私説 小倉百人一首 No.37 文屋朝康

文屋朝康
※文屋康秀の子といわれている。

しらつゆに風の吹きしく秋の野は
       つらぬきとめぬ玉ぞ散りける

【歌の背景】秋の野の草一面の露が風の吹きしきるままに飛び散って、まるで真珠を散らしたように見える。そんな光景を鮮明に詠んでいる。

【歌 意】草一面においた白露に風が吹いている秋の野は、ちょうど糸を通さない水晶の玉が散り乱れているようで、その白露がはらはらと散って美しい。

【作者のプロフィル】文屋康秀の子。「古今集」に先立つ時代の歌合で活躍したようだ。官位も駿河掾を経て大舎人大允で終わった。伝記はあまり確実には分からない。

私説 小倉百人一首 No.38 右 近

右 近
※右近衛少将、藤原季綱のむすめ。

わすらるる身をば思はず誓ひてし
       人のいのちの惜しくもあるかな

【歌の背景】右近が、永遠の愛を誓い合った相手の男が、自分を顧みなくなってからその男に贈った歌。どれだけ愛を誓い合っても、心変わりするのは男の習いである。この点は今も昔も変わらない。それを神かけて誓い合ったのだから、誓いを破った男に神罰が下らぬかと心配しているさまは、素直に解すると捨てられてもなお相手に正面から恨み言を言わず、間接的にしか抗議できない女の哀れさが表現されている。また、もう少し深く読むと、女は男の身勝手を脅し文句スレスレでからかっている歌ともとれる。

【歌意】私はあなたに忘れられる身であったのに、そのことを考えもしないで、いつまでも人の心は変わるまいと神かけて誓っておりました。でも、あなたはその誓いを破ってしまった。そのために(神罰を受けて命を失うのではないかと)あなたの命が惜しまれてなりません。

【作者のプロフィル】右近衛少将藤原季綱のむすめで、醍醐天皇の中宮、七条の后穏子の女官であったので、その女房名として父の位の「右近」を呼び名としていた

私説 小倉百人一首 No.39 参議 等

参議 等
※源 等

浅茅生の小野のしの原しのぶれど
       あまりてなどか人のこひしき

【歌の背景】「古今集」の読み人知らずの「浅茅生の小野の篠原しのぶとも人知るらめや言う人なしに」を本歌としたもの。こらえてもこらえ切れない恋心の切なさを歌っている。

【歌 意】茅がまばらに生えている小野のしの原の“しの”という名のように、恋の思いを心に忍びこらえているけれど、それもこらえ切れず、どうしてこんなにあなたが恋しく思われるのでしょう。

【作者のプロフィル】源等は、嵯峨天皇の皇子大納言弘の孫。中納言源希の次男。近江権少掾を皮切りに、参河守、丹波守、山城守などを歴任、左中弁、右大弁などを経て、天慶元年(938)参議となり、正四位下に叙された。天暦5年(951)72歳で没

私説 小倉百人一首 No.40 平 兼盛

平 兼盛

忍ぶれど色に出でにけりわが恋は
       ものや思ふと人の問ふまで

【歌の背景】忍ぶ恋の歌。恋の思いは人目に隠そうとすればするほど、素振りや顔色にそれが表れて、ついに人に不審に思われる。平安朝時代を代表する秀歌の一つ。

【歌 意】誰にも気付かれないようにと、必死にこらえてきたけれど、とうとう外(顔色・態度など)に出てしまったなあ私の恋は。何か物思いをしているのかと、人が不審に思って(どうしたのかと)尋ねるくらいに。

【作者のプロフィル】光孝天皇の皇子是忠親王の曾孫。太宰少弐篤行の第三子。和歌が上手で漢学に優れ文才があったので、天皇に認められた。天暦4年(950)に平姓を称した。赤染衛門の父ともいわれるが、定かではない。諸国の国司などを経て天元2年駿河守になった。正暦元年(990)12月没。

私説 小倉百人一首 No.41 壬生忠見

壬生忠見
※壬生忠岑の子。

恋すてふ我が名はまだき立ちにけり
       ひと知れずこそ思ひそめしか

【歌の背景】忍ぶ恋の歌。恋するものは、恋の思いを人には知られたくないものだ。密かにあの人を思い染めていたのに、もう私が恋をしているという噂がぱっと広がってしまった-と嘆いている。天皇臨席の歌合で平兼盛の「忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで」と競った秀歌。

【歌 意】あの人を恋しているという私の噂は、もう世間に広がってしまった。まだ思う相手の人も気付かぬほど思い染めたばかりの、密かな恋だったのに。

【作者のプロフィル】壬生忠岑の子。幼名多々といい、後に忠美と改め、また忠見と改めた。醍醐天皇の時、蔵人所に召され、また御厨子所に出仕えし、天徳2年(958)摂津大目に任じられた。「古今集」撰者の一人。

私説 小倉百人一首 No.42 清原元輔

清原元輔
※清少納言の父。

契りきなかたみに袖をしぼりつつ
       末の松山浪越さじとは

【歌の背景】元輔がある人に代わって詠んだもの。その人の愛していた女が、心変わりしたので、その女のところへ、昔と変わらぬ愛を誓い合った時のことを言ってやる歌となっている。

【歌 意】あなたと私は固く約束したね。お互いに愛しく思う涙に濡れた袖を絞っては、あの行く末まで待ち続けるという名の末の松山を、波が越すことはありえないように、決して二人の愛はいつまでも変わらないと。

【作者のプロフィル】清原深養父の孫。清少納言の父。醍醐天皇の延喜8年(908)生まれ。天慶5年に河内権掾になり、それ以後、昇進を重ね、天元3年に従五位上になり、寛和2年肥後守になった。代々和歌をもってなった家柄で、「後撰集」を撰進した。永祚2年(990)6月、83歳で没。