尾形光琳・・・装飾的大画面を得意とした「琳派」の代表的画家

 尾形光琳は、後世「琳派」と呼ばれる、装飾的大画面を得意とした画派の代表的画家だ。主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝文化時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡なデザイン感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、デザインなどに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。

 尾形光琳は京都の富裕な呉服商「雁金屋」の当主、尾形宗謙の次男として生まれた。光琳の生没年は1658(万治元年)~1716年(享保元年)。5年遅れて、陶芸家として名高い弟、乾山が生まれている。雁金屋は、祖父宗伯の頃には宮中御用を務めるほどで、京でも揺るぎのない富める商人であった。物心ともに豊かな環境に生まれ育った光琳は、幼いときから父に連れられ、二条関白家をはじめ公家の屋敷にも出入りし、よく能の相手を務めたという。豊かな情操の世界に遊んだ少年時代、後に花開く光琳の天分は、こうして蓄積されていった。

 光琳が30歳の時、父宗謙が死去。光琳の兄が家督を継ぎ、光琳は二つの家屋敷と能道具一式、それに大名などへの貸付証文などを譲られ、金利生活者として一生を送ることのできる保証を得た。しかし、彼は遊興三昧の日々を送り、相続した莫大な財産を使い果たし、弟の乾山にも借金するありさまだった。光琳が40歳になって画業に身を入れ始めたのも、こうした経済的困窮が一因だった。
 画家として立った光琳が常に思い浮かべるのは、呉服商だった生家、雁金屋の店先の華やかな打掛・小袖などの呉服の数々だった。この「美しきもの」が、少・青年期の彼の美意識の成長に大きな影響を与え、一生の拠りどころになったであろうことは容易に想像できる。彼が尊敬してやまない俵屋宗達が、その家業だった扇絵にその構成の基本を置いたように、光琳もまた「きもの絵」を忘れなかったようだ。

 1701年(元禄14年)、44歳の時、光琳は「法橋(ほつきょう)」に叙せられた。ようやく画家として世に認められた光琳だったが、能や茶の湯や音曲に日々を送り、遊里に通い詰める放蕩三昧の日々が続く。この頃には父より譲られた屋敷はすでになく、家宝を質入し借財も多かった。彼にとって快楽の追求は美の追求であり、親の遺産を食い潰し、食い潰すことを糧とする創作生活だった。この時代、芸術と称するものは公卿や武門の名家の貴族が育てた伝統だったことは確かだが、光琳の芸術は非常に貴族的であると同時に、その貴族を逆に眺め返している。商人としての本当の生活的なポイントから睨み返しているという要素がある。だから、いわゆる庶民的なバイタリティーを持つと同時に、貴族的な教養が絢爛として彼の血の中に流れているというわけだ。

 年号が宝永と改まった頃、光琳は江戸へ下向している。もう50歳近い。当時の江戸の人口は100万人。元禄前後の50~60年間に大名貸しの貸し倒れで破産した京の商人は50を数え、光琳の生家、雁金屋も破産した。江戸に迎えられた光琳は大名酒井雅楽頭の扶持を受けながら、制作に励む。しかし、江戸は光琳にとって、必ずしも居心地のよい場所ではなかった。やがて、50歳を超えた彼は京へ戻っていく。江戸は権力の中心であって、芸術の中心ではなかったのだ。

彼の二大代表作「紅白梅図屏風」と「燕子図屏風」の大作が、いずれも元禄も終末を迎えた頃から、さらに宝永・正徳と時代が下る晩年の作であることを思えば、この二点の作品は、光琳の晩年を飾るにふさわしい。

(参考資料)岡本太郎「日本史探訪/江戸期の芸術家と豪商」

大岡忠相・・・吉宗の信頼を得て「享保の改革」を支えた江戸町奉行

 一般に知られている江戸時代の「三大改革」のうち、最初に行われたのが八代将軍・徳川吉宗による「享保の改革」だが、江戸町奉行としてこれを支えた人物が、TVドラマでもお馴染みの、この大岡越前守忠相(ただすけ)だ。水戸黄門の水戸光圀などの例でも明らかなように、小説やTVドラマが伝えるものはいわば虚像であって、実像とはかけ離れている場合が少なくない。大岡忠相の場合は果たしてどうだろうか。

