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金閣寺 敷地内から七重塔「北山大塔」部材の一部出土

金閣寺 敷地内から七重塔「北山大塔」部材の一部出土

京都市埋蔵文化財研究所は7月8日、巨大な仏塔の一部とみられる装飾品が、鹿苑寺(金閣寺、京都市北区)敷地内から出土したと発表した。
文献によると、室町幕府三代将軍の足利義満(1358~1408年)は、金閣寺近くに「北山大塔(だいとう)」を建立したとされ、その部材の可能性があるという。北山大塔は七重塔だったとみられる史料がほとんど残っておらず、その部材とすれば初の発見となる。
今回、最大のもので横幅37.4㌢、高さ24.6㌢、厚さ1.5㌢の青銅製破片が東側敷地で計3個見つかった。塔の屋上から突き出た「相輪」の一部で、輪を9個重ねた「九輪(くりん)」の破片とみられ、一部に金メッキが施されている。

名古屋城天守閣 木造で復元へ 国指定史跡の城郭で初

名古屋城天守閣 木造で復元へ 国指定史跡の城郭で初

名古屋城天守閣がこのほど木造で復元される方向で固まった。同天守閣は1945(昭和20)年の空襲で焼失し、鉄筋鉄骨コンクリート造りで再建され、今日に至っている。
だが今回、名古屋市の河村たかし市長と、慎重論の根強かった市議会多数会派との間で、完成時期について基本合意した。総事業費は現在約500億円規模で、今後圧縮を検討する。

出雲風土記の「枉北道」か 松江市で8世紀の遺構

出雲風土記の「枉北道」か 松江市で8世紀の遺構

島根県松江市教育委員会などによると、松江市朝酌町の魚見塚遺跡で「出雲風土記」に記述のある古代の官道「枉北道(きたにまがれるみち)」の一部とみられる奈良時代の遺構が見つかった。
市道整備に伴い、現地表面から深さ約1.2㍍の地中で、長さ20㍍、最大幅3㍍の遺構を検出。波板状の土坑や側溝などが見つかった。
同遺跡付近は、古代の主要官道の一つ「山陰道」から北へ分岐し、出雲国府から隠岐国へ向かう枉北道が通っていた場所と推定されている。同時に出土した遺物などから、8世紀の後半ごろの枉北道が敷設されていた路盤の一部だったと推定される。

石田三成の重臣・島左近の直筆、書状2通発見

石田三成の重臣・島左近の直筆、書状2通発見

東京大史料編纂所などが7月1日、大阪府内で石田三成の重臣・島左近(不詳~1600年)の直筆とみられる書状2通が見つかったと発表した。
1通は1590年7月19日付で常陸国(茨城県)を治めた佐竹義宣(よしのぶ)の重臣・小貫頼久宛てで、豊臣方に人質を出すのを渋る近隣大名への対応を相談している。もう一通は同25日付で、一族の佐竹義久宛て。当時、佐竹氏に預けられていた織田信長の次男、信雄(のぶかつ)への対応をねぎらっている。
島左近は、器量、世間の声望などから「三成に過ぎたるもの」と称された武将だが、史料が少なく謎が多い。左近の直筆書状の発見は初めて。

平城宮跡・東方官衙地区ですごろく?用木の棒2本出土

平城宮跡・東方官衙地区ですごろく?用木の棒2本出土

平城宮跡で朝鮮半島の伝統的なすごろく「ユンノリ」用のさいころとみられる木の棒が出土したことが6月28日、分かった。発掘した奈良文化財研究所が、研究所紀要に掲載した。
棒は奈良時代の役所が集中する「東方官衙(かんが)地区」の穴から2本出土。木の枝を用いており、太さ約1㌢、長さ5~6㌢。断面はかまぼこ形になっていた。同研究所では、当時の役人が身近なものを使って楽しんだのではないか-とみている。

関ケ原での小早川秀秋の寝返りに新説 決断遅れは肝疾患

関ケ原での小早川秀秋の寝返りに新説 決断遅れは肝疾患

豊臣氏の時代から徳川期への移行にあたり、天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦い(1600年)の勝敗の分岐点となったとされる戦国武将、小早川秀秋が西軍から東軍へ寝返った際、決断が遅れたのは、過度の飲酒で肝疾患に病み、判断力が低下していたためだ-とするユニークな説が発表された。兵庫県姫路市御立東の脳神経外科医、若林利光さん(63)が、秀秋の当時の症状などを記した史料からまとめたもの。
若林さんは安土桃山時代から江戸時代初めに活躍し、秀秋も診た医師・曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の診療録「医学天正記」の記述に注目。秀秋について「酒疸一身黄 心下堅満而痛 不飲食渇甚」(大量の飲酒による黄だん、みぞおち付近の内臓が硬く痛みがあり、飲食できずのどの渇きが激しい)の記述から、肝硬変と考えられるという。
国立国際医療研究センター肝炎情報センター(千葉県市川市)も、大量の飲酒は肝硬変の原因の一つで、「記述にある症状からは肝硬変が疑わしい」としている。
静岡大名誉教授(戦国史)の小和田哲男氏も「当時は15歳ごろからの飲酒も多く、医師の見地からはそのような解釈も成り立つのではないか」と今回のユニークな説に肯定的な見方をしている。
秀秋は、当時東軍を率いた徳川家康から寝返りを誘われていたが、開戦後もなかなか動かず、家康が怒り出すほどだったと伝えられている。