源頼朝・・・武家政権の創始者だが、評価低く、死因にも多くの謎

 源頼朝は周知の通り、鎌倉幕府の創始者だ。彼が開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に「幕府」と名付けられ、王制復古まで足掛け約680年間にわたり長く続くことになる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されなければならないところだ。だが頼朝の人気は、はっきりいえば、その業績にもかかわらずそれほど高くない。また、そうした特筆される業績を残した、その頼朝の死因は何故か謎の部分が多く、今日なお定まっていない。

 頼朝の人物評については「冷酷な政治家」と見る向きが多い。それは、判官贔屓で高い人気を持つ末弟、義経を死に至らせたのをはじめ、多くの同族兄弟を殺し、自ら兵を率いることが少なく、主に政治的な交渉で鎌倉幕府樹立を成し遂げたことで、戦闘指揮官としては格別の実績を示していないためだろう。

 源頼朝は源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町あたりで誕生。幼名は鬼武者。母は熱田神宮宮司・藤原季範の娘。母が家柄がよく、正室の子だったため、義朝の三男として生まれたが、彼は頼朝を可愛がり、源氏の嫡流として育てられた。頼朝の生没年は1147~1199年。

 「平治の乱」(1159年)に敗れた父、義朝は30余名の家人らとともに東国に落ち延びる途中で、騙し討ちに遭って殺害された。13歳で初陣した頼朝も捕らえられ、京へ送り届けられた。本来ならば殺されてしかるべきところを、平清盛の継母・池禅尼の計らいで、辛うじて一命を長らえ、“陸の孤島”と呼ばれた伊豆・韮山の蛭ヶ小島(ひるがこじま)(現在の静岡県田方郡韮山町土手和田)へ流罪にした。法的には流人でしかない頼朝は、狩野川の中洲の一つにあった流寓を出ることはできず、外部からの訪問者も、できる限り遠慮しなければならなかった。頼朝は地元の豪族・北条時政、伊東祐親らの監視を受けつつ、14歳から34歳になるまでの20年間、この地で読経三昧の生活を過ごしたのだ。

 1180年(治承4年)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートを切った、木曽の従兄弟・木曽義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったが、平家を打倒し全国を制覇した。1192年(建久3年)、征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立した。長い雌伏の後、鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行したのだ。

 その偉大な政治家でもあった頼朝は1199年(建久10年)、落馬がもとであっけなく亡くなる。その後の源氏の運命は悲惨なものだった。北条時政の娘・妻政子との間に生まれた源頼家・源実朝は将軍になったものの、政治から遠ざけられ、いずれも最後は非業の死を遂げた。そして、その後の政治を継いだのは、政子と執権となって権力を掌握した、その一族の北条氏だった。

 ところで、研究が十分でない頼朝の評価とともに、不可解な点がその死因だ。諸説あって定まっていないのだ。吾妻鏡は「落馬」、猪隈日記は「飲水の病」、承久記は「水神に領せられ」、保暦間記は「源義経や安徳天皇らの亡霊をみて気を失い、病に倒れた」と記している。落馬説から尿崩症説、糖尿病説、溺死説、亡霊説、暗殺説、誤認殺傷説、果ては脳卒中など脳血管障害による脳内出血説など様々な説が挙げられているが、いずれも決め手に欠け、真相は闇の中だ。

(参考資料)加来耕三「日本創始者列伝」、尾崎秀樹「にっぽん裏返史」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「続 悪霊列伝」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」

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