 大岡忠相は1677年(延宝5年)、旗本大岡美濃守忠高の十人の子供の中の七番目(四男)に生まれ、1686年(貞享3年)10歳のとき同族大岡忠真の娘のところに婿養子として入った。忠相が養子にいったころの実父忠高は奈良町奉行で2700石を知行し、養父忠真は御徒頭として1420石を知行していた。生家・養家ともに上級旗本で、彼の出発はいわば一定の出世を約束されたに等しい恵まれたものだった。

 1700年(元禄13年)、忠相は24歳のとき養父の後を継ぎ、26歳で初めて幕府の役職、御書院番に就いた。御書院番は戦時には将軍の身辺を守り、平時には江戸城の要所を守り、また将軍出行時にはその前後を守って随行する役だ。忠相がこの職にあった1703年(元禄16年)、江戸に大地震が起きた。震源地は小田原付近。死者は小田原でおよそ2300人、小田原から品川までの間で1万5000人、房州10万人、江戸3万7000余人といわれた。後の安政の大地震(1855年)、大正の関東大震災(1923年)とともに、関東地方を襲った地震の中でも最も規模の大きいものだ。忠相はこの地震の復旧作業に精励して功績があった。後の御普請奉行、町奉行への出世の足掛かりとなった。

 1704年(宝永元年)に御徒頭、1707年(宝永4年)に御使番、そして1708年(宝永5年)に御目付に進んだ。1712年(正徳2年)、山田町奉行に転じた。4年ほど山田町奉行を務め、1716年(享保元年)忠相は江戸に呼び返されて御普請奉行になった。吉宗が八代将軍になる直前のことだ。抜擢されて、世に名高い江戸町奉行・大岡越前守忠相となるのは1717年(享保2年)のことだ。

 江戸町奉行は京都町奉行・大坂町奉行・長崎町奉行・奈良町奉行・山田町奉行など幕府直轄の町を支配する町奉行の一つだが、江戸の場合だけは寺社奉行・勘定奉行とともに三奉行と呼ばれて別格の待遇を受け、評定所の正規構成員として幕府最高の司法と行政に参与する高級閣僚の業務をも担当する特別官だった。

 忠相が江戸町奉行になったときは41歳、家禄は養父から引き継いだままの1920石だが、このころの江戸町奉行は大体1000石~1500石くらいの旗本が成っているので、異例のものとは言い難い。ただ、当時の町奉行は60歳前後の者が多かったから、41歳の忠相は早い出世といえる。彼はこの町奉行職に19年余という長期間就いている。吉宗が将軍だった間の町奉行の平均在職年数は9.27年で、忠相の場合はその倍を超えている。
 1736年(元文元年)、忠相は寺社奉行になった。60歳のときのことだ。江戸町奉行と勘定奉行は旗本が就くべき役職であったのに対し、寺社奉行は譜代大名が就く役職だった。しかもこのポストは1658年(万治元年)以降は、将来徳川政権の首脳部(老中・若年寄・京都所司代・大坂城代など)になることを期待されて、その訓練・見習いを兼ねた幹部候補生という意味合いもあって、奏者番に抜擢された譜代大名の若手有能者の中から、さらに選ばれて兼務する名誉ある職だった。したがって、万石以上の譜代大名でもなく奏者番でもない、60歳という老旗本が寺社奉行になったということは、異例中の異例だ。

 1920石で江戸町奉行になった大岡忠相は、1723年(享保8年)「足高(たしだか)の制」が施行されて江戸町奉行が3000石相当の役職とされると、当然その不足高1080石を補われるが、1725年(享保10年)に2000石の加増を受けて3920石の家禄となり、足高の適用を外される。本来「足高の制」というのは、幕府財政に負担をかけないで人材を登用するために取られた措置なので、功労があっても加増はしないのが原則だから、忠相のこの大幅加増も異例というべきことだ。

 さらに寺社奉行に栄進したとき、新たに2000石を加増されて5920石の家禄となり、それに4080石の足高を加えて万石格となった。それから12年目の1748年(寛延元年)、足高になっていた分が加えられて、ここに正真正銘の大名となり、万石以上の譜代大名が奏者番となって寺社奉行を兼ねるという本来の姿になった。

