芹沢鴨 ・・・近藤勇一派に敗れ、「燃えよ剣」のお陰で“悪役”に

 芹沢鴨は幕末の新選組の初代局長だ。ところが、映画や小説で取り上げられてイメージアップされ、後に活躍する近藤勇、土方歳三、沖田総司などに追いやられ、芹沢鴨はすっかり悪役に仕立て上げられてしまった感がある。新選組映画はほとんど近藤勇が主役の映画だ。当初は近藤勇にやたらに人斬りをすすめる鬼の副長だった土方歳三がなぜ脚光を浴びたかといえば、これはすべて司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」のお陰だ。そんな中で、悪役イメージを与えられた芹沢鴨とは、実際にはどんな人物だったのか。

 芹沢鴨は、常陸行方郡玉造の豪農の家に三男として生まれた。本名は木村継次。水戸藩浪士。江戸で神道無念流を修め、免許皆伝の腕前だったという。水戸の武田耕雲斎に私淑し、耕雲斎が天狗党を結成したとき、下村継次の変名で参加。隊員300名を預かるほどの存在だったらしい。だが、芹沢鴨に関する水戸での記録はほとんど分からない。
1863年(文久3年)、清河八郎による浪士隊の募集が行われた。浪士隊の役目は将軍上洛の際の護衛。支度金50両をもらえるほか、身分の保証がある可能性もある。この募集に芹沢鴨も、近藤勇、土方歳三、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、山南敬助、原田左之助、井上源三郎など試衛館の一統とともに応じたのだった。

浪士隊が京へ入ったその夜、清河八郎が浪士を新徳寺へ呼び集め、このたびの浪士組結成は、将軍家茂の警護のためではなく、尊皇攘夷の先鋒となるためだという考えを明かした。一同は驚きの余り声をのんだ。司馬遼太郎氏の「燃えよ剣」によると、清河八郎は兵を持たぬ天皇のために押しかけ旗本になり、江戸幕府よりも上位の京都政権を一挙に確立しようとしたのだ。

 清河八郎はその夜から公卿工作を開始し、浪士隊の意のあるところを天皇に上奏してもらえるよう運動した。清河の建白は大いに禁裏を動かした。もし時流が清河に幸いすれ。ば、出羽清川村の一介の郷士が、京都新政権の首班になることもあり得たということだ。だが、近藤や土方は清河を信用できず、“寝返り”の匂いを感じ取った。土方は芹沢の実兄が木村伝左衛門という名で、水戸徳川家の京都屋敷に公用方として詰めていることを知り、その縁を通じて京都守護職・松平容保に働きかけて、新党結成を実現しようと考え、一度だけという気持ちで芹沢と手を結んだ。このとき、近藤や土方らの試衛館一派と、芹沢一派が同じ宿舎でなかったら、こんな手の結び方は実現するはずもなく、新選組自体この世に生まれていなかったかも知れない。

 清河八郎の建白書は朝廷に容れられたが、それを聞いた幕閣は驚き、早々に浪士を江戸へ呼び戻した。清河八郎と浪士隊は、京に20日ほどいただけで江戸へ帰っていったが、近藤一派と芹沢一派は京へ残り、松平容保に嘆願書を出し、容保御預かりの身となった。いよいよ、新選組のスタートだ。

この後、新選組は近藤勇らによる、試衛館色に新選組を染めていく、いわゆる粛清の日々となる。芹沢鴨の暗殺もその一環だ。それだけに芹沢鴨の苛立ちは治まらない。酒を飲まないときはともかく、酒気を帯びると乱行が続いた。近藤勇一派に追い詰められて、毎日飲まずにはいられなかったのだろう。ここが芹沢鴨という男の終点だった。こうしてみると、芹沢鴨はやはり悪役がふさわしかったようだ。

その日も、酒宴で泥酔した芹沢は腹心の平山、平間と屯所に戻り、それぞれ女と寝ていた。土方は深夜、沖田総司、山南敬助、原田左之助を連れて密かに忍び入り、芹沢とその女、お梅、平山五郎の3人を斬殺した。土砂降りの夜中だった。芹沢殺しを成し遂げた土方は引き揚げて着衣を替え、何食わぬ顔で外へ出ると、事件の様子などを尋ねたという。

