

 近藤勇昌宜(こんどういさみまさよし)は、農民、宮川久次郎の三男として武州多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で生まれた。幼名は勝五郎、のち勝太。慶応4年から大久保剛、のち大久保大和(おおくぼやまと)と名乗った。末っ子だったため父、久次郎の愛を一身に受けて育った。父から「三国志」「水滸伝」などの英雄伝を読み聞かせてもらい、これらを通して勝五郎は忠孝の思想的観念を、幼い胸の中に芽生えさせていったとみられる。

宮川勝五郎は1848年(嘉永元年)、兄二人とともに近藤周助の天然理心流道場・試衛館に入門した。15歳のときのことだ。彼は一番年少にもかかわらず、けいこには一番熱心だった。入門後8カ月で近藤周助より天然理心流の目録が与えられた。それだけ、周助も勝五郎の剣の素質の素晴らしさに、密かに目をつけていたのだ。

 剣の素質を見込まれた勝五郎は、まず周助の実家の島崎家に養子に入り島崎勝太と名乗り、後に正式に近藤家と養子縁組し島崎勇、そして後の近藤勇を名乗った。1861年(万延2年)、府中六所宮にて天然理心流剣術宗家四代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派の一門の宗家を継ぎ、その重責を担うことになった。

 江戸幕府は1863年(文久3年)、清河八郎の献策を容れ、第十四代将軍家茂の上洛の警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。このとき近藤勇は土方歳三、沖田総司、山南敬助、井上源三郎、藤堂平助ら試衛館のメンバーを伴って、これに参加することを決め上洛した。朝廷に建白書を提出し、浪士組の江戸帰還を提案した清河に、異議を唱えた近藤や水戸郷士の芹沢鴨ら24人は京に残留。京都守護職・会津藩主松平容保に嘆願書を提出し、京都守護職配下で「壬生浪士組」と名乗り、活動を開始した。後の新選組の原点だ。

 その後、近藤派、芹沢派の二派閥体制となった浪士組だが、「八月十八日の政変」(1863年)が起こり、その警護にあたった浪士組の働きぶりが認められて、武家伝奏により「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。その後、芹沢鴨の一派が暗殺されると、近藤勇主導の新体制が構築された。芹沢鴨一派の暗殺事件では、近藤が直接手を下すというより、近藤の意を受けた副長の土方以下が指揮し、実行部隊となったとみられる。この後、新選組は近藤を局長として好感しない隊士には“血の粛清”が繰り返し行われ、結束を強固なものとしていった。そして京では池田屋事件をはじめ、西南雄藩藩士の勤皇志士たちの倒幕的な活動に対する取り締まり役として、「新選組」は“勇名”を馳せ、怖れられた。

 負傷療養中の近藤に代わって副長の土方歳三が率いて戦った、「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸へ戻った。幕府の命を受け、大久保剛と改名した近藤は、甲陽鎮撫隊として隊を再編し、甲府へ出陣した。だが、甲州勝沼の戦いで新政府軍に敗れて敗走。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別した。

その後、近藤は大久保大和と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬四丁目)で募集し、下総国流山(現在の千葉県流山市)に屯集するが、香川敬三率いる新政府軍に包囲され、越谷(現在の埼玉県越谷市)の新政府軍の本営に出頭する。しかし、大久保を近藤と知る者が新政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行され捕縛された。その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局、板橋刑場(現在の東京都板橋区板橋および北区滝野川付近)で斬首された。あっけない死だった。

近藤とは立場が違うが、各地の戊辰戦争を戦い抜き、幕臣として榎本武揚らと函館・五稜郭まで粘り強く転戦した土方歳三の生きざまとはっきり異なる。農民の出ながら、武士としての階段を昇り、一定の役職に就いた者と、そうでなかった者との違いなのか、死に臨んで近藤にはしたたかさより、数段、潔さが勝ったようだ。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」

葛飾北斎・・・西欧印象派画壇の芸術家に影響与えた希代の浮世絵師

 葛飾北斎は江戸時代に活躍した浮世絵師で、とりわけ後期、文化・文政期を代表する一人。森羅万象、何でも描き生涯に3万点を超える作品を発表。版画のほか、肉筆画にも傑出していた。さらに読本、挿絵芸術に新機軸を見い出し、「北斎漫画」をはじめとする絵本を多数発表した。葛飾派の祖となり、後にはゴッホなど西欧の印象派画壇の芸術家をはじめ、工芸家や音楽家にも影響を与えた、世界的にも著名な画家だ。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。