 また、忠相は江戸町奉行・寺社奉行に付随する評定所一座という業務も「享保の改革」の全期間、幕府の機能中枢に当たるこのポストを占め続けた。このほか、1745年(延享2年)、23年間にわたって兼ねていた「関東地方御用掛(かんとうじかたごようがかり)」の職の返上を願い出て、許されるまで務め続けている。農政はもともと江戸町奉行の仕事ではなく、勘定奉行の仕事なので、この登用は珍しいことであって、これをみても忠相がいかに吉宗から信頼されていたかが分かる。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」、直木三十五「大岡越前の独立」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」

小栗忠順・・・幕末、幕府軍の主戦派の代表、慶喜の説得に失敗 斬首される

小栗忠順は激動の幕末期、反幕府的な勝海舟らと対峙し、財政、外交、軍事に傑出した手腕を発揮した。明治新政府は幕臣であっても優れた人材を数多く登用した。ところが、不思議なことに横須賀造船所を建設し、日本海軍の礎を築いた先見と決断の人、小栗上野介忠順に対してはそうした動きは全くなかった。勝海舟の和平論に敗れた後に1868年、引退した彼が上州権田村・高崎烏川畔で、なぜ斬首されねばならなかったのか。

 1867年(慶応3年)12月25日、江戸の三田にある薩摩屋敷が幕府軍に攻撃され、全焼した。これが口火になって戊辰戦争になる。この薩摩屋敷攻撃は西郷隆盛が仕組んだもので、幕府軍がこの挑発に乗ってしまったというのが定説になっている。だが、西郷のこの挑発がなければ幕府に戦争の構えがなかったのか。いや、そうではない。幕府はやる気だった。この幕府のやる気を代表したのが小栗忠順、ときの勘定奉行だった。

 小栗は主戦派の先頭に立っていた。それだけに、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還が江戸に知らされたとき、彼は真っ先に「承服できん」と叫んだという。そのときから彼は薩長と戦う準備に入っていた。勘定奉行として軍資金の調達、戦略・戦術、あらゆる方面に手を打っていた。勝算も十分にあった。

後に、官軍の大村益次郎が小栗の戦略を知ったとき、「その通りにやられていたら俺たちの命はなかった」と驚いたという。大村のリップサービスもあるかも知れない。だが、小栗のプラン通りに幕府軍が動いていたら戊辰戦争はどうなっていたか分からない。いやもっといえば、戦況をそのように動かせるように、慶喜に納得させ、行動させることに小栗は失敗したのだ。雌雄を決する瀬戸際で工作に失敗した小栗は、官軍に無条件で降伏したが、殺された。そして、対照的に小栗の意見を退けた慶喜は殺されることなく、世が落ち着いてから華族になった。

 1855年(安政2年)小栗は28歳で家を継ぎ、30歳で御使番になった。30歳で世に出たのだから、かなり遅い。そして39歳で官軍に殺されるまでの10年間、何と70数回も職務を変わった。有能だった証明だ。自分から辞めたことも、辞めさせられたこともあった。辞めてもすぐに引っ張り出されるところが能吏たるゆえんだろう。同時に彼が他人と協調しにくい性格だったことも示している。彼は武術と、論語ぐらいは読んだだろうが、学問は実学だけをやった。

 1860年(万延元年)、小栗の身の上に画期的な事件が起こった。抜擢人事で目付に任命され、新見豊前守を正使とする条約批准使節一行の監察役として米国に派遣されたのだ。小栗32歳のことだ。

 小栗が家督を継いだ頃、油や砂糖の小売りから両替屋に切り替わった紀國屋の婿養子で店主となった三野村利左衛門が、店が小栗家のある駿河台のすぐそばの神田三河町にあったことから、小栗家に出入りするようになり、小栗家の財政運用にタッチしていたという。三野村は後に三井財閥の基を作った人物だ。

1862年(文久2年)、小栗が幕政三本柱の一つ、勘定奉行に初めて就いてから、三野村利左衛門との緊密な関係が作られていったのだ。
 冒頭に記した通り、引退して権田村に帰った小栗は官軍によって斬首された。旧幕府の高官で、有無をいわさずに官軍が処刑したのは小栗だけだ。小栗が幕府の主戦派の先頭に立って、「薩長とは断固戦うべき」と主張していただけに、いかに官軍に憎まれていたか、いかに恐れられていたかが分かる。
小栗は官軍からの呼び出しがくると、自分の身辺が危なくなってきたと判断。母の国子、妻の道子らを会津へ落ち延びさせた。道子はそのとき身重だった。道子は会津で一女を産んだが、会津落城とともに東京へ密かに戻り、三野村の保護を受けた。三野村は東京へ置いておくのは危ないと判断して静岡へ送り、箱館で降伏した榎本武揚らが無罪放免になったのをみてから、深川の自宅に引き取った。三野村は明治10年胃がんで病死するが、その前に彼は大隈重信に小栗の遺族のことを託した。また、自分の家族には、小栗家の人たちの生計費を出すように遺言した。

