菱川師宣・・・『見返り美人図』で有名な浮世絵を確立した人物

 菱川師宣は『見返り美人図』で有名な、浮世絵を確立した人物で、江戸時代初期に活躍した最初の浮世絵師だ。師宣は、それまで絵入本の単なる挿絵でしかなかった浮世絵を鑑賞に堪え得る、独立した絵画作品にまで高めるという重要な役割を果たしたのだ。そのため、彼は「浮世絵の祖」と称されている。生没年は1618(元和4)~1694年(元禄7年)。

 菱川師宣は安房国平群郡保田村(現在の千葉県鋸南町)の縫箔師(ぬいはくし)、菱川吉左衛門の子として生まれた。俗称は吉兵衛、晩年は友竹(ゆうちく)と号した。「縫箔」は模様表出に用いられる技法。「縫」は刺繍を、「箔」は摺箔を意味する。師信の修行時代、早期の習作時代の師系については、詳しいことは分からない。

 後年、師宣自ら「大和絵師(やまとえし)」と称していることから、土佐派、狩野派といった幕府や朝廷の御用絵師たちの技法を学び、そして漢画系の諸派や中国版画も吸収、そのうえに市井の絵師らしい時代感覚に合った「菱川様(ひしかわよう)」といわれる独自の新様式を工夫し、確立したものと思われる。優美で洗練された描線と彩色による、新しい風俗描写は世間で称賛され、「浮世絵師の開祖」と呼ばれた。

 代表作としては、世界的に有名な肉筆浮世絵『見返り美人図』が挙げられる。また、絵図師・遠近道印(おちこち どういん)と組んで製作した『東海道分間絵図』は江戸時代前期を代表する道中図として知られる。このほか、師宣は春画も数多く描いている。

 今日、師宣の作品として確認されているものは100種以上の絵本・挿絵本、50種以上の艶本のほか枕絵・名所絵・浄瑠璃絵の組物(くみもの)もある。また、肉筆画も画巻・屏風・軸物など相当数の作品が確認されており、その人気と旺盛な活動を窺い知ることができる。
 師宣は、師房(長男)、師重、師平ら多くの門人育成にも力を注ぎ、工房製作も行っていたことが分かっている。

 『見返り美人図』は戦後初めて、1948年(昭和23年)、11月29日発行の記念切手の図案に採用されている。これにより日本の記念切手の代表的かつ高価な1点となった。同時に、この『見返り美人図』が大衆に周知されるもとともなった。それに伴い、海外でも高い評価を得ている。

 肉筆浮世絵から木版による浮世絵版画を考案したのも、師信の大きな功績だ。浮世絵図はそれまで、武士や豪商など一部の特権階級が楽しむものでしかなかった。ところが、師宣が考案した浮世絵版画が出回るようになったことで、浮世絵は一般庶民にも広く親しめるものとなり普及し、江戸の文化にも大きな影響を与えた。

(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」

北条早雲・・・巧みな徳治政策と領民優遇策で平定した戦国大名のはしり

 北条早雲の出自は不詳で諸説ある。生没年は1432~1519年。俗名伊勢新九郎、出家して法号を早雲庵宗瑞(そうずい)に改め頭を丸めた。妹が室に入っていた駿河・今川家の内紛を調停して興国寺城主となり、1491年に伊豆一国を、さらに1516年には相模一国を手中に収め後、北条氏が関東に覇を唱える基礎をつくった。

戦国大名のはしりといわれる。その実績と、箱根湯本にある小田原北条氏の菩提寺早雲寺に残されている、法体姿だが獲物を狙う鷹のような猛々しい覇気がみなぎっている画像の印象からは、早雲はただ戦いと権謀においてのみ傑出し、学問など眼中に置かなかった粗野な人物だったかのように感じられるが、果たしてどうだったのか?