 北斎は武蔵国・葛飾郡本所割下水(現在の東京都墨田区の一角)で、貧しい百姓の子として生まれた。幼名は時太郎。後に鉄蔵と称した。生没年は1760~1849年。小さい頃から頭が良く、手先の器用な子で、初め貸本屋の小僧になり、14、15歳の時、版木彫りの徒弟に住み込んだが、そんな閲歴が絵や文章に親しむきっかけとなったと思われる。

 北斎は1778年、浮世絵師、勝川春章の門下となる。狩野派や唐絵、西洋画などあらゆる画法を学び、名所絵(浮世絵風景画)を多く手掛けた。しかし1779年、真相は不明だが、勝川派を破門されている。ただ、貧乏生活と闘いながら一心不乱に画業の修練に励んだお陰で、寛政の初年ごろから山東京伝、滝沢馬琴らの作品に挿絵を依頼されるようになった。

 北斎を語るとき忘れてはならないのが、改号と転居(引越し)の多さだ。彼は頻繁に改号し、その回数は生涯で30回に上った。「勝川春朗」「勝春朗」「郡馬亭」「魚仏」「菱川宗理」「辰斎」「辰政」「雷震」「雷斗」「戴斗」「錦袋舎」「画狂人」「画狂老人」「卍老人」「白山人」など数え上げたらきりがない。現在広く知られている「北斎」は当初名乗っていた「北斎辰政」の略称。

 転居の多さもまた有名で、生涯で93回に上った。1日に3回引っ越したこともあるという。これは北斎自身と、離縁して父・北斎のもとにあった出戻り娘のお栄(葛飾応為=かつしか・おうい)が、絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに、掃除するのが面倒くさい、借金取りの目をくらます、家賃を踏み倒すなどのため引っ越していたからだ。改号もカネに困り、画号を門弟に売りつけた結果、いやでも変えざるを得なかったわけだ。

 カネ欲しさに大事な画号を門弟連中に押し売りしたりすれば、後世、拙作、真作が混在し、巨匠北斎の栄誉にマイナスに働きはしないかなどと考えるのは、彼の画業を芸術視している現代人の考え方だ。アカデミックな立場にある公儀御用絵師はともかく、浮世絵描きの町絵師など、世間も芸術家とは見ていなかった。先生、師匠と呼びはしても読み捨ての黄表紙同様、浮世絵も消耗品の一種と見ていたのだ。だから、北斎自身もごくリアルに、当面のカネの算段が最優先だったわけだ。「富嶽三十六景」のような代表傑作を生み出した原動力も、例えば新人の安藤広重が彗星の如く現われて、センチメンタルなあの独特の抒情で、めきめき評判を高めだしたのに刺激され、若い広重に負けてたまるか-という敵がい心、競争意識をバックボーンに、猛烈にハッスルした結果なのだ。

 北斎は結婚は二度している。ただ、二度とも妻の名は分からない。初めの妻との間に一男二女、後妻に一男一女を産ませたから、5人の子持ちということになる。二人の妻とは死別か離別か、それも不明だ。90年にわたる生涯で、52、53歳頃から独り身を通し、女は同居していた娘のお栄のほか、いっさい近づけなかった。
(参考資料)杉本苑子「風狂の絵師 北斎」、梅原猛「百人一語」

空也・・・念仏を唱え続けた民間の浄土教の先駆者 「念仏聖」の先駆

 空也は平安時代中期の僧で、天台宗空也派の祖。乞食しつつ諸国を巡り、道を拓き橋を架け、盛んに口称念仏(称名念仏=しょうみょうねんぶつ)を勧め、市聖(いちのひじり)、阿弥陀聖(あみだひじり)、市上人(いちのしょうにん)などと称された。民間における浄土教の先駆者と評価されている。

彼の活動は貴族からも注目された。ただ、踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したことを示す史料はない。空也の門弟は高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。

 詳細は分からないが、空也は尾張国(現在の愛知県)で生まれたとみられる。法号は空也・光勝(こうしょう)。空也の生没年は903(延喜3)~972年(天禄3年)。『空也誄(るい)』や慶滋保胤の『日本往生極楽記』などの史料によると、空也は醍醐天皇の皇子とも、仁明天皇の皇子・常康親王の子とも伝えられているが、無論、彼自身が自らの出生を語ることはなく、真偽は不明だ。

 922年ごろ尾張国の国分寺にて出家し、空也と名乗った。若い頃から在俗の修行者、優婆塞として諸国を巡り、「南無阿弥陀仏」の名号を唱えながら、道路・橋・寺などを造り、井戸を掘るなど様々な社会事業を行い、貴賎を問わず幅広い帰依者を得た。絶えず南無阿弥陀仏の名号を唱えていたので、俗に阿弥陀聖とも呼ばれた。

