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琥珀の中に9900万年前の恐竜のしっぽ 画期的な発見

琥珀の中に9900万年前の恐竜のしっぽ 画期的な発見

ミャンマー北東部カチン州で発見された琥珀の中に、9900年前の羽根に覆われた恐竜のしっぽが保存されていたことが明らかになった。生物学誌『カレント・バイオロジー』に12月8日、この論文が掲載された。
琥珀はすでにアクセサリー用に磨かれていた。恐竜が生息していた時代の羽毛が琥珀の中から発見されることはこれまでにもあり、羽毛の痕跡のある恐竜の化石も発見されたこともあるが、保存状態の良い羽毛が恐竜とはっきりと関連付けられたのは今回が初めて。
今回の画期的な発見によって絶滅した恐竜の骨をどういう組織が覆っていたのか、地球の地上を1億6000万年以上も支配した生き物について、さらに理解が深まると期待されている。

「真田丸」の土塁の一部か 民間団体が天王寺で土層発見

「真田丸」の土塁の一部か 民間団体が天王寺で土層発見

大阪市天王寺区餌差町で発掘調査をしていた民間団体「『真田丸』発掘推進協議会」(会長・千田嘉博奈良大教授)は12月9日、真田丸の土塁の一部とみられる土層を発見したと発表した。真田丸の実態解明のための発掘は初めてという。
真田丸は大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将、真田信繁(幸村)が立てこもり、徳川方に大きな損害を与えて撃退したことで知られる出城。多くの絵図には半円形の姿で描かれるが、千田教授らは真田丸を四角く描いた絵図や古い地形図、航空写真などから、現在は大阪明星学園がある場所を中心に、方形の姿に復元している。
調査では、古い地籍図で堀の痕跡のように見える区画の北側を約70平方㍍発掘し、人工的に土を盛った層を確認した。南の区画はやはり現在も堀状に低くなっており、盛り土は真田丸をめぐる土塁の可能性があるという。

戦艦武蔵の最期「水中で大爆発起こし粉々に砕け散った」

戦艦武蔵の最期「水中で大爆発起こし粉々に砕け散った」

2015年3月、フィリピン沖の海底1,000㍍の深海で70年ぶりに戦艦武蔵がその姿(部分)を現した。米国のプロジェクトチームの8年にわたる捜索の結果だった。このほど同チームによって初めて膨大な量の映像・記録が公開された。
専門家(7名)による、こうした100時間を超える記録映像や、NHKが独自に入手した新資料の詳細な分析から、”無敵の不沈艦”だったはずの戦艦武蔵が、歴史の定説を覆し、実は致命的な”脆さ”を抱えた構造の戦艦だった実像が次々と浮かび上がってきた。
結論をいうと、①鋼板を2枚重ねて分厚くしていた装甲板が、想定外の米空軍機の執拗な攻撃を受け、また繰り返し受けた魚雷攻撃により、2枚重ねの鋼板を止めていたリベットが緩み、鋼板がまくれ、そこから海水が流れ込んだ②建造の際、想定された戦艦同士の戦闘にならなかったことから、装備されていた最大の武器であった160発の主砲(46㌢砲)が使われることなく、しかも100㌧もの火薬が弾薬庫に残っていた。これらが海中で燃焼爆発を起こした-という。
この結果、不沈艦、武蔵が沈み、1km四方の広範囲に、粉々の残骸が、まさにバラバラに砕け散って発見されたものと結論付けられた。弾薬庫部分の鋼鉄がグニャグニャに曲がっていたことで、その大爆発があったことが裏付けられるという。
問題は既述の、当時の技術では厚鋼板同士を精巧に溶接できずに使ったリベットの弱点を、戦艦大和で魚雷攻撃によりリベットがダメージを受け徐々に浸水してきた教訓を踏まえ、設計者が4万本のリベットの弱点の改善を上申したにもかかわらず、海軍上層部は聞く耳を持たなかった点にある。
こうして構想から9年の歳月をかけ建造された高さ31㍍(10階建てビルに相当)、全長263㍍、ジャンボジェット3機分の大きさの威容を誇った戦艦武蔵は、昭和19年10月24日、午後3時過ぎ、100機以上の米空軍機の攻撃を受け装甲板に魚雷が命中、左に傾きながら最後の乗員2399人とともにフィリピン沖に沈んでいった。生存者430人、ただし、後の陸上戦に動員され、そのほとんどが玉砕したとされる。

