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龍馬暗殺直前 福井から帰京、滋賀の宿屋に記録

龍馬暗殺直前 福井から帰京、滋賀の宿屋に記録

NPO法人京都龍馬会は9月21日、暗殺される直前坂本龍馬が、雪深い陸路を通って福井から京都に戻っていたとする記録が、滋賀の塩津(現在の長浜市)で宿屋を営んでいた林市郎の経歴書から見つかったと発表した。
坂本龍馬記念館(高知市)によると、龍馬は暗殺時に風邪をひいていたとされており、同館ではこの経歴書の信ぴょう性は高く、福井行きで体調を崩した可能性があるとしている。
経歴書によると、林は1867年、京都の近江屋で龍馬と面会、龍馬が福井からの帰路、雪深い琵琶湖西側の西近江路を通ったと聞いた。11月5日に福井出張から京に戻り、15日に暗殺された-などと記している。

井伊直弼生誕200年祭 彦根城でゆかりの能・狂言

井伊直弼生誕200年祭 彦根城でゆかりの能・狂言

彦根市で開催中の井伊直弼公生誕200年祭の関連事業「彦根城能」が9月22日、同市の彦根城博物館能舞台で開かれ、直弼ゆかりの演目が訪れた約200人の観衆を魅了した。
幕末の幕閣にあっては大老職に就き、ともすれば悪評高い安政の大獄を断行した”悪玉”に仕立て上げられる直弼だが、一個人としては品格のある文化人だった。そのため、茶道や能・狂言などにも明るく、関心が高かった。
直弼がつくったとされる素謡「筑摩江」に続き、能「安達ケ原」をもとに直弼がつくりあげたと伝わる狂言「鬼ヶ宿」を、大蔵流の茂山千五郎さんらが演じた。最後に直弼が自身の好みで演出したとされる能「竹生島 女体」を喜多流の粟谷能夫さんらが上演した。弁財天や龍神が登場する場面に、観客らは息をのんで魅入っていた。

A級戦犯7人の絶筆公開「全く相済まぬ」東条の遺書も

A級戦犯7人の絶筆公開「全く相済まぬ」東条の遺書も

終戦直後、巣鴨拘置所の教誨(きょうかい)師として日本人で唯一、東条英機らA級戦犯7人の最後を見届けた仏教学者、花山信勝(しんしょう)氏(故人)の生家の宗林寺(金沢市)で、A級戦犯の絶筆や遺書など二十数点が一般公開されている。戦後、同寺で厳重に保管され、戦後70年を機に「平和の大切さを再認識するきっかけにしてほしい」と初めて公開に踏み切った。
A級戦犯の絶筆は、開戦時の首相の東条、元奉天特務機関長、土肥原賢二、元中支那方面軍司令官、松井岩根(いわね)、元陸軍軍務局長、武藤章、元陸相、板垣征四郎、元首相、広田弘毅(こうき)、元陸軍次官、木村兵太郎-の7人が1948年12月23日未明の絞首刑直前、両手に手錠をかけられた状態で1枚の紙に名前を連署した。
東条の遺書は同年11月17日、花山氏に宛てて書かれ、5日前に軍事法廷で下された死刑判決への受け止めや国家、国民への思いがわら紙原稿用紙に鉛筆でびっしり綴られている。「一応の責任を果たしホット一安心」とする一方、「同胞のことを思う時、私の死刑によっても責任は果たされない。全く相済まぬことと思っている」と心情を吐露している。

好々爺、笑顔の山縣有朋の写真見つかる

好々爺、笑顔の山縣有朋の写真見つかる

明治の元勲、いかめしい強面(こわもて)権力者の印象が強く、笑わない人物として知られ、明治政府の第3代、9代の首相を務めた山縣有朋の笑顔の写真が見つかった。極めて珍しい好々爺の山縣像だ。
「山縣有朋記念館」東京事務所が所蔵。写真は著名人の笑顔を集めた雑誌『ニコニコ』に掲載された写真で、山縣が79歳の時のスナップという。同誌で「世間の評判が悪いのはニコニコの修養が足りない」と批判された後に、撮影されたものらしい。この20年ぐらい前にこんな写真が出ていたら、山縣を見る世間の目もかなり違っていたかも知れない。

幽玄の世界「大坂夏の陣400年 大阪城本丸能」

幽玄の世界「大坂夏の陣400年 大阪城本丸能

大坂夏の陣から400年を記念し、大阪市中央区・大阪城本丸広場で9月20日、かがり火で能や狂言を楽しむ「夏の陣 大坂城本丸能」が9月20日始まった。23日まで4日間の日程で行われる。
冒頭、薪(たきぎ)に神火をともす「火入れ式」が行われ、舞台を囲む3つのかがり火が宵闇に揺らめくと、幽玄の世界に誘われたような錯覚を覚え、思わず客席からは拍手が湧いた。大坂城天守閣を背景にした幻想的な舞台に観客らは酔いしれた。21日には野村萬斎さん(49)も出演する。

奈良市で「うどんルーツサミット」春日餺飥うどんPR

奈良市で「うどんルーツサミット」春日餺飥うどんPR

平安時代に奈良・春日大社で振る舞われたとされる麺を再現した「春日餺飥(はくたく)うどん」をPRしようと9月19日、奈良市で「うどんルーツサミット」が開かれた。
論争がある”うどん発祥の地”候補として注目を集める狙いもある。藤原実資の日記「小右記」に989年、一条天皇が「餺飥」と呼ばれる麺を食べたという記述があることに、NPO法人「奈良の食文化研究会」が注目。春日大社の監修のもとで開発した。