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京都・妙傳寺の仏像 実は7世紀の貴重な仏像と判明

京都・妙傳寺の仏像 実は7世紀の貴重な仏像と判明

大阪大学などの最新の成分分析調査などによると、京都・妙傳寺(京都市左京区)の、これまで江戸時代のものと思われていた青銅製の「半跏思惟像(はんかしいぞう)」(高さ約50㌢)が、実は仏教が伝来して間もないころに朝鮮半島でつくられた、極めて貴重な仏像の可能性が高いことが分かった。
大阪大学や東京国立博物館の研究者による鑑定の結果、額に刻まれた模様や装飾品の龍のデザインなどが6世紀から7世紀ごろに朝鮮半島でつくられた仏像や出土品の特徴と一致した。さらに「蛍光X線分析」による、仏像に使われている金属の成分分析で、銅がおよそ90%、スズがおよそ10%で、鉛はほとんど含まれていなかった。こうした割合の仏像は日本や中国にはなく、7世紀ごろ朝鮮半島でつくられた仏像である可能性が極めて高いことが分かったという。
蛍光X線分析は、金属にX線を当て、含まれる成分によって跳ね返ってくるX線の波長が異なることを利用した手法。今回の仏像の由来を解き明かす決め手の一つとなった。

国宝の銅造仏頭80年ぶり里帰り 奈良・興福寺

国宝の銅造仏頭80年ぶり里帰り 奈良・興福寺

奈良市の興福寺で1月7日、国宝「銅造仏頭(どうぞうぶっとう)」が80年ぶりに同寺東金堂(とうこんどう)に戻され、還座開眼法要が営まれた。収蔵・展示していた国宝館が今月から耐震改修工事で1年間休館するためで、12月まで東金堂で拝観できる。
興福寺によると、仏頭は高さ98.3㌢の銅製で、685年の造立。白鳳仏の代表作とされる。元は山田寺(奈良県桜井市)の本尊像で、鎌倉時代初期の1187年に東金堂本尊として移されたが、室町時代の火災で焼失、頭部だけが残った。その後再建された東金堂の新しい本尊台座に納められ、約500年後の1937年に発見された。

ネアンデルタール人が食人 ベルギーの洞窟で証拠発見

ネアンデルタール人が食人 ベルギーの洞窟で証拠発見

AFP時事によると、ネアンデルタール人が馬やトナカイを食べるだけでなく、共食いもしていたことを示す証拠が、ベルギーのゴイエ洞窟群で発見された。
発見した研究チームによると、約4万年前に生きていた成人または若者4人と子供1人、新生児1人の人骨には内部の骨髄を取り出すために切断、粉砕された明確な痕跡があるという。ベルギー人考古学者のクリスティアン・カセイヤス氏は、ここで食人が行われていたことは、反論の余地がない-としている。
ゴイエ洞窟の人骨は、ネアンデルタール人が現生人類ホモ・サピエンスに取って代わられ、地球上で絶滅を迎えつつあったころの年代を示している。また、ネアンデルタールはホモ・サピエンスとも交配していた。
ネアンデルタール人による食人の事例はこれまで、スペインとフランスに存在した南欧のネアンデルタール人個体群でしか見つかっていなかった。

大型恐竜は卵のふ化に半年 遅いのが絶滅の一因か

大型恐竜は卵のふ化に半年 遅いのが絶滅の一因か

米国フロリダ州立大など研究チームの化石の詳細調査によると、恐竜の卵はふ化するまでに、大型種で半年、小型種でも3カ月はかかったとみられることが分かった。このふ化の期間の長さが、恐竜絶滅の一因になった可能性があるという。米科学アカデミー紀要電子版に発表された。
恐竜は爬虫類の仲間だが、小型恐竜から進化した鳥類の卵のふ化まで11~85日程度と早いため、これまで恐竜も早いとの見方があった。卵のふ化に時間がかかると、肉食獣に食べられたり、洪水や嵐に遭ったりする危険性が高まる。恐竜が約6500万年前の白亜紀末に絶滅したのは、ふ化が遅く、巨大隕石の衝突などで環境が急変する中、激しい生存競争に負けたことが理由の一つかも知れないという。
調査対象はカナダで見つかった大型草食恐竜パクロサウルスと、モンゴルで発見された小型草食恐竜プロトケラトプスの、卵からかえる直前の子の化石。卵の重さはそれぞれ約4㌔、194㌘だったとみられる。
研究チームは歯の成長に伴って残る年輪のような細かい線をX線コンピューター断層撮影(CT)などで分析し、ふ化までの期間を推定した。

世界遺産・下鴨神社で新春恒例の「蹴鞠初め」

世界遺産・下鴨神社で新春恒例「蹴鞠初め」

世界遺産に登録されている京都市の下鴨神社(左京区)の境内で1月4日、新春恒例の「蹴鞠初(けまりはじ)め」が行われた。
烏帽子(えぼし)、袴(はかま)を身に着けた「蹴鞠(しゅうきく)保存会」の会員が、鹿の革でつくった直径約20㌢、重さ約150㌘の白い鞠を、地面につかないように、さながらサッカーのリフティングのように蹴り合う。
勝敗はなく、キックの精度を競い合う。相手が受けやすいように蹴るのが上手とされる。参加メンバーらは「ヤア」「オウ」などと声を掛け合いながら、妙技を披露していた。

敗戦後初の帝国議会の天皇勅語の起草過程明らかに

敗戦後初の帝国議会の天皇勅語の起草過程明らかに

国立公文書館に保存されている資料から、1945年9月4日、戦後初の帝国議会開院式で昭和天皇が述べた勅語の起草過程が明らかになった。この資料は「第八十八回帝国議会開院式勅語案」で、第1案から第4案まである。
当時の東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)首相らが検討を重ねた結果、第4案に初めて「平和国家ヲ確立」という表現が盛り込まれ、新たな国づくりの目標が掲げられることになった。これは、1945年8月15日の「終戦詔書」(玉音放送)に続く天皇による直接のメッセージで、「平和国家」という言葉はその後、日本社会に広く浸透していった。