 938年(天慶1年)、京都へ入って浄土往生の念仏を勧めるとともに、街中を遊行して乞食(こつじき)し、布施を得れば貧者や病人に施したと伝えられる。948年(天暦2年)、比叡山で天台座主・延昌(えんしょう)のもとで得度、受戒し「光勝」の法号を受けた。ただ、空也は生涯、超宗派的立場を保っており、天台宗よりも、奈良仏教界、とくに思想的には三論宗との関わりが強いという説もある。

 950年(天暦4年)から金字大般若経の書写を行い、人々から浄財を集めて951年(天暦5年)、十一面観音像ほか諸像(梵天・帝釈天像、および四天王のうち一躯を除き、六波羅蜜寺に現存)を造立した。963年、鴨川の岸で大々的に供養会を行い、これらを通して藤原実頼ら貴族との関係も深めた。東山・西光寺(現在の六波羅蜜寺)で70年の生涯を閉じた。空也の彫像は六波羅蜜寺が所蔵する立像(運慶の四男、康勝の作)が有名。

 平安時代以降、貴賎を問わず、老若男女が念仏を唱えるようになったのは、空也のお陰だといわれる。また、東北地方を遊行して仏教を広めた功績は、この辺境の人々に長く記憶された
 諸悪に満ちたこの世を嫌って、美しく、楽しい「あの世」を求める浄土教の祖師たちは、理論家の法然を除いて、源信、親鸞、一遍などいずれも詩人の心を持ち、すばらしい偈(げ)や和讃を残している。中でも、とりわけすばらしい詩心の持ち主は、彼らの先駆者だった空也だと思われる。空也の言葉はあまり残っていないが、わずかに『一遍上人語録』などに断片的に残っている。

(参考資料)梅原猛「百人一語」、井沢元彦「逆説の日本史・中世神風編」

河井継之助・・・幕末の越後長岡藩執政となり、激烈な北越戦争を指導

 河井継之助は幕末、越後長岡藩の120石取りの藩士から、同藩の上席家老へ異例の出世を遂げ、“藩の舵取り”役となり藩政改革を断行した。そして、西南雄藩も目を見張るほどの近代武装を成し遂げ、新政府軍との戊辰戦争では長岡藩の軍事総督を務めた。当初、戊辰戦争では中立を唱えたが、新政府軍に受け入れられず、結局これと激戦。悲運の最期を遂げた。生没年は1827~1868年。

 河井継之助は長岡城下同心町で沙門良寛とも親交のあった勘定頭・河井代右衛門秋紀の長男に生まれた。字は秋義、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号した。生来意志が強く、長じて剣を鬼頭六左衛門に、文学を藩儒山田愛之助らに学んだ。18653年(嘉永6年)、江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に学び、次いで古賀茶渓(さけい)の久敬舎に入り、一時、佐久間象山にも師事して海外の事情を学んだ。翌年、勘定方随役に抜擢されたが上司と合わず、まもなく辞し、再度、家を出た。

継之助は、1859年(安政6年)、備中松山藩(現在の岡山県)の山田方谷(ほうこく)に学び、長崎に遊んで見聞を広め、翌年帰国した。1865年(慶応1年)、外様吟味役、そして郡奉行、町奉行も兼務。さらに年寄役に累進。この前後、藩政の大改革を断行した。1868年(慶応4年)上席家老となり、当時の日本においては最新の銃器類を入手して防備を固め、軍事総督として戊辰戦争における“武装中立策”を推進した。

だが新政府軍がこれを認めないため、これと激戦を展開した。継之助は巧みな戦術で敵を惑わせ、いったんは敵の手に落ちた長岡城を奇襲で奪還。しかし、圧倒的な敵の兵力には勝てず敗走、再度の落城で継之助率いる長岡軍は会津へ向かう。だが途中、塩沢村(現在の福島県只見町)で彼は悲運の最期を遂げたのだ。

 河井継之助はいま見た通り、明治維新の内乱のうち地方戦争と見られがちな北越戦争の、それも敗者になった側の越後長岡藩の執政で、おまけに中途戦死して、後世への功績というべきものは残していない人物だ。しかし、維新史好きの人の間では、北越戦争が維新の内乱中、最も激烈な戦争だったこととともに、その激烈さを事実上一人で引き起こした河井継之助の名はよく知られていた。畏怖、畏敬の念も持たれてきた。

 継之助が藩政を担当した時には、皮肉にも京都で十五代将軍慶喜が政権を朝廷に返上してしまった後だった。このため慌しく藩政改革をした後、彼の能力は恐らく彼自身が年少のころ思ってもいなかった、戦争の指導に集中せざるを得なかった。ここで官軍に降伏すれば藩が保たれ、それによって彼の政治的理想を遂げることができたかも知れない。だが、継之助はそれを選ばず、ためらいもなく正義を選んだ。司馬遼太郎氏が「峠」のあとがきに記している言葉だ。

