徳川綱吉・・・知性派将軍も「生類憐みの令」を出したため“悪役”に

 徳川綱吉といえば、“犬公方”などとも呼ばれ、江戸時代を通じても天下の悪法「生類憐みの令」を出し、一般庶民を苦しめた人物だ。ただ、綱吉自身は大変学問好きだった将軍で、15人を数えた徳川歴代将軍の中でも上位に数えられ、決してバカではなかった。それが、跡継ぎができないことを憂い、母・桂昌院が寵愛していた隆光僧正の勧めで、この悪法を世に出し、まさに“悪役”のレッテルを張られてしまったのだ。綱吉の生没年は1646(正保3)~1709年(宝永6年)。

 徳川五代将軍綱吉は、三代将軍家光の四男。幼名は徳松。母は桂昌院(お玉)。綱吉の正室は鷹司教平の娘信子。側室に瑞春院(お伝)、寿光院、清心院。お手付きに牧野成貞の妻阿久里とその娘の安などがいたという俗説もある。

 綱吉は1651年(慶安4年)、父家光の死後、上野国(現在の群馬県)その他で所領15万石を与えられ、1661年(寛文1年)10万石加増され、館林藩藩主となった。そして、1680年(延宝8年)、兄の四代将軍家綱に継嗣がなかったことから、彼がその養嗣子として江戸城二の丸に迎えられ、同年40歳の若さで家綱が死去したため、幸運にも彼が将軍宣下を受けたものだ。

 1687年(貞享4年)、殺生を禁止する法令「生類憐みの令」が制定された。この法令では綱吉が丙戌年生まれだったため、とくに犬が保護されたが、対象は犬のほか猫、鳥、魚類・貝類・虫類にまで及んだ。当初は生き物に対する殺生を慎めという意味があっただけの、いわば精神論的法令だった。しかし、一向に違反者が減らないため、遂には御犬毛付帳制度をつけて犬を登録制度にし、また犬目付職を設けて犬への虐待が取り締まられることになった。そして1696年(元禄9年)には犬虐待への密告者に賞金が支払われることになったのだ。もう精神論ではなくなってしまった。その結果、一般民衆からは天下の悪法として受け止められ、幕府への不満が高まった。

 綱吉が当時、一般民衆の間で人気を落とした事件がもう一つある。赤穂浪士による吉良邸討ち入りの後処理だ。映画、テレビ、講談などでもお馴染みの「忠臣蔵」だが、周知のとおり江戸城内・松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ播州赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩の即日切腹と、同藩のお家断絶(取り潰し)だ。大名たるものが裁判や審議を全く受けることもなく、即日処刑されてしまったのだ。異例のことだった。

これに対し、吉良上野介は“お咎め”なし。通常は武家同士の揉め事は「喧嘩両成敗」が相場。この片手落ちの処分に当事者の赤穂藩関係者の“怒り”は当然だが、一般民衆も頭を傾げた。そして、“判官贔屓”にも似た心境になり、赤穂浪士による討ち入りで彼らが上野介の首級を挙げ、主君の恨みを晴らすという本懐を遂げたときは、心の中で拍手喝采したのだ。幕府の処断は間違っていると態度で示したわけだ。明らかに綱吉の判断ミスだ。

江戸時代は改革や事件の後処理など幕閣が判断し方向性を決め、将軍の裁可を仰ぐケースが多い。中にはほとんど筆頭老中や側用人に任せっきりであった将軍もいた。しかし、強烈なリーダーシップを発揮した将軍もいたのだ。将軍の権威が最高となったのが元禄時代だ。綱吉は専制独裁君主だった。勅使饗応の日に浅野長矩が刃傷事件起こしたことで、綱吉は激怒。その感情、憤りをそのまま処分に結び付け、独断で全く審議もせずに内匠頭を切腹させてしまったのだ。

