私説 小倉百人一首 No.43 中納言敦忠

中納言敦忠
※藤原時平の子。

あひみての後の心にくらぶれば
       むかしはものを思はざりけり

【歌の背景】後朝(きぬぎぬ=夜をともにした男女が翌朝別れること、またその朝のこと)の歌。叶えられた恋によってさらに募る思いの深さを巧みに訴えている。

【歌 意】恋い焦がれて、やっと逢って契りを結んだというのに、別れを惜しんで帰ってきたばかりのこの切ない気持ちはどうしたというのでしょう。今のこの気持ちに比べると、まだ逢わずに恋い慕っていたのは、とても恋のもの思いとはいえないようなものでした。

【作者のプロフィル】藤原時平の子。母は筑前守在原棟梁のむすめ。延喜17年に12歳で昇殿、延長6年従五位上、左兵衛佐になり、昇進して天慶5年権中納言、従三位となった。和歌だけでなく管弦にも優れ、源博雅三位と並び称された。天慶6年(943)3月、38歳で没。

私説 小倉百人一首 No.44 中納言朝忠

中納言朝忠
※藤原朝忠、藤原定方の二男。

逢ふことの絶えてしなくばなかなかに
       人をも身をも恨みざらまし

【歌の背景】恋しく思う相手に逢うばっかりに、かえってつらくなる恋の悩みに、嘆きもだえる気持ちを歌ったもの。

【歌 意】恋しいあの人と逢うということが全くなかったなら、こんなに相手の冷たさを恨んだり、つれなくされる自分の身を嘆くようなこともないのに、たまに逢うばっかりに相手の冷たさを恨みたくなり、自分もつらいことだ。

【作者のプロフィル】三条右大臣藤原定方の五男。母は中納言山蔭のむすめ。延喜9年(909)に生まれた。天暦6年に参議、応和3年に従三位中納言に任ぜられ、土御門中納言と呼ばれた。和漢の書を広く読み、笙の笛にもたくみだった。晩年は中風となり、康保3年(966)57歳で没。

私説 小倉百人一首 No.45 謙徳公

謙徳公
※一条摂政藤原伊尹(これただ)のおくり名。

あはれともいふべき人はおもほえで
         身のいたづらになりぬべきかな

【歌の背景】恋人だった女が、冷たくなり、ついに逢ってくれなくなった。その傷心の気持ちを歌ったもの。百人一首には男の不実をなじり恨む女の歌は多いが、男がこれほど気弱に恋の悲しみを歌っているのは珍しい。

【歌 意】私を「かわいそうに」と悲しんでくれる人があるとは思われないので、私はこの遂げられぬ恋の悩みのために、きっと虚しく死んでしまうことだろうなあ。

【作者のプロフィル】謙徳公は右大臣藤原師輔の長男、一条摂政藤原伊尹のおくり名。母は武蔵守藤原経邦のむすめ。才知があり容貌も美しく、和歌が上手だったので、村上天皇の天慶5年に和歌所の別当となった。天禄元年右大臣となり、同年太政大臣正二位に進んだ。翌3年(972)、49歳で没

私説 小倉百人一首 No.46 曾根好忠

曾根好忠

由良の門を渡る舟人梶を絶え
       ゆくへも知らぬ恋のみちかな

【歌の背景】これからの行き着く先もわからぬ恋路にさまよっている自分の心。そんな心境を、梶の緒が切れて海上を漂う舟に託して歌ったもの。

【歌 意】あの波荒い由良の海峡を漕ぎ渡る舟人が、その舟の梶の緒が切れて波のまにまに漂っていくように、行く先もわからない恋のみちだ。

【作者のプロフィル】生没年とも不詳。10世紀後半、村上天皇から一条天皇ころまでの人と思われる。官位は六位、丹後掾だったことから、貴族たちから曾丹後掾、曾丹後、さらに曾丹とだんだんつづめて呼ばれたので、彼はそのうち「そた」と呼ばれるようになりはしないかと嘆いたという。歌風は題材・用語も自由・清新で豊富だった。ただ、自尊心ばかり強くて奇行も多かったので異端視されていた。

私説 小倉百人一首 No.47 恵慶法師

恵慶法師

八重むぐらしげれる宿の寂しきに
       人こそ見えね秋は来にけり

【歌の背景】かつて風流人、左大臣源融が住んでいた河原院。そこが後に荒廃した。そんな河原院に人々が集まって、荒れた宿に秋が来たという趣向で各自歌を詠んだ時の作品。

【歌 意】雑草が生い茂っている家は、すっかり荒れ果て限りなく寂しい。こんな寂しいところへは人こそ訪れてこないが、それでも秋だけはやってきたことだ。

【作者のプロフィル】出自も生没年も不明。花山天皇の寛和(985~986)ごろの人。貴顕・権門に出入りし、平兼盛、源重之らと交友があったらしい。歌人としても一流で、正統的な作風。

私説 小倉百人一首 No.48 源重之

源重之

風をいたみ岩うつ浪のおのれのみ
       くだけてものを思ふころかな

【歌の背景】激しい片思いの嘆きを詠んだもの。上二句「風をいたみ岩うつ浪の」は次の「おのれのみくだけてものを思ふ」の序。

【歌 意】風が烈しくて岩にぶつかる波が砕け散るように、恋しい人を思って私だけがあれこれ心を砕いてもの思いするこのごろだ。

【作者のプロフィル】清和天皇の皇子貞元親王の孫。父は侍従兼信。おじの参議兼忠の養子となり、康保4年に左近衛権将監となり、累進して貞元元年相模権守となり、藤原実方について陸奥に下った。長保2年(1000)任地で没