(参考資料)司馬遼太郎「燃えよ剣」、村松友視「悪役のふるさと」、藤沢周平「回天の門」

蘇我入鹿・・・聖徳太子一族を滅亡に追い込み、国政を壟断した最高実力者

「大化改新」の主役が中大兄皇子、そしてこれを補佐した中臣鎌足だとすれば、その敵役は蘇我氏、それも宗本家の蘇我蝦夷・入鹿の父子ということになる。また、もう少し時代をさかのぼると、聖徳太子の子、山背大兄王ら上宮王家一族24人を凄惨な自殺に追い込んで滅ぼし、当時の国政をほしいままにした悪役。それがここに取り上げた蘇我入鹿だ。

 蘇我入鹿は、祖父・蘇我馬子が築いた繁栄をベースに君臨。蘇我氏は大臣(おおおみ)として大和朝廷の実権を馬子、父・蝦夷に次いで三代にわたって掌握した。642年(皇極元年)、父に代わって国政を掌握した入鹿は翌年、父から独断で大臣を譲られ名実ともに大和朝廷の最高実力者となった。644年(皇極3年)、甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を築き「上の宮門(みかど)」「谷の宮門(みかど)」とし、さらに自分の子女たちを皇子と呼ばせた。

しかし、専横を極めた蘇我氏は善玉の手で征伐されないと物語が成り立たない。入鹿は、彼が皇位に就けようと画策した古人大兄皇子の異母弟で、古人大兄皇子の皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足らのいわゆる「乙巳の変」のクーデターによって飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿で、皇極天皇に無罪を訴えるも、その御前であえなく止めを刺され、暗殺された。後日、父蝦夷も自決し、ここに馬子の時代から天皇家をも凌ぐ絶大な権力を持ち、栄華を誇った蘇我宗本家は滅んだ。

こうした部分だけみると、この入鹿という人物、権勢を背景にわがまま放題に振る舞う野心家で、“悪”の権化の印象を受けるが、果たしてそうなのか?入鹿は青少年期、南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の学堂で学ぶ秀才だったと伝えられている。南淵請安は608年、遣隋使として派遣された小野妹子に従い、僧旻ら8名の留学生・留学僧の一人として留学。以来32年間、隋の滅亡から唐の建国の過程を見聞して640年、高向玄理らとともに帰国した。入鹿はその南淵請安から、新知識をかなり受け入れていた存在といえ、その学識レベルはやはり、単なるわがまま放題の悪役像と外れてくるのではないか。

また、この南淵請安の学堂には若き日の中臣連鎌子(後の鎌足)も出入りしていたというから皮肉だ。また、それだけに鎌足も入鹿の学識レベルを熟知。入鹿が権勢をバックにした、単なる野心家ではないとみて、綿密に打倒計画を練っていたのではないか。

「乙巳の変」決行に際して中大兄皇子、鎌足らは、日頃から注意深く慎重な入鹿の性格を知悉していたことから、わざと俳優(わざひと)を配して入鹿の帯びた剣を解かせた。中大兄皇子らは入鹿が入場すると諸門を固め、自らは長槍を持って宮殿の脇に身を隠した。鎌足は海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいのむらじかつまろ)に命じて、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいのむらじあみた)に剣を渡し、素早く入鹿に斬りかかるよう伝えた。

ところが、子麻呂らはいざとなると怖じ気づき、なかなか斬りかかろうとしなかった。上表文を読み進める蘇我倉山田石川麻呂は、なかなか刺客が登場しないのに、たじろいで大汗を流した。異変に気付いた入鹿が石川麻呂に問いかけるやいなや、中大兄皇子らが躍り出て遂に入鹿に斬り付けた。

 皇極天皇は惨劇を目の当たりにして、中大兄皇子に説明を求めた。そこで、中大兄皇子は、皇位を簒奪しようとする入鹿の悪行を余すところなく糾弾した。この「乙巳の変」を機に、わが国では史上初めて譲位が断行され、皇極天皇から同天皇の弟、軽皇子へバトンタッチされ、孝徳天皇が誕生した。
(参考資料)黒岩重吾「落日の王子 蘇我入鹿」、村松友視「悪役のふるさと」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、海音寺潮五郎「悪人列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化改新の謎」

蘇我赤兄・・・近江朝で天智天皇に仕え、有間皇子を謀略にかけた人物

 645年(皇極4年)、朝廷を震撼させるクーデター事件が起きた。古代史上最大のクライマックスともいえる蘇我入鹿暗殺事件だ。この事件の直後、入鹿の父・蝦夷も自決し、蘇我本宗家は滅亡した。しかし、ご承知の通り、これによって蘇我氏全体が滅んだわけではない。反対に、蘇我氏一族の中で、それまで本宗家の馬子直系による権力の独占に不満を持っていた一族は、出世そして繁栄の機会を得たものと、これを大歓迎した。蘇我氏の中で境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)の一族で、ここに取り上げる蘇我赤兄(そがのあかえ)がその一族の一人だ。