JR留萌-増毛間 95年の歴史に幕 地域の足消える

JR留萌-増毛間 95年の歴史に幕 地域の足消える

利用客の減少で廃止になる北海道のJR留萌(るもい)線の留萌-増毛間が12月4日、最終運行日を迎え、95年の歴史に幕を下ろした。
高倉健さん主演の映画『駅・ステーション』の舞台にもなった留萌線の終着、増毛駅。4日は朝から廃止を惜しむ鉄道ファンや地元の住民が大勢訪れ、お別れのセレモニーが行われた。また、この日の増毛駅は列車が到着するたびに多くの人がホームに降り立った。
午後8時過ぎ蛍の光が流れ、地元の住民がペンライトで見送る中、30分遅れで最後の列車が増毛駅を出発し、95年の歴史に幕を下した。これでまた、地元の人たちにとっては、日常生活に深く関わる”地域の足”がなくなった。
1921(大正10)年、全線が開通したJR留萌線は過疎化で乗客が減少。昨年度は100円の収入を得るのに2,583円の費用がかかる赤字路線となった。北海道では今回の路線廃止にとどまらない情勢だ。JR北海道では道内主要都市を結ぶ13の区間で、「単独では維持することは難しい」として、具体的な廃線想定路線図を示している。次代を見据え、地域の足をどう守るのか、自治体を含めた深刻な課題だ。

ユネスコ無形文化遺産登録決定後初の「秩父祭」

ユネスコ無形文化遺産登録決定後初の「秩父祭」

ユネスコの無形文化遺産に登録が決まった全国33のまつりの一つ、「秩父祭の屋台行事と神楽」。11月30日の登録決定を受け、全国の当該施設・運営団体ではお祝い気分の中、12月2日、地元・埼玉県秩父市で登録後初めての秩父祭が始まった。
秩父祭の始まりは、江戸時代初期とされ、300年以上も受け継がれてきた伝統の祭りだ。

江戸城・松の廊下、刃傷事件直後の記録見つかる

江戸城・松の廊下、刃傷事件直後の記録見つかる

浄土真宗本願寺派本願寺史料研究所(京都市下京区)は12月2日、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか、1641~1702年)が、元禄14(1701)年3月14日、江戸城・松の廊下で浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)に斬り付けられた刃傷事件直後の様子を伝える記録が見つかったと発表した。
今回見つかった史料は、吉良家との関係が深かったとみられる西本願寺が、江戸の築地本願寺に送った書状の控えを集めた「江戸江遣書状留帳(えどへつかわすしょじょうとどめちょう)」。同研究所の保管史料の中から見つかった。書状は、元禄14(1701)年1月20日から翌15(1702)年12月24日まで、刃傷事件をめぐる寺や吉良側の対応、討ち入りに対する受け止めなどが記録されている。
史料によると、事件後1週間の3月21日の書状で、西本願寺が事件を「不慮の儀(思いがけない事件)」と表現し、吉良家への見舞いの死者を派遣するよう求めたこと、4月5日には「吉良殿 御痛も軽ク、御食事無替事由(吉良殿、お痛みも軽く、食事も相変わることがない由)」と、同事件への関心の高さなどを記している。
さらに元禄15(1702)年12月14日の赤穂浪士討ち入り後の24日の書状には、討ち入りに対して「驚いたことである。言語に絶える」などと表現、原因究明を求めている。
専門家は、刃傷事件直後の吉良家の様子を伝える貴重な一次史料と評価している。