大原幽学・・・農村改革運動を指導したが、幕府から嫌疑受け失意の自殺

 大原幽学は天保・嘉永・安政期の混乱した世相の中、下総国香取郡長部村(現在の千葉県旭市)を拠点に、房総の各地をはじめ信州上田などで農民の教化と農村改革運動を指導し、大きな事績を挙げた人物だ。1838年、世界で初めて「先祖株組合」という農業協同組合を創設したほか、道徳と経済の調和を基本とした性楽(せいがく)を説き、農民や医師、商家の経営を実践、指導した。

しかし、急激な性学運動の発展と、農民が一村を越えて労働と学習を共にしたことが、幕府の怪しむところとなり、不幸にも幽学は幕府の取り調べを受けた末、理不尽にも有罪となり、失意のうちに自殺、62歳の生涯を閉じた。幽学の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。

 大原幽学の出自は定かではない。ただ、武士階級の出身だったことは間違いないとみられ、尾張藩の重臣、大道寺直方の次男として生まれたとの説もある。18歳のとき、故あって勘当され、関西・四国を長く放浪していたという。1831年(天保2年)、房総を訪れ「性学」という、儒学を基礎とする独自の実践道徳を講ずるようになり、門人を各地に増やしていった。

性学とは、欲に負けず、人間の本性に従って生きる道を見つけ出そうとする学問のこと。門人は道友(どういう)と呼ばれ、長部村に招かれ腰を落ち着けた幽学は、性学道友の農民を指導。農村の再興を図り、農民が協力し合って自活できるように、各種の実践仕法を行って成果を挙げた。

 農村の立て直しおよび組織化に貢献したのが「先祖株組合」だ。これは、今日の信用組合のようなものの前身と考えていいものだが、しかしその根本的な考え方は家族制度を維持するための預金とその運用にあった。そして、さらにいえば、それは家を中心にしているだけに、団結の強いものだった。これに集まる人々は、次のような誓約を交わしていた。

<連中誓約之事>
一.博打
一.不義密通
一.賭 諸勝負
一.職業二種
一.女郎買
一.強慾
一.謀計
一.大酒
一.訴訟発頭
一.狂言或は手躍、浄瑠璃、長唄、三味線之類、人の心の浮かるる所作

 かくの如く誓約致すの上は、私共若し右体無道の行ひ仕る事之れあるに於ては、何程厳敷(きびしく)御誡(おいさめ)下され候とも、御受け申し、急度相慎み申すべく候、万一其の御誡を相背(そむ)くに於ては、道友衆中より破門なされ候共、聊(いささ)かも御怨み申すまじく候
-というのだ。このような誓約を持っている組合は強い。

 幽学は「先祖株組合」の創設のほかに農業技術の指導、耕地管理、質素倹約の奨励、博打の禁止など農民生活のあらゆる面を指導した。「改心楼」という教導所も建設された。1848年(嘉永元年)、長部村の領主清水氏は長部村の復興を賞賛し、領内の村々の模範とすべきことを触れている。

 しかし、門人の急増、教導所「改心楼」の建設などが「関東取締出役」の嫌疑を受け、不幸なことに幽学は幕府評定所の取り調べを受けることになる。評定所の役人たちはなかなか判断が下せず、幽学の罪を断ずるのに7年余りもの歳月を費やしてしまった。

その結果、1857年(安政4年)、幕府の判決が下り、理不尽にも彼は「百日押込(おしこめ)」の刑を申し渡され、江戸にて謹慎の身となる。改心楼は取り壊し、先祖株組合の解散も決まった。翌年、刑期を終えて長部村に帰村した幽学は、失意のうちに村の共同墓地で、古式の通りに腹を切って喉を突き、見事な最期を遂げた。

 主な著作に「微味幽玄考」「性学趣意」などがある。
(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、童門冬二「私塾の研究」

大江広元・・・中年になって下級貴族から鎌倉幕府の高級官吏職に転職

 中年になってからの転職にはかなり勇気がいる。新しい職場が設立間もないところであればなおさらだ。平安時代末期から鎌倉時代初期、大江広元はこの転職を見事にやってのけた。広元は、初めは朝廷に仕える下級貴族だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所・初代別当を務め、幕府創設に貢献したのだ。大江広元の生没年は1148(久安4)~1225年(嘉禄元年)。

 大江広元の出自は諸説あり、その詳細は分からない。『江氏家譜』では藤原光能の息子で母の再婚相手、中原広季のもとで養育されたという。しかし、『尊卑分脈』所収の「大江氏系図」には大江維光を実父、中原広季を養父とし、逆に『続群書類従』所収の「中原氏系図」では中原広季を実父、大江維光を養父としている。