(参考資料)大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、三好徹「政商伝」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、小島直記「人材水脈」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

岩倉具視・・・下級公家の出ながら、明治の御世は朝廷内を牛耳る

 岩倉具視は幕末、王政復古を策した維新の元勲だが、人気の乏しい政治家の一人だ。この点は大久保利通も同様だが、いろいろな毀誉褒貶をかなぐり捨て、非常に緻密な計算を立てて、しかも国家百年の大計みたいなものを見通すと同時に、絶えずいろいろな情報を集めて、その中で自分はどう動くかという役割をしっかりと踏まえて生きた。日本の宮廷政治家の中で、これほどしたたかに権謀術数を思うままに駆使した人は、後白河法皇と岩倉具視の2人だろう。

岩倉具視は幕末、幕府の威信が低下、幕閣で公武合体で乗り切ろうとする動きが活発になってきた頃から表舞台に登場し、途中5年間ほどの蟄居生活を送った期間はあったが、下級公家の出でありながら、朝廷内で指導的な立場を保持して伸し上がり、明治天皇の御世には京都朝廷の中は彼の独壇場だった。

 岩倉具視は公卿・堀河康親(180石の下級貴族)の次男として京都に生まれた。幼名は周丸(かねまる)、号は対岳。謹慎中の法名は友山。贈太政大臣、贈正一位。生没年は1825(文政8年)~1883年(明治16年)幼い頃から朝廷儒学者、伏原宣明に入門。伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。1838年(天保9年)、満13歳のとき、岩倉家の当主岩倉具慶の養子となる。伏原から具視の名前を選んでもらい「岩倉具視」となった。

 岩倉家の家格は村上源氏久我家の江戸時代の分家で、新家(安土桃山時代あたりから設立された公家の家柄)と呼ばれる150石の下級の公家だ。代々伝わる家業(歌道・書道など家業がある公家は家元して免状を与える特権があり、そこから莫大な収入が見込めた)も、とくになかったので、家計は大多数の公家と同様、常に裕福ではなかったという。

 1854年(安政元年)、歌を詠むことを口実に、五摂家の一つ、鷹司政通に取り入り、その推挙により遂に孝明天皇の侍従の地位を獲得する。岩倉、30歳のことだ。それはペリーが日米和親条約締結に成功した年だ。1858年(安政5年)、米国はさらに日米通商条約を政府に迫った。窮地に立った幕府は、条約締結の勅許を求めて、老中堀田正睦を京都朝廷のもとに送る。岩倉が公家の中で頭角を表すのがこの時だ。

岩倉は幕府の苦境に乗じて、朝廷の権威回復を図ろうと考えた。そして、日米通商条約の勅許が幕府に下されるのを阻止すべく立ち上がるのだ。中山忠能を先頭とする条約調印に反対の立場の公卿88人が参内して、勅許に抗議する阻止行動がそれだ(八十八卿列参事件)。列参は慣習違反というか違法行為だが、岩倉は必要なら直接、武家と接触したり、平気で禁令など乗り越えられる、枠に捉われない人物だった。彼は一晩に100人の公卿を訪問し説得して回ったという。岩倉の策謀は成功し、勅許は下されなかった。その結果、時の大老井伊直弼の独断での条約調印となってしまったのだ。

 岩倉は生涯に何度か歴史を動かす意見書を提出しているが、中でも知名度の高いのが『和宮御降嫁に関する上申書』。これは、孝明天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものだ。この上申書で岩倉は、今回降嫁を幕府が持ちかけてきたのは幕府の権威がすでに地に落ち、日に日に人心が離れていることに幕府自身が気付いており、ここで朝廷の威光を借りて幕府の権威を何とか粉飾しようという狙いがあると分析。

