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赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に

赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に

明治41年に建てられた全国の「五大監獄」一つで、赤レンガ造りの建物が残る奈良市の「旧奈良監獄」、現在の奈良少年刑務所が歴史的な価値が高いとして、国の需要文化財に指定されることになった。
刑務所としては、全国で現存する最も古い建物で、敷地を取り囲む塀や建物は、ロマネスクを基調とした重厚な赤レンガの壁で統一されている。また、受刑者が生活する5つの収容棟は看守所や事務所を中心に放射状に配置され、人の出入りを確認しやすい機能性と建物としての美しさを両立させている。当時の監獄の特徴が残る貴重な建物として評価された。
奈良少年刑務所は施設の老朽化などのため、今年度で閉鎖が決まっていて、10月20日時点でおよそ260人いる受刑者は、すべて他の刑務所に移る予定。今後、施設の運営権を民間の事業者に売却し、ホテルや博物館などへの再利用を目指している。

滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力

滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力

滋賀県彦根市教育委員会は10月17日、市内の稲部遺跡(稲部、彦富両町、推定総面積約20万平方㍍)で、弥生時代末~古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群や大規模な建物の遺構が見つかったと発表した。
同時代では他にない規模で、同市教委では「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」ほか、邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。大阪大学の福永伸哉教授も「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語るとともに、日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」としている。
当時、鐵製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5~5.3㍍の方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石、鉄製矢じり2個なども見つかった。

100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる

100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる

1900年ごろの日本、横浜で暮らしていたドイツ人のアルバムから、横浜港と周辺の街や生活する人々を写した71枚もの写真が見つかった。
幕末、米国のペリーが浦賀沖に来航。日米和親条約を経て、1859年に開港したのが横浜港だ。徳川幕府の思惑から、当時はまだ極めて辺鄙(へんぴ)な田舎に過ぎなかった横浜が開港されたわけだ。写真はそれから40年前後経過した横浜の姿をとらえたものだ。
現在も横浜港のシンボルの一つとなっている赤レンガ倉庫も、これらの写真に映し出されている1900年ごろに建設されたといわれる。また、活気に満ちた、横浜の当時の日本人職人たちが、外国へ輸出する織物や刺繍、金属製品などをつくっている様子も写されている。

国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる

国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる

日本人に古から親しまれてきた緑の宝石、翡翠(ひすい)がこのほど、日本鉱物科学会の「日本の石(国石)」に選ばれた。今から77年前の1939年、国内で翡翠が採れることを突き止めたのは東北帝大(現東北大)の若き研究者、河野義礼(かわのよしのり)さん(1904~2000年)だ。
「埋もれた画期的な発見に光をあてたい」。地道に研究を重ねた鉱物学者の業績を紹介しようと、関係者はいま年内の企画展開催に向け準備中だ。
古代社会、縄文、弥生、古墳時代にかけて周知のとおり、翡翠は勾玉(まがたま)などの宝飾品として珍重され、各地の遺跡から出土している。しかし、昭和初期までは国内の産地が見つかっておらず、遺跡群から出土する翡翠はいずれもシルクロードや、中国、朝鮮半島からなど大陸から持ち込まれたものと考えられていた。
学会で支配的だったこうした説を覆したのが、東北帝大理学部助手だった河野さんだ。当時30代半ばの河野さんは新潟県糸魚川市で見つかった緑色鉱物の鑑定を依頼され、化学分析で翡翠と特定した。現地も調査し、国内で翡翠が算出することを初めて確認したという。
国内の翡翠産地発見は当時、日中戦争の混乱下であまり注目されなかったが、考古学史を塗り替えるほどインパクトのある出来事だった。
企画展は主催、会場いずれも東北大総合学術博物館。翡翠をはじめ宮城県にゆかりのある鉱物や化石を展示し、河野さんの業績を広く紹介する予定。
翡翠は国内では鳥取県、岡山県などでも算出され、海外ではミャンマーや中米が産地として有名。

平城京にペルシャ人役人が勤務していた 木簡に名前

平城京にペルシャ人役人が勤務していた 木簡に名前

奈良文化財研究所の調査によると、奈良市の平城宮跡から出土した8世紀中ごろの木簡に、ペルシャ(現在のイラン付近)を意味する「破斯(はし)」という名字を持つ役人の名前が書かれていたことが分かった。
国内でペルシャ人の名前を記した出土遺物が確認されたのは初めてで、奈良時代の日本の国際性を裏付ける成果といえる。
木簡は1966年、人事を扱う式部省があった平城宮跡東南隅の発掘調査で出土した。今年8月、赤外線撮影した結果、役人を養成する「大学寮」でのペルシャ人役人の宿直に関する勤務記録と分かった。
表側の上部に「大学寮解 申宿直官人事」、下部に定員外の特別枠で任じられた役人「員外大属(いんがいだいさかん)」という役職名、中国語でペルシャ人を表す「波斯(はし)」と同じ読み・意味の「破斯」という名字を持つ「破斯清通」という人名と、「天平神護元年(765年)」という年号が書かれていた。

長さ1㍍超の最大級の恐竜足跡、ゴビ砂漠で発見

長さ1㍍超の最大級の恐竜足跡、ゴビ砂漠で発見

岡山理科大学は9月29日、モンゴル・ゴビ砂漠の白亜紀後期(7,000万~9,000万年前)の地層から、長さが1㍍を超える恐竜の足跡の化石が見つかったと発表した。
モンゴル科学アカデミー古生物学地質学研究所との共同調査で、発見したのは恐竜の左後ろ足の跡。長さが1㍍6㌢あり、形状から四足歩行で首や尾が長いのが特徴のティタノサウルスの仲間とみられ、体長は20~30㍍と推定される。
1㍍超の足跡の化石は、世界でも報告例が少なく、非常に珍しいという。