 蘇我赤兄は孝徳天皇の息子、有間皇子を孝徳天皇の死後、謀略にかけ、死に追い込んだ張本人として知られている。ただ、これについても確かに謀略にかけたのは赤兄だが、その指示を出していたのは中大兄皇子(後の天智天皇)との見方が有力だ。となると、少し事情は違ってくるが、史料が伝えるその人となりは、やはり悪人としかいえない、ずる賢さが漂っている。

 658年(斉明天皇の4年)、斉明天皇は中大兄皇子らとともに紀伊の牟婁温泉(むろのゆ、現在の和歌山県白浜温泉)に保養に出かけた。その留守中のことだった。留守官(るすのつかさ)として飛鳥の都に残っていた蘇我赤兄が、有間皇子邸を訪れた。そして、土木工事を中心とする公共事業の頻発で、この労役のために民が苦しんでいることを挙げて、斉明天皇-皇太子・中大兄皇子による政治を批判し、皇子に謀反を勧めたのだ。さらに、赤兄は自分の兄たち(石川麻呂、日向)が中大兄皇子に裏切られたことを持ち出して、中大兄を恨んでいることを語ったのだ。

 赤兄の巧みな芝居で、まだ19歳という若い有間皇子は実力者の赤兄が見方についたと早合点し、心を許しすっかり信用。赤兄に兵を挙げる意思があることを明かしてしまったのだ。そして、翌々日、皇子は自ら赤兄の家へ行き、謀反の密議をこらした。ところが、その夜半、赤兄は有間皇子の邸を囲み、牟婁温泉にいる天皇のもとに急使を走らせ、有間皇子の謀反を告げたのだ。皇子はまんまと赤兄の謀略にひっかかったわけだ。まったく、やり方が汚いとしかいいようがない。

 捕らえられた有間皇子は、牟婁に送られ、謀反の動機について中大兄皇子の厳しい尋問を受けた。それに対して有間皇子は、「天と赤兄と知る。われはもっぱらわからず(天と赤兄だけが知っていること。それがしは全く知らぬ)」と答えた。この「天」とは中大兄を指した言葉といわれ、このとき初めて有間皇子は自分を陥れた張本人が中大兄だったことを知り、いわば捨てぜりふを吐いたとみられる。この取り調べだけで、有間皇子は死刑と決まった。そして悲しいことに、その2日後、有間皇子は藤白坂(現在の和歌山県海南市)で縛り首となった。

 甘い言葉に乗せられた有間皇子に用心深さが足りなかったことは認めるが、やはり卑怯なのは赤兄だ。有間皇子も、軍備・軍勢を整えて、正々堂々戦って負けるのであれば納得できたろうが、罠にかけられた悔しさは筆舌に尽くし難いものだったろう。

 赤兄の生没年は不詳だ。『公卿補任』によると、天武天皇の元年(672年)8月配流、それに続いて「年五十一」と記されている。これが事実ならば、生年は推古天皇31年(623年)となる。父は蘇我倉麻呂で、兄に石川麻呂、日向(ひむか)、連子(むらじこ)、果安(はたやす)がいる。娘の常陸娘(ひたちのいらつめ)は天智天皇の嬪となり、山辺皇女(大津皇子の妃)を産んだ。大○娘(おおぬのいらつめ)は天武天皇の夫人になり、穂積親王、紀皇女、田形皇女を産んだ。

 赤兄は671年、左大臣となり近江朝廷の最高位の臣下として天智天皇に仕えた。天智天皇の死後は近江朝廷の盟主、大友皇子を補佐。吉野に逃れて軍備を整えた大海人皇子軍との対決となった、古代史上最大の内乱「壬申の乱」(672年)では、赤兄は大友皇子とともに出陣した。最後の決戦となった瀬田の戦いで敗れて逃亡。翌日大友皇子が自殺し、赤兄はその翌日、捕らえられた。そして、その1カ月後、子孫とともに配流された。ただ、その配流先は不明だ。

