尾崎行雄・・・63年間議員を務めた「憲政の神様」「議会政治の父」

 尾崎行雄は日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、この間、第一次大隈(隈板)内閣の文部大臣、東京市長、第二次大隈内閣の司法大臣を務めた。しかし、そうした閣僚経験よりも、彼を表現するにふさわしい呼称がある。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの日本記録を保持していることから、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれるのだ。彼はその95年の生涯を民主主義と議会政治の確立に捧げた。とくに、金権政治の排撃に努めた。生没年は1858(安政5)~1954年(昭和29年)。

 尾崎行雄は相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市津久井町又野)に生まれた。11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父、行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾に学び、一家も1871年(明治4年)に高崎へ引越し、地元の英学校にて英語を学んだ。そこで初めて「学校」に入った。1872年(明治5年)度会県山田(現在の三重県宇治山田市)に居を移した。尾崎も宮崎文庫英学校に入学した。

尾崎は1874年(明治7年)、弟とともに上京し慶応義塾童児局に入学するやいなや、塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下位から最上級生となるが、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して退学し、染物屋になるため、1876年(明治9年)に工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学するも、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩の横暴を批判する投書をはじめ、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶応義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三国演説館で演壇に立つなどした。

尾崎は、1879年(明治12年)には福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆になった。1882年(明治15年)、『報知新聞』記者となり、大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年(明治20年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた。その後、咢堂に改めた。

 尾崎は1890年(明治23年)、第一回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくった。彼はこの間、クリーンな政治家を見事に貫いた。63年も議員を務めていて、一度も総理にならなかったのは、彼が純粋すぎたからだともいえる。それだけに敵も多く、何度も暴漢に襲われたり、警察ににらまれたり、様々な妨害に遭ったが、生涯これに屈することはなかった。

 身長157cm・体重34kgの尾崎を支えた3人の女性がいた。最初の妻、繁子、死別後、迎えた二番目の妻、テオドラ、そして看護婦でその後、家政婦となって仕えた服部文子だ。これら3人の女性の支えなくしては、今日伝えられる尾崎の生涯はなかったろう。

 米国ワシントン・ポトマック公園に見事な桜並木がある。尾崎が東京市長時代(1903~1912年)の明治45年、日米友好の証としてワシントン市に贈った桜が世界的な「桜の名所」となっている。
(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本

前に戻る