 綱吉は戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進。林信篤をしばしば召し出し、経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど学問好きな将軍だった。儒学を重んじる姿勢は新井白石、室鳩巣、荻生徂徠、雨森芳洲、山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなった。

また、綱吉は儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍として知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、大和国と河内国一帯の御陵計66陵を巨額な資金をかけて修復させている。このほか、幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用へ道を開いている。荻原重秀もここから登用されているのだ。

 ざっと綱吉の事績を挙げてみたが、治世の前半は基本的には善政として「天和の治」と称えられている。「生類憐みの令」がなければ、恐らく彼は賢人、善政を行った将軍として名を残していたことだろう。

 とはいえ、綱吉の場合、女性にはだらしなかった。いや、彼は男色にも精を出した。きっかけは恐らく、綱吉にへつらう側用人・牧野成貞が美女を腰元にして近づけたことだったろう。これはよく知られた話だが、女の味を覚えた綱吉は牧野の妻を江戸城に呼びつけ、それきり自分の妾にした。さらには牧野の娘で、結婚したばかりの新妻に目をつけた。これは一晩か二晩で帰されたが、その夫は切腹してしまう。その新妻も翌年死ぬ。綱吉は男色にも精を出し、彼に愛玩された男女は実に100人を超えたといわれている。とても単なる“女好き”とかいうレベルではない。やはり常軌を逸した部分のある人物だったことは間違いない。

(参考資料)藤沢周平「市塵」、井沢元彦「忠臣蔵 元禄十五年の反逆」、永井路子「歴史のヒロインたち 五代将軍綱吉の母・桂昌院」、白石一郎「江戸人物伝 大石内蔵助良雄」、山本博文「徳川将軍家の結婚」、小島直記「逆境を愛する男たち」

徳川慶喜・・・ 膨大な数の幕臣を見殺しにし、敵前逃亡した最後の将軍

 徳川慶喜といえば幕末、英明で知られた徳川十五代将軍だ。それだけに、このシリーズに加えることに違和感を持たれる人がいるかも知れない。しかし、最高司令官としての慶喜がきちんと対応していれば、幕府軍の官軍との戦いは、まだまだ互角以上の勝負が可能であった。にもかかわらず、彼は鳥羽・伏見の戦いに敗れると、敗兵を置き去りにして、こっそり大坂城を抜け出して海路、真っ先に江戸に戻ってしまった。

これはトップとして恥ずべき最大の汚点だ。「敵前逃亡」だ。慶喜は膨大な数の幕臣を、ある意味で見殺しにしてしまったのだ。組織のトップとしては、完全に“失格者”だったといわざるを得ない。トップにはトップの者として、その立場に合った、幕臣が納得する、ふさわしい引き際があったはずだ。

 徳川慶喜は、確かに徳川の歴代将軍の中では知性も教養も備え、幕政改革にも取り組む、最後まで可能性を探し続けた「徳川日本株式会社」(幕府)の“経営者”だった。慶喜がやろうとしたのは、単なる財政再建ではなく、“勢威”の回復にあった。つまり、将軍を核にした徳川幕府の勢威を昔日に戻そうとしたのだ。

そのため、彼は軍制、財政、組織の三改革を実施した。組織改革では老中以下の合議制を改め、「省」制を導入した。内務、外務、陸軍、海軍、財、農、商、土木、司法、教育、宗教などに分けた。また、横須賀造船所を建設した。

 そして、西南雄藩を中心とする反対勢力の伸長に対抗、彼は突然、ウルトラCの逆転戦法に出た。「大政奉還」だ。諸藩の有力者に対し、“ポスト徳川”の運営がお前たちにできるのか?やれるならやってみろ-との気持ちが強かったと思われる。つまり、彼は本気でトップの座を降りる気はなかったのだ。彼は“時代の空気”を読みそこなった。彼の目算では、討幕勢力は四百万石という徳川クラスの“大企業”経営の経験がない連中だけに、すぐに音を上げて投げ出してしまうだろうと、たかをくくっていたのだ。