 実際の早雲は、無学どころか当時一流の教養人だった。早雲の前半生については不明の部分が多い。だが、少なくとも一時期、室町八代将軍・足利義政の弟義視に近侍したり、幕府の申次衆を務めていたことが確認されている。そうした地位に就くには、相当の学問教養がなければ叶わないことだ。また、彼は京都紫野の大徳寺に参禅、住持の春浦宗煕の会下に列したことがあるし、同じく大徳寺住持に任じた法兄の東渓宗牧から「天岳」の道号を与えられており、彼の禅修行は一時の気まぐれなどではなく、本格的なものだったとみられる。

 早雲が学問。修養を重視したことは、後に彼が定めた家訓「早雲寺殿廿一箇条」にもみてとれる。例えば、その第一二条に「少の隙(ひま)あらば、物の本を見、文字のある物を懐に入、常に人目を忍び見べし。寝ても覚めても手馴ざれば、文字忘るるなり。書こと又同事」とある。時間さえあれば読書・習字に励めという。これはまさに“学問の勧め”だ。第一五条では「歌道なき人は、無手に賤き事なり。学ぶべし」という。この二条だけを抽出すると、修羅の世界を戦い抜いた戦国大名の第一号の座を実力で勝ち取った人物のものとは到底思えない。泰平の時代を生きた江戸の文人大名の趣と通じ合うところがあるほどだ

 こうした学問・修養に裏打ちされた思考の奥行きの深さは、大名の座に就いて後の早雲の施政、とくに民政において顕著に反映されている。小田原北条氏に仕えた三浦浄心が著した「北条五代記」に、早雲が伊豆国を攻めた際の、巧みな人心収攬のエピソードが紹介されている。

要旨はこうだ。風病が流行し、村里の家々にはほとんど例外なく数人の病人が臥せっていた。そこへ早雲が攻め込んでくると知って、足腰の立つ者は、親は子を捨て子は親を捨て、どこへともなく逃げてしまった-という。そこで早雲は医師に命じて良薬を調合させ、その薬と食事を配下の者に持たせて病人たちを見舞わせた。その結果、病人たちは皆助かり、その恩に報いるため山野に隠れ潜んでいる家族や縁者を探して説いて回った。その呼びかけに応じて見参した者に、早雲は所領なども安堵してやったことから、それが評判になり、その村里以外からも彼の徳を慕って出頭するものが相次いだので、彼がその地に7日間ほど滞在するうちに、全く武力を用いることがなかったにもかかわらず、周囲30里近辺はすべて早雲の味方になった-という。早雲の徳治政策が敵国の領民を魅了し、帰参者を続出させたというわけだ。

巧みな徳治政策で伊豆国の一円平定した早雲はさらに積極的な領民優遇策を打ち出した。それまで五公五民ないし六公四民だった税制を四公六民に改めるという、大幅な減税策を実施したのだ。当然、領民からは大歓迎を受けた、他国の領民からも大いに羨まれたという。

(参考資料)司馬遼太郎「箱根の坂」、安部龍太郎「血の日本史」、神坂次郎「男 この言葉」、海音寺潮五郎「覇者の条件」

松浦武四郎・・・全国を遊歴し、蝦夷地探検家で「北海道」の名付け親

 松浦武四郎は江戸時代末期に活躍した蝦夷地探険家であり、北にその一生を捧げ、「北海道」の名付け親として今日知られている。それだけに、当時の蝦夷地について数多くの著作を残している。彼はまたアイヌの人々が心から信頼した和人だった。封建的な江戸時代にあって、松浦武四郎にヒューマニズムあふれる近代的精神が育まれたのはなぜだろうか。生没年は1818(文化15)~1888年(明治21年)。

 松浦武四郎は伊勢国(三重県)一志郡須川村(現在の三雲町)小野江の郷士の四男として生まれている。名は弘(ひろむ)、字は子重。雅号は「北海道人(ほっかい・どうじん)」。幼名を竹四郎、長じて武四郎を通り名とした。ただ、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。先祖は肥前の松浦党の一族で、伊勢に移り、多気(たけ)の城主北畠氏の家臣として土着したという。父は時春(桂介)。本居宣長の門下として国学を修め、敬神家の名望があったのは、伊勢神宮のある伊勢という土地柄だと思われる。母はとく。