(参考資料)神一行編「飛鳥時代の謎」、豊田有恒「大友皇子東下り」、永井路子「裸足の皇女」、遠山美都男「中大兄皇子」

平重衡・・・寺社勢力討伐へ、東大寺・興福寺焼き討ちの実行者

 平重衡は1181年(治承4年)、平氏の総帥・平清盛の命により東大寺、興福寺の堂塔伽藍を焼き払った。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇残さず焼き尽くし、多数の僧侶が焼死した。この「南都焼き討ち」は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒から“憎悪”の眼で見られ、ひどく憎まれた。滅びてはならないもの、また滅びるはずのないものと信じ切ってきた精神的支柱が、たった一晩の業火であっけなく無に還ってしまった驚きは、現代人の理解の範囲を、遥かに超えたものであったに違いない。

戦(いくさ)の中で寺が主戦場となった場合は別として、通常、戦のため寺が火災に遭うのは多くは類焼だ。ところが、この「南都焼き討ち」は寺社勢力に属する大衆(だいしゅ=僧兵)の討伐を目的としたもので、「治承・寿永の乱」と呼ばれる一連の戦役の一つだ。

では、なぜ清盛は重衡に南都の代表的な寺の焼き討ちを命じたのか。それは、聖武天皇の発願によって建立され国家鎮護の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺だった興福寺が、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景に、元来、自衛を目的として結成していた大衆と呼ばれる武装組織=僧兵の兵力を恃(たの)みとして、平氏政権に反抗し続けていたからだ。清盛としては寺社の格の区別なく、平氏の“威光”を天下に示す必要があったのだ。

とはいえ、当時の日本人は、僧兵どもの横暴や我欲を指弾しながらも、この鎮護国家の二大道場、東大寺・興福寺に伝統的な畏敬と信頼を保ち続けていた。それが消えた、という事実は彼らの胸を不安と絶望に塗りつぶしてしまった。この事件によって人々が強いられたのは、遂に動かし難い「末法の世」への確認だった。それは“恐怖”そのものだった。

平重衡は、そんな大それた悪行を実行した張本人にしては、年もまだ24歳にしかなっていない貴公子だった。平清盛の四男で、6歳で従五位下・尾張守に任じ、左馬頭に叙せられ、やがて正四位に進み左近衛権中将、続いて蔵人頭に補された。同じ年の5月、源三位頼政が以仁王を奉じ、全国の源氏に先駆けて打倒平家の兵を挙げたとき、重衡は甥の維盛とともに2万の兵力を率いて頼政を宇治に破ったが、合戦の経験といえばこれが生まれて初めての、いわば典型的な“公達”武者なのだ。

今度はその重衡に4万の大軍を与えて、南都攻略に向かわせた清盛の狙いは何だったのか。実は当時、源三位頼政の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源氏との富士川での戦いに平家は敗れ、清盛は都を福原から京都に戻さざるを得なくなり、平家一門にとってはまさに四面楚歌の状態にあったのだ。そこで、そんな局面打開策の一環として、南都攻略が企図されたわけだ。焼き討ちの挙に出るまで、清盛もぎりぎりまで衝突を避けようと腐心し、調停の使者をさしたてている。しかし、使者は髷のもとどりを切られたり、鎮撫の兵も斬られ、奈良僧兵たちがあざけり、挑発的行為に出るに及んで、清盛も怒り、決断したのだ。

そんな清盛の意を受けて、「僧徒たちは悪鬼、寺は悪鬼のこもる城だ。焼き滅ぼして何が悪かろう」。恐らく重衡はそんな思いだったに違いない。しかし、堂塔伽藍が一斉に華麗な炎をあげ始め、さらに大仏殿までが火焔に包まれ始めたとき、彼も青くなり、仏法に仇する“怨敵”の烙印を額に押されて、平然としていられるほど太い神経は持ち合わせていなかったろう。若い重衡には、この体験は残酷に過ぎたといえる。

この事件を契機に、好意的だった寺社勢力さえが離反し、平家の孤立化は決定的となった。そして、源氏との間で「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇の浦の戦い」と坂を転げ落ちるように平家は負け続け、滅亡の道をたどった。

(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」

鳥居耀蔵・・・洋学嫌いが高じて「蛮社の獄」をでっちあげた“妖怪”

 江戸時代末期の幕府重臣だった鳥居耀蔵は、一貫して洋学に反感を持ち、それが高じて洋学者に憎悪の目を向け、高野長英、渡辺崋山らの洋学者を大弾圧した「蛮社の獄」をでっちあげたとの見方すらある。多くの場合、悪役のレッテルを張られるケースが多いのだが、“妖怪”とも称された彼は世間から“悪役”の衣を着せられたのではなく、むしろ確乎たる悪人だったのではないか。