 中原氏にしろ、大江氏にしろ、代々実務官僚を務める学問の家で、彼もかなり学識はあったとみられる。しかし、彼の生まれた平安末期は、現代と違って学歴はあまり役立たない世界だった。学歴よりも毛並み・家格-つまり、いい家柄の息子でなければ出世できないというしくみになっていた。いってみれば、広元は仕事はできる、頭もいい。官僚機構の裏表に通じていながら、行き止まりは見えているという感じの人生だった。

 ところが、1180年(治承4年)、一大変革が起こった。源頼朝が伊豆で旗揚げし、鎌倉に本拠を構えたのだ。以来、日本には公家政権と武家政権が重なり合って存在することになる。だが、このできたての鎌倉政権は荒くれの坂東武者ばかりで、行政、外交の能力は全く不足していた。そして、このときスカウトされて東国に下り、行政機関の責任者として迎えられたのが広元だったのだ。

 話は相前後するが、その経緯をみるとこうだ。広元の兄、中原親能は源頼朝と親しく、早くから京を離れて頼朝に従っている。1183年(寿永2年)、源義経の軍勢とともに上洛し、1184年(元暦元年)、再度入京して頼朝の代官として万事を奉行、貴族との交渉で活躍した。その兄、親能の縁で1184年に広元も頼朝の拠った鎌倉へ下り、公文所の別当となった。広元が36歳ごろのことだ。冒頭に述べた、中年官僚の転職がこれだ。

 さらに、頼朝が二品右大将となり、公文所を改めて政所としてからは、広元はその別当として主に朝廷との交渉にあたり、その他の分野にも実務家として広く関与した。彼はまさに鎌倉の“知恵袋”となったのだ。なにしろ長年の下積み生活で、京都の公家政権の弱味は知り尽くしている。勘どころの押さえ方には狂いがないのは当たり前だ。『吾妻鏡』の1185年(文治元年)の条(くだり)によると、頼朝が史上有名な「守護・地頭」を設置したのも大江広元の献策によるものだという。

 1199年(正治元年)の頼朝の死後は、北条義時や北条政子と協調して幕政に参与した。「承久の乱」(1221年)の際は、嫡男、大江親広が官軍についたため、親子相克する事態となった。武家の出なら割り切るところだが、下級貴族の出の親子だけに思い悩む場面だ。しかし、老境に入った広元に迷いはなかった。この戦いはある意味では、後鳥羽上皇と広元との戦いでもあったが、かつての中級官僚は、旧体制を向こうに回して堂々としていた。『吾妻鏡』は広元の対応を高く評価し伝えている。広元はあくまで鎌倉方に立って、主戦論を唱えた北条政子に協調。朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して、幕府軍を勝利に導いた功労者の一人と記している。

 大江広元は、朝廷の中級官僚から、相対する鎌倉幕府の征夷大将軍の側近への転職を見事にやってのけたのだ。

(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」

沖田総司 ・・・激務の新選組・一番隊を率い、冷徹で惨殺者の顔も

沖田総司は天然理心流の近藤勇(後の新選組局長)が主宰する近藤道場・試衛館で剣技を磨き、10代で免許皆伝に達するほど、剣では天才的な人物だった。しかし、性格的には優しいイメージで語られることが多く、しかも労咳(結核)を患い、わずか20数歳という短い、幸薄い人生だったのではないかと考えられている。だが沖田には、新選組の一番隊を率いて活躍した男の冷徹で、斬殺者としての“顔”があったことも事実だ。果たして、沖田総司の実像とは?

沖田総司房良(おきたそうじかねよし)は、陸奥白河藩士、沖田勝次郎(足軽頭)の長男として武蔵国江戸(東京都)で生まれた。幼名は沖田惣次郎、藤原春政(ふじわらのしゅんせい)。容姿は背が高く、浅黒い方でヒラメ顔。少し猫背だったといわれているが、写真が残っていないので何ともいえない。声は細く、甲高かったといわれている。生没年は1842(天保13)~1868年(慶応4年)。ただ生年には天保15年説もあり、定かではない。

沖田は8、9歳のとき江戸市谷にあった、近藤周助(近藤勇の義父)が主宰する天然理心流の近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣の資質に恵まれていたのだろう、剣技は天才的で19歳のとき免許皆伝に達し、1861年(文久元年)には試衛館の塾頭を務めている。優しいイメージのある沖田だが、剣を教えるときは、人が変わったようにとても乱暴で、門弟たちからは近藤よりも恐れられていたという。