 河井継之助は徹底した実利主義者だった。物事の見方は鋭く、すぐに本質を見抜いた。また彼は大変な開明論者で幕末、士農工商制度の崩壊や、薩摩と長州らによって新政権が樹立されるであろうことを予測していたという。さらには度を超えた自信家で、本来なら継之助の家柄では家老などの上級職になれなかったが、彼は「ゆくゆくは自分が家老職になるしかない」と周囲に言い触らしていた。そして、その宣言通り長岡藩の命運を担い、その舵取りを務め“義”の戦いを展開し、潔く散った。

(参考資料)司馬遼太郎「峠」、奈良本辰也「不惜身命」

陸 羯南・・・“硬派”の新聞『日本』を主宰した明治の代表的言論人

 陸羯南(くがかつなん)は新聞『日本』の社主兼主筆を務めた明治時代の代表的言論人だ。『日本』は、陸羯南が刊行の辞で「新聞は政権を争う機関にもあらず、私利を射る商品にもあらず、博愛の下に国民精神の回復を発揚する…」と述べている通り、議論一点張り、ニュースも政治教育方面のものが主体で、三面記事は一切、掲載しなかった。振り仮名抜きの漢文体という“硬派”の新聞だ。印刷用にはフランスからマリノニ式輪転機を入れ、写真を初めて取り入れた、熱情あふれた紙面は青年の血を沸かし、神田の下宿屋では、この新聞を取るのを誇りとしたという。

 ただ、この『日本』は部数5000部(最大時2万部)と少なかったこと、また政治教育方面のニュースを大胆に斬るスタイルだったため、発行停止となることが極めて多く、経営は困難を極めた。ちなみに、黒田清隆内閣のときは3回・31日間、山県有朋内閣のときは2回・32日間、第一次松方正義内閣のときは2回・29日間、第二次伊藤博文内閣のときは実に22回・131日間、第二次松方正義内閣のときは1回・7日間の発行停止を食っているのだ。これでは経営難に陥るのも無理はない。しかし、陸羯南がやり遂げたことは「男子一生の仕事」と呼ぶにふさわしいものだった。

 陸羯南は津軽・弘前藩藩医で近侍茶道役を務めた中田謙斎の長男として生まれた。本名は実(みのる)。「羯南」を生涯の号とした。妻てつとの間に一男七女をもうけた。漢学者の鈴木虎雄は娘婿。陸の生没年は1857(安政4)~1907年(明治40年)。

 陸(現実にはこのころは「中田」姓)は15歳ごろから工藤他山の漢学塾に通うようになり、その後、漢学、英学両方の教えを受けた郷里の東奥義塾を経て、宮城師範学校に入学するが、薩摩出身の校長の横暴に抗議、退校処分となった。そこで上京して司法省法学校に入学。ここでも賄征伐事件に関連して、校長の態度に反発し、退学した。このとき共に退学した同窓生に原敬、福本日南、加藤拓川、国分青涯らがいる。このころ、親戚の陸家を再興し、これまでの中田から「陸」姓となった。これには徴兵逃れの措置という説と、唐の詩人・陸宣公に倣ったという説がある。

 青森新聞社などを経て北海道に渡った後、再度上京し、フランス語が堪能だったことから、太政官文書局書記局員となった。ここで井上毅、高橋健三らと知り合った。1885年(明治18年)には内閣官報局編集課課長となった。また、このときフランスの保守主義者ジョゼフ・メーストルの『主権についての研究』を翻訳、『主権原論』として出版。しかし1887年(明治20年)、政府の条約改正・欧化政策に反対して退官した。

 陸は徳富蘇峰とともに明治中期を代表する言論人だが、徳富の発言がほとんど社会の全般にわたったのに対し、陸の評論は政論中心だった。ただ政論中心といっても、政府や政党の動向を具体的に追跡するだけではなく、国民全体の歴史や社会・経済・思想・風俗・慣習との関連のもとに政治の動向を捉える点に特徴があり、そうした見方は、国際政治の捉え方にまで貫かれていた。彼が政論記者として他の追随を許さないと評価されたゆえんだ。

 陸は1888年(明治21年)『東京電報』という月刊新聞を創刊、翌年『日本』と改題、社長兼主筆として活躍した。三宅雪嶺、杉浦重剛、長谷川如是閑、正岡子規など明治後期を代表する多くの思想家、言論人がこの新聞に集まり、近代ジャーナリズムの先駆けとなった。

(参考資料)小島直記「人材水脈」、司馬遼太郎「この国のかたち 四」