 ところが、西南雄藩の連中は音を上げるどころか、十分やる気で、天皇を担ぎ出し「今後、日本の経営は天皇が行う」と宣言した。「王政復古」だ。この奇襲に慶喜も完全に足をすくわれた格好だ。そして、鳥羽・伏見の戦いでの敗戦で彼は、取り返しのつかない、決定的なミスを犯してしまった。側近のみを伴っての敵前逃亡だ。哀れなのは置き去りにされた、膨大な数の幕臣たちだ。

 歴史に「たら」「れば」は無意味ということを承知で、敢えて大坂城で一戦していれば、と考えてしまう。負けてもいい。負けたら江戸で一戦すべきだったのではないかと思う。大坂城では軍備も戦力もあった。江戸でも戦う人々はたくさんいたのだ。そうすれば佐幕派の諸藩や旗本ら幕府軍も結末はどうあれ納得できただろう。江戸の庶民もそうだ。

 しかし、慶喜は江戸に戻って後、ひたすら恭順の姿勢を取る。京都や大坂にいて幕政改革の陣頭指揮を執った、あのエネルギッシュでダイナミックなトップの面影は全くない。この落差がどうにも理解しにくいところだ。“朝敵”の汚名は何としても返上したい-の思いは確かにあったろうが、もうすこし、常識的に対応すれば、こんな追い込まれ方はしなかったのではないか。

 徳川慶喜の生没年は1837(天保8)~1913年(大正2年)。江戸・小石川の水戸藩邸で第九代藩主・水戸斉昭の七男として生まれた。幼名は七郎麻呂。斉昭の命で徹底した英才教育を受け、水戸弘道館で学んだ後、1847年(弘化4年)一橋家を継いで慶喜と改名した。内大臣。従一位勲一等公爵。

(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」
      奈良本辰也「歴史に学ぶ」、杉本苑子「残照」

藤原兼家・・・初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物

 藤原兼家は、藤原氏の中でも初めて摂政・関白・太政大臣を歴任した人物だ。天皇の外戚となり、権謀術数の限りを尽くして地位を確立した藤原氏は、兼家の子、道長の時代に絶頂期を迎える。兼家は、その道長の全盛時代の礎をつくったのだ。兼家の生没年は929(延長7)~990年(永祚2年)。
 藤原兼家は藤原北家の流れ、藤原師輔の三男で、母は藤原経邦の娘盛子。道隆、道兼、道長、道綱らの父。妻の一人に『蜻蛉日記』の作者、藤原道綱母がいる。

兼家は円融天皇のとき、長兄の伊尹(これただ)が早世すると、次兄兼通と摂関の地位をめぐって激しく対立した。兼家は次の関白を望んだが、結局敗れ、その地位は兼通に奪われてしまった。ここから兄弟による、ちょっと信じがたいほどの対立状態が続き、兼家にとって不遇の時代が続いた。関白となった兼通は兼家を憎み、ことごとく兼家の出世の邪魔をし、死に際には兼家を大納言から治部卿に降格させることまでやった。どうして?そこまでやるか?くらいの意地の悪さだ。

 なぜ、兄弟間のこんな陰湿な対立が生まれたのか?それは、ずばり弟の兼家が兄の兼通の官位を超えて出世してしまったからだ。967年(康保4年)、冷泉天皇の即位に伴い、兼家は兼通に代わって蔵人頭となり、左近衛中将を兼ねた。翌968年(安和元年)には兼通を超えて従三位に叙された。969年(安和2年)には参議を経ずに中納言となった。蔵人頭は通常、四位の官とされて辞任時に参議に昇進するものとされていた。しかし兼家は従三位に達し、さらに中納言就任直後までその職に留まった。