沖田の剣の得意技は「突き」で、彼が使う技は必ず「三段突き」だった。この三段突きの三本仕掛けが、一本にしか聞こえないほどの速さだったというのは有名な話だ。このことからも沖田が“無類の天才剣士”と呼ばれた一端がうかがわれる。
浪士組、新選組への参加は自分の意志だったのかどうか、近藤勇、土方歳三など試衛館のメンバーと行動をともにしたに過ぎないのか?はっきりしていることは、剣の師であった近藤勇を慕っていたことで、それが動機の一つだったことは間違いないだろう。新選組時代の沖田は副長助勤から一番隊長と撃剣師範を兼任。一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争うほど多くの人を斬ったといわれる。

池田屋事件では討幕派数人を斬り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れたとされているが、その後も活躍していることから、このとき本当に肺結核を発症したのかどうか、確実なことは分からない。ただ、1867年(慶応3年)の終わり頃には病状が悪化、沖田が第一線で活躍することがなくなった。したがって、鳥羽・伏見の戦いには参加できず、鳥羽・伏見の敗戦後、隊士とともに海路江戸へ戻り、以後は新選組と親交のあった、幕府御典医を務めた松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入ったとされている。

1868年(慶応4年)、沖田は一カ月前の近藤勇の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。というのは、周囲の者は近藤の死に関しては固く口止めされていたからだ。そのため、沖田は死ぬ間際まで師の近藤の安否を気遣っていたと伝えられている。
沖田は一般に新選組の副長、土方歳三とは兄弟のような関係だったかのように思われているが、これは司馬遼太郎、子母澤寛の創作(小説)によるところが大きく、現実は違う。

(参考資料)三好徹「沖田総司」、司馬遼太郎「燃えよ剣」

大久保長安・・・家康に“忠”ではなく“能力”で仕えたが死後、晒し首に

 大久保長安は自己の能力を信じて行動した合理主義者で、武田氏、徳川氏に仕え、一時は徳川家康のブレーンとなり、日本の金銀を次々と掘り出し、家康に膨大な富をもたらした。ところが、長安は家康に使い捨てられただけでなく、死後、死体に刑を加えられ、遺児7人は全員処刑され、財産も没収されるという憂き目に遭った。生没年は1545(天文14)~1613年(慶長18年)。

 大久保長安は、猿楽師の大蔵太夫十郎信安の次男として生まれた。長安の祖父は大和国春日神社で奉仕する猿楽(現在の能)金春流の猿楽師で、父の信安の時代に播磨国大蔵に流れて大蔵流を創始した。ただ、長安の両親については不明な点が多く、一説には秦氏の子孫だったともいわれ、確かなことは分からない。

 長安は甲斐の武田信玄に仕えたが、それは猿楽師としてではなく、建築、採鉱、道路づくり、税務などの技術を一身に備えていたからだという。武田家が勝頼の代で滅亡後、長安は家康の家臣として仕えるようになった。当時は「忠臣は二君に仕えるものではない」という考え方が厳然としてあったが、長安は自分は能力で武田家に仕えていたので、決して忠などという感覚で仕えていたのではない。家康に対しても「知識」と「技術」でお仕えするのだ-と割り切っていた。

 長安は組織づくりの名手だった。その組織も目的ごとに適した人材を集め、目的が実現されると解体してしまうソフトなつくり方をした。現代でいうプロジェクトチームだ。家康から命ぜられた仕事を完成すると、彼は非情にもその組織を潰した。同時に彼もまた未練なく次の任地へとぶ。そしてそこでまた、新しいプロジェクトチームをつくるのだ。

 長安の様々な功績の中で、とりわけ家康を狂喜させたのは、彼が日本の各地から金や銀を掘り出して家康に献じたことだった。石見国(島根県)の銀山、伊豆の金・銀山、そして佐渡の金・銀山の発掘は有名だ。彼は鉱山を発見すると、すぐプロジェクトチームを組んだ。それも極力、牢人(浪人)を採用した。能力主義に徹した。彼の採掘法は、日本の旧来のたて穴掘りをよこ穴掘りに変え、鉱石の洗浄、蒸留の方法に特別な手法を施す、外国の宣教師から学んだアマルガム法を採用していた。

この新技法を駆使し、プロジェクトチームで仕事を進める長安は、どこに行っても仕事を楽しくした。チーム員の給与や待遇を破格なものにし、生活を豊かなものにするために諸国から各種商人を呼んだ。遊女屋も盛んにした。長安は生涯、一つの土地にしがみつかなかったし、精神面でもしがみつきを嫌った。彼にとって永遠とか絶対というものは存在しなかった。こんな生き方は特異なものだった。それだけに、組織型人間からは疎まれ、やがて排除されることになる。官僚組織は統制に服さないものを憎む。憎むだけでなく、潰しにかかる。

