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滋賀県の遺跡から国内最古の「獣脚」の鋳型出土

滋賀県の遺跡から国内最古の「獣脚」の鋳型出土

滋賀県草津市教育委員会によると、同市野路町にある集落の遺跡、榊差遺跡から鍋や釜などの器を支える脚で、「獣脚」と呼ばれる部分を作るための鋳型が出土した。
同市教委は、この鋳型は奈良時代前半のものと推定され、これまでに出土した中では国内最古のものになるとしている。今回、同市教委は今年1月~3月にかけて古墳時代から平安時代にかけての集落の遺跡で発掘調査を行った。
その結果、金属製品を作るための鋳型の破片およそ50点が出土した。獣脚の鋳型の出土例は全国でも少なく貴重な発見という。天智天皇が造営した「近江大津京」が開かれて、多くの人が移り住んだことで、当時の最先端の技術が入ってきた可能性があるとしている。

与謝野晶子直筆の”歌人・晶子”誕生前の未発表和歌見つかる

与謝野晶子直筆の”歌人・晶子”誕生前の未発表和歌見つかる

“歌人・晶子”誕生以前の、大阪・堺市在住時代、与謝野晶子が東京で離れて暮らす兄に会いたい気持ちを詠んだ未発表の和歌が見つかった。
和歌は晶子が兄・秀太郎の妻に宛てた手紙の中で見つかった。堺市が兄の遺族から手紙を借りて調べた際に見つかり、天理大学の太田登名誉教授に依頼して手紙の内容を分析したところ、晶子が与謝野鉄幹と駆け落ちして実家と絶縁する前の、明治31年7月に詠まれた未発表の和歌で、直筆で現存するものとしては最も古いことが確認されたという。
和歌は「よひよひに 天の川なみ こひながめ 恋こふらしとしるらめや君」と詠んでいる。商家の堺でともに過ごし、結婚して上京した兄から連絡が来ないもどかしさを、天の川を題材にし詠んだもので、専門家らは仲が良かった時期の兄妹関係を示す貴重な資料と話している。

旧松江藩の鉄師・田部家などが「たたら製鉄」95年ぶり再開

旧松江藩の鉄師・田部家などが「たたら製鉄」95年ぶり再開

日本古来の製鉄法、「たたら製鉄」の操業が95年ぶりに再開される。これは、江戸時代に松江藩の主要な鉄師だった田部家などが途絶えていた、たたら製鉄の操業を再開するもの。
島根県雲南市吉田町吉田の和鋼生産研究開発施設で5月22日、田部家当主が社長を務める住宅・食品関連会社、田部(所在地:島根県雲南市)などが、たたらの炉に火入れする予定。日本古来の伝統を継承し、地域振興への貢献を目指すという。
たたら製鉄は、公益財団法人「日本美術刀剣保存協会」(所在地:東京都)が1977年から、奥出雲町大呂の製鉄施設「日刀保たたら」で操業を復活させ、日本刀の原料を供給している。

奈良で「吉野離宮」の正殿?大型建物跡見つかる

奈良で「吉野離宮」の正殿?大型建物跡見つかる

奈良県吉野町教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査によると、吉野町の国史跡「宮滝遺跡」で、『日本書紀』や『続日本紀』などに記されている「吉野離宮」の中心的な建物「正殿」の跡ではないかとみられる大型の建物跡が見つかった。
この建物跡は東西23.7㍍、南北9.6㍍で、屋根の四方に庇(ひさし)が付いた格式の高い建物で、奈良時代前半のものとみられている。橿原考古学研究所の菅谷文則所長は「吉野離宮の所在地をめぐっては宮滝遺跡以外の説もあったが、今回の成果で宮滝遺跡だったと確定できたと考える」と話している。
吉野離宮は、飛鳥時代に奈良県中部を流れる吉野川のほとりに、様々な公共工事を行ったとされる女帝の斉明天皇(天智天皇、天武天皇の母)が造営したとされる離宮。その後、大海人皇子(後の天武天皇)が天智天皇の死後、皇位継承をめぐって大友皇子と対立して起きた「壬申の乱」で、最初に反撃の兵を挙げた場所とされている。
天武天皇の死後、即位した妻の持統天皇は30回以上も吉野離宮を訪れているほか、女帝・元正天皇や聖武天皇などもたびたび吉野離宮を訪れたことが日本書紀や続日本紀に記されている。

纏向遺跡で出土の桃の種は卑弥呼の時代のもの

纏向遺跡で出土の桃の種は卑弥呼の時代のもの

奈良県桜井市の纏向学研究センターの最新紀要によると、同市の纏向(まきむく)遺跡(国史跡、3世紀初め~4世紀初め)で出土した桃の種について、放射性炭素(C14)年代測定を行ったところ、西暦135~230年のものとみられることが分かった。「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時代と重なる。
これらの桃の種は、遺跡の中枢部とみられる大型建物の跡(3世紀前半)の近くで出土したもので、大型建物の年代が自然科学の手法で初めて測定されたことになる。
今回の年代測定は、纏向遺跡が邪馬台国の重要拠点だったとする邪馬台国の「畿内説」を強める画期的な研究成果といえる。

京の平安絵巻「葵祭」夏日の都大路練り歩く

京の平安絵巻「葵祭」夏日の都大路練り歩く

全国各地で気温が25度以上の夏日となった5月15日、7月の祇園祭、10月の時代祭とともに京都三大祭りの一つ「葵祭」が行われた。
きらびやかな平安装束に身を包み、烏帽子や輿(こし)などに祭の名前の由来となった植物のフタバアオイを飾り付けた、およそ500人による優雅な行列が都大路を練り歩いた。京都御所を出発し、下鴨神社で神事が行われ、午後から上賀茂神社に向けて出発。およそ全8㌔㍍の行列コースの沿道には、至る所で見物客が平安絵巻の一コマを見守った。十二単(ひとえ)に身を包んだ、今年の祭の主役「斎王代」は、京都市在住の会社員、坂下志保さん(23)が務めた。
葵祭は、およそ1400年前、欽明天皇が五穀豊穣を祈って馬を走らせたのが始まりとされている。