 鳥居耀蔵は大学頭・林述斎の次男として生まれた。名は忠耀(ただてる)。25歳のとき旗本、鳥居一学の養子となった。1837年(天保8年)、目付けとなった。この年はアメリカ船モリソン号が日本人漂流民を乗せて渡来するにあたり、渡辺崋山が「慎機論」を、高野長英が「夢物語」を著して、幕府の撃退方針を阻止しようとしたが、とくに崋山は時勢に遅れた鎖国体制の固守はかえって外国の侵略を招く恐れのあることを強調した。崋山に限らず、蛮社の人々は江戸湾が封鎖された場合、幕府のお膝元である江戸の物資がたちまち払底するだろうという恐れを共通して抱いていた。

 蛮社は、江戸の山の手に住む洋学者を中心として、新知識を交換するためにつくられた会合の名称で、「尚歯会」または「山の手派」ともいわれた。蛮社は「蛮学社中」の略だった。三河田原藩の家老・渡辺崋山を盟主とし、町医師・高野長英、岸和田藩医・小関三英らの蘭学者、勘定吟味役・川路聖謨(としあきら)、代官・江川太郎左衛門栄龍、代官・羽倉外記、内田弥太郎(高野長英門下)らの幕吏、薩摩藩士・小林専次郎、下総古河藩家老・鷹見忠常、農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)らを加えた、つまりは開明分子の一団だった。

 こうした時代背景の中で、老中・水野忠邦は「寛政の改革」以来の江戸湾防備体制をさらに強化する必要があると判断。1838年(天保9年)目付・鳥居耀蔵と、代官・江川栄龍に、浦賀など江戸湾の防備カ所の巡見を命じた。ところが、この命に鳥居耀蔵は過剰に反応。儒学を信奉していて異常なほどの洋学嫌いな彼は、日頃、強い反感を抱いていた蛮社の人々に報復する絶好の機会と捉え、近世洋学史上最大の弾圧といわれる“蛮社の獄”へとエスカレートさせていくのだ。

 鳥居耀蔵は小人目付・小笠原貢蔵に、老中・水野忠邦の内命と偽って蛮社の面々を探索するように命じた。それを、情報を提供した下級役人の花井虎一からの密訴という形で告発状をつくり、これを水野忠邦のもとへ提出した。この結果、政治を論じた「慎機論」「西洋事情」などの草稿が発見された渡辺崋山は、政治誹謗のかどで厳しい吟味を受け、藩に累が及ぶことを怖れた崋山は、自決している。高野長英も逃亡生活を送った後、自決。また代官・江川栄龍をも失脚に追い込んでいる。このような探索、吟味のやり方はすべて鳥居耀蔵の手によるものだった。

 水野忠邦がリーダーとなった「天保の改革」においても鳥居耀蔵は“活躍”する。彼は天保12年、策動して失脚させた矢部定謙(さだのり)に代わって南町奉行に栄転し、鳥居甲斐守忠耀となった。しかも、天保の改革が民衆から予想をはるかに上回る反発を受け、反対派の台頭が目覚しくなってくると、彼は直属の上司の水野忠邦を裏切り、反対派に機密書類を提供して寝返りを打った。

出処進退の潔さが強く求められた時代に、この往生際の悪さはどう表現したらいいのか。悪の典型といわれても仕方あるまい。
 この後、鳥居耀蔵は四国丸亀に25年もの長きにわたり幽閉され、奇跡的に生還。78年の人生を生き抜いた。まさに“妖怪”だ。

(参考資料)吉村昭「長英逃亡」、奈良本辰也「不惜身命」、奈良本辰也「歴史に学ぶ」、松本清張・松島栄一「日本史探訪/開国か攘夷か」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、白石一郎「江戸人物伝」

天智天皇・・・謀略を駆使し、頂点に昇りつめた自己顕示欲に長けた策謀家

 天智天皇(当時は中大兄皇子)は、母・皇極帝の3年、「乙巳(いっし)の変」で中臣鎌足らと謀って、当時極めて大きな権勢を誇った蘇我氏(蝦夷・入鹿)を打倒、叔父・軽皇子を即位させ、孝徳天皇として立てて「大化改新」を断行。のち再び母を即位させ、自らは皇太子として政務を執った。こうしてみると、表面上はNo.2に甘んじる控えめな皇子を連想し勝ちだが、実はそうではない。様々な背景・理由があって即位することはなかったが、実権は彼が掌握していたのだ。有間皇子、蘇我倉山田石川麻呂、そして孝徳天皇など、彼にとって邪魔な存在はすべて謀略にかけ、追い込んで排除していく策謀家の側面が強い。

