沖田総司 ・・・激務の新選組・一番隊を率い、冷徹で惨殺者の顔も

沖田総司は天然理心流の近藤勇(後の新選組局長)が主宰する近藤道場・試衛館で剣技を磨き、10代で免許皆伝に達するほど、剣では天才的な人物だった。しかし、性格的には優しいイメージで語られることが多く、しかも労咳(結核)を患い、わずか20数歳という短い、幸薄い人生だったのではないかと考えられている。だが沖田には、新選組の一番隊を率いて活躍した男の冷徹で、斬殺者としての“顔”があったことも事実だ。果たして、沖田総司の実像とは?

沖田総司房良(おきたそうじかねよし)は、陸奥白河藩士、沖田勝次郎(足軽頭)の長男として武蔵国江戸(東京都)で生まれた。幼名は沖田惣次郎、藤原春政(ふじわらのしゅんせい)。容姿は背が高く、浅黒い方でヒラメ顔。少し猫背だったといわれているが、写真が残っていないので何ともいえない。声は細く、甲高かったといわれている。生没年は1842(天保13)~1868年(慶応4年)。ただ生年には天保15年説もあり、定かではない。

沖田は8、9歳のとき江戸市谷にあった、近藤周助(近藤勇の義父)が主宰する天然理心流の近藤道場・試衛館に内弟子として預けられた。剣の資質に恵まれていたのだろう、剣技は天才的で19歳のとき免許皆伝に達し、1861年(文久元年)には試衛館の塾頭を務めている。優しいイメージのある沖田だが、剣を教えるときは、人が変わったようにとても乱暴で、門弟たちからは近藤よりも恐れられていたという。

沖田の剣の得意技は「突き」で、彼が使う技は必ず「三段突き」だった。この三段突きの三本仕掛けが、一本にしか聞こえないほどの速さだったというのは有名な話だ。このことからも沖田が“無類の天才剣士”と呼ばれた一端がうかがわれる。
浪士組、新選組への参加は自分の意志だったのかどうか、近藤勇、土方歳三など試衛館のメンバーと行動をともにしたに過ぎないのか?はっきりしていることは、剣の師であった近藤勇を慕っていたことで、それが動機の一つだったことは間違いないだろう。新選組時代の沖田は副長助勤から一番隊長と撃剣師範を兼任。一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争うほど多くの人を斬ったといわれる。

池田屋事件では討幕派数人を斬り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れたとされているが、その後も活躍していることから、このとき本当に肺結核を発症したのかどうか、確実なことは分からない。ただ、1867年(慶応3年)の終わり頃には病状が悪化、沖田が第一線で活躍することがなくなった。したがって、鳥羽・伏見の戦いには参加できず、鳥羽・伏見の敗戦後、隊士とともに海路江戸へ戻り、以後は新選組と親交のあった、幕府御典医を務めた松本良順により、千駄ヶ谷の植木屋に匿われ療養生活に入ったとされている。

1868年(慶応4年)、沖田は一カ月前の近藤勇の処刑を知らされぬまま、一人で逝った。というのは、周囲の者は近藤の死に関しては固く口止めされていたからだ。そのため、沖田は死ぬ間際まで師の近藤の安否を気遣っていたと伝えられている。
沖田は一般に新選組の副長、土方歳三とは兄弟のような関係だったかのように思われているが、これは司馬遼太郎、子母澤寛の創作(小説)によるところが大きく、現実は違う。

(参考資料)三好徹「沖田総司」、司馬遼太郎「燃えよ剣」

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