私説 小倉百人一首 No.7 安倍仲麿

安倍仲麿

あまの原ふりさけ見れば春日なる
       みかさの山に出でし月かも

【歌の背景】仲麿は唐へ留学生として派遣され、長く唐朝に仕え高位に出世した。しかし、望郷の思いが強くなりしばしば帰国を願い出たが、唐朝の許可が下りなかった。35年後、遣唐使が行ったとき、その一行と一緒に帰朝しようとして明州(寧波)の海辺で唐の友人たちと別れの宴を催した。夜になり、月が非常に美しかったのを見て詠んだのがこの歌。

【歌 意】大空をはるかに眺めやると月が昇っているが、あれは故国の都の春日にある三笠山に出た月と同じ月なのだなあ。

【作者のプロフィル】父の名は安倍船守。元正天皇の霊亀2年(716)、吉備真備、丹治比県守らとともに、玄宗皇帝時代の唐へ16歳で遣唐留学生として入唐。唐に学んだ後、名を仲満また、朝衡と改め玄宗に仕えた。孝謙天皇の天平勝宝4年(752)、遣唐使の藤原清河らが入唐した時、翌年一緒に帰朝しようとして安南に漂流。再び唐に戻り、粛宗皇帝に仕え、安南都護その他の大官に任じられ、代崇皇帝の大暦5年(770、称徳天皇の神護景雲4年)、正月唐で死んだ。70歳。わずか16歳で日本を離れ人生の大半、54年にわたり唐代の中国で過ごした。

私説 小倉百人一首 No.8 喜撰法師

喜撰法師

わが庵は都のたつみしかぞ住む
       世をうじ山とひとはいふなり

【歌の背景】宇治山に庵を結んで閉居している作者が、恐らく庵の場所を尋ねられて、答えて詠んだものと思われる。法師の洒脱な精神が感じられる。

【歌 意】私の庵は都の東南の宇治山にあって、鹿が棲んでいる。そこに濁りのない心境で暮らしている。ところが、口さがない世間の人々は私が世の中を住みづらく思って、隠れ住んでいるなどと噂しているらしい。

【作者のプロフィル】伝記は不明。六歌仙の一人。仁明天皇(840ごろ)から宇多天皇(890ごろ)の人で、京都の東南宇治山に隠遁生活をしていた僧と思われる。

私説 小倉百人一首 No.9 小野小町

小野小町

花の色はうつりにけりないたづらに
       わが身世にふるながめせしまに

【歌の背景】桜の花の盛り、降り続く長雨に、家に引きこもり物思いにふけっているうちに、花の色のあせてしまったことに気づき、同時にわが容色の衰えを嘆いた歌。

【歌意】桜の花はすっかり色あせてしまったことだ。降り続いた長雨のために、家に引きこもって、物思いにふけっているうちに。そして、私の容色も衰えてしまった。恋の物思いに虚しく人生を過ごしていた間に。

【作者のプロフィル】小野小町といえば美人の代名詞として使われるが。その確かな伝記はない。出羽国の郡司小野良真のむすめで、小野篁の孫と伝えられる。
  歌風は情熱的であり奔放。恋に生涯を懸けた美人として、多くの伝説が伝えられている。六歌仙の一人に数えられており、在原業平、僧正遍昭、文屋康秀、凡河内躬恒らと歌を贈答した。

私説 小倉百人一首 No.10 蝉 丸

蝉 丸
※伝説中の人物。

これやこの行くも帰るも別れては
       知るも知らぬも逢坂の関

【歌の背景】逢坂の関は山城国から近江国へ出る道にある関所で、美濃国の不破の関、伊勢国の鈴鹿の関、越前国の愛発(あらち)の関の、いわゆる三関のうち愛発の関に代わって三関の一つになった。のち「関」といえば逢坂を指すほど名高くなった。したがって交通量も多く、都から地方へ、地方から都への人の行き来は激しかったことであろう。ここを往来する人たちの姿を捉えて対句と、掛詞を使い、調子よく歌い上げている。

【歌 意】これがすなわち、都から地方へ行くものも、地方から都へ帰るものも互いに別れては逢い、また知っているものも知らないものも逢うという逢坂の関ですよ。 

【作者のプロフィル】伝説中の人物で、その生涯の確かなことはほとんど分からない。「今昔物語集」では逢坂の関に住む盲人で雑色として式部卿の宮に仕えていた間に聞き覚えた琵琶の秘曲を源博雅に伝授したと語られ、鴨長明の「無名抄」には出家前の遍昭が和琴を習いに関の蝉丸のもとに通ったと伝えるが、博雅と遍昭では時代に隔たりがありすぎ信憑性に欠ける。ただ、それだけに蝉丸が古くから伝承的人物だったことをうかがわせる。

私説 小倉百人一首 No.11 参議 篁

参議 篁
※小野 篁

わたのはら八十島かけて漕ぎ出でぬと
       人には告げよあまのつりぶね

【歌の背景】仁明天皇の承和年間に乗船のことについて、遣唐大使と争ったため、嵯峨天皇の怒りを受け、官位を剥奪され隠岐島へ流された。これは、その島流しのため、難波から船で出発するとき詠んだもの。

【歌 意】広い大海原を多くの島々の間を通り過ぎながら、(私の舟が)沖へ漕ぎ出していったと、(都にいる)あの人にだけは伝えてくれよ、波に浮かぶ海人の釣り舟よ。

【作者のプロフィル】参議小野峯守の長男。淳和天皇の承和元年、遣唐副使として出発したが、暴風に遭って引き返し、その後再三の出発も果たさなかった。彼は病気と称して役を辞し、同5年「西道謡」という詩を作り、遣唐使のことを批判したので嵯峨上皇の咎めを受け、隠岐に流された。承和7年、文才を惜しまれて召し返され、14年参議になる。仁寿2年(852)12月没。51歳。

私説 小倉百人一首 No.12 僧正遍昭

僧正遍昭

天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ
       乙女の姿しばしとどめむ

【歌の背景】毎年11月、宮中で催される豊明節会の折り、公卿や国司の未婚の美女を召して舞を舞わせた。その舞姫をみて天女を連想して詠んだもの。

【歌 意】空を吹く風よ、(天女が往来するという)雲の中の通り道を、雲を吹き寄せて閉じてくれ。あの天女たちの華やかな姿をいましばらく地上にとどめておきたいから。

【作者のプロフィル】大納言良岑安世の八男。素性の父。安世は桓武天皇の皇子で、良岑の姓を賜った。遍昭は出家してからの名で、それ以前は良岑宗貞と称していた。仁明天皇の恩顧のもとに蔵人頭にまで至ったが、35歳で帝の崩御に遭い出家した。以後各地で修行の後、叡山の慈覚大師(円仁)、智証大師(円珍)に師事して伝法灌頂を受け、権僧正、僧正に至り、元慶寺座主、花山僧正と呼ばれた。75歳で没。