これは長兄伊尹が自己の政権基盤確立のため企図したもので、宮中掌握政策の一翼を兼家が担っていたからだと考えられる。そして、これが「安和の変」に兼家が関与していたとされる説の根拠とされている。その後、伊尹が摂政になると、兼家はさらに重んじられた。伊尹は兼家が娘の超子を入内させるのを黙認しただけでなく、972年(天禄3年)には兼家を正三位大納言に昇進させ、さらに右近衛大将・按察使を兼ねさせた。その結果、兼家の官位が兼通の上となり、このため兼通の兼家に対する恨みが増幅した形となったのだ。

 972年(天禄3年)伊尹が重病で辞表を提出すると、当然兼家は関白を望んだ。しかし兼通がこの事態を黙ってみているわけはなかった。そして兼通は「関白は宜しく兄弟相及ぶべし(順番に)」との円融天皇の生母安子の遺言を献じたのだ。孝心篤い天皇は遺言に従い、兼通の内覧を許し、次いで関白とした。兼通の勝利だった。

 兼通に妬まれていた兼家は不遇の時代を過ごすことになった。兼家の娘・超子が冷泉上皇との間に居貞親王を産むと、兼通はこれを忌んで円融天皇に讒言した。また、兼家が次女の詮子を女御に入れようとすると、兼通はこれを妨害した。兼家の官位の昇進も止まってしまった。『栄華物語』によると、兼通は「できることなら(兼家を)九州にでも遷してやりたいものだが、罪がないのでできない」とまで発言している。

 兼通の、兼家に対する憎しみは死を前に爆発する。きっかけは、兼通の勘違いだった。977年(貞元2年)、重体に陥った兼通が邸で臥せっていたとき、兼通の門前を通りかかった兼家の車が当然、見舞いにきたものと思っていたが、実はそうではなく、通り過ぎて禁裏へ行ってしまったことを激怒したのだった。そこで兼通は、病身をおして参内して最後の除目を行い、関白を藤原頼忠に譲り、兼家の右大将・按察使の職を奪い、治部卿に格下げした。兼通は最後の力を振り絞って、兼家にできる限りのダメージを与えることに執念を燃やしたのだ。そして満足したか、程なく兼通は死去した。

 兼家の出世にとって最大の“障害”だった兼通が亡くなったことで、あとは策略と処世術に長けた兼家自身が、外戚の立場を最大限に活かし、着実に階段を昇るだけだった。兼通の死後は右大臣に任じられ、次第に朝廷内での権勢を得ていった。そして、寛和2年6月には息子、道兼を使い策略によって花山天皇を出家させ、退位させた。そして娘が産んだ一条天皇の擁立に成功。986年、念願の摂政に就任した。その後、兼家の家系が摂政を独占することになった。

 ただ、兼通・兼家の兄弟の間に憎しみにも似た争いがあったように、勝者の兼家の息子・孫の世代でも争いは繰り返されている。中でも兼家の末っ子、道長と長兄道隆の子供(伊周ら)たちとの官位争いだ。両家一族挙げての対立は、ほとんど手加減なしの想像以上に激しいものだ。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」

北条高時・・・田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った執権

 鎌倉幕府最後(第十四代)の執権となった北条高時は、田楽と闘犬を異常に好み、放蕩三昧の日々を送った。『太平記』『増鏡』『鎌倉九代記』など後世に成立した記録では闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれている。いずれにしても、執権としての自覚に乏しく、酒色におぼれ、政務を疎かにしたことは間違いない。高時の生没年は1303(嘉元3)~1333(元弘3年/正慶2年)。

 杉本苑子氏は、北条氏は不思議な氏族だという。鎌倉時代のおよそ130年、北条氏は十六代にわたる執権家、とくに得宗と呼ばれた宗家嫡流の権力保持には、どすぐろい術策の限りを尽くした。その結果、後世の人々には陰険な氏族として毛嫌いされているほど。それにもかかわらず、執権を務めた人物一人ひとりの生き方は、権位にありながら、珍しいほど清潔だった-と杉本氏。ただ、これには例外があった。北条氏の執権を務めた中に一人、権力に伴う富を、個人の栄華や耽美生活の追求に浪費した人物がいた。それがここに取り上げた十四代・北条高時だ。