 武四郎は幼少から父の感化で俳諧などの風雅を好んだ。7歳で曹洞宗真学寺の和尚に手習を学び、名所図会や地誌などを好んで読み、他国の山河を写し取ったりして飽きることがなかったという。1830年(天保1年)、津の儒者、平松樂斎の塾に入った。3年後、国学を学んだ武四郎は突然のように平松塾を辞して家に戻った。そして江戸に下った。1833年(天保4年)、16歳のことだ。

 その後、諸国を遊歴。その一端を記すと、大坂では大塩中斎(大塩平八郎)を訪ねている。大坂東町奉行所の与力だったが、この頃はすでに隠居して、陽明学者として名高く、洗心洞塾を開いていた。大坂を後にした武四郎は播州、備前を経て四国に渡り、讃岐、阿波を回り淡路から紀州和田などへ足を伸ばしている。翌年、1835年(天保6年)、18歳になった武四郎は紀州の田辺、富田、串本を過ぎ、那智山に登り、熊野本宮に詣でた。高野山にも登り、粉河寺から和泉の槙尾峠を越えて観心寺に南朝の古跡を訪ずれている。その後、河内、大和、山城、摂津、丹波、播磨、但馬、丹後、若狭を経て越前へ出て、敦賀、福井、三国、吉崎、加賀の大聖寺、さらに美濃高山から三河、信濃を経て甲斐の金峯山寺、身延山に登り、霊峰富士山に初めて登っている。こうして17歳で家郷を出て以来、一度も戻らず、足掛け5年もの間、日本全国を遊歴、旅に明け暮れたのだ。

この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷地の探検を決意した。
しかし、旅人が蝦夷地奥地へ入ることは許されなかったため、1845年(弘化2年)、場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(サハリン)を探検した。さらに1849年(嘉永2年)には国後・択捉を探検し、この間見聞したことを「蝦夷日誌」「再航蝦夷日誌」「三航蝦夷日誌」に著した。

 1855年(安政2年)、幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷地山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査。「東西蝦夷山川地理取調図」「東西蝦夷山川取調日誌」として呈上したが公にされなかった。そのことが理由か定かではないが、1859年御雇を辞任。以後、約10年間著作活動に専念した。

1868年(明治1年)新政府から東京府付属、次いで翌年には開拓判官に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかし、アイヌ介護問題などについて、政府の方針と意見を異にしたため、病を理由に辞任。以来、著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従五位に叙せられた。

(参考資料)佐江衆一「北海道人 松浦武四郎」、杉本苑子「決断のとき」、梅原猛「百人一語」

源頼朝・・・武家政権の創始者だが、評価低く、死因にも多くの謎

 源頼朝は周知の通り、鎌倉幕府の創始者だ。彼が開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に「幕府」と名付けられ、王制復古まで足掛け約680年間にわたり長く続くことになる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されなければならないところだ。だが頼朝の人気は、はっきりいえば、その業績にもかかわらずそれほど高くない。また、そうした特筆される業績を残した、その頼朝の死因は何故か謎の部分が多く、今日なお定まっていない。

 頼朝の人物評については「冷酷な政治家」と見る向きが多い。それは、判官贔屓で高い人気を持つ末弟、義経を死に至らせたのをはじめ、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく、主に政治的な交渉で鎌倉幕府樹立を成し遂げたことで、戦闘指揮官としては格別の実績を示していないためだろう。

 源頼朝は源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町あたりで誕生。幼名は鬼武者。母は熱田神宮宮司・藤原季範の娘。母が家柄がよく、正室の子だったため、義朝の三男として生まれたが、彼は頼朝を可愛がり、源氏の嫡流として育てられた。頼朝の生没年は1147~1199年。

