@club2 のすべての投稿

秋の都大路で華麗な歴史絵巻 京都・時代祭

秋の都大路で華麗な歴史絵巻 京都・時代祭

平安時代から明治維新までの歴史上の人物に扮し、装束をまとった行列が秋の都大路を練り歩いて華麗な歴史絵巻を繰り広げる「時代祭」が10月22日、京都市内で行われた。沿道を埋めた6万2,000人の旅行・観光客らはひととき、華麗な歴史の一幕を見るように、変遷する時代・世界に魅入っていた。
午前9時ごろ、桓武天皇と孝明天皇を祀った鳳輦(ほうれん)2基を中心にした神幸列が平安神宮から京都御苑へ向け出発した。正午過ぎ、笛の音ともに先頭の「維新勤王隊列」が御苑を出発。江戸、安土桃山と時代を遡りながら登場した約2,000人、全長約2㌔の行列は神宮へ向かった。

北斎の肉筆画と判明”作者不明”の西洋水彩画風作品6点

北斎の肉筆画と判明”作者不明”の西洋水彩画風作品6点

オランダのライデン国立民族学博物館の調査によると、同博物館所蔵で長く作者不明とされてきた絵6点が、江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849年)の肉筆画であることが分かった。
西欧の水彩画の技法を真似た、北斎としては異色の作品。親交があった、ドイツ人医師シーボルトらから影響を受けた作品群とみられる。6点は江戸の街並みを描いた風景画。タイトルはないが、「日本橋」「両国橋」「品川」などを題材に川や人々、橋を描いている。
空を大胆により入れた構図などに西洋画の特色が表れている。長崎の商館で働いていたシーボルトは1826年、江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。

赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に

赤レンガ造りが印象的な明治の「旧奈良監獄」国の重文に

明治41年に建てられた全国の「五大監獄」一つで、赤レンガ造りの建物が残る奈良市の「旧奈良監獄」、現在の奈良少年刑務所が歴史的な価値が高いとして、国の需要文化財に指定されることになった。
刑務所としては、全国で現存する最も古い建物で、敷地を取り囲む塀や建物は、ロマネスクを基調とした重厚な赤レンガの壁で統一されている。また、受刑者が生活する5つの収容棟は看守所や事務所を中心に放射状に配置され、人の出入りを確認しやすい機能性と建物としての美しさを両立させている。当時の監獄の特徴が残る貴重な建物として評価された。
奈良少年刑務所は施設の老朽化などのため、今年度で閉鎖が決まっていて、10月20日時点でおよそ260人いる受刑者は、すべて他の刑務所に移る予定。今後、施設の運営権を民間の事業者に売却し、ホテルや博物館などへの再利用を目指している。

滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力

滋賀・稲部遺跡から大規模な鉄器工房群の遺構 巨大勢力

滋賀県彦根市教育委員会は10月17日、市内の稲部遺跡(稲部、彦富両町、推定総面積約20万平方㍍)で、弥生時代末~古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群や大規模な建物の遺構が見つかったと発表した。
同時代では他にない規模で、同市教委では「祭祀(さいし)・政治都市と工業都市の両面を持ち、巨大勢力の存在を示す」ほか、邪馬台国の時代からヤマト政権の成立期にかけて、この地域の拠点的な集落だったと推定している。大阪大学の福永伸哉教授も「稲部遺跡は東西日本の結節点にあり、近江勢力の大きさを物語るとともに、日本の国の成り立ちを考えるうえで貴重」としている。
当時、鐵製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5~5.3㍍の方形。うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石、鉄製矢じり2個なども見つかった。

100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる

100年前の横浜と日本人の暮らしぶり写した写真見つかる

1900年ごろの日本、横浜で暮らしていたドイツ人のアルバムから、横浜港と周辺の街や生活する人々を写した71枚もの写真が見つかった。
幕末、米国のペリーが浦賀沖に来航。日米和親条約を経て、1859年に開港したのが横浜港だ。徳川幕府の思惑から、当時はまだ極めて辺鄙(へんぴ)な田舎に過ぎなかった横浜が開港されたわけだ。写真はそれから40年前後経過した横浜の姿をとらえたものだ。
現在も横浜港のシンボルの一つとなっている赤レンガ倉庫も、これらの写真に映し出されている1900年ごろに建設されたといわれる。また、活気に満ちた、横浜の当時の日本人職人たちが、外国へ輸出する織物や刺繍、金属製品などをつくっている様子も写されている。

国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる

国産翡翠を初めて確認 77年前の画期的発見に”光”あてる

日本人に古から親しまれてきた緑の宝石、翡翠(ひすい)がこのほど、日本鉱物科学会の「日本の石(国石)」に選ばれた。今から77年前の1939年、国内で翡翠が採れることを突き止めたのは東北帝大(現東北大)の若き研究者、河野義礼(かわのよしのり)さん(1904~2000年)だ。
「埋もれた画期的な発見に光をあてたい」。地道に研究を重ねた鉱物学者の業績を紹介しようと、関係者はいま年内の企画展開催に向け準備中だ。
古代社会、縄文、弥生、古墳時代にかけて周知のとおり、翡翠は勾玉(まがたま)などの宝飾品として珍重され、各地の遺跡から出土している。しかし、昭和初期までは国内の産地が見つかっておらず、遺跡群から出土する翡翠はいずれもシルクロードや、中国、朝鮮半島からなど大陸から持ち込まれたものと考えられていた。
学会で支配的だったこうした説を覆したのが、東北帝大理学部助手だった河野さんだ。当時30代半ばの河野さんは新潟県糸魚川市で見つかった緑色鉱物の鑑定を依頼され、化学分析で翡翠と特定した。現地も調査し、国内で翡翠が算出することを初めて確認したという。
国内の翡翠産地発見は当時、日中戦争の混乱下であまり注目されなかったが、考古学史を塗り替えるほどインパクトのある出来事だった。
企画展は主催、会場いずれも東北大総合学術博物館。翡翠をはじめ宮城県にゆかりのある鉱物や化石を展示し、河野さんの業績を広く紹介する予定。
翡翠は国内では鳥取県、岡山県などでも算出され、海外ではミャンマーや中米が産地として有名。