 北条高時は第九代執権・北条貞時の三男として生まれた。成寿丸、高時、崇鑑と改名した。日輪寺(にちりんじ)殿と呼ばれた。1316年(正和5年)、14歳で執権となった。したがって、まだ執権としての器量にも欠けていたため、実権は舅の時顕や執事の長崎高資が握っており、高時に政務の出番はなかった。ただ、飾り物としての執権職に嫌気したか、彼は成長してからも真面目に職務に就くことは少なかったようだ。

 高時の道楽の極め付けが闘犬だった。諸国に強い犬、珍しい犬はいないかと探し求め、これが高じて遂に国税あるいは年貢として徴収し出す始末だった。公私混同も甚だしい。また、気に入った犬を献上した者には惜しみなく褒美を与えた。こうなるとめちゃくちゃだ。こうした闘犬狂いの高時のご機嫌を取ろうとして諸大名や守護、御家人たちは競って珍しい犬を飼っては献上するので、当時、鎌倉に4000~5000匹の犬がいたという。月に12度も「犬合わせの日」が定められていたというから、少なくとも3日に1度は闘犬にうつつを抜かしていたというわけだ。この高時の闘犬狂いは地方にも波及し、地頭や地侍までが闘犬に夢中になったと伝えられている。

 1326年(正中3年)、病のため高時は24歳で執権職を辞して出家した。後継をめぐり高時の実子、邦時を推す長崎氏と、弟の泰家を推す安達氏が対立する騒動(嘉暦の騒動)が起こった。いったんは金沢貞顕が執権に就くが、すぐに辞任。赤橋守時が就任することで収拾した。

 1333年(元弘3年/正慶2年)、後醍醐天皇が配流先の隠岐を脱出して、伯耆国の船上山で挙兵。ここから事態は急展開。足利高氏、新田義貞らが歴史の表舞台に登場し、鎌倉幕府の命運は危うさを増していく。

 高時の放蕩三昧でタガの緩み切った鎌倉幕府に、新しい勢力の流れを阻止する力は残っていなかった。同年、新田義貞が鎌倉に攻め込んできたときには、緩み切った鎌倉幕府もさすがにこれには対抗、烈しい死闘を演じた。だが、結局6000人もの死者を出し、鎌倉幕府は滅亡、高時は東勝寺で自刃した。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」、司馬遼太郎「街道をゆく26」、杉本苑子「決断のとき」

藤原信西・・・博覧強記で、信念に沿った行動が敵視され“悪役”に

 日本人は合理的に物事を考え処理していく人物をあまり好まない。そのため頭が切れ、眼識が鋭く、決断力に富み、毀誉褒貶を意に介さず、信念に沿って行動するタイプの人間はややもすると敵視され、“悪役”に仕立て上げられるケースが少なくない。当世無双の博覧強記といわれ、「諸道に達する才人」といわれたこの藤原信西などはその代表的な例かもしれない。信西の生没年は1106(嘉祥元)~1160年(平治元年)。

 藤原信西は平安末期の貴族・学者・僧侶。信西は出家後の法名。俗名は藤原通憲(みちのり)。信西の家系は曽祖父藤原実範以来、代々学者(儒官)の家系として知られ、祖父藤原季綱は大学頭だった。ところが1112年(天永3年)、父藤原実兼が蔵人所で急死したため、幼少の通憲は縁戚の高階経敏の養子となった。このことが後の彼の生き方を大きく左右することになった。