岩倉は今は「公武一和」を天下に示すべきとし、政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきだ。そして朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。したがって、今回の縁組は幕府がそれを実行するならば特別に許すべきと結論した。幕府の政略結婚の申し入れに、孝明天皇はじめ宮中の要人は強硬に反対を唱えたが、岩倉はひとり和宮降嫁に賛成したのだ。
 1867年(慶応3年)、岩倉は蟄居生活から5年ぶりに赦されて、宮中に参与として復帰。王政復古のクーデターが起こったのは、まさにその日だった。西郷隆盛、大久保利通、そして岩倉が首謀者だった。薩摩、土佐、尾張、安芸、越前の兵が、一挙に京都御所を押さえ、「王政復古の大号令」を発したのだ。

しかし、その夜行われた将来の方針を決める、いわゆる小御所会議では徳川慶喜の「辞官納地」をめぐる賛否で意見が対立。会議は深夜に及んだが、岩倉側が押し切り慶喜の辞官納地を決めた。幕府側はこれを不服とし、兵を挙げる。鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争だ。しかし、時代の大勢はすでに決まっていた。

 明治維新後の岩倉は、その死に至るまで天皇の権威確立と保持に心を砕いた。明治憲法の骨子も彼によって作られた。明治維新は大久保なしでは成功しなかった。と同時に大久保と呼応する形で、朝廷の側に岩倉がいなければ薩長対幕府という武力政権同士の争いで大混乱し、収拾のつかない争いに終わっていたかも知れない。

 明治新政府の閣僚決定に際して、岩倉は最高位の太政大臣に自分より身分の高い公家、三条実美を推し、政治の実権は大久保利通に任せ、自らは表に立つことはなかった。1883年(明治16年)、岩倉は59歳でこの世を去った。彼の葬儀は国葬の第一号として、盛大に行われた。

(参考資料)奈良本辰也「歴史に学ぶ」、城山三郎・小西四郎「日本史探訪/幕末の英傑たち」、奈良本辰也「幕末維新の志士読本」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、豊田穣「西郷従道」

大久保一翁・・・勝海舟の出世の方途を開き、江戸無血開城に貢献

 大久保忠寛(隠居後は一翁)は幕末時、勝海舟とともに政局混乱終息に動いた幕臣だが、勝が重要な政局収拾にあたったため、彼の名は勝ほど知られていない。ただ、彼は幕府存続のため大政奉還を前提とした諸大名による会議、つまり議会制の導入を早くから訴えるなど、先見の明を持っていた。江戸無血開城に貢献したため、勝海舟、山岡鉄舟とともに「江戸幕府の三本柱」ともいわれる。生没年は1818(文化14)~1888年(明治21年)。

 大久保忠寛は旗本大久保忠尚の子として東京で生まれた。幼名は市三郎、忠正。隠居後、一翁(いちおう)と号した。第十一代将軍家斉の小姓を務め、1842年(天保13年)家督を相続した。1854年(安政元年)、老中阿部正弘に登用され目付兼海防掛となった。以後、蕃所調所総裁、駿府町奉行、京都町奉行などを務めた。ところが、「安政の大獄」の際、大老井伊直弼の厳しすぎる処分に反対したため直弼に疎まれ、遂に罷免された。しかし、井伊直弼が暗殺された後、1861年(文久元年)再び登用され、蕃所調所頭取、外国奉行、大目付、側御用取次などの要職を歴任した。

 大目付は元来、目付と分業になっていたのだが、このころ目付を配下に組み入れるように変更されたから、大目付兼外国奉行は大変な権力だ。内務次官と外務次官を兼ねているようなものだ。また、側御用取次は旗本が就任し得る最高の地位といっていい。老中と将軍の間を取り次ぐため、その間に自分の意見を織り込むことも可能で、幕府の最高意思決定に介入できるのだ。このため権勢も老中に匹敵した。

 大久保の重要な功績の一つとして指摘しておかなければならないのは、幕末の幕府側のキーパーソンの一人、勝海舟の出世の方途を開いたことだ。1854年(安政元年)、大久保は意見書を提出した勝海舟を訪問。場所は赤坂の田町、勝はそこで蘭学塾を開いていたのだ。大久保が38歳、勝が32歳のときのことだ。会った大久保はこの男ならと、その能力を見い出し、老中阿部正弘に推挙して、勝を登用させたのだ。このことがなければ幕末、後の勝の出番はなかったか、あるいはあったとしても、もっと遅く小さなものになっていただろう。とすれば、後世の歴史は少し違ったものになっていたかも知れない。

