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長崎で草食恐竜・鳥脚類の歯の化石35点見つかる

長崎で草食恐竜・鳥脚類の歯の化石35点見つかる

福井県立恐竜博物館と長崎市は7月18日、強度調査の結果、長崎市の長崎半島西海岸に分布する白亜紀後期の地層「三ツ瀬層(みつせそう)」(約8100万年前)から、主に二足歩行の草食恐竜が属する鳥脚類の歯の化石35点が見つかったと発表した。エドモントサウルスなどの「ハドロサウルス上科(じょうか)」のものとみられるという。
発表によると、2013年から保存状態のよい化石が次々と見つかり、とくに14年以降に発見された34点は半径数㍍の範囲から発掘された。形がきれいに残り、測定できたものの高さは17~5㍉。上下の歯がかみ合う面が水平で、表面にY字や十字の模様がある特徴から鳥脚類とみられ、19点は上あごの歯と確認されたという。

「コンチキチン」京都の祇園祭 前祭の23の山鉾巡行

「コンチキチン」京都の祇園祭 前祭の23の山鉾巡行

「コンチキチン」の祇園囃子を奏で、京都の夏を彩る祇園祭のハイライト、前祭(さきまつり)の「山鉾巡行」が7月17日行われ、豪華な装飾を施した山や鉾が京都市の中心部、四条通りや河原町通りを練り歩いた。
17日午前9時半ごろ、山鉾巡行では先頭を行く「長刀鉾」に乗った稚児が、通りに張られた「しめ縄」を刀で断ち切ったのを合図にスタート。長刀鉾の後には今年の1番くじを引き当てた「占出山」が続き、豪華な装飾品で飾られた23の山や鉾が列をなして、折からの好転に恵まれ、うだるような暑さの都大路を進む。
四条河原町の交差点では、車輪の下に竹を敷いて水をまき、滑らせながら90度方向転換する「辻回し」が披露され、沿道のあちこちからは大きな拍手と歓声があがる。警察によると、沿道の人出は昨年の19万人を上回る22万人に上った。
なお、残る10の山と鉾による後祭(あとまつり)の山鉾巡行は今月24日で、再び都大路を練り歩く。

鷹匠を厚遇する織田信長の書状発見 徳川美術館

鷹匠を厚遇する織田信長の書状発見 徳川美術館

徳川美術館(名古屋市東区)によると、織田信長が鷹狩りに使う鷹を飼育していた近江国の鷹匠(たかじょう)、沢源三郎に宛てた、父親に代わって当主となる源三郎に領地の相続を保証した内容を記した書状が見つかったことが分かった。
書状は1574(天正2)年11月24日付で、縦29㌢、横45㌢で公式文書であることを示す「天下布武」の朱印が押されている。
この書状は、同館などが主催する特別展で、7月15日から9月10日まで展示される。

新薬師寺旧境内出土品を公開 金堂跡発見から10年

新薬師寺旧境内出土品を公開 金堂跡発見から10年

奈良時代の新薬師寺金堂とみられる大型建物跡が出土してから来年で10年となるのに合わせ、奈良教育大学(奈良市高畑町)教育資料館で、瓦などの出土品を公開する「新薬師寺旧境内展~蘇る幻の大寺院」が開かれている。開館は10時~17時。日曜、祝日は休館。無料。
平成20年に行われた発掘調査では、基壇を構成したとみられる石材や柱穴などが出土し、新薬師寺の七仏薬師金堂跡と推定。基壇の東西規模は現在の東大寺大仏殿に匹敵する約68㍍と推定され、創建した光明皇后の強大な力を伝える遺構として注目された。
展示品は瓦が主で、基壇を構成した石材片や礎石片、奈良三彩片、建物跡の南方から見つかった八角柱なども並んでいる。七仏薬師金堂の復元模型もあり、建物とともに巨大な仏堂の姿をうかがうことができる。

7/15から「源信 地獄・極楽への扉」千年忌特別展

7/15から「源信 地獄・極楽への扉」千年忌特別展

奈良で生まれ、比叡山で修業を積んだ平安時代の僧侶、源信(げんしん、942~1017年)の千年忌特別展が7月15日から奈良市の奈良国立博物館で開かれる。源信は地獄と極楽の世界をわかりやすく描いた「往生要集(おうじょうようしゅう)」を著し、具体的な死後の世界のイメージを一般に広めた。9月3日まで。
今回の特別展では源信の足跡をたどりつつ、全15幅の国宝「六道絵(ろくどうえ)」(滋賀・聖衆来迎寺=しょうじゅらいこうじ)や、国宝「阿弥陀聖衆来迎(らいごう)図」(京都・知恩院)など約140点を紹介する。会期中展示替えあり。

初ラーメンは徳川光圀ではなかった 室町時代の新資料

初ラーメンは徳川光圀ではなかった 室町時代の新資料

新横浜ラーメン博物館によると、日本で初めてラーメンが食べられたのは定説より約200年遡ることが分かった。これにより、これまで1697年、徳川光圀が食べたのが最も古いとされてきたラーメン史は書き替えられることになる。
今回、麺の歴史について調べていた民間人から、室町時代の僧侶の日記「蔭涼軒目録」の中に、中国のレシピを参考に1488年「経帯麺」を調理師、来客に振る舞ったとの記述があるとの情報提供があったという。
中華麺の定義はかん水を使用していること。そこで、このレシピを調べたところ、「経帯麺」は小麦粉とかん水を使うことが分かり、日本初のラーメンの可能性があると結論付けた。
これまでは江戸時代の僧侶の日の記述を根拠に、水戸藩主の徳川光圀が1697年に食べたのが最も古いとされていた。