 通憲の願いは曽祖父、祖父の後を継いで大学寮の役職(大学頭・文章博士・式部大輔)に就いて学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、世襲化が進んだ当時の公家社会のしくみでは、高階家の戸籍に入ってしまった通憲には、その時点で実範・季綱を世襲する資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていたのだ。これに失望した通憲は無力感から出家を考えるようになった。

 鳥羽上皇はこれを宥めようとして1143年(康治2年)、正五位下、翌年には藤原姓への復姓を許して少納言に任命し、さらに息子・俊憲に文章博士、大学頭に就任するために必要な資格を得る試験である対策の受験を認める宣旨を与えたが、通憲の意思は固く、同年出家して「信西」と名乗った。
 鳥羽上皇は信西の才能に注目し『本朝世紀』の選者とした。これは官選の国史『六国史』の後を受けて、宇多帝の御宇から近衛帝までおよそ250年間にわたる宮廷内でのできごとを、外記・日記をはじめ諸家の記録を参照し、年代を追いつつ整理編纂したもので、史学史上、重要な文献となっている。

 『法曹類林』の述作も、地道な業績のひとつといえよう。明法家・司法学者らの意見、実施に適用された令法上の慣例などを、古書・古文献を丹念に渉猟して、事項別に分類・収集した法律書だ。全230巻におよぶ大部なものだから、当時の官界・学界に大いに活用されたばかりでなく、現在なお、平安朝時代の法例・法理を考察するうえで貴重視されている。

 また信西自身、自分の家系が朝廷内で出世の見込みが薄いことで、傍目にはとても皇位に就く可能性が低い鳥羽上皇の第四皇子、雅仁親王に目をつけた。ただ、それは決して自暴自棄になって選択したのではなかった。成算を見込んでのものだったのだ。そして、彼は政治状況や天皇家の内紛、人間関係などを冷静に観察、分析して、雅仁親王こそ天皇になれると見抜き、接近した。

 1155年(久寿2年)近衛天皇が崩御すると、幸運にも妻朝子が乳母となっていた雅仁親王がその見立て通り、後白河天皇として即位。信西はその信頼厚い権力者の地位を得た。1156年(保元元年)、鳥羽上皇が崩御すると、その葬儀の準備を行い、「保元の乱」が起こると源義朝の献策を積極採用して、“夜襲”作戦を断行。後白河天皇方に勝利をもたらした。

 信西は乱後、摂関家の弱体化と天皇親政を進め、新制七カ条を定め、記録荘園券契所を再興して荘園の整理を行うなど絶大な権力を振るった。また、大内裏の再建や相撲節会の復活なども信西の手腕によるところが大きかった。

 しかし、強引な政治の刷新は反発を招き、二条天皇が即位し後白河上皇の院政が始まると、当時、後白河の寵臣となっていた藤原信頼と対立。徐々に歯車が狂い始める。その一方で、保元の乱をきっかけに、さらに力を持った信西は源義朝が申し入れてきた婚姻関係を断り、平氏の娘と自分の息子で婚姻血縁関係を結んだ。このことは後に大きな禍根を残すことになった。源義朝は保元の乱の時の活躍を正当に評価されなかった不満と、信西に持ち込んだ婚姻関係を断られたことに怒り、信西と対立した勢力と結んで1159年(平治元年)、「平治の乱」を起こしたのだ。

 信西は源義朝・藤原信頼の軍勢に追われ、伊賀の山中で切腹した。だが、後に源光保によって地中から掘り起こされ、首を切り取られ都大路に晒されたという。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

藤原純友・・・京での貴族社会から脱落し、開き直って官位を持つ海賊に

 藤原純友は平安時代中期、朝廷に対し海賊の頭領として西国で反乱を起こし、同時期に関東で平将門が起こした反乱と合わせ呼称される「承平・天慶の乱」<935(承平5)~941年(天慶4年)>の首謀者として知られる。純友は将門のように神や英雄として崇められることも少ない。また、純友に関する伝説や史料は乏しい。純友は将門を語るうえで無視できない西国の「敗者」なのだ。純友の生年はよく分からないが、893年(寛平5年)ごろと推察される。没年は941年(天慶4年)。