 「平治の乱」(1159年)に敗れた父、義朝は30余名の家人らとともに東国に落ち延びる途中で、騙し討ちに遭って殺害された。13歳で初陣した頼朝も捕らえられ、京へ送り届けられた。本来ならば殺されてしかるべきところを、平清盛の継母・池禅尼の計らいで、辛うじて一命を長らえ、“陸の孤島”と呼ばれた伊豆・韮山の蛭ヶ小島(ひるがこじま)(現在の静岡県田方郡韮山町土手和田)へ流罪にした。法的には流人でしかない頼朝は、狩野川の中洲の一つにあった流寓を出ることはできず、外部からの訪問者も、できる限り遠慮しなければならなかった。頼朝は地元の豪族・北条時政、伊東祐親らの監視を受けつつ、14歳から34歳になるまでの20年間、この地で読経三昧の生活を過ごしたのだ。

 1180年(治承4年)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートを切った、木曽の従兄弟・木曽義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。1192年(建久3年)、征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。長い雌伏の後、鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行したのだ。

 その偉大な政治家でもあった頼朝は1199年(建久10年)、落馬がもとであっけなく亡くなる。その後の源氏の運命は悲惨なものだった。北条時政の娘・妻政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの、政治から遠ざけられ、いずれも最後は非業の死を遂げた。そして、その後の政治を継いだのは、政子と執権となって権力を掌握した、その一族の北条氏だった。

 ところで、研究が十分でない頼朝の評価とともに、不可解な点がその死因だ。諸説あって定まっていないのだ。吾妻鏡は「落馬」、猪隈日記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊をみて気を失い、病に倒れた」と記している。落馬説から尿崩症説、糖尿病説、溺死説、亡霊説、暗殺説、誤認殺傷説、果ては脳卒中など脳血管障害による脳内出血説など様々な説が挙げられているが、いずれも決め手に欠け、真相は闇の中だ。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「続 悪霊列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

松平容保・・・不本意ながら引き受けた「京都守護職」が貧乏くじに

 松平容保(かたもり)は江戸時代末期、将軍後継となった一橋慶喜や政事総裁職となった福井藩主・松平慶永らに強く勧められて、「京都守護職」という大役を引き受けたばかりに、後の会津の白虎隊の悲劇につながっていく遠因をつくることになった。

容保はもともと病弱のため、このときも風邪をひき病臥していて、初めは固辞していたのだが、会津藩祖・保科正之が定めた家訓を守るべく、やむなく不本意ながら引き受けざるを得なくなったわけで、これはまさしく“火中の栗”を拾うに等しい“貧乏くじ”だった。そして、将軍家を守るために忠勤に務めた結果、“賊軍”のレッテルを張られてしまった。

また、意外に知られていないが、京都守護職を務めた当時の容保を、孝明天皇が宸翰の中で職務勉励ぶりを嘉する文章がある。孝明天皇がいかに容保を信頼していたか物語るものだ。ただ、このことは容保を“乱臣賊子”とし、「所詮、会津松平は朝敵」の異名を着せ、押し切ろうとする薩長主体の新政府にとっては極めて厄介な存在だったと思われる。幕末動乱期を、薩長にとって危険分子と思われた容保が、どうしてその危機を切り抜けることができたのか。

 松平容保は陸奥国会津藩九代藩主であり、最後の藩主でもある。血統的には水戸藩主、徳川治保の子孫。美濃国高須藩主・松平義建の六男で、母は側室古森氏。兄に徳川慶勝、徳川茂徳、弟に松平定敬などがあり、高須四兄弟の一人。幼名は_之丞。官は肥後守。正室は松平容敬の娘、敏姫。生没年は1836(天保6年)~1893年(明治26年)。

 1846年(弘化3年)、八代会津藩主・容敬の養子となり、1852年(嘉永5年)に会津藩を継いだ。1860年(万延元年)に大老井伊直弼が水戸浪士に殺害された「桜田門外の変」では水戸藩討伐に反対した。井伊直弼暗殺後、一橋慶喜や福井藩主・松平慶永らが文久の改革を開始すると、1862年(文久2年)に新設の幕政参与に任ぜられ、のち新設の京都守護職に推された。容保は初めは固辞していたのだが、最終的には松平慶永らの強い勧めに遭い、不本意ながらこの大役を引き受けることになった。