 ただ、なぜか長安は生きているうちは攻撃を受けず、死んだ後、大弾圧をうける。生前、長安が金山の統轄権を隠れ蓑に不正蓄財をしていたという嫌疑をかけられたのだ。その結果、長安の7人の男児は全員処刑され、親交のあった大名、旗本も連座して改易などの憂き目に遭った。長安に大久保の姓を与えた大久保忠隣(ただちか)らも失脚した。そして、処分はこれだけでは済まなかった。家康は埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体を掘り起こして、駿府城下の安倍川の川原で斬首して、晒し首にしているのだ。

 近年では、長安の不正蓄財疑惑は冤罪で、当時幕府内で権勢を誇っていた本多正信・正純父子の陰謀説とみるのが有力だ。

(参考資料)童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」

荻原重秀・・・慶長金銀の改鋳で悪評生むが、経済通で日本初の財務官僚

 荻原重秀は出自こそ卑しかったが、大変な経済通で、恐らく日本で最初の政策官僚と呼ぶにふさわしい人物だった。とくに五代将軍徳川綱吉の後期に行われた通貨改革では、彼の発議と責任で「慶長金銀」の改鋳が行われ、後に悪評を生む原因となった半面、その高い見識と才能が遺憾なく発揮された。

 荻原重秀は荻原十助種重の二男で、父ももちろん勘定所の下役だった。重秀は1674年(延宝2年)、勘定所に出仕するようになり、150俵の給米をもらっている。1677年(延宝5年)、幕府は畿内一円の大検地を行うが、重秀はこの検地に派遣されて参加。また、1681年(天和元年)失政を問われて改易された、沼田城主真田信利の領地請取役として現地に出張している。こうした実績を積み重ねる中で、勘定方に荻原重秀ありという声は早くから高かったようだ。

 1695年(元禄8年)、幕府はそれまで通用していた「慶長金銀」を改鋳し、それに比べて金で約33%、銀で約20%品位の劣る「元禄金銀」を発行した。これは、荻原重秀の発議と責任で行われたものだが、この改鋳が後に重秀の悪評の原因となっている。というのも、この改鋳は重秀が銀座商人たちから賄賂をもらって行ったもので、幕府自身は出目(改鋳差益金)を稼いで、一時的に財政難をしのぐことができたが、庶民はそのために引き起こされた物価高に苦しんだ-といわれるからだ。実際のところはどうだったのか。

 本論に入る前に、理解を深めるために江戸時代の通貨制度を簡単にみておこう。江戸時代の基本通貨は金・銀・銭の三つだ。金は貴金属の金を主成分とした鋳造貨幣で、両・分・朱による四進法で計算されていた。銀は秤量(ひょうりょう)貨幣で、幕府の認可を得て銀座でつくった銀の塊を、秤で計ってそれを貨幣として使っていた。したがって、重さの単位の貫・匁が、貨幣としての銀の呼称単位に使われていた。銭は普通「寛永通宝」という名で知られている鋳造貨幣で、銅を主成分としており(鉄の場合もある)、貫文(かんもん)単位で計算されていた。

 金・銀・銭の三貨のうち金は主として関東を中心として東国圏で使われ、銀は京・大坂など上方を中心とした西国・裏日本で使われていた。銭は庶民が日常の買い物などに使う小額貨幣だった。この金・銀・銭はそれぞれ独立した通貨で、同一体系に組み込まれた通貨ではなかったため、これら三者の交換を円滑にするため毎日相場が立ち、その比率は絶えず変動していた。幕府は1609年(慶長14年)に金1両=銀50匁=銭4貫文という公定相場を決め、三貨がそのような相場で通用することが望ましいとしている。ただ、この公定相場は荻原重秀によって1700年(元禄13年)に金1両=銀60匁と改訂されている。

 江戸時代の通貨は、金は金座、銀は銀座、銭は銭座の特定の商人たちにその発行を請け負わせるのだ。彼ら鋳造請負人は分一(ぶいち)といって、鋳造高の何分の一といったように、一定の比率で手数料を取り、それが彼らの主たる収入になっていた。したがって、鋳造量が鋳造請負人ら商人の収入の多寡に直結していたことは確かだ。