 天智天皇は父・田村皇子(後の舒明天皇)、母・舒明天皇の皇后、さらに後に即位して皇極天皇、重祚して斉明天皇となる宝皇女との間に生まれた。名は葛城皇子、開別(ひらかすわけ)皇子。田村皇子即位後、蘇我馬子の娘を母とする古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子とともに、皇位継承資格者とみなされ中大兄皇子を称した。皇后には古人大兄皇子の娘、倭姫(やまとひめ)を迎えた。父、古人大兄皇子は孝徳朝初期に吉野にあったが、謀反のかどで中大兄皇子の兵に捕らえられ殺害された。その際、倭姫は幼少のため中大兄皇子に引き取られ、後に輿入れしたのだ。

 天智天皇をめぐる女性の数は多く、嬪(みめ)として遠智娘(おちのいらつめ)、姪娘(めいのいらつめ)、橘娘(たちばなのいらつめ)、常陸娘(ひたちのいらつめ)が嫁ぎ、さらに女官として色夫古娘(しこぶこのいらつめ)、黒媛娘(くろめのいらつめ)、道君伊羅都売(みちのきみいらつめ)、伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)らが後宮に入った。遠智娘との間には建皇子、大田皇女、○野讃良(うののさらら)皇女(後の持統天皇)が生まれ、姪娘との間には御名部(みなべ)皇女や阿閉皇女(後の元明天皇)が、伊賀采女宅子娘との間には伊賀皇子(後の大友皇子=弘文天皇)が生まれた。

 中大兄皇子は、大化改新以前は隋に渡った南淵請安や僧旻(みん)から大陸、半島情勢を学び、高句麗や百済の動向、さらには唐の覇権拡大などを十分認識して皇室を中心とする中央集権国家の樹立に邁進した

 冒頭で様々な事情から即位せず、皇太子として政務を執り続けたと述べたが、その最大ともいえる事情の一つが実妹、孝徳天皇の皇后となった間人皇女(はしひとのひめみこ)と、男女の関係にあったと伝えられることだ。これは由々しきことだ。古代社会では、同母でなければ兄弟姉妹での男女関係、あるいは婚姻に至るケースはよくあり、決して珍しくない。近親同士の男女関係、いや婚姻についても甥と叔母、叔父と姪のケースは極めて多いとさえいえる。

ところが、実父、実母同士の男女関係は、現代はもちろん、古代社会においても厳に認められておらず、タブーとなっていた。中大兄皇子(=天智天皇)はこのタブーを破って、長く間人皇女との男女関係にあったので、即位したくても即位できなかったのだ。それでもいっこうにひるむことなく、実権は握り続けたわけだ。中大兄皇子は誰も仕返しが怖くて、そのことを指摘し非難できないことをいいことに、やりたい放題だったのだ。それほど身勝手で、自分だけは別の存在だとばかりに振る舞う、まさに“専制君主”あるいは“悪魔”のような人物だった-といった方が的を射ているかも知れない。

天智天皇とは、こんな人物だったから側近はいつもピリピリし、表面上は絶対服従の姿勢を示しながらも、内心はうんざりして、周囲も辟易していたろう。同天皇の打ち出す朝鮮半島政策に対する危うさも加わって、新羅、高句麗からの渡来人・帰化人らが入り混じった形で、反対勢力がいつどのように動き出してもおかしくなかった。同天皇が進言に耳を貸す人物でないだけに、朝鮮半島政策の路線を修正・変更するには抹殺するしかなかったわけだ。

 天智天皇の死には謎が多い。歴代天皇の中で天智天皇の墓がないのだ。山科の草むらで同天皇の沓が見つかったが、『扶桑略記』には亡骸は遂に見つからなかったとある。何者かに襲われ殺害された可能性もあるのだ。それが、弟の大海人皇子に好意を寄せていた勢力の人物だったかも知れない。

(参考資料)遠山美都男「中大兄皇子」、杉本苑子「天智帝をめぐる七人」、黒岩重吾「茜に燃ゆ」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「隠された帝」、井沢元彦「逆説の日本史・古代怨霊編」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説壬申の乱」、梅原猛「百人一語」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、神一行編「飛鳥時代の謎」、関裕二「大化の改新の謎」