 大久保は第十四代将軍家茂に仕えたが、政事総裁職となった越前藩主松平慶永らとも交友し、外国事情に関心を持つ開明的幕吏として、長州征伐などを批判し、早くから大政奉還も説いた。この大政奉還は幕府存続のためで、彼は諸大名による会議、つまり議会制の導入を第十五代将軍慶喜にも進言している。

 大政奉還は土佐藩の建白を慶喜が受け入れたものだが、土佐の建白の種を蒔いたのは周知のとおり坂本龍馬だ。そして、その龍馬に大政奉還論を教えたのが実はこの大久保なのだ。大久保が龍馬に会ったのは文久3年4月で、江戸の屋敷に引き籠もっている大久保を龍馬が訪問したのだ。このとき龍馬は勝に従って京都・大坂方面で活躍していた。神戸海軍操練所の設立が決まる直前の時期だ。その3月末から4月初めにかけて、勝は上方に残り、弟子の龍馬が幕府軍艦順動丸で江戸へ往復した。大久保のところへ行ったのは、勝に代わって上方の情勢を報告するためだった。

 1867年(慶応3年)、幕府崩壊後も大久保は幕府会計総裁として戊辰戦争の始末にあたる一方、新政府側からも旧幕府へのパイプ役として重んじられた。勝海舟、山岡鉄舟らとともに江戸無血開城実現に寄与したほか、のち静岡県知事、東京府知事(第五代)、元老院議官などを歴任した。

(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」

尾崎行雄・・・63年間議員を務めた「憲政の神様」「議会政治の父」

 尾崎行雄は日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め、この間、第一次大隈(隈板)内閣の文部大臣、東京市長、第二次大隈内閣の司法大臣を務めた。しかし、そうした閣僚経験よりも、彼を表現するにふさわしい呼称がある。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録などの日本記録を保持していることから、「憲政の神様」、「議会政治の父」と呼ばれるのだ。彼はその95年の生涯を民主主義と議会政治の確立に捧げた。とくに、金権政治の排撃に努めた。生没年は1858(安政5)~1954年(昭和29年)。

 尾崎行雄は相模国津久井郡又野村(現在の神奈川県相模原市津久井町又野)に生まれた。11歳まで又野村で過ごした後、官吏となった父、行正に従い、1868年(明治元年)に番町の平田塾に学び、一家も1871年(明治4年)に高崎へ引越し、地元の英学校にて英語を学んだ。そこで初めて「学校」に入った。1872年(明治5年)度会県山田(現在の三重県宇治山田市)に居を移した。尾崎も宮崎文庫英学校に入学した。

尾崎は1874年(明治7年)、弟とともに上京し慶応義塾童児局に入学するやいなや、塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下位から最上級生となるが、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して退学し、染物屋になるため、1876年(明治9年)に工学寮(後の工部大学校、現在の東京大学工学部)に再入学するも、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩の横暴を批判する投書をはじめ、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶応義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三国演説館で演壇に立つなどした。

尾崎は、1879年(明治12年)には福沢諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆になった。1882年(明治15年)、『報知新聞』記者となり、大隈重信の立憲改進党の創立に参加。1887年(明治20年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた。その後、咢堂に改めた。

 尾崎は1890年(明治23年)、第一回総選挙で三重県選挙区より出馬し当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくった。彼はこの間、クリーンな政治家を見事に貫いた。63年も議員を務めていて、一度も総理にならなかったのは、彼が純粋すぎたからだともいえる。それだけに敵も多く、何度も暴漢に襲われたり、警察ににらまれたり、様々な妨害に遭ったが、生涯これに屈することはなかった。

 身長157cm・体重34kgの尾崎を支えた3人の女性がいた。最初の妻、繁子、死別後、迎えた二番目の妻、テオドラ、そして看護婦でその後、家政婦となって仕えた服部文子だ。これら3人の女性の支えなくしては、今日伝えられる尾崎の生涯はなかったろう。

 米国ワシントン・ポトマック公園に見事な桜並木がある。尾崎が東京市長時代(1903~1912年)の明治45年、日米友好の証としてワシントン市に贈った桜が世界的な「桜の名所」となっている。
(参考資料)小島直記「人材水脈」、小島直記「福沢山脈」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本