 藤原純友は右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。当時の朝廷の権力の中心を占めていた藤原北家に生まれている。曽祖父は陽成天皇の外祖父、贈太政大臣・藤原長良であり、大叔父には最初の関白・藤原基経がいる。しかし、ここに異説がある。純友は伊予の豪族高橋家の生まれで、藤原良範が伊予守となっていたと思われることから、その縁で良範の養子になったというものだ。いずれにしても、近い一族に高位の有力者がいたことは間違いない。

 ところが、純友の人生を狂わせることが起こる。それは父が若くして死んでしまったのだ。そのため、様々な人脈の伝手で可能であったろう仕官の“芽”が摘まれてしまったわけだ。都での出世が望めなくなった純友は、地方官となった。当初は父の従兄弟の伊予守藤原元名に従って「伊予掾」として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。「掾」は地方官として三番目の官で、伊予は上国だから従七位上相当官だ。しかし、元名帰任後も帰京せず、伊予国(現在の愛媛県)に土着した。

 ところで、純友が活躍したのは瀬戸内海だが、このころの瀬戸内海沿岸や無数の島々はどんな状態になっていたのか。瀬戸内海に海賊が横行していたことは、紀貫之の『土佐日記』の記述でよく分かる。彼は土佐守の任期がきて帰京するのに、絶えず海賊襲来の噂に怯えつつ航行している。貫之が土佐から帰京した934年(承平4年)末から935年(承平5年)初めのことだ。『三代実録』にも、海賊が跳梁跋扈し、一向にやまない状況を嘆き、播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・紀伊・淡路・讃岐・伊予・土佐などの国々に海賊を追捕するよう命じた-とある。

 さらに、その後、播磨・備中・備後などの国々から相次いで、海賊を捕らえたとの報告がきているが、賊勢は一向に衰えた様子はない。噂によると、これは各国の国司らが責任逃れに汲々として、自分の管轄内だけの平穏を保つため、捕らえて退治しようというのではなく、追い払うだけだからだ-と『三代実録』にある。朝廷が海賊対策に躍起になっているのに、沿岸諸国の国司らが責任逃れだけのいいかげんなことをしていることがよく分かる。

 さて、京での出世の見込みがないと判断し土着した純友は、完全に開き直り、立場を180度変えてしまった。海賊を鎮圧する側ではなく、海賊そのものになったのだ。推定42歳ころのことだ。従七位・伊予掾の官位は盗賊の中では異色で、彼はまもなく頭角を現し、936年(承平6年)ころまでには海賊の頭領となった。伊予の日振島(現在の愛媛県宇和島市)を根城として1000艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力を広げた。

そして、一大勢力となった彼は攻勢に出る。朝廷に対し叛乱を起こしたのだ。当初は各地で官軍を撃破し優勢だったが、次第に劣勢となり追い詰められ、941年(天慶4年)、藤原国春に敗れ、九州大宰府に敗走した。なおも追討軍の小野好古らの追撃を受け、その後、伊予・日振島に脱出するが、伊予国警固使の橘遠保(たちばなのとおやす)の手で逮捕された。遠保は純友を京に護送するつもりでその身を禁固したが、獄中で死亡した。その死因は不明だが、自害かも知れない。

 純友らはなぜ叛乱を起こしたのか?純友らの武装勢力は、純友と同様、元は海賊鎮圧にあたった者たちで、鎮圧後も治安維持のため土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層だ。とくに親分株の者は氏素姓のある連中だった。彼らは親の世代の早世などによって、保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者たちだった。しかし、彼らは自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのだ。こうしてみると、この叛乱は律令国家の腐朽と弱体を白日の下に晒したものだった。

(参考資料)海音寺潮五郎「悪人列伝」、北山茂夫「日本の歴史・平安京」