 さて元禄の改鋳は、物価騰貴を引き起こして、果たして庶民の生活に大きな影響を与えたのだろうか。結論からいえば農民、職人、商人の生活より、厳しい影響を受けた階層があった。武士だ。武士は収入が固定していて増えないうえに、幕府の定めた規定に従って、その家禄に応じた数の家来を私費で養い、また下男・下女を一定数抱えて、家格相応の生活を保っておく義務があった。彼らの労賃が上昇しても、武家には商人・職人のようにそれを他に転嫁するところがなかったため、その被害をもろに受けたのだ。

 いずれにしても元禄の改鋳を終えた荻原重秀は、その功績もあって1696年、勘定奉行に栄進、2000石に加増され従五位下近江守に叙せられた。わずか150俵の給米取りの勘定方の下僚から出発した者としては破格の出世だった。

しかし、将軍綱吉が死亡、六代将軍家宣の代になると、事情が少し変わってくる。家宣は重秀の才能を認めていたが、執拗な重秀罷免運動に動く人物が出てきた。新井白石だ。重秀が行った銀の一方的な品位の切り下げは、上方に本拠を置く日本の巨大資本には我慢ならないことだった。そして、恐らくその意向(利害)を代弁したのが新井白石だったと思われる。1712年(正徳2年)、遂に重秀はその座を追われ、翌年死亡している。獄中で自殺したとも、殺されたとも、諸説あって定かではない。

(参考資料)堺屋太一「峠から日本が見える」、大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

第十三回 貝原益軒・・・ 『養生訓』は幸福な長寿を楽しむ人の大きな指標

 実証医学の祖といわれる貝原益軒。彼が今から300年ほど前、死の前年、実に84歳で書き著した『養生訓』は、高齢者問題が重大となってきた今日、幸福な長寿を楽しもうとする人々にとって、大きな指標となっている。

 『養生訓』には飲食物の食べ方、飲み方、体のいろいろな器官の働き、住まいや衣料のあり方、排泄から入浴の注意、病時の心得、医者の選び方、薬の飲み方、鍼灸の用い方から、高齢者や幼児の養い方に至るまで-今日でいう予防医学を内容として、心と体の安定法を懇切丁寧に説いている。

 とくに老年にある人の健康法として『養生訓』の多くの部分は、今日も役立つ。何よりも精神の平静を保つことに心がけること、日々楽しみを見つけて生きること、日常の起居に激動を避けながらも、体を動かすように努めること、大食しないこと、食事を淡白にすること、熱い湯には入らぬこと、少量の酒をたしなむこと、病気になってもいきなり薬をのまないこと-などは、多くの高齢者にあてはまる。

 益軒が『養生訓』を著した当時は、体は精神の奴隷みたいなもので、心さえしっかりしていればいいなどという考え方が横行した時代だ。そんな時代に益軒は一人の人間の命は大事である。絶対にこれが人間社会の基本である-といったわけだ。体を精神と同じレベルに持っていく。そして精神と体を一つにした、一人の人間の持って生まれた体を大事にして、どこまでも健康で長生きしていく。そして本当の幸福な老後というか、一生を送らなければならないという。益軒は人生の楽しみとして、健康と長生きと、人に気を使ったりしないで自由に生きること、この三つを挙げている。これが、いろいろな項目に分かれてかかれているのが『養生訓』なのだ。

 貝原益軒は江戸時代の本草学者、儒学者。筑前国(現在の福岡県)の福岡藩士、貝原寛斎の五男として生まれた。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒(晩年に益軒)、通称は久兵衛。生没年は1630(寛永7年)~1714年(正徳4年)。

 福岡藩に仕えたが、二代藩主黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送る。三代藩主光之に赦される。藩費による京都留学で本草学や朱子学などを学ぶ。この頃、木下順庵、山崎闇斎、松永尺五らと交友を深める。帰藩後、藩内での朱子学の講義や、朝鮮通信使への対応を任され、また佐賀藩との境界問題の解決に奔走するなど重責を担った。藩命により『黒田家譜』を編纂。また藩内をくまなく歩き回り『筑前国続風土記』を編纂した。

 益軒は幼少の頃から読書家で、非常に博識だった。ただし、書物だけにとらわれず、自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持っていた。
 70歳で役を退き、著述業に専念。著書は生涯に六十部二百七十余巻に及ぶ。主な著書に『大和本草』『菜譜』『花譜』といった本草書。教育書の『養生訓』『和俗童子訓』『五常訓』。思想書の『大擬録』。紀行文には『和州巡覧記』がある。
 
(参考資料)貝原益軒/松田道雄訳「養生訓、」杉靖三郎「日本史探訪/国学と洋学」