その結果、容保は幕末動乱期の京都の治安を維持するため、「新選組」などを使い、西南雄藩の志士たちを含め討幕派の動きを弾圧。そのため、維新後は幕府派の重鎮とみられて敵視されることになった。
 容保は1867年(慶応3年)、参議に補任されたが、1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いの後、解官。藩主の地位を降り、改元して明治元年、白虎隊で知られる会津戦争の後、因幡国鳥取藩に幽閉・永預り処分となった。1869年(明治2年)、紀伊国和歌山に移されるなど逼塞生活が続いたが、1872年(明治5年)、預け処分が免ぜられ、公人として復活した。そして1880年(明治13年)、日光東照宮の宮司となり、正三位まで叙任した。

 容保は「禁門の変」での働きを孝明天皇から認められ、その際書簡と御製(和歌)を賜った。彼はそれらを小さな竹筒に入れて首に掛け死ぬまで手放すことはなかったという。また、幕末維新については周囲に何も語ることはなかった。“沈黙は金”ではないが、何も語らなかったことが、維新直後の蟄居・逼塞期を経て、明治半ばまで彼を生き延びさせる遠因となったことは間違いない。

(参考資料)司馬遼太郎「王城の護衛者」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、綱淵謙錠編「松平容保のすべて」

陸奥宗光・・・“カミソリ陸奥”の異名持ち不平等条約の改正に辣腕振るう

 陸奥宗光は幕末、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど始終、坂本龍馬と行動をともにした。明治維新後は政治家、外交官となり、“カミソリ陸奥”の異名を持ち、とりわけ外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るった。陸奥宗光の生没年は1844(弘化元年)~1897年(明治30年)。

 陸奥宗光は紀州国名草郡(現在の和歌山市)で、紀州藩士伊達宗広(伊達千広の説もある)と政子(渥美氏)の六男として生まれた。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小次郎、陸奥陽之助と称した。

 国学者、歴史家としても知られていた父の影響で、宗光は尊皇攘夷思想を持つようになった。父は紀州藩に仕えて財政再建を成した重臣だったが、宗光が8歳のとき(1852年)、藩内の政争に敗れて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。

 1858年(安政5年)、宗光は江戸へ出て安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(後の木戸孝允)、伊藤俊輔(後の伊藤博文)などの志士と交友を持つようになった。1863年(文久3年)、勝海舟の「神戸海軍操練所」に入り、1867年(慶応3年)には坂本龍馬の「海援隊」に加わるなど始終、坂本龍馬と行動をともにした。勝海舟と坂本龍馬の知遇を得た宗光は、その才幹を発揮し、龍馬に「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」といわせたほどだったという。

 明治維新後、宗光は兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)、さらに1875年元老院幹事となったが、1877年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担し、1878年に免官、高知の獄で禁獄5年を科せられた。1882年出獄後外遊。1890年第一次山県有朋内閣の第七代農商務省に就くとともに、最初の議会で政党工作に努め、続く松方正義内閣にも留任したが、選挙干渉問題をめぐる政府の責任を追及して辞任した。

 近代日本が最初に戦った本格的な対外戦争は、1894年(明治27年)~1895年(明治28年)の日清戦争だ。この戦争で日本はアジアの大国・清に差をつけて、欧米近代国家の仲間入りを果たした。この日清戦争を演出したのが、第二次伊藤博文内閣の第八代外務大臣・陸奥宗光だ。彼は利害が一致した、参謀本部次長の川上操六中将と腹を合わせ、出兵の兵力についても密談を重ねた。そして併行して条約改正交渉を進めた。その結果、ロシアとの関係で日本の力に頼る必要があったイギリスを味方につけ、対外硬派による反対を抑え、彼はこのときまでに、こじれにこじれ懸案となっていた条約改正に成功。1894年、日英通商航海条約の調印にこぎつけ、治外法権の撤廃を実現したのだ。また三国干渉の処理にあたるなど外交の第一人者として活躍した。“カミソリ陸奥”の異名はここから生まれた。

(参考資料)奈良本辰也「日本史の参謀たち」、徳富猪一郎「蘇翁夢物語-わが交遊録」、池